田中 調(たなか みつぐ、1944年6月17日 - )は、東… 田中 調(たなか みつぐ、1944年6月17日 - )は、東映フライヤーズ、ヤクルトアトムズに所属した元プロ野球選手(投手)。香川県出身。
職業が野球:7,475人
田中 調(たなか みつぐ、1944年6月17日 - )は、東… 田中 調(たなか みつぐ、1944年6月17日 - )は、東映フライヤーズ、ヤクルトアトムズに所属した元プロ野球選手(投手)。香川県出身。
小倉 清一郎(おぐら きよいちろう、1944年6月16日 -… 小倉 清一郎(おぐら きよいちろう、1944年6月16日 - )は、神奈川県横浜市中区出身の元社会人野球選手(捕手)で日本の高校野球指導者。 小学4年生から野球を始める。ポジションは当初、内野手や投手など色々してきたが、最終的に捕手となった。横浜市立大鳥中学校を経て法政二高の進学を目指したが、同校硬式野球部監督の田丸仁からユニフォームは着ることは出来るがレギュラーは難しいと言われた事から中学時代の監督に勧められて、横浜高校(以降:横浜)に進学し、硬式野球部に入部した。横浜の同期には渡辺元(現:渡辺元智)がいる。現役時代は甲子園の出場は叶わなかったものの県大会で準優勝を果たした。 高校卒業後、東京農業大学を経て、三菱自動車に入社。
中野 孝征(なかの たかゆき、1944年6月14日 - )は… 中野 孝征(なかの たかゆき、1944年6月14日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(内野手)。 中学時代は遊撃手兼リリーフ投手だった。作新学院高では1年からレギュラー遊撃手となり、1961年、2年生の時に春の選抜に出場。2回戦で高松商業高に敗れる。1年上のチームメートに島野育夫がいた。翌1962年には主将、一番打者として春の選抜に連続出場。エース八木沢荘六を擁して勝ち進み、決勝で日大三高を降し優勝。 同年夏の選手権では八木沢の急病により、控えの加藤斌を主戦投手に立て勝ち進む。決勝では加藤が久留米商業高のエース伊藤久敏と投げ合い1-0で辛勝、史上初の甲子園春夏連覇を果たす。高校同期に八木沢、加藤の他、中堅手、四番打者の高山忠克がいた。
及川 宣士(おいかわ のぶじ、1944年6月8日 - )は、… 及川 宣士(おいかわ のぶじ、1944年6月8日 - )は、岩手県釜石市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 東北高校では1961年、2年生の時に夏の甲子園に一塁手として出場。2回戦で岐阜商に敗退。高校同期に日下正勝左翼手、村上宏通二塁手(阪急ブレーブス)がいる。翌年の夏は東北大会準決勝に進出、リリーフとして登板するが、保原高に敗れ甲子園出場を逸した。 1963年に大洋ホエールズに入団。同年オフには高橋重行らとともに整理対象寸前であったが、翌年からコーチ就任予定の別所毅彦に手の大きさを着目されて現役を続けることになる。別所からフォークボールを伝授され、1965年4月27日に一軍初先発、阪神タイガースのジーン・バッキーと投げ合い3安打完封、初勝利を飾る。
鏑木 悦純(かぶらき よしずみ、1944年6月3日 - )は… 鏑木 悦純(かぶらき よしずみ、1944年6月3日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉工商高校から富士鉄室蘭を経て、1963年に阪神タイガースへ入団。千葉県出身者からの入団は初めてで、1965年までは背番号51を着用していた。背番号を42に変更した1966年に、サンケイアトムズとの開幕カード第2戦(阪神甲子園球場)で一軍公式戦にデビュー。 練習熱心で、阪神時代には二軍のウエスタン・リーグ公式戦で活躍していたが、1970年のシーズン終了後に(NPBが「加盟全12球団の戦力の均等化」を目的にドラフト会議と同じ要領でこの年から開催していた)プロ野球選手選抜会議(トレード会議)の指名対象(1球団が保有する支配下登録選手の20%に当たる)選手リストへ掲載された。
土橋 修(つちはし おさむ、1944年6月3日 - 1966… 土橋 修(つちはし おさむ、1944年6月3日 - 1966年12月21日)は、和歌山県那賀郡出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 粉河高校、日本新薬(在籍中に、第35回都市対抗野球大会に出場した。)を経て、1965年に阪神タイガースに入団。179cmの長身を生かしたソツのない投法は高く評価されていた。 しかし、一軍公式戦の出場がないまま1966年12月19日に和歌山市六十谷の六十谷橋で乗用車にはねられ頭部打撲と両足骨折の重傷を負った。土橋はすぐに同市本町の堀口外科に入院したが、頭を強く打ったのが致命傷となり2日後の12月21日午後10時20分、同病院で死去した。22歳没。オフを利用して同市内の自動車学校に通い、学校からの帰宅途中に事故に遭ったと伝わる。
