寺園 脩斗(てらぞの しゅうと、1994年〈平成6年〉6月2… 寺園 脩斗(てらぞの しゅうと、1994年〈平成6年〉6月28日 - )は、日本のプロバスケットボール選手。宮崎県高鍋町出身。B.LEAGUEの神戸ストークス所属。ポジションはポイントガード。 宮崎県内の高鍋小1年バスケ生活をスタート。2006年小学6年生、全国ミニバス大会でブロック準優勝。延岡学園尚学館中学校2年、新潟全中に出場。2位で決勝トーナメントに進出、1回戦敗退[要出典]。 延岡学園高校1年次にチームはインターハイに出場。ウインターカップでは主力として出場。2年次はインターハイ・国体で優勝。その年のウインターカップでは渡邊雄太率いる尽誠学園高等学校を決勝で破り優勝。高校バスケ3大大会である、インターハイ・国体・ウインターカップで3冠を達成。
咲妃 みゆ(さきひ みゆ、1991年3月16日 - )は、日… 咲妃 みゆ(さきひ みゆ、1991年3月16日 - )は、日本の女優、歌手。元宝塚歌劇団雪組トップ娘役。愛称は、ゆうみ。 宮崎県児湯郡高鍋町、日向学院高等学校出身。BLUE LABEL所属。 2008年、宝塚音楽学校入学。 2010年、宝塚歌劇団に96期生として入団。入団時の成績は11番。月組公演「THE SCARLET PIMPERNEL」で初舞台。その後、月組に配属。 2012年、龍真咲・愛希れいかトップコンビ大劇場お披露目となる「ロミオとジュリエット」で、新人公演初ヒロイン。続く「春の雪」(バウホール・日本青年館公演)で、バウホール・東上公演初ヒロイン。 2013年の「月雲の皇子」で2度目のバウホール公演ヒロイン。
GADORO(ガドロ、1990年11月29日 - )は、宮崎… GADORO(ガドロ、1990年11月29日 - )は、宮崎県児湯郡高鍋町出身のMC。本名は増本一博 高校2年生の時に般若の影響でラップを始めた。 2013年、ULTIMATE MC BATTLE(UMB)2013宮崎予選で決勝にてMOL53に敗戦。 2014年、UMB2014宮崎予選決勝でYOKO-Uを倒し優勝しUMB本戦へ出場、UMB本戦一回戦で岡山代表のFEIDA-WANに敗戦した。2015年、9SARI主催のK.O.K九州予選で優勝し、9月に新宿ReNYで行われた本戦では準決勝で崇勲と再延長にもつれこんだ末破れた。 2016年2月[要出典]にはテレビ朝日「フリースタイルダンジョン」にチャレンジャーとして参戦した。
岩下 克樹(いわした かつき、1986年6月16日 - )は… 岩下 克樹(いわした かつき、1986年6月16日 - )は、あいテレビ (itv) のアナウンサー。宮崎県児湯郡高鍋町出身。 高鍋町立高鍋東小学校、高鍋町立高鍋東中学校、宮崎県立宮崎大宮高等学校、北九州市立大学卒業。高校時代には放送部に所属し、大学時代には学業と並行して福岡のアナウンススクールに通っていた。 大学を卒業後、2009年4月にテレビ宮崎 (UMK) に入社。同局では、入社からわずか4日で『HOT WAVE』のMC(司会)に抜擢された。同期に元同局アナウンサーの荒尾茉紀がいる。 テレビ宮崎には9年半在籍した。高橋巨典によるパワハラを受け、同局を退社後、2018年10月にあいテレビへ移籍した。
原田 洋志(はらだ ひろし、1985年3月22日 - )は、… 原田 洋志(はらだ ひろし、1985年3月22日 - )は、宮崎県児湯郡高鍋町出身の元サッカー選手。ポジションは、フォワード(FW)。
黒岩 司(くろいわ つかさ、1982年11月15日 - )は… 黒岩 司(くろいわ つかさ、1982年11月15日 - )は、日本の俳優。宮崎県児湯郡高鍋町出身。 舞台芸術学院卒業。2000年、舞台「宮崎城物語」でデビュー。 2017年、主演映画『RUN!-3films-』の「ACTOR」で、「杉並ヒーロー映画祭」最優秀主演俳優賞と観客賞、「Kisssh-Kissssssh映画祭」最優秀主演男優賞を受賞。2020年10月には、地元・宮崎県高鍋町のふるさと応援大使に委嘱された。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。
