スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
森 唯斗(もり ゆいと、1992年1月8日 - )は、徳島県… 森 唯斗(もり ゆいと、1992年1月8日 - )は、徳島県海部郡海南町(現:海陽町)出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。右投右打。 浅川小学校1年生の時に外野手として野球を始め、4年生の時に投手になった。6年生の時には徳島県の少年野球の王者を決める「こども野球のつどい」で優勝。決勝では杉本裕太郎と対戦している。海陽中学校では軟式野球部に所属していた。 徳島県立海部高校では1年生の時にベンチ入りし、2年生の秋には背番号1をつけていた。3年生時の夏の甲子園・徳島大会では2試合に救援登板し、無失点だったが、チームは3回戦で敗れ、甲子園出場経験はない。 高校卒業後、当時クラブチームであった三菱自動車倉敷オーシャンズに入部。
根東 裕隆(こんどう ひろたか、1982年〈昭和57年〉6月… 根東 裕隆(こんどう ひろたか、1982年〈昭和57年〉6月29日 - )は、日本のバスケットボール選手。徳島県海部郡牟岐町出身。ポジションはガード。中国・四国・九州リーグ・徳島ガンバロウズオルト所属。 徳島県立海南高等学校から天理大学を経て2005年、松下電器(現パナソニック)に入社。 2010年、パナソニックを退社し、bjリーグトライアウトを受験。bjリーグドラフト会議全体3位指名で新潟アルビレックスBBに入団し、2012-13シーズンまでの3シーズン在籍。 2013年オフ、NBLに参入する熊本ヴォルターズへ移籍。 2014年9月、新潟アルビレックスBBに練習生として復帰。10月に選手契約を締結。
杉口 秀樹(すぎぐち ひでき、1979年8月11日 - )は… 杉口 秀樹(すぎぐち ひでき、1979年8月11日 - )は、日本のスタントマン。徳島県牟岐町出身。所属はフリー。NPO法人日本エクストリームマーシャルアーツ協会代表理事。 XMA-JAPAN代表。スタジオBOSなどで講師を務める。総合エンターテイメントユニット紅音-akane-メンバー。海陽町立海南中学校、徳島県立海南高等学校卒業。血液型はO型。 徳島県牟岐町で生まれ、中学2年生時に海南町に転居。 小学2年生時に親戚の影響で器械体操を始め、スタントマンを志す。大学卒業後、2002年にジャパンアクションエンタープライズ養成部に入り、卒業後は同事務所に所属しスタント活動を開始。デビュー作は『戦国無双』のモーションキャプチャー。
川島 郭志(かわしま ひろし、1970年3月27日 - )は… 川島 郭志(かわしま ひろし、1970年3月27日 - )は、日本の元プロボクサー、現在はプロモーター。徳島県海部郡海部町(現・海陽町)出身。元WBC世界スーパーフライ級王者。 現在は東京都大田区北千束で川島ボクシングジムを開設し、後進の育成に力を注いでいる。 デビュー当時、鬼塚勝也・ピューマ渡久地らと共に、平成三羽烏と呼ばれ注目されたが、新人時代