藤井 健翔(ふじい けんしょう、2007年8月15日 - )… 藤井 健翔(ふじい けんしょう、2007年8月15日 - )は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。読売ジャイアンツ所属。 倉敷市立連島東小学校で1年生の時にソフトボールを始め、阿部慎之助に憧れて捕手となった。野球経験のない父親から厳しく指導され、インフルエンザに感染した際も素振りを行っていたという。倉敷市立連島中学校在学時は硬式野球のクラブチームであるヤングMAKIBIクラブでプレーした。 浦和学院高等学校に進学し、1年夏にチームは第105回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、自身はベンチ外だった。2年春からベンチ入りし、打撃を活かすため内野手に転向。3年夏は4番を務めたが、埼玉大会3回戦で敗退した。
漁府 輝羽(ぎょふ こうは、2002年7月16日 - )は、… 漁府 輝羽(ぎょふ こうは、2002年7月16日 - )は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(外野手・育成選手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 小学校時代にソフトボールを始め、倉敷市立福田南中学校軟式野球部に所属した。[要出典] おかやま山陽高等学校進学後は堤尚彦監督の指導を受け、野手として高校通算24本塁打を記録。3年次は新型コロナウイルス感染症流行により公式戦は中止となったが、プロ志望届を提出しプロ志望高校生合同練習会に参加。甲子園球場で本塁打を放つもドラフト会議では指名漏れした。中国大会1回戦出場が最高戦績。 高校卒業後は東北福祉大学に進学。4年間で公式戦通算4打席と出場機会は少なかったが、東北地区社会人・大学野球対抗戦の日本製紙石巻戦で本塁打を放つなど大学通算10本塁打の長打力が評価され、2024年度新人選手選択会議において福岡ソフトバンクホークスから育成ドラフト10巡目指名され入団した。
山﨑 友輔(やまさき ゆうすけ、1998年5月2日 - )は… 山﨑 友輔(やまさき ゆうすけ、1998年5月2日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。NPBでは育成選手であった。 倉敷市立西中学校では軟式野球部に所属。 玉野市立玉野商工高校では、3年夏の県大会2回戦が最高成績で、甲子園出場は無かった。 福山大学経済学部経済学科に進学。硬式野球部に所属し、1年秋からエースの座を獲得し、中国六大学野球リーグでの4年間の通算成績は50試合登板、16勝22敗、防御率2.50。 2020年10月26日に行われたプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツより育成ドラフト10巡目で指名を受けた。福山大学及び玉野商業高校の出身者として初のプロ野球選手となった。
廣畑 敦也(ひろはた あつや、 1997年12月3日 - )… 廣畑 敦也(ひろはた あつや、 1997年12月3日 - )は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。千葉ロッテマリーンズ所属。 岡山県倉敷市で生まれ、親の転勤で香川県に移住し、高松市立屋島小学校3年生のときに『屋島源平ウイングス』で野球を始めた。当初は捕手としてプレーしており、1学年上の塹江敦哉とバッテリーを組んでいた。6年時は二塁手兼投手としてプレーし、親の仕事の都合で岡山に戻ると、岡山市立京山中学校では軟式野球部に所属。投手を中心にプレーし、3年時には岡山市選抜に選出され、中国大会に出場した。 岡山県立玉野光南高等学校では、1年夏にチームは第95回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、廣畑自身はベンチ外であった。
上川畑 大悟(かみかわばた だいご、1997年1月12日 -… 上川畑 大悟(かみかわばた だいご、1997年1月12日 - )は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(内野手)。右投左打。北海道日本ハムファイターズ所属。 小学校4年生の時に倉敷市の学童軟式野球チーム「粒江ビッグスター」で野球を始める。 岡山県立倉敷商業高等学校に進学し、1年夏の第94回全国高等学校野球選手権大会にベンチ入り。 高校卒業後は、日本大学生産工学部に進学する。大学野球部の2学年上には京田陽太がおり、二遊間を組んだ。2年秋にリーグ優勝、ベストナインを受賞。4年侍ジャパン大学日本代表に選出され、2018 ハーレムベースボールウィークに出場。 大学卒業後、NTT東日本に所属し、1年目から遊撃手のレギュラーを獲得。
太田 光(おおた ひかる、1996年10月14日 - )は、… 太田 光(おおた ひかる、1996年10月14日 - )は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(捕手)。右投右打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 倉敷市立連島東小学校2年時に西浦少年野球から軟式野球を始め、小学5年時に捕手を始める。倉敷市立連島中学校では倉敷ドリームボーイズに所属した。 広陵高校進学後、2年秋から4番キャッチャーに定着し、3年夏は決勝で今春の甲子園に出場した広島新庄高校を破り第96回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、初戦の三重高校戦で延長11回サヨナラ負けを喫した。同期に吉川雄大がいる。 大阪商業大学では、1年春から正捕手としてレギュラーを獲得し1年春は打率1割だったが岡田明丈らをリードし、チーム防御率1.50を記録して投手陣を盛り立て、関西六大学野球リーグ優勝に貢献。
