藤田 淳平(ふじた じゅんぺい、2000年5月14日 - )… 藤田 淳平(ふじた じゅんぺい、2000年5月14日 - )は、徳島県美馬市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。NPBでは育成選手であった。 徳島県美馬市出身。美馬市立江原北小学校時代に野球を始め、美馬市立江原中学校では軟式野球部に所属した。 川島高校では1年夏から公式戦に登板。2年夏の県大会は初戦で第4シードの徳島北と対戦し、148球で完投勝利を挙げると、その後も勝ち進み、ベスト4入りを果たした。3年夏は県大会で池田との初戦に敗れた。 東亜大学へ進学すると、主戦を担うようになった3年春のリーグ戦ではリーグトップの防御率0.73を記録し、MVPとベストナインを受賞。チーム6年ぶりとなる全日本大学選手権にも出場した。
宮前 侑平(みやまえ ゆうへい、1991年1月17日 - )… 宮前 侑平(みやまえ ゆうへい、1991年1月17日 - )は、日本の俳優であり、神戸・清盛隊のメンバーである。愛称は、ゆーみん。 徳島県美馬市出身。アイランドプロモーション所属。 大阪ダンス&アクターズ専門学校卒業。在校生時代からテレビドラマ等に出演。卒業後、神戸・清盛隊のメンバーに選ばれる。舞台や映像作品などで活躍中。
藤田 智也(ふじた ともや、1982年12月19日 - )は… 藤田 智也(ふじた ともや、1982年12月19日 - )は、日本の元プロキックボクサー。徳島県美馬市出身。ライトヘビー級を主戦場に、様々な団体のタイトルホルダーに勝利した。2014年1月「Krush.36」では、ライトヘビー級で3本の日本タイトルを保持していた寒川直喜と77kg契約で対戦し、ダウンを奪い、フルマークの判定勝ち。「77kg日本最強」と呼ばれた。 2005年2月6日、正道会館全日本新人戦空手道選手権大会のグローブ空手重量級で優勝。 2005年5月22日、「琉球鉄拳王IV」のダブルメインイベントでプロデビュー。ニックに3RKO勝ち。 2006年9月24日、「R.I.S.E. MIGHTY EIGHTY TOURNAMENT」の1回戦でマグナム酒井と対戦。
磯村 秀人(いそむら ひでと、1977年8月9日 - )は、… 磯村 秀人(いそむら ひでと、1977年8月9日 - )は、元社会人野球の選手(投手)。 徳島県美馬郡穴吹町出身。池田高校では甲子園に出場できなかったが、愛知学院大学に進学すると広瀬繁(その後新日本石油ENEOS)と2枚看板として先発で起用され、大学2年次の1997年から3年連続でリーグ戦を制して全日本選手権に出場した。愛知大学リーグ通算成績は10勝6敗で、4年春には最優秀防御率とベストナインを受賞している。 大学卒業後の2000年に東芝に入社。背番号17が与えられ、同年の都市対抗には日産自動車の補強選手として出場した。2001年は抑えを任され、日本選手権ではチームも準優勝している。しかし一方でレベルの高い神奈川県内の試合で打ち込まれ、登板するのが怖くなったという。
CO-KEY(コーキ、1976年10月7日 - )は、日本の… CO-KEY(コーキ、1976年10月7日 - )は、日本のヒップホップMCである。本名、藤田 好輝(ふじた こうき)。徳島県美馬市出身。 中学校時代にヒップホップに目覚めラップとダンスを始める。 1998年、ゲーム『ビートマニア』に「TOKAI」で参加。同年、DJ HASEBEやSugar Soul等を迎えたミニアルバム「三面鏡」でデビュー。当時新人ラッパーでは異例の約3万枚のセールスを記録し、日本のヒップホップ専門誌「blast(旧FRONT)」にて98年度ブライテスト・ホープ(最優秀新人賞)を獲得。 翌年、ZEEBRA、今井了介、DJ CERORY、MUMMY-Dを迎えたマキシシングル「BACK 2 DA FUTURE」を発表。
