SHINOBI(シノビ、1972年1月5日 - )は、忍者を… SHINOBI(シノビ、1972年1月5日 - )は、忍者をモチーフにした日本の覆面レスラー。本名:山本 輝章(やまもと てるあき)。 プロレスラーになることを志すが高校卒業後、実家の理容店を継ぐため大阪の理容学校に進学。 理容学校卒業後、プロレスラーになる夢が断ち切れず、理容師への道を捨て土木工事などのアルバイトでメキシコへ渡るべく実費を稼ぐ。 1993年2月、メキシコへ渡り、エスペクトロ・ジュニア、弟のカダベル・デ・ウルトラトゥンバに師事する。師匠から徹底的にルチャリブレの基礎を叩き込まれる。翌年、CMLLに入団。 1994年7月、CMLLピスタレボルシオン大会でアギラ・ソリタリア、オーニタ・ジュニアとタッグを組んで対エスペクトロ・ジュニア&ハビエル・クルス&モグール組戦でデビュー。
中村 英明(なかむら ひであき、1953年〈昭和28年〉1月… 中村 英明(なかむら ひであき、1953年〈昭和28年〉1月または2月 - )は、日本の政治家、元地方公務員。鳥取県日野郡日南町長(3期)。元日南町副町長。 鳥取県日野郡日南町生まれ。 1974年(昭和49年)に日南町役場に入庁する。役場在職中は住民課、日南病院、総務課、建設課、福祉保健課などを歴任し、人権センターや特別養護老人ホームの建設業務などに携わった。 50歳であった2006年(平成18年)3月に一度日南町役場を退職し、同年4月に社会福祉法人日南福祉会「あかねの郷」の施設長に就任した。その後、2010年(平成22年)に日南町副町長に就任。当時の増原聡町長を副町長として8年8ヶ月にわたり支えた。
島 碩弥(しま ひろみ、1935年8月29日 - 2004年… 島 碩弥(しま ひろみ、1935年8月29日 - 2004年7月5日)は元ラジオ山陰(現:山陰放送)・ラジオ関東(現:アール・エフ・ラジオ日本)のアナウンサー。 鳥取県出身。幼い頃は、雑誌「野球少年」に誌上放送を連載していた志村正順のファンであった。高校卒業後、大学を3か月で中退、ラジオ山陰(現在の山陰放送)に入社。アナウンサーの採用はこの頃も大学卒が一般的であったが、当時のラジオ山陰社長の織田収と島の叔父が知己の間柄だったこともあり、18歳でのアナウンサー採用となった。 1958年12月、ラジオ関東開局のため移籍。ラジオ関東移籍後は、数多くのDJ番組の企画制作出演をこなす。 1960年6月15日、全学連主流派の学生を中心とする安保条約反対のデモ隊が国会に突入、警官隊と衝突する安保騒動が発生し、ラジオ関東のみが報道機関で唯一、実況生中継を敢行した。
青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30… 青戸 辰午(あおと たつご、明治30年(1897年)6月30日 - 昭和47年(1972年)5月)は、日本の弁護士、政治家。旧名は貞吉。 鳥取県日野郡日南町出身。甚太郎の長男。 米子中学、松江中学を経て、大正7年(1918年)早大中退。昭和3年(1928年)、朝鮮において弁護士開業。昭和6年(1931年)に鳥取県米子市に移住した後も引き続き開業した。 戦前に米子市会議員を1期務め、戦後は鳥取県地方労働委員会委員、人権擁護委員、米子市選挙管理委員会委員、鳥取県人事委員会委員などに選任され、その功績により昭和37年(1962年)に藍綬褒章を授与された。 昭和47年(1972年)5月、74歳で亡くなった。
田辺 定義(たなべ さだよし、明治21年(1888年)10月… 田辺 定義(たなべ さだよし、明治21年(1888年)10月20日 - 平成12年(2000年)1月18日、旧字体: 田邊 定義)は、男性長寿日本一だった現在の鳥取県日野郡多里村(現在の日南町)出身の男性。 広島県の高等小学校卒業後、郵便局に勤め、のちに公務員となる。その後、東京市職員、東京市政調査会常務理事、公明選挙連盟理事、明るい選挙推進協会顧問などを歴任した。 1999年4月29日より日本人男性の国内最高齢者(男性長寿日本一)となる。 2000年1月18日、神奈川県川崎市で111歳と90日で死去。新聞など大手メディアで訃報の報道はされなかった。墓所は多磨霊園。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
