草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28… 草地 貞吾(くさち ていご、1904年(明治37年)5月28日 - 2001年(平成13年)11月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は大佐。 旧制大分県立宇佐中学校出身。陸軍士官学校第39期を卒業し、同期生の末松太平歩兵少尉とともに青森を衛戍地とする歩兵第5連隊に配属される。1936年(昭和11年)に末松歩兵大尉は、二・二六事件に連座している。 著名な同期生は、終戦時に陸軍省軍務局軍事課高級課員で戦後陸将・陸上幕僚副長となる高山信武大佐や、南方軍第2課長の矢野連大佐、第53軍参謀の大橋武夫中佐がいる。第106師団では、同期の成富政一大佐(戦死後、進級)と勤務している。 終戦時、満州にあった関東軍の作戦課主任参謀。
古宇田 武郎(こうだ たけろう、1891年(明治24年)5月… 古宇田 武郎(こうだ たけろう、1891年(明治24年)5月15日 - 1982年(昭和57年)3月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は少将。太平洋戦争において第一潜水戦隊司令官として、キスカ島撤退作戦などを戦った。 古宇田は大分県出身で海兵41期生である。海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、118名中53番で海軍兵学校を卒業した。初級士官時代に第一次世界大戦に出征し、遣米枝隊(森山慶三郎司令官)に属して北米の通商保護に従事した。 大尉進級とともに海軍水雷学校高等科へ入校。海兵同期からはともに潜水艦部隊の司令官として太平洋戦争を戦う山崎重暉、原田覚(前掲写真古宇田の後ろ)も入校し、首席はルンガ沖夜戦を戦った田中頼三であった。
安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月1… 安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月14日 - 1950年〈昭和25年〉)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 大分県宇佐郡若林村(津房村、安心院町を経て、現宇佐市)出身。安倍寛吾の四男。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1928年(昭和3年)3月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第8連隊長、1930年(昭和5年)8月に近衛師団兵器部長を経て、1932年(昭和7年)8月8日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月30日に予備役に編入した。 退役後は軍需会社顧問を歴任した。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3… 殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1904年(明治37年)9月4日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。庄屋殖田覚十郎の二男として生まれる。母方姓是恒。大分県宇佐郡駅館村出身。第2次吉田内閣の法務総裁殖田俊吉は甥である。 旧海軍機関学校(横須賀)から海軍兵学校(18期)に編入。海軍大学校、鎮守府参謀を経て日露戦争開戦時は軍令部参謀。後に連合艦隊参謀に転出。黄海海戦において「三笠」最上艦橋で戦傷を受け、佐世保海軍病院にて死去。伊藤正徳は殖田について「有為の参謀であった」と評している。 1904年(明治37年)8月10日、最上艦橋で指揮をとっていた殖田は午後6時30頃に、前部艦橋左舷のセマホア信号機に敵弾が命中炸裂、その弾片、破片により負傷した。
麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明… 麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明治40年(1907年)4月27日)は、明治時代の日本の教育者、海軍軍人。最終階級は海軍機関大佐。旧名弼吉。 明治前半期に海軍操練所、海軍兵学寮、海軍兵学校、海軍機関学校で機関官養成にたずさわり、10年にわたり機関学校の事実上の校務責任者である校長心得および次長を務めた。 豊前国宇佐神宮社司に生まれる。 元治2年(1865年)4月に慶應義塾に入塾。1869年(明治2年)に出版された『奇機新話』(西洋の機械の紹介)など科学技術の啓蒙書や理科教科書を福沢・小幡などと共に数多く執筆。同年、海軍操練所に出仕し、海軍兵学中教授を経て海軍省六等出仕となり、海軍始に明治天皇が行幸した時に「ピョートル大帝海軍創立ノ事」と題する御前講演を行った。