丸岡 いずみ(まるおか いずみ、1971年8月6日 - )は… 丸岡 いずみ(まるおか いずみ、1971年8月6日 - )は、日本のニュースキャスター、フリーアナウンサー。松実高等学園顧問。 元放送局アナウンサー・報道局記者・キャスターで、2025年よりエイベックス・マネジメント・エージェンシーと契約。日本心理学会正会員、日本犯罪心理学会正会員。メンタルケアカウンセラー。 徳島県美馬市出身。徳島県立脇町高等学校、関西学院大学文学部日本文学科(文学士)卒業。早稲田大学大学院人間科学研究科(修士(実践人間科学))修了。 北海道文化放送アナウンサー、セント・フォース所属のフリーキャスター、日本テレビ報道局記者・キャスターを経てフリーアナウンサーとして活動。『真相報道 バンキシャ!』時代にはアシスタントプロデューサーも兼務した。
時津洋 宏典(ときつなだ ひろのり、1969年8月2日 - … 時津洋 宏典(ときつなだ ひろのり、1969年8月2日 - 2019年2月14日)は徳島県美馬市(旧美馬郡脇町)出身の元大相撲力士。本名は吉岡 宏典(よしおか ひろのり)。時津風部屋所属。最高位は東前頭4枚目(1993年7月場所)。現役時代の体格は188cm、183kg。得意手は右四つ、寄り。 脇町立脇町小学校(現・美馬市立脇町小学校)、脇町立脇町中学校(現・美馬市立脇町中学校)卒業。父は徳島県立穴吹高等学校の教師をしており、中学1年の時に同校レスリング部で体を鍛え、中学2年の時に体育教師に勧められた砲丸投で全国8位、中学3年の時には中学相撲で全国大会に出場し、阿波の怪童と呼ばれた。 中学校卒業と同時に時津風部屋に入門。
中本 茂樹(なかもと しげき、1957年6月11日 - )は… 中本 茂樹(なかもと しげき、1957年6月11日 - )は、徳島県美馬市出身の元プロ野球選手(投手)。
濱田 保徳(はまだ やすのり、1957年(昭和32年)6月7… 濱田 保徳(はまだ やすのり、1957年(昭和32年)6月7日 - )は、日本の政治家。元徳島県小松島市長(2期)。 徳島県美馬郡脇町(現・美馬市)の酪農家に生まれた。徳島県農業大学校卒業。 1978年、農家の濱田家の婿養子として小松島市櫛渕町に移り住んだ。原木椎茸の栽培を始め、1987年に菌床栽培に切り替えた。 1994年、櫛渕椎茸組合を設立。1997年、有限会社浜田農園を設立。2000年、株式会社化し株式会社浜田農園となる。2001年、サンマッシュ櫛渕協同組合を設立。2003年7月、同組合代表理事に就任。2007年、株式会社浜田農園社長を退任し、会長に就任。 2007年5月、小松島市議会議員に就任。
北岡 秀二(きたおか しゅうじ、1955年11月18日 - … 北岡 秀二(きたおか しゅうじ、1955年11月18日 - )は、日本の政治家。元参議院議員(2期)。 徳島県美馬郡美馬町(現・美馬市)生まれ。徳島県立脇町高等学校卒業。1980年、明治大学政治経済学部卒業。その後は建設資材の製造会社を経営した。1987年、徳島県議会議員選挙に出馬し初当選を果たした。1991年、徳島県議会議員選挙で再選を果たした。1994年9月に県議を辞職した。1995年7月23日、第17回参議院議員通常選挙に徳島県選挙区から自民党公認で出馬し、民主改革連合の前職を破って初当選を果たした。1998年7月、小渕内閣の法務政務次官に就任した。2001年7月29日、第19回参議院議員通常選挙で再選を果たした。
政弘(まさひろ、1936年(昭和11年)11月8日 - 19… 政弘(まさひろ、1936年(昭和11年)11月8日 - 1999年(平成11年)12月29日)は、大相撲の三役呼出。本名は佐藤 正博。徳島県美馬郡脇町(現・美馬市)出身。二所ノ関部屋所属。 政博→正博→政弘→正弘→政弘