無徒 史朗(むと しろう、1944年5月30日 - )は、大… 無徒 史朗(むと しろう、1944年5月30日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。右投げ左打ち。旧名は史郎。 1963年に関西大倉高等学校から南海ホークスに入団。 1964年のジュニアオールスターに出場。 3年目の1965年に一軍に抜擢され、主に三塁手として、衰えが見えた森下整鎮と併用される。同年には40試合に先発出場、読売ジャイアンツとの日本シリーズにも代打として2試合に出場した。しかしこの年のオフに同じく若手の有望株であった東条文博とともにサンケイアトムズに移籍した。 1966年には一塁手、二塁手として42試合に先発。 1967年には武上四郎が入団し、二塁手に定着したこともあって、その後は主に代打として起用された。
後藤 和昭(ごとう かずあき、1944年5月28日 - )は… 後藤 和昭(ごとう かずあき、1944年5月28日 - )は、静岡県三島市出身の元プロ野球選手(内野手)。
枦山 智博(はぜやま ともひろ、1944年5月28日 - )… 枦山 智博(はぜやま ともひろ、1944年5月28日 - )は、鹿児島県垂水市出身の元高校野球指導者。 鹿児島商工高等学校(現・樟南高等学校)時代は投手で主将。社会人時代は軟式野球、準硬式野球をプレーし、投手で軟式と準硬式で1度ずつ国体に優勝している。 1972年に母校・鹿児島商工高等学校の事務職員として野球部監督に就任し、甲子園に23回(春7回、夏16回)出場に導いた。最高成績は、樟南高等学校に校名が変更された1994年、福岡真一郎と田村恵のバッテリーを擁して臨んだ第76回全国高等学校野球選手権大会での準優勝。鹿児島実業高等学校監督の久保克之(現・名誉監督)と共に鹿児島県の高校野球を長年にわたりリードした。
吉田 正昭(よしだ まさあき、1944年5月22日 - )は… 吉田 正昭(よしだ まさあき、1944年5月22日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 山口県立久賀高等学校を中退し、1962年に東映フライヤーズに入団する。 6年目の1967年に初の一軍入り。5月31日の近鉄バファローズ戦で長田裕之からプロ初打席で初安打(二塁打)を放つも11試合の出場に終わり、以後は打席に立つこともなく、この年限りで引退した。珍しい生涯打率10割の選手である。 1967年7月19日後楽園球場で行われた近鉄バファローズ戦で9回裏に一塁ランナーの代走に起用され、続く白仁天がサヨナラホームランを放ったものの、代走の吉田は一二塁間で打球を見ていたために止まっていたところ白に追い越され、サヨナラホームランをフイにしたことがある。
白石 静生(しらいし しずお、1944年5月22日 - )は… 白石 静生(しらいし しずお、1944年5月22日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手(投手)、監督。
加藤 斌(かとう たけし、1944年5月21日 - 1965… 加藤 斌(かとう たけし、1944年5月21日 - 1965年1月4日)は、中国上海生まれ、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手(投手)。 作新学院高ではエース・八木沢荘六の控え投手として、主にリリーフを担当していた。 1962年、作新学院は八木沢などの活躍もあって春の選抜に優勝、続く夏の甲子園予選北関東大会も勝ち上がり、春夏連覇に期待をかけられた。春の優勝後、加藤は野球部長の勧めで投法をオーバースローからアンダースローに転向している。 大会直前、エースの八木沢が赤痢にかかり、チームは急遽加藤を主戦投手として戦うこととなった。甲子園では1回戦で気仙沼高に苦戦したものの勝ち上がり、準決勝では林俊彦、木俣達彦の強力バッテリーを擁する中京商を2-0で完封。
井上 弘昭(いのうえ ひろあき、1944年5月21日 - )… 井上 弘昭(いのうえ ひろあき、1944年5月21日 - )は、大阪府大阪市西淀川区出身の元プロ野球選手(外野手)。