やす(本名:藍木 靖英〈あいき やすひで〉、1969年〈昭和… やす(本名:藍木 靖英〈あいき やすひで〉、1969年〈昭和44年〉11月18日 - )は、日本のお笑い芸人、俳優。お笑いコンビ・ずんのツッコミ担当。相方は飯尾和樹。浅井企画所属。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。宮崎日本大学高等学校卒業。国際武道大学中退。 1992年、飯田英明 と「ヘーシンク」を結成し、活動していたが解散となった。その後、2000年に1年先輩の飯尾と「ずん」を結成し、その地味さからその年の『カンコンキンシアター』のサブタイトルが「飯尾より地味なヤツ入りました」にされた。 当初は相方の飯尾の単独活動が多かったためテレビ出演がほとんどなかったが、2004年元日放送の『平成あっぱれテレビ』(日本テレビ系)の「芸人柔道王決定戦」にて柔道二段の腕を披露して優勝し、同番組に出演していた三村マサカズ(さまぁ〜ず)が「ずんのやす!」と変な掛け声で煽ったことがきっかけで人気が出る。
今井 美樹(いまい みき、1963年〈昭和38年〉4月14日… 今井 美樹(いまい みき、1963年〈昭和38年〉4月14日 - )は、日本の歌手、女優。夫は元BOØWYおよびCOMPLEXのメンバーでギタリストの布袋寅泰。 所属レコード会社は、フォーライフ・レコード、ワーナーミュージック・ジャパンを経て、現在はEMIミュージック・ジャパン(現:ユニバーサル ミュージック)。所属事務所は、かつては芸映、「マッシュウエスト」等を経て、現在は布袋寅泰と共に「ダダミュージック」に所属。2012年に家族でロンドンに移住した。身長168.2 cm。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。ジャズ好きの父親の影響を受ける。実家は電器屋だったが父の趣味でオーディオ専門店となった。中学時代には松任谷由実に熱中し、ピアノの弾き語りをする。
山室 浩二(やまむろ こうじ、1960年〈昭和35年〉2月2… 山室 浩二(やまむろ こうじ、1960年〈昭和35年〉2月27日 - )は、日本の政治家。宮崎県東臼杵郡門川町長(2期)。 2022年(令和4年)4月の門川町長選挙に出馬。現職の安田修が引退し、新人5人の激しい争いとなったが、3300票あまりを獲得し初当選。 ※当日有権者数:14,686人 最終投票率:56.43%(前回比: 7.16pts) 4月22日より町長就任。 2026年(令和8年)の町長選は新人との争いになったが、これを破って再選を果たした。ただ、投票率は過去最低となった。 ※当日有権者数:13,862人 最終投票率:40.96%(前回比: 15.47pts) この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
黒木 敏之(くろき としゆき、1953年10月11日 - )… 黒木 敏之(くろき としゆき、1953年10月11日 - )は、日本の実業家、政治家。宮崎県児湯郡高鍋町長(3期)、黒木本店代表取締役会長、尾鈴山蒸留所前代表取締役社長。 高鍋町生まれ。1972年、宮崎県立高鍋高等学校を卒業。1977年、立教大学経済学部を卒業し、ソニープラザに入社。1980年、黒木本店入社、黒木本店代表取締役。1996年、株式会社尾鈴山蒸留所を設立し、同社代表取締役社長。2007年、高鍋商工会議所会頭、高鍋町観光協会会長就任。 2017年の高鍋町長選挙に無所属で立候補して、元同町議会議員の新人を破って初当選を果たした。 ※当日有権者数:17,322人 最終投票率:54.76%(前回比: 0.19pts) 2021年、無投票で2期目の当選を果たす。