吉岡 利固(よしおか としかた、1928年3月20日 - 2… 吉岡 利固(よしおか としかた、1928年3月20日 - 2022年7月16日)は、日本の実業家。新日本海新聞社代表取締役社主、グッドヒル代表取締役社主。徳島県美馬市出身。 中央大学法学部を卒業後、大阪国税局調査官、紳士服メーカー・エフワンの鳥取県での製造・販売代理店として1961年に設立された鳥取エフワン(現・グッドヒル)の経理部長を経て、同社社長に就任。不動産事業(ハウス日本海)にも進出した。 1976年、会社更生法の適用を申請して休刊中だった日本海新聞の経営を引き受け、鳥取県を代表する地方新聞として再建を果たした。さらに2000年には大阪日日新聞を傘下に収め、2002年にはエフワン本社(大阪市)を親会社の三井物産から買収し、全国進出への足がかりとした。
千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9… 千眼 智見(せんがん ちけん、1907年(明治40年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月2日)は、日本の哲学者。元徳島県農業大学校校長。元高野山大学教授。元徳島女子大学教授。九州帝国大学法学部卒業。徳島県美馬市出身。 美馬郡脇町(現在の美馬市)生まれ。九州帝国大学法学部卒業。高野山大学教授・徳島女子大学教授・高野山高等学校校長・徳島県立池田中学校校長・徳島県立穴吹高等学校校長・徳島県立脇町高等学校校長・徳島県立城北高等学校校長を歴任。 1969年(昭和44年)より徳島県農業大学校校長に就任。徳島文理小学校名誉校長に就任。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
都築 賴助(つづき よりすけ、1903年8月3日 - 197… 都築 賴助(つづき よりすけ、1903年8月3日 - 1972年10月28日)は、日本の教育者、都築学園グループの創始者。妻は都築貞枝、次男は都築泰壽。 徳島県美馬郡美馬町(現・美馬市)生まれ。九州帝国大学(法文学部文科)卒業、同大学院修了、福岡学芸大学、福岡教育大学教授歴任。産業教育振興に寄与した功績により紺綬褒章を受く。 学校法人都築学園、都築育英学園を創設し、第一薬科大学・第一経済大学(現 日本経済大学)・福岡第一高等学校・福岡第一商業高等学校(現 第一薬科大学付属高等学校)・みやこ幼稚園・だいいち幼稚園・むろずみ幼稚園の学園総長。 正四位勲三等に叙せられ旭日中綬章を受章。
津川 イネ(つがわ イネ、1875年〈明治8年〉4月3日 -… 津川 イネ(つがわ イネ、1875年〈明治8年〉4月3日 - 1986年〈昭和61年〉5月21日)は、長寿日本一であった徳島県の女性。 1875年、徳島県麻植郡木屋平村森遠集落で農林業を営む津川国三郎・マス夫婦の長女として生まれる。 9歳の時、村に小学校が設立され入学したが、入学時の生徒はイネただひとりだけだったという。 永らく独身を貫いていたが、39歳の時に15歳年下の男性(婿養子)と結婚。当時としてはかなりの晩婚であった。その後数人の子どもが生まれたが、二男一女を除いて夭折した。また、1945年には次男と孫(長女の息子)が戦死している。 75歳頃まで、木綿の入手が難しかったこともあり、現在徳島県那賀郡那賀町木頭でしか織られていない、太布織っていたという。
中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 … 中 亥歳男(なか いさお、1875年〈明治8年〉3月24日 - 1944年〈昭和19年〉8月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 徳島県美馬郡、のちの脇町(現美馬市)で生まれた。神戸市会議員、同参事会員となる。神戸商工会議所議員、副会頭、神戸真田同業組合長、日本麦稈真田同業組合連合会会長、神戸麻真田輸出組合、神戸帽子輸出組合、日本東洋パナマ帽輸出組合連合会各理事長を務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙において兵庫1区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが落選した。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続3期務める。1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で落選した。
