御手洗 玄洋(みたらい げんよう、1921年〈大正10年〉1… 御手洗 玄洋(みたらい げんよう、1921年〈大正10年〉1月5日 - 2015年〈平成27年〉6月28日)は、日本の医学者。名古屋大学名誉教授。宇宙医学と視覚生理学の分野での功績で知られている。1995年(平成7年)、勲三等旭日中綬章受章。大分県佐伯市出身。 私生活では俳句と書道を嗜んだ。肺炎療養中であった俳人の山口誓子と知り合い、俳句を学んだ。 伯父はキヤノン創設者の御手洗毅。弟の御手洗冨士夫はキヤノン会長兼社長を務める。元キヤノン社長の御手洗肇は従兄にあたる。
双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1… 双見山 一夫(ふたみやま かずお、1915年8月4日 - 1974年3月5日)は、大分県佐伯市(津久見市とする文献もあり)出身(生まれは愛媛県西宇和郡三崎町(現・伊方町))で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は大星 一夫。現役時代の体格は身長171cm、体重118kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は左四つ、寄り。 1937年1月場所、本名の大星の四股名で幕下付出とされて初土俵を踏んだ。天竜三郎らが率いた関西角力協会に入門していたための措置だったが負け越したため、当時の協会内規で翌5月場所は序二段に降格されてしまった。 初土俵から3年後の1940年1月場所に新十両、1941年1月場所に13勝2敗で十両優勝、翌5月場所双見山又五郎の名(1943年1月から下の名を本名の一夫に改名)で入幕を果たした。
清田 文永(きよた ふみなが、1910年-1982年)は、日… 清田 文永(きよた ふみなが、1910年-1982年)は、日本の建築家。 大分県佐伯市生まれ。早稲田大学理工学部卒業。逓信省、大日本航空株式会社勤務の後、株式会社 梓設計を創設。「NHK放送センター・NHKホール」で日本建築学会賞・建築業協会賞を受賞。 戦後の焼け野原の中で「梓」の社名の由来となる「におやかで、おおらかで、怒りを含んでいる」建築を目指し、事務所を立ち上げた。「拘束と闘って自由を獲得する。そこで出来上がったものが、ほんとうのデザインである」と設計に情熱を傾けた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
村上 春蔵(春藏、むらかみ はるぞう、1905年(明治38年… 村上 春蔵(春藏、むらかみ はるぞう、1905年(明治38年)4月30日 - 1995年(平成7年)4月22日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 大分県南海部郡大入島村(現佐伯市)で、村上袈裟松の息子として生まれる。父の土建業経営の関係で朝鮮に移住。京城簡易商業学校を卒業し、家業の土木請負業に従事。国内、朝鮮、満洲などで発電所、トンネルなどの工事を請け負い、1933年(昭和8年)村上組が設立され常務に就任した。 終戦後に朝鮮から引揚げ、別府の白雲山荘を買収して取締役社長に就任。戦後の復興に政治の力が不可欠と考え、兄村上勇と共に鳩山一郎に相談し、1946年(昭和21年)2月に日本自由党大分県支部を立ち上げ、同年、村上建設社長に就任。
村上 勇(むらかみ いさむ、1902年4月7日 - 1991… 村上 勇(むらかみ いさむ、1902年4月7日 - 1991年1月28日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党衆議院議員(14期)。郵政大臣(第8・35代)、建設大臣(第18代)などを歴任した。 元参議院議員の村上春蔵は実弟。長男の禎は豊和工業の会長、二男の宏はフジテレビスポーツ部長を務めた。 大分県南海部郡大入島村(現・佐伯市 大入島)に、土建業「村上組」を経営していた村上袈裟松の長男として生まれる。1918年早稲田工手学校(現・早稲田大学芸術学校)を卒業後、飛島組(現・飛島建設)を経て、1944年、村上組の後身「大和土建」社長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で日本自由党公認候補として旧大分1区から立候補し当選、以後当選14回(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・川崎秀二・井出一太郎・早川崇など)。
大島 高精(おおしま たかよし、1885年10月17日 - … 大島 高精(おおしま たかよし、1885年10月17日 - 1964年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 大分県佐伯市出身。アメリカに渡り、ヴァンダービルト大学、シカゴ大学、コロンビア大学大学院で学ぶ。帰国後万朝報の記者となり、主筆となる。その後、陸海軍の嘱託講師を経て、関東軍、支那派遣軍、北支派遣軍の各司令部の嘱託となる。 1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では郷里の大分1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて立候補して当選する。翼政会政調陸軍委員となった。戦後、推薦議員のため、公職追放となり、追放解除後も立候補することはなかった。1964年(昭和39年)死去。
富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1… 富永 徳磨(とみなが とくま、1875年10月19日 - 1930年4月30日)は駒込基督会牧師。 八木重吉に洗礼を授けたことでも知られる。 主著『基督の新精神』。黎明会の会員でもあった。 1875年(明治8年)大分県南海部郡佐伯町(現佐伯市)に生まれる。佐伯小学校を経て、藩校の鶴谷学館で学ぶ。1891年に佐伯教会で洗礼を受ける。鶴谷学館に在学中に、教師として薫陶を受けた国木田独歩の影響を受けて、1894年(明治27年)国木田と共に上京する。 植村正久のもとで神学、聖書を学ぶ、1901年(明治34年)に按手礼を受けて、日本基督教会の牧師になる。1903年(明治36年)に金沢石浦教会(現・日本基督教団金沢教会)の牧師に就任する。