金城 興福(かねしろ こうふく、1953年2月27日 - 2… 金城 興福(かねしろ こうふく、1953年2月27日 - 2002年12月29日)は、宮崎県児湯郡高鍋町大字北高鍋出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名同じ。 1979年3月場所から1985年1月場所まで、大関・栃光正之に因んだ栃光 興福(とちひかり こうふく)の四股名に改名していたため、一般的には「栃光」の四股名で知られている。最高位は西関脇(1977年7月場所)。現役当時の体格は185cm、144kg。得意手は右四つ、寄り、下手投げ。 宮崎日本大学高校では柔道やレスリングで活躍し、在学中にRKB毎日放送の社員に見出され、そこからTBSの小坂秀二アナウンサーを通して春日野親方(元横綱・栃錦)を紹介された。
白井 常信(しらい じょうしん、1944年12月3日 - 2… 白井 常信(しらい じょうしん、1944年12月3日 - 2024年1月7日)は、日本の元政治家。宮崎県生まれ。東京都議会議員を務めた。 宮崎県児湯郡高鍋町に父・恒春、母・万佐子の次男として生まれる。恒春は、職業軍人(陸軍中佐)としてフィリピン・レイテ島へ特攻作戦に従軍したが、1945年に戦死。万佐子の実家がある香川県に転居。高松市立亀阜小学校卒業。紫電中学校に入学したが、母の仕事の都合で東京都文京区立第七中学校(現在の音羽中学校)へ転校。その後東京都立豊島高等学校を卒業。1963年、中央大学に入学し、1968年に卒業。
岩岡 保宏(いわおか やすひろ、1933年11月17日 - … 岩岡 保宏(いわおか やすひろ、1933年11月17日 - )は、宮崎県児湯郡高鍋町出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 高鍋高校では1951年夏の甲子園予選東九州大会に進むが、1回戦で大分上野丘高に惜敗。高校同期に大学、プロ野球と行動を共にする黒木弘重がいた、卒業後は黒木とともに明治大学へ進学。東京六大学リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。1954年、1955年の全日本大学野球選手権に連続優勝を飾る。1955年春季リーグではベストナイン(遊撃手)に選出された。同年の第2回アジア野球選手権大会日本代表として、日本チームの優勝に貢献。
黒木 弘重(くろき ひろしげ、1933年4月15日 - 20… 黒木 弘重(くろき ひろしげ、1933年4月15日 - 2023年5月17日)は、宮崎県児湯郡高鍋町出身の元プロ野球選手。ポジションは一塁手、外野手。 大洋ホエールズで活躍した黒木基康は実弟に当たり、1960年には大洋でチームメイトとして所属した。 高鍋高校在学中は甲子園出場なし(弟の基康は1954年、3年生の時に一塁手として夏の甲子園に出場している)。1951年夏の甲子園予選東九州大会に進むが、1回戦で大分上野丘高に惜敗。高校同期に大学、プロ野球と行動を共にする岩岡保宏がいた。 高校時代、たまたま宮崎に来ていた明大の原勝彦らの指導を受けた縁で、岩岡とともに明治大学に進学。東京六大学野球リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。
上條 勝久(かみじょう かつひさ、1910年(明治43年)8… 上條 勝久(かみじょう かつひさ、1910年(明治43年)8月29日 - 2011年(平成23年)12月27日)は、日本の内務官僚、建設官僚、政治家。参議院議員(2期)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。旧制高鍋中学校卒。1936年に宮崎県庁に入り、1941年に内務省に転じる。1945年、内務省国土局内務理事官。1957年、国土地理院総務部長になる。建設省大臣官房福利厚生課長を経て、1965年、建設大学校校長。退官後、全国建設研修センター理事長、日本道路公団顧問を経て、1974年の参院選で宮崎県選挙区から自由民主党公認で立候補して当選。2期務めた。この間、1977年から1978年まで科学技術政務次官、1981年から1982年まで参議院地方行政委員長に就任。