國ヶ岩 夘八(くにがいわ うはち、1875年1月4日 - 1… 國ヶ岩 夘八(くにがいわ うはち、1875年1月4日 - 1932年2月17日)は、徳島県美馬市出身で小野川部屋、草風部屋(京都相撲)、入間川部屋に所属した力士。本名は山本 宇八。8代待乳山、7代稲川。165cm、88kg。最高位は東前頭18枚目(ただし、番付外幕尻格)。 大坂相撲、京都相撲に在籍し、京都相撲では史上最後の大関となった。その後39歳で東上し1914年5月幕尻格で初土俵入幕。それ以後は十両、幕下で過ごし、1919年1月に引退して待乳山を襲名、のち稲川に変更し、出羽海部屋で指導した。 日ノ出松→國岩→國ヶ岩
藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2… 藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2年9月15日) - 1929年(昭和4年)7月15日)は、明治・大正期の東洋史学者。文学博士。号は剣峰。 阿波国美馬郡郡里村(現・徳島県美馬市)に生まれる。徳島中学校、第三高等学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学文科大学漢文科卒業。 早稲田大学や東洋大学において中国文学史を講じるかたわら、1896年小柳司気太・田岡嶺雲らと東亜学院を創立、「江湖文学」を創刊した。上海に渡り、1898年東文学社を設立、1904年広州では教育事業に協力、1905年蘇州の江蘇師範学堂を設立、1909年北京大学の教習として招聘されるなど中国の教育水準の向上に尽力した。
須見 千次郎(すみ せんじろう、1847年1月26日(弘化3… 須見 千次郎(すみ せんじろう、1847年1月26日(弘化3年12月10日) - 1927年(昭和2年)4月12日)は、日本の政治家。実業家。徳島県美馬市出身。 住友恵市の次男として美馬郡穴吹町舞中島(現在の美馬市穴吹町三島)で生まれる。後に麻植郡鴨島町敷地(現在の吉野川市鴨島町敷地)の素封家・須見徳平の養子となった。 その後、徳島県会議員を経て1902年(明治35年)に第7回衆議院議員総選挙に当選、1917年(大正6年)まで4回の当選を果たす。1926年(大正15年)、憲政会徳島県支部長に就任。他にも阿波紡績、徳島毎日新聞社監査役、第八十九銀行取締役会長を歴任。 1927年(昭和2年)4月12日、82歳で没する。
岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年 - 1904年)… 岡本 監輔(おかもと かんすけ、1839年 - 1904年)は、徳島県出身の漢学者であり教育者、箱館府権判事。邦人として初めて樺太最北端に到達し一周探検を成し遂げた。蝦夷地防衛の重要性を提言し、そのための拓殖実現に向け尽力。また窮北日誌ほか多くの本を著し、韋庵(いあん)と號した。 阿波国美馬郡三谷村(後の徳島県美馬市穴吹町三島三谷)で農業の傍ら医業に携わる家に生まれる。父は周平、母は須藤氏。幼名は文平で字を子博とし、幼い頃より読書を好んだ。1853年(嘉永6年)15歳の時父に連れられ徳島へ行くと、藩の儒学者・岩本贅庵の門下に入り同門の有井進斎と親しく交わる。讃岐国高松藩の藤川三渓の塾で食客となっていた1855年(安政2年)に薩哈隣(サガレン、樺太)の話を聞き、深く感じる所あって後の遠征の発端となる。
