土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年1… 土持 則正(つちもち のりまさ、1916年 - 1994年12月13日)は、日本の陸軍軍人、スパイ、陸上自衛官。 太平洋戦争においてF機関工作員としてタイに潜伏、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市の指揮でマレー作戦、ビルマ作戦に従事。 1916年、宮崎県都城市出身。陸士49期。1937年、歩兵第四十五聯隊第一中隊所属、小隊長見習士官。日中戦争に少尉として従軍、正定城攻略戦では日本刀を手に白兵戦を敢行する。機関銃や迫撃砲攻撃の最中、手榴弾を投げる敵に太刀をふるった(証言者の福田清造伍長も銃剣で二人倒す程であった)。固安城の攻撃では第九十一師五百四十五団の敵歩兵2,200人を相手に突撃した。
財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月… 財部 彪(たからべ たけし、慶応3年4月7日(1867年5月10日) - 昭和24年(1949年)1月13日)は、日本の軍人、政治家。宮崎県都城市出身。階級は海軍大将。
志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月… 志摩 清直(しま きよなお、1858年7月7日(安政5年5月27日) - 1894年(明治27年)9月17日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉。 日向国都城(現在の宮崎県都城市)に生まれた。父・清雄は宮崎県士族。弟の山地通信は陸軍将校、志摩猛は戦艦「霧島」艦長等を務めた海軍少将である。志摩は9歳のときに小姓として出仕した経験がある。 海兵士官学校予科生徒在学中に同校は廃校となり、1877年(明治10年)9月、海軍兵学校へ転入。1880年(明治13年)9月「龍驤」乗組みとして実地訓練を受け、豪州へ回航。1881年9月少尉補となる。兵学校8期生であり、同期に八代六郎がいる。1885年(明治18年)6月海軍少尉任官。
上原 勇作(うえはら ゆうさく、1856年12月6日〈安政3… 上原 勇作(うえはら ゆうさく、1856年12月6日〈安政3年11月9日〉- 1933年〈昭和8年〉11月8日)は、日本の陸軍軍人。元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵。 陸軍大臣、教育総監、参謀総長。この「陸軍三長官」を歴任した上で元帥府に列せられたのは、帝国陸軍史上、上原、杉山元の2名のみである。兵科は工兵科。 薩摩藩領であった日向国都城(現:宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。 聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)。
束野 孝之丞(つかの こうのじょう、1853年〜1877没)… 束野 孝之丞(つかの こうのじょう、1853年〜1877没)は、明治時代の武士(薩摩藩士)、軍人。 現在の宮崎県都城市出身。1877年(明治10年)、15歳で薩摩軍に参加し、西南戦争で戦死した。 熊本市北区(旧植木町)の荻迫薩軍台場跡に墓碑が建立されており、墓碑銘は「東野」と刻まれているが誤記とされている。没後55年を経た1932年(昭和7年)に、当時の陸軍大臣である荒木貞夫による慰霊碑が建立されている。 『田原坂甚句』に歌われる「美少年」のモデルとされるが、モデルは束野一人ではないともされる。
島津 久家(しまづ ひさいえ)は、明治時代から大正時代の陸軍… 島津 久家(しまづ ひさいえ)は、明治時代から大正時代の陸軍軍人。都城島津家27代当主。宮崎県都城出身。正四位勲四等、男爵。 25代当主久静の弟で分家北郷家に養子に入った北郷久政の長子。 明治17年(1884年)、26代当主久寛が急死し子どもがいなかったことから、本家の家督を相続。明治24年(1891年)12月18日付けで、都城島津家の由緒と久寛の維新の功により男爵を授爵。 明治34年(1901年)に陸軍歩兵少尉に任官。軍事学研究のためフランスに留学。 明治37年(1904年)日露戦争開戦にあたって従軍のため帰国し、近衛歩兵第2連隊に入り中尉に進級、さらに大尉に進み、軍功により受勲される。 大正7年(1918年)1月31日、陸軍少佐進級。
龍岡 資峻(たつおか すけたか)は、幕末から明治時代にかけて… 龍岡 資峻(たつおか すけたか)は、幕末から明治時代にかけての薩摩藩士・日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大尉。上原勇作の実兄である。 天保11年10月(1840年)、龍岡資弦の長男として生まれる。通称は小十郎、三作。嘉永元年(1848年)、9歳にして都城領主島津氏の児小姓となり、大島流槍術師範・白尾国宝から四面の奥義を授けられた。 安政2年(1855年)5月、番頭座詰となり、翌3年には番頭役兼道橋奉行に進み、町奉行をも兼ねた。文久2年(1862年)5月、島津久静が兵を率いて上洛した際にはこれに従って謀議に参与し、献策を行った。 慶応2年(1866年)、長崎派遣を命じられて鉄砲を購入し、洋式訓練を学んで帰藩した。