小郷 裕哉(おごう ゆうや、1996年8月3日 - )は、岡… 小郷 裕哉(おごう ゆうや、1996年8月3日 - )は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 倉敷市立庄小で野球を始め、倉敷市立庄中ではファイターズ岡山に所属した。 関西高入学後、1年夏からレギュラーを掴み、1年秋には二塁手に定着、秋季中国大会優勝に貢献した。第85回記念選抜高等学校野球大会では初戦で和田恋擁する高知高に敗れた。3年になると4番としてチームを引っ張り、夏の岡山大会決勝では頓宮裕真擁する岡山理大附を破り、第96回全国高等学校野球選手権大会出場を決めた。初戦で森田駿哉擁する富山商業と対戦。森田の前に小郷は2三振、チームも1-3と敗れた。
守屋 功輝(もりや こうき、1993年11月25日 - )は… 守屋 功輝(もりや こうき、1993年11月25日 - )は、阪神タイガースに所属する岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(投手)。
岡 大海(おか ひろみ、1991年7月15日 - )は、北海… 岡 大海(おか ひろみ、1991年7月15日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(外野手)。
梶山 和洋(かじやま かずひろ、1987年5月12日 - )… 梶山 和洋(かじやま かずひろ、1987年5月12日 - )は、岡山県倉敷市出身の日本の高校野球指導者。 倉敷商業高校時代は、主将を務めるも2005年夏は岡山県大会で3回戦敗退。 高校卒業後は松山大学に進学し、野球を継続しながら教員免許を取得。 大学卒業後の2010年から母校の倉敷商業高校の講師を務め、岡山県内の岡山御津高校、市立玉野商業高校等でも教鞭を執り、野球の指導にあたる。 2017年に教員、野球部コーチとして再度倉敷商業高校に赴任。2019年夏からは32歳にして監督に就任。その年の秋の中国大会において同校初の優勝をし、第50回明治神宮野球大会に出場。翌2020年春開催の第92回選抜高等学校野球大会出場を決めるも、新型コロナウイルスの大流行により同大会が中止となり、同年夏開催の代替大会・2020年甲子園高校野球交流試合に出場。
岡本 直也(おかもと なおや、通称N-TRAIN。1983年… 岡本 直也(おかもと なおや、通称N-TRAIN。1983年7月28日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)、実業家。妻は女優の笹丘明里。 岡山県倉敷市出身。上成小学校4年生の時に野球を始めた。上成学童少年野球に入団すると即8番レフトでレギュラーを獲得。小学6年生時にはソフトボール投げ78メートルを記録。5年生でエースとなると中四国大会に出場。中学生時代はヤングリーグ倉敷ロイヤルズで投手を務め、2年生時は6番ライトで全国大会に出場。3年生の時に最速140km/hを投げ、中四国大会で優勝している。また、練習試合を合わせ1年間で4回のノーヒットノーランを記録している。県内外30校以上の誘いを受け岡山理大附属高校に進学。
高橋 一正(たかはし かずまさ、1980年5月23日 - )… 高橋 一正(たかはし かずまさ、1980年5月23日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)。
平松 一宏(ひらまつ かずひろ、1974年3月23日 - )… 平松 一宏(ひらまつ かずひろ、1974年3月23日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。
山本 樹(やまもと たつき、1970年8月31日 - )は、… 山本 樹(やまもと たつき、1970年8月31日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)・野球指導者。 岡山県立玉野光南高等学校では同期の山原和敏との両輪で3年春に中国大会優勝。龍谷大学へ進学。大学時代には、関西六大学リーグの公式戦で、通算10勝9敗の成績を残した。1992年度ドラフト会議で、ヤクルトスワローズから4巡目指名を受けて入団。 1996年から左の先発要員として一軍に定着。谷間の先発からショートリリーフまでこなす便利屋的存在だった。 1998年以降は中継ぎに専念し素質が開花。クローザーの高津臣吾につなぐまでの絶対的なセットアッパーとして、勝ち試合の7回から8回にかけての1~2イニングを中心に登板を重ねた。
森 廣二(もり こうじ、1969年3月8日 - )は、岡山県… 森 廣二(もり こうじ、1969年3月8日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)。現在は、倉敷芸術科学大学の大学職員(硬式野球部監督)。
水本 勝己(みずもと かつみ、1968年10月1日 - )は… 水本 勝己(みずもと かつみ、1968年10月1日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(捕手)、プロ野球コーチ。