西川 克弘(にしかわ かつひろ、1944年5月19日- )は… 西川 克弘(にしかわ かつひろ、1944年5月19日- )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)である。 大阪府立吹田高校では、エースとして1962年夏の甲子園府予選準決勝に進むが、中塚政幸らのいたPL学園に延長10回逆転サヨナラ負けを喫し、甲子園出場を逸する。卒業後は関西大学へ進学。 同大学の硬式野球部では入部直後より活躍した。関西六大学野球リーグでは、1年生の1963年春季リーグでノーヒット・ノーランを達成するなど6勝を挙げ、チームも立命館大に次ぐ2位となる。秋季リーグでも5勝を挙げ、リーグ優勝に貢献。1年生の時点で11勝7敗の成績を残していた。 しかし、この年(1963年)の秋季リーグ中、西川と内野手の雑賀幸男が広島カープと秘密裏に契約していた事が発覚。
高山 忠克(たかやま ただかつ、1944年5月18日 - )… 高山 忠克(たかやま ただかつ、1944年5月18日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(外野手)。 作新学院高校への在学中は「4番・中堅手」で、1学年先輩に外野手の島野育夫、同期生に八木沢荘六・加藤斌の両投手と遊撃手の中野孝征がいた。 2年時(1961年)と3年時(1962年)の春に選抜高等学校野球大会へ出場。3年時の第34回大会では、エース八木沢の下で優勝を経験した。チームは夏の第44回全国高等学校野球選手権大会にも出場したが、大会中に八木沢が赤痢を発症した影響で隔離療養を余儀なくされたため、控え投手の加藤が先発に回った。加藤が中京商業との準決勝で林俊彦と投げ合った末に完封勝利を収めると、チームは久留米商業との決勝で伊藤久敏を相手に1対0で勝利。
石田 逸男(いしだ いつお、1944年5月14日 - )は、… 石田 逸男(いしだ いつお、1944年5月14日 - )は、青森県出身の元プロ野球選手。 青森商業高校から1963年に西鉄ライオンズへ入団。シュートボールを武器とした。1967年に引退。
倍賞 明(ばいしょう あきら、1944年5月11日 - 20… 倍賞 明(ばいしょう あきら、1944年5月11日 - 2019年1月22日)は、東京都出身の元アマチュア野球選手。ポジションは一塁手。5人兄弟姉妹の長男で長姉は倍賞節子。女優の倍賞千恵子は姉、倍賞美津子は妹。弟は倍賞鉄夫。 日本大学第三高等学校では1962年、井上治男(早大-日本石油)、豊永邦男の両エースを擁し、春夏の甲子園に一塁手、三番打者として連続出場。春の選抜では準決勝に進み、中京商の林俊彦の好投に苦しめられるが1-0で9回裏サヨナラ勝ち。決勝では作新学院との接戦になるが、八木沢荘六を打ち崩せず0-1で敗退、準優勝にとどまる。同年夏の選手権は準々決勝に進むが、村上公康のいた西条高に敗れる。
松谷 英司(まつたに えいじ、1944年5月7日 - )は、… 松谷 英司(まつたに えいじ、1944年5月7日 - )は、北海道浦河郡浦河町出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 静内高1年の秋に北海高に転校。エースとして1962年の第34回選抜高等学校野球大会と第44回全国高等学校野球選手権大会に連続出場し、春は1回戦で御所工に敗れる。夏の予選では室蘭栄戦で完全試合を達成。本大会では準々決勝に進出するが、久留米商との試合中に足を骨折し敗退。高校同期に中村之保がいる。 1963年に東映フライヤーズに入団。1965年には完投勝利をあげるが、その後は登板機会に恵まれず1967年限りで引退。
村上 雅則(むらかみ まさのり、1944年5月6日 - )は… 村上 雅則(むらかみ まさのり、1944年5月6日 - )は、山梨県出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者。
橋本 勝隆(はしもと かつたか、1944年5月5日 - )は… 橋本 勝隆(はしもと かつたか、1944年5月5日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(投手)。
高橋 善正(たかはし よしまさ、1944年5月5日 - )は… 高橋 善正(たかはし よしまさ、1944年5月5日 - )は、高知県高岡郡窪川町(現:四万十町)出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ、プロ野球解説者・評論家。
七森 由康(ななもり よしやす、1944年4月26日- )は… 七森 由康(ななもり よしやす、1944年4月26日- )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手/左投げ左打ち)である。