木下 盛三郎(きのした せいざぶろう、1876年〈明治9年〉… 木下 盛三郎(きのした せいざぶろう、1876年〈明治9年〉3月1日 - 没年不明)は、日本の実業家、資産家、鳥取県多額納税者、地主。木下合資会社代表社員。族籍は鳥取県平民。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)出身。木下彦四郎の長男。鉱業、農業、金融業を営む。社会公益事業等にも尽瘁する。 赤十字社特別社員である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県日野郡阿毘縁村大字阿毘縁。 木下家は当地方の豪家として知られ、多数の山林と耕地とを有し、県下の大地主である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
内藤 岩雄(ないとう いわお、1874年(明治7年) - 1… 内藤 岩雄(ないとう いわお、1874年(明治7年) - 1944年(昭和19年))は、鳥取県日野郡の教育者で郷土史家。1901年(明治34年)から1925年(大正14年)まで、途中2年間を除き、山上尋常高等小学校の校長の職にあり、「山上学園」と称される全村教育の基礎を作った 。 校長在職中から郷土の宣揚に努め、職を辞した後は『日野郡史』の編纂委員として編集及び刊行を成し遂げたほか、神職として船通山(鳥髪の峯)での宣揚祭を挙行し、祭主を務めた。和歌や絵画に秀で、特に得意であったのが馬の絵で、皇紀2600年を記念して2600匹の馬と富士山を描いた『奔馬二千六百之図』は圧巻である。 内藤の独創的な教育方針は、山上学園の校風として浸透し、県内外から注目を集めた。
坪倉 鹿太郎(つぼくら ろくたろう、1856年(安政3年) … 坪倉 鹿太郎(つぼくら ろくたろう、1856年(安政3年) - 1921年(大正10年))は、鳥取県日野郡の郷土史家で地方史編纂の先駆者。『凶年の後悔』『日野山桜』『日野郡野史』などの著書を残した。 米山(べいざん)、平六(へいろく)、「一畳亭」(いちじょうてい)とも号したが、いずれの文字も左右均整となっており、それは坪倉鹿太郎の几帳面な性格の表れだったという。 「つぼくら しかたろう」と紹介している文献もあるが、これは誤りである。本人が1920年(大正9年)に作成した書類に捺印があり、印には平仮名で「ろくたろう」と刻まれている。 1856年(安政3年)7月28日、鳥取県日野郡佐木谷村(現・日南町佐木谷)の農家に生まれる。
原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治3… 原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治36年(1903年))は、日本の医師。旧姓大淵。 元長崎医専教授原正の養父。 伯耆日野郡印賀村(現鳥取県日南町)に大淵一馬の子として生まれた。母里藩の藩医であった原順庵の養子に入って医術を学んだ。 明治7年(1874年)、適塾に入った。養父順庵は廃藩後間もなく、鳥取県会見郡彦名村(現米子市彦名町)に移って医業をしたと伝えられ、澄斎も帰郷後彦名村で、その医業を継いだ。原家には明治十年陸軍軍医総監の押印のある医師免許状が残されているので、或は西南戦争に従軍していたのかもしれない。 明治19年(1886年)、会見郡医師組合の設立に努力しており、その地方で医術が優れているので評判であったという。
法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘… 法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘化4年9月28日〉 - 1923年〈大正12年〉2月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(鳥取県郡部選出、当選1回)。大阪商業会議所副会頭。族籍は大阪府平民。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)に生まれる。法橋助作の二男。漢学を学ぶ。明治初年郷里を出て、大阪に来る。後に東京に遊ぶ。この間翻訳書を読んで略世界の事情に通じ、官民の間に多くの交友を有する。 1882年頃洋銀相場に手を出して一敗地に塗れ、ほとんど起つことができなくなる。しかしようやくにして失敗を挽回し1887年頃より、小泉清左衛門、森作太郎、播本孝良等と共に公共事業に奔走する。