中藤 義雄(なかとう よしお、1963年5月23日 - )は… 中藤 義雄(なかとう よしお、1963年5月23日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(内野手)。
大倉 孝一(おおくら こういち、1962年9月17日 - )… 大倉 孝一(おおくら こういち、1962年9月17日 - )は、岡山県倉敷市出身の元社会人野球選手(捕手)、アマチュア野球コーチ、倉敷ピーチジャックス監督、女子野球日本代表監督、実業家。 岡山県立玉島商業高等学校では3年夏の県大会準優勝、駒澤大学に進学し硬式野球部では同期に河野博文、横田真之がいて4年秋の明治神宮大会で優勝したが控えであった。 大学卒業後は、社会人野球の日本鋼管福山(後にNKK)で捕手を務める。 現役引退後は、1996年からNKKで兼任コーチとなり、専任の後2000年から駒大コーチ、2014年から環太平洋大学女子硬式野球部の監督を歴任した。2001年に女子野球日本代表のコーチとなり、2006年に代表監督に就任し2010年に退任したが、2014年に監督に復帰した。
劔持 節雄(けんもつ たかお、1953年5月16日 - )は… 劔持 節雄(けんもつ たかお、1953年5月16日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手(内野手→外野手)。1980年途中から1985年までの登録名は「劔持 貴寛」(けんもつ たかひろ)。 岡山日大高(現・倉敷高)では遊撃手、控え投手として1年秋の県大会決勝で完投勝利したが中国地区大会では広陵高に初戦コールド負け。1970年夏の甲子園予選東中国大会決勝に進出するが、岡義朗、守岡茂樹のいた岡山東商に敗退。翌年も県大会で敗れ甲子園には届かなかった。 1971年ドラフト2位で広島入団。 1974年より外野手に転向するが、二軍暮らしが長かった。 1977年ウエスタン・リーグで首位打者を獲得。 1978年11月望月卓也、平田英之と共に金田留広、渡辺秀武との3対2の交換でロッテに移籍。
松岡 弘(まつおか ひろむ、1947年7月26日 - )は、… 松岡 弘(まつおか ひろむ、1947年7月26日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - )は… 星野 仙一(ほしの せんいち、1947年1月22日 - )は、日本のプロ野球選手、監督、野球解説者。岡山県倉敷市出身。選手時代のポジションは投手。2015年より株式会社楽天野球団取締役副会長。2011年から2014年まで東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。
鎌田 豊(かまた ゆたか、1943年8月4日 - )は、岡山… 鎌田 豊(かまた ゆたか、1943年8月4日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。
小橋 優(こばし まさる、1942年7月1日 - )は岡山県… 小橋 優(こばし まさる、1942年7月1日 - )は岡山県出身の元プロ野球選手。
室山 皓之助 (むろやま こうのすけ、1939年11月16日… 室山 皓之助 (むろやま こうのすけ、1939年11月16日 - )は岡山県出身の元プロ野球選手。
安原 達佳(やすはら たつよし、現在の姓は渡邉、1936年3… 安原 達佳(やすはら たつよし、現在の姓は渡邉、1936年3月5日 - 2015年4月1日)は、岡山県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、外野手。
古川 啓三(ふるかわ けいぞう、1934年4月25日 - 1… 古川 啓三(ふるかわ けいぞう、1934年4月25日 - 1984年10月6日)は岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。
三宅 秀史(みやけ ひでし、1934年4月5日 - )は、岡… 三宅 秀史(みやけ ひでし、1934年4月5日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手(内野手)。登録名は1966年から現役引退まで「三宅 伸和(-のぶかず)」、現役引退後は「三宅 培司」とした。
小沢 馨(おざわ かおる、1930年10月20日 - 201… 小沢 馨(おざわ かおる、1930年10月20日 - 2016年9月28日)は岡山県出身の元プロ野球選手、元高校野球監督。
三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2… 三宅 宅三(みやけ たくぞう、 1921年2月22日 - 2006年4月16日)は、岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(一塁手、外野手)。 玉島中(現・玉島商)では砲丸投で全国優勝。明治大学を経て、倉敷工の監督となる。1949年にチームを甲子園大会出場に導いた。 1950年、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の創立と同時にテスト入団。開幕から一塁手、六番打者に抜擢される。同年の松竹ロビンスとの日本シリーズでは、一塁手、代打として2試合に出場。1951年は外野手も兼ね、5月から四番打者に起用されるなど打線の主軸として活躍、初の規定打席(16位、打率.281)に達する。1952年には自己最高の打率.294(12位)、18本塁打を記録。