切通 猛(きりとおし たけし、1944年4月21日 - 20… 切通 猛(きりとおし たけし、1944年4月21日 - 2015年6月15日)は、兵庫県姫路市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ。 姫路南高では明治大学時代に杉下茂とバッテリーを組んだ安藤邦夫監督の指導を受け、3年次の1963年に4番・左翼手として夏の甲子園兵庫大会決勝に進出するが、市西宮高に5-6で惜敗し甲子園出場を逸する。2年後輩の黒田正宏は、切通が凄い筋肉で打球をポンポン飛ばしていたのを見て、一流になるにはあのぐらいの筋力がないといけないのかと思い、足腰を徹底的に鍛えた。切通は黒田に「何でもええから走っとけ」とアドバイスし、黒田が野球人生で最初に影響を受けた人になった。 高校卒業後は1964年に芝浦工業大学へ進学し、田部輝男監督の指導を受ける。
溜池 敏隆(ためいけ としたか、1944年4月18日 - )… 溜池 敏隆(ためいけ としたか、1944年4月18日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。主なポジションは三塁手。
雑賀 幸男(さいが ゆきお、1944年4月7日- )は、和歌… 雑賀 幸男(さいが ゆきお、1944年4月7日- )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(内野手/外野手・右投右打)である。
林 俊宏(はやし としひろ、本名:林 俊彦(はやし としひこ… 林 俊宏(はやし としひろ、本名:林 俊彦(はやし としひこ)、1944年4月6日 - )は、愛知県出身の元プロ野球選手(内野手、投手)・コーチ。
佐野 嘉幸(さの よしゆき、1944年4月1日 - )は、山… 佐野 嘉幸(さの よしゆき、1944年4月1日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。
島野 育夫(しまの いくお、1944年3月30日 - 200… 島野 育夫(しまの いくお、1944年3月30日 - 2007年12月15日)は、栃木県宇都宮市出身のプロ野球選手(外野手)、コーチ、監督、野球解説者。 コーチ時代は相手の癖を盗む特技を生かし、 三宅博は著書で、センスを持ったクセ盗みの名人と記している。特に星野仙一との監督・コーチコンビでは中日ドラゴンズ・阪神タイガースで優勝を経験しており、低迷期の長かった阪神にあって、島野が在籍していた時期は最下位になったことは一度もなかった。 長男は元競輪選手で現在は柔道整復師の島野敦識。 作新学院高校時代の1961年、中堅手として1学年下の八木沢荘六、高山忠克らとともに第33回選抜高等学校野球大会に出場した。
伊能 正司(いのう まさし、1944年3月21日 - )は、… 伊能 正司(いのう まさし、1944年3月21日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
関根 知雄(せきね ともお、1944年3月12日 - )は、… 関根 知雄(せきね ともお、1944年3月12日 - )は、千葉県銚子市愛宕町出身の元プロ野球選手、(内野手)。 銚子商業高校では1961年、遊撃手、一番打者として夏の甲子園に出場。1回戦は矢島勝彦のいた法政一高を、延長12回、柴武利の夏の大会史上初のサヨナラ本塁打で降す。しかし2回戦では、この大会に優勝した浪商の尾崎行雄に抑えられ、1-2で惜敗。チームメートに控え内野手の田中達彦がいた。 卒業後は日本ビールに進む。1962年の都市対抗に出場し、1回戦では電電近畿と対決。日本ビールは小川健太郎(立正佼成会から補強)から五代友和、角谷隆に継投、電電近畿はエース永易将之が好投して共に無得点のまま進む。
山本 重政(やまもと しげまさ、1944年3月1日 - )は… 山本 重政(やまもと しげまさ、1944年3月1日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。