小野 五平(おの ごへい、天保2年10月6日(1831年11… 小野 五平(おの ごへい、天保2年10月6日(1831年11月9日) - 大正10年(1921年)1月29日)は、江戸時代から明治・大正時代にかけての将棋指し・将棋棋士、十二世名人。通説では天野宗歩門下とされるが十一代大橋宗桂門下とすることもある。日本将棋連盟ではウェブサイト上の小野の紹介記事において通説は天野門下説であるとした上で大橋門下説を採っていたが、現在該当ページは削除されており、棋士系統図においても小野の師匠の欄は空欄としている。 1831年(天保2年)、阿波国美馬郡脇町(現在の徳島県美馬市)の旅籠の長男として生まれる。青年時代までは「土井喜太郎」を名乗っていた。 1846年(弘化3年)、皮膚病の治療のため有馬の温泉に滞在中、天野宗歩の門下とされる長崎出身の三段格の棋士(氏名不詳)に見いだされる。
新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829… 新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829年12月30日〉 - 1902年〈明治35年〉11月25日)は、幕末の志士、明治期の神道家で、神道修成派の教祖。 文政12年12月5日、阿波国美馬郡拝原村(現在の徳島県美馬市)の郷士竹澤平太と母・曾米(田村氏の女)の三男として生まれる。初名は寛三郎。幼少の頃より南朝の英雄・新田義貞の弟脇屋義助の末裔であるという、家に伝わる旧記を読み、勤王を自覚し文武の道に励んだため、7歳にして論語を暗記した。 弘化4年(1847年)、山陰、山陽諸国を巡遊。神道家として、嘉永元年(1848年)20歳の時、布教伝道の志を立てる。これを修成派では立教元年としている。
藤本 幸平(ふじもと こうへい、1820年1月26日〈文政2… 藤本 幸平(ふじもと こうへい、1820年1月26日〈文政2年12月11日〉 - 1916年〈大正5年〉12月23日)は江戸時代末期から明治時代の実業家。両国橋 (徳島市)の創建者。 徳島県美馬郡重清村(現・美馬市)に生まれる。 1872年(明治5年)、徳島市街に流れる新町川の両岸(現・両国橋 (徳島市))の街の賑わいにもかかわらず、渡船場もなく、橋がなかったことに着目し、徳島県の許可を得て渡し舟を開業する。しかし、両岸には道もない葦原であったため、利用者は1日20人程度と少なかった。そこで、1877年(明治10年)に自己資本で両岸に道路を完成させたことから利用者が増加、船場町濱側に住宅を建設した。
美馬 君田(みま くんでん、1812年(文化9年)- 187… 美馬 君田(みま くんでん、1812年(文化9年)- 1874年)は、幕末の尊攘運動家。 君田本姓は鎌田氏、名は諧、字は和南といい、通称援造・三嶺、号は君田、俳号は土仏・桜水と称した。 文化9年、阿波国美馬郡重清村字谷口(現徳島県美馬市)にて出生。願勝寺44代の住職である。諸国をまわり、のち讃岐(香川県)琴平で日柳燕石や植田有年ら同志とともに尊攘をとなえた。天保14年(1843)病気のため還俗して讃岐の琴平に住んだ。 君田は博学達識の人で和歌・俳句などに優れていたが、とくに知られているのは琴平在住の勤王の志士桂小五郎・高杉晋作・坂本竜馬と交流があり、特に日柳燕石とは「燕石ある処には必ず君田あり、君田の影には常に燕石あり」と言われるほどであった。
鳴門 義民(なると よしたみ)は、明治時代の英学者、農政官僚… 鳴門 義民(なると よしたみ)は、明治時代の英学者、農政官僚。阿波国美馬郡出身。江戸で大木忠益に蘭学、横浜で外国人に英語を学び、神奈川奉行所に勤務した。東京に英学塾を開いた後、農業行政に転じ、全国でメイガの駆除法を指導した。晩年芝区会議員。 天保4年(1833年)または天保6年(1835年)7月15日阿波国美馬郡重清村東原(現徳島県美馬市美馬町中東原)に佐々治藤太の次男として生まれた。幼名は次郎、後に次郎吉。 佐々家口伝によれば、厳格な継父の教育に耐えかねて家出を決意し、草鞋製作により800文を蓄え、12歳の時吉野川岸に着物と下駄を置いて投身自殺を偽装し、家出を決行した。徳島からは金刀比羅宮参詣者に変装して無賃で大坂に渡り、呉服屋・大工・武家に奉公して旅費を貯めた後、横浜に上り、中浜万次郎出入りの米屋に住み込みで働き、毎日単語カードを譲り受けて英語を学んだという。