押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月… 押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月17日 – 1951年(昭和26年)5月10日)は、日本の弁護士、衆議院議員(民主党)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。定澄の三男。独習にて普通学を修め、1914年、郷里高鍋を出て上京して苦学力行しつつ1917年(大正6年)、明治大学法科を卒業、同年弁護士を開業した。 東京府会議員、同市部会議長に選出された。また神奈川県農機具工業組合理事長、同農機具工業統制組合理事長、同農機具工業協同組合理事長を務めた。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その他、細王舎工場合資会社代表社員を務めた。 宗教は神道。趣味は政治。 宮崎県児湯郡高鍋町、東京市小石川区同心町
萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18… 萱嶋 高(かやしま たかし、1889年〈明治22年〉4月18日 - 1956年〈昭和31年〉2月18日)は、大日本帝国陸軍軍人、陸軍中将。宮崎県児湯郡高鍋町出身。陸士22期、陸大32期。 天津駐屯歩兵隊(昭和11年5月30日からは支那駐屯歩兵第2連隊)長、歩兵第136旅団長などを歴任し、太平洋戦争開戦後は、留守第6師団長から新設された第46師団の師団長となるが師団が南方に渡る前に予備役、その後召集され再び留守第6師団長。 退役後、1945年に宮崎市長に就任したが、連合国軍の進駐にともない辞職した。その後、公職追放となり、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、通州事件に関する証言をおこなっている。
園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日… 園部 マキ(そのべ まき、明治18年(1885年)12月1日 - 昭和19年(1944年)1月)は、保育事業家。 大正3年(1914年)に、京都市最初の保育園を開設した。 明治18(1885)年12月1日、宮崎県高鍋で士族の家庭に生まれる。旧姓は、藤田。 明治33(1900)年に、同志社女学校(現在の同志社女子大学)入学し、明治38(1905)年、に卒業する。同年、京都看病婦学校1年に編入し、同年5月には渡米、フィラデルフィアの一致協会附属看護学校(Presbyteriam Hospital of Nursing)に留学する。 明治42(1909)年4月、卒業。その後、社会施設事業等を見学視察し、同年11月に帰国。
安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1… 安田 尚義(やすだ なおよし、 1884年4月19日 - 1974年12月24日 )は、日本の歌人・歴史学者。
手塚 敏郎(てづか としろう、1873年(明治6年)7月1日… 手塚 敏郎(てづか としろう、1873年(明治6年)7月1日 - 1933年(昭和8年)10月26日)は、内務官僚、南洋庁長官。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学を卒業し司法官試補となった。1903年(明治36年)に検事となり、函館区裁判所、函館地方裁判所、札幌地方裁判所、沼津区裁判所を歴任した。1908年(明治41年)、内務省に転じ、福井県事務官・警察部長、長崎県事務官・警察部長、島根県内務部長を歴任した。 1918年(大正7年)、海軍事務官長・臨時南洋群島防備隊民政部長に任命され、南洋諸島の統治にあたった。 1922年(大正11年)、臨時南洋群島防備隊が廃止され、南洋庁が発足すると、初代長官に就任した。