長池 徳士(ながいけ あつし、本名:長池 徳二〈ながいけ と… 長池 徳士(ながいけ あつし、本名:長池 徳二〈ながいけ とくじ〉、1944年2月21日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(外野手・指名打者、右投右打)・コーチ、解説者・評論家。1979年に登録名を本名から変更している。 現役時代は阪急ブレーブス一筋で14シーズンにわたりプレーしたことから、不動の4番打者「ミスターブレーブス」として親しまれた。1967年から1975年にかけて阪急の不動の四番打者を務め、通算338本塁打は現在も球団記録である。本塁打王に3回輝き、9年連続で25本塁打以上を記録するなど、球界を代表する「右の大砲」として活躍した。パ・リーグ初のベストナイン(指名打者部門)を受賞している。
斎藤 勝博(さいとう まさひろ、1944年2月17日 - 2… 斎藤 勝博(さいとう まさひろ、1944年2月17日 - 2011年1月18日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(捕手)。
井手 峻(いで たかし、1944年2月13日 - )は、東京… 井手 峻(いで たかし、1944年2月13日 - )は、東京都新宿区出身(佐賀県東松浦郡北波多村 (現:唐津市北波多)生まれ)の元プロ野球選手(投手, 外野手)・コーチ・監督、解説者、元中日球団代表兼連盟担当(会社役員)。 新治伸治(1965年大洋入団)に次ぐ史上2人目の東大野球部出身プロ野球選手で、ドラフト制度発足後としては東大初の指名選手となった。公式戦出場試合数は、過去の東大出身プロ野球選手の中では最も多かった。 父は脚本家の井手俊郎。 父・俊郎の実家は質屋を営んでいた。その家は「明治時代以降に炭鉱町として発展した北波多村の繁栄を伝える重要な町家建築」として国の登録有形文化財に登録され、現在もギャラリーとして残っている。
山田 勝国(やまだ かつくに、1944年2月9日 - )は、… 山田 勝国(やまだ かつくに、1944年2月9日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 博多工業高校では春季九州大会県予選南部決勝に進むが、福岡工に惜敗。東洋高圧大牟田を経て、1963年に近鉄バファローズへ入団。 翌1964年から一軍に定着。主に代打や守備要員として起用されるが、その後は徐々に力を付け、控え外野手として出場機会を増やす。1969年には開幕から中堅手、二番打者として起用され、俊足のチャンスメーカーとして65試合に先発出場した。翌年も13本塁打を放つなど活躍を続けるが、打率が今一つ上がらず、1972年に溜池敏隆とのトレードでヤクルトアトムズへ移籍。ここではあまり出場機会がなく、同年限りで引退した。
柴田 勲 (しばた いさお、1944年2月8日 - )は、神… 柴田 勲 (しばた いさお、1944年2月8日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)、野球解説者。日本プロ野球名球会副理事長。リードオフマンとして読売ジャイアンツのV9に貢献した。血液型はA型。
中島 節男(なかじま せつお、1944年1月22日 - 20… 中島 節男(なかじま せつお、1944年1月22日 - 2022年4月24日[要出典])は、奈良県香芝市出身のプロ野球選手。右投右打。 高田高校から1962年に国鉄スワローズに入団。外野手から捕手、さらには一塁手とポジションを転々とした。1965年と翌1966年に一軍の試合に通算79試合に出場したが、この年限りで退団した。 その後は王寺町でカレー店を開店した。
池辺 巌(いけべ いわお、1944年1月18日 - )は、長… 池辺 巌(いけべ いわお、1944年1月18日 - )は、長崎県長崎市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ、野球解説者。日本プロ野球OBクラブ(全国野球振興会)会員。 1979年から1986年までは池辺 豪則(いけべ たけのり)、1987年以降は池辺 巖(いけべ いわお)の登録名で活動していた。日本プロ野球OBクラブまたは日本学生野球協会の資料では、池邉 巖。このほか、池邉 巌、池邊 巌、池邊 巖と表記される場合もある。 愛称は、ガンちゃん。 1972年に日本プロ野球で制定されたダイヤモンドグラブ賞(のちにゴールデングラブ賞へ改称)第1号受賞者の一人である(パシフィック・リーグ、外野手部門)。
高畠 導宏(たかばたけ みちひろ、1944年1月18日 - … 高畠 導宏(たかばたけ みちひろ、1944年1月18日 - 2004年7月1日)は、岡山県岡山市出身(倉敷市生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。