小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年… 小栗 貞雄(おぐり さだお、1861年12月29日〈文久元年11月28日〉 - 1935年〈昭和10年〉3月16日)は、明治期の製薬実業家、政治家。 豊後国海部郡、のちの大分県南海部郡佐伯村(佐伯町を経て現佐伯市)生まれ。佐伯藩士矢野光儀の子で、矢野龍渓の弟。1870年(明治3年)、父にしたがい上京し慶應義塾に学び、東洋議政会に参加し、大学予備門を中退。立憲改進党の弁士として活躍した。その後、三田英学校講師となり、1886年(明治19年)報知新聞の経営再建のために報知新聞社に入社し、ジャーナリストとして健筆を振るう。 1886年(明治19年)12月、大隈重信や矢野龍渓の強い勧めにより、幕臣小栗忠順の娘国子と結婚し、婿養子として小栗の姓を継ぐ。
菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年… 菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年8月22日) - 昭和17年(1942年)2月12日)は、明治期、大正期の小説家、新聞記者。本名は佐藤蔵太郎。鶴谷外史の号もある。 豊後国国東郡佐伯(現・大分県佐伯市)にて出生。 1875年(明治8年)、大分県師範学校を卒業し、鶴谷女学校の教員をとなる。 1881年(明治14年)、上京して報知新聞社に入社。翌年『月氷寄縁 艶才春話』を刊行。 1884年(明治17年)、大阪毎朝新聞社に転じ、ついで神戸新報社に入る。 1900年(明治33年)、新聞記者を辞し、郷土史家として著述業に専念した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8… 藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8月10日) - 明治25年(1892年)8月19日)は、日本の新聞記者、政治家。旧姓は林、号は鶴谷山人・九皐外史・鳴鶴居士・聞天楼主人・翠嵐生。衆議院議員。 豊後国海部郡佐伯(現在の大分県佐伯市)の城下町で佐伯藩のお抱え水主の子として生まれた。慶應義塾(現在の慶應義塾大学)出身で福澤諭吉の弟子。郵便報知新聞社に入社し、新聞の主筆となる。立憲改進党に参加。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬し当選。その後、第2回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算二期務めた。 その他、日本橋区会議員、同議長、同衛生会長、東京府会議員、同区部会議長などを歴任。
秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天… 秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天保12年7月28日) - 1913年(大正2年)5月10日)は明治時代の日本の官僚、漢詩人。女子高等師範学校長、貴族院議員を務めた。号は天放。 豊後国佐伯藩(現在の大分県佐伯市)の藩儒秋月橘門の長男として生まれ、咸宜園で学んだ。1871年(明治4年)、兵部省(のち陸軍省)に出仕し、兵部大録に進んだ。西南戦争の際には征討軍団書記官として従軍し、さらに陸軍省総務局報告課長、参謀本部編纂課長、太政官少書記官、参事院議官、太政官権大書記官を歴任した。その後内務省で参事官、図書局長、大臣秘書官を歴任した。 1894年(明治27年)、女子高等師範学校校長に就任して1897年(明治30年)まで務め、文部省参事官も兼ねた。
ワタナベマホト は、日本の元YouTuber、元ラッパー。カ… ワタナベマホト は、日本の元YouTuber、元ラッパー。カイワレハンマーの元メンバー。本名は渡邉 摩萌峡 。旧活動名はサシマン。ラッパーとしての活動名はBEMA。
保田 義孝(やすだ よしたか)は、日本の洋画家、色鉛筆画家、… 保田 義孝(やすだ よしたか)は、日本の洋画家、色鉛筆画家、イラストレーター。 その他、図鑑・読本の挿絵ほか多数 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
青木 涼子(あおき りょうこ)は、日本の音楽家、能声楽家。現… 青木 涼子(あおき りょうこ)は、日本の音楽家、能声楽家。現代音楽の作曲家と能の声楽である「謡」を素材にした新曲を発表している。父は建築家の青木茂。再従兄弟に芥川賞作家の小野正嗣。 大分県佐伯市出身。14歳より能の稽古を始める。東京藝術大学音楽学部邦楽科能楽専攻卒業(観世流シテ方専攻)。東京藝術大学音楽研究科修士課程修了。ロンドン大学東洋アフリカ学院博士課程修了。平成27年度文化庁文化交流使。2019年第11回「創造する伝統賞」(公益財団法人日本文化藝術財団)受賞。 作曲家が作曲した「謡」のための新曲の公演活動を行っている。今までに50人を超える現代音楽の作曲家が楽曲を提供。ペーテル・エトヴェシュ、ステファーノ・ジェルヴァゾーニ、細川俊夫、望月京などの作曲家による現代音楽作品の初演、オーケストラとの共演、オペラ出演などを行う。
谷 謹一郎(たに きんいちろう)は、明治時代の大蔵官僚、実業… 谷 謹一郎(たに きんいちろう)は、明治時代の大蔵官僚、実業家。幕末に豊後佐伯藩に生まれ、維新後大蔵省に出仕、松方正義秘書を務めた後、民間に下り、日本生命保険取締役、日本勧業銀行理事、富士製紙常務取締役、川崎造船所常務取締役、東海生命社長等を務めた。 嘉永元年(1848年)8月23日、豊後佐伯藩士泥谷永祚の長男として生まれた。7歳で藩校四教堂に入学し、10歳で秋月橘門に句読を学んだ。明治2年(1869年)橘門に従い東京に上り、慶應義塾で英語を学んだ。上京後、泥谷(ひじや)姓を改め、谷姓を称した。 松方正義が九州を巡回した際に知遇を得、明治4年(1871年)内務省、大蔵省に出仕した。1875年(明治8年)大阪造幣局に勤務した後、1877年(明治10年)帰京し、大蔵大臣秘書官、総理大臣秘書官等を歴任した。