石井 十次(いしい じゅうじ、1865年5月5日(慶応元年4… 石井 十次(いしい じゅうじ、1865年5月5日(慶応元年4月11日) - 1914年(大正3年)1月30日)は、明治期の慈善事業家。岡山孤児院を創設した人物である。その功績から、「児童福祉の父」と言われる。アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。 岡山で医師を目指して、岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の医学生として研修中であったが、生活に困窮する母親から子どもを預かったことをきっかけに孤児教育会を設立する。その後、預かる子どもの数が増え、育児事業に専念するために医師として働くことを断念した。そして、英国のキリスト者のジョージ・ミュラーをモデルにして、キリスト教信仰に根ざした岡山孤児院を創設して、生涯を孤児救済に捧げた。
鈴木 定直(すずき さだなお、嘉永6年3月17日〈1853年… 鈴木 定直(すずき さだなお、嘉永6年3月17日〈1853年4月24日〉 - 1914年〈大正3年〉9月19日)は、日本の内務・警察官僚。官選大分・群馬・滋賀・高知県知事。幼名・半造。 日向国児湯郡南高鍋村(現:高鍋町)で、高鍋藩士・鈴木定信の長男として生まれる。 1877年6月、警視局警部補となり、同年7月、新撰旅団第1大隊第4中隊左半隊長として西南戦争に出征。戦後、同年11月に退職。1878年10月、兵庫県十等警部に任官。以後、豊岡警察署長、警察本署第1部長などを歴任。 1886年4月に高知県警部となるが、翌月に富山県警部・警察本署第1部長兼第4部長に転じた。以後、富山県警察本部第1課長、兼巡査教習所長、兼富山警察署長、富山県射水郡長などを歴任し、1889年3月、富山県警部長に就任。
津野 常(つの じょう、1848年7月12日(嘉永元年6月1… 津野 常(つの じょう、1848年7月12日(嘉永元年6月12日)- 1902年(明治35年)7月18日)は、幕末の高鍋藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、宮崎県会議長。 日向国児湯郡上江村(高鍋県、美々津県、宮崎県、鹿児島県を経て宮崎県児湯郡上江村、現高鍋町)で生まれる。藩校・明倫堂で漢学を修め、稽古所で剣術、柔術を錬磨した。その後、美々津県英式楽隊を講習して高鍋藩楽隊長に就任し、さらに同藩民政局出仕を務めた。廃藩置県後、美々津県、宮崎県、鹿児島県で勤務した。 1881年(明治14年)3月、鹿児島県会議員に選出され、分県運動に加わり、1883年(明治16年)7月、宮崎県会議員に選出され、同常置委員、同副議長、同議長を務めた。
岩村 兼善(いわむら かねよし、1845年12月2日(弘化2… 岩村 兼善(いわむら かねよし、1845年12月2日(弘化2年11月4日) - 1919年(大正8年)11月27日)は、幕末の高鍋藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍主計少将。貴族院勅選議員。幼名・虎雄。 日向国児湯郡高鍋石原(現宮崎県児湯郡高鍋町)で、高鍋藩士・岩村又之進の長男として生まれ、岩村武右衛門の養子となる。藩校明倫堂で学び、さらに江戸の安井息軒に師事した。戊辰戦争時、江戸で新政府の内国事務局参与であった藩主世嗣秋月種樹が、上杉鷹山以来親密な関係の米沢藩の行末を案じ、米沢藩に対して新政府へ恭順を勧める献策が認められ、その使者として岩村と坂田潔が選ばれ、戦乱の中で苦労して米沢に入り米沢藩を帰順に導いた。
三好 退蔵(みよし たいぞう、1845年6月16日(弘化2年… 三好 退蔵(みよし たいぞう、1845年6月16日(弘化2年5月12日) - 1908年(明治41年)8月20日)とは、日本の法曹。初代検事総長、大審院院長を歴任し、退官後は弁護士、貴族院議員を務めた。錦鶏間祗候。 旧暦弘化2年5月(1845年6月)、日向国(現在の宮崎県児湯郡高鍋町)高鍋藩士の家に生まれる。藩校明倫堂で学んだ後、遊学して安井息軒に師事。 明治2年(1869年)に新政府に出仕して高鍋藩の少参事を務めた後、地方官や大蔵省官吏を歴任。この間、大蔵省出仕のまま明治4年7月3日(1871年)、27歳で慶應義塾に入塾した。同塾が芝新銭座(現在の港区浜松町一丁目)から三田に移ったばかりで、同窓には猪飼麻次郎、九鬼隆一、雨山達也、矢野文雄、高嶺秀夫らがいた。