松原 誠(まつばら まこと、1944年1月13日 - )は、… 松原 誠(まつばら まこと、1944年1月13日 - )は、埼玉県入間郡飯能町(現:飯能市)出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、捕手)・コーチ、解説者。 6人兄弟の末っ子に生まれ、飯能高校では捕手として活躍。体は大きいが非力で鈍足、特技は強肩と変化球が打てることであった。3年次の1961年に夏の甲子園県予選で準決勝に進出するが、熊谷商工に敗退。 1962年に大洋ホエールズへ捕手として入団。1年目は4月15日の中日戦(川崎)で9回裏に島野雅亘の代打で初出場し、5月8日の中日戦(中日)に8番打者・捕手として初先発出場を果たすと、7回表に板東英二から初安打を放つ。周囲からプロでは通用しないと言われ、初安打を打った時は嬉しくて母に手紙を書き、母は死ぬまでその手紙を持っていた。
浜口 春好(はまぐち はるよし、1944年1月11日 - )… 浜口 春好(はまぐち はるよし、1944年1月11日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 徳島海南高校では1961年夏の甲子園予選南四国大会決勝に進むが、高知商のエース高橋善正に抑えられ9回裏0-1xでサヨナラ負け、甲子園出場を逸する。 卒業後は電電近畿へ入社。1965年の都市対抗に三塁手、四番打者として出場。小弓場保(日本生命から補強)の好投もあって勝ち進み、決勝で住友金属を降し電電公社の野球部として初優勝を飾る。この時のチームメートに井上弘昭がいた。この大会では優秀選手に選ばれ、大会後の全日本代表中南米遠征チームにも選出された。 1965年プロ野球ドラフト会議で東映フライヤーズに3位で指名され入団。
赤井 喜代次(あかい きよじ、1944年1月8日 - )は、… 赤井 喜代次(あかい きよじ、1944年1月8日 - )は、三重県伊勢市出身の元プロ野球選手。
山中 巽(やまなか たつみ、1944年1月4日 - )は、日… 山中 巽(やまなか たつみ、1944年1月4日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。
国貞 泰汎(くにさだ やすひろ、1944年1月1日 - )は… 国貞 泰汎(くにさだ やすひろ、1944年1月1日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)。愛称は「ゴリ」。
近藤 徹(こんどう とおる、1944年 - )は、愛知県出身… 近藤 徹(こんどう とおる、1944年 - )は、愛知県出身の元アマチュア野球選手(内野手)。 岡崎北高等学校では3年生の時に、1962年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、豊田西高に敗退。高校卒業後に法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中2回優勝。三番打者、三塁手として活躍し、1966年秋季リーグではベストナイン(三塁手)に選出されている。 大学同期に二塁手の中村之保、投手の里見忠志がいる。同年の第二次ドラフトでサンケイアトムズに4位指名されるが入団を拒否。 卒業後は社会人野球の日本コロムビアに進む。1967年の都市対抗に四番打者として出場、エース近藤重雄を擁し準々決勝に進出する。この試合の先発を任された永淵洋三(東芝から補強)が好投するが、6回に逆転を許し電電東京に惜敗。
諏訪俊彦(すわ としひこ、1944年 - )は岐阜県出身の元… 諏訪俊彦(すわ としひこ、1944年 - )は岐阜県出身の元高校野球指導者及び商業科教諭。
佐野 真樹夫(さの まきお、1943年12月20日 - )は… 佐野 真樹夫(さの まきお、1943年12月20日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。
新宅 洋志(しんたく ひろし、1943年12月19日 - )… 新宅 洋志(しんたく ひろし、1943年12月19日 - )は、島根県出身の元プロ野球選手(捕手)。
池永 浩之(いけなが ひろゆき、1943年12月10日 - … 池永 浩之(いけなが ひろゆき、1943年12月10日 - )は、大分県大分市出身の元プロ野球選手。 大分商業高校から1962年に西鉄ライオンズへ入団。1966年に引退。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
相羽 欣厚(あいば よしひろ、1943年12月8日 - 19… 相羽 欣厚(あいば よしひろ、1943年12月8日 - 1988年1月29日)は愛知県大府市出身のプロ野球選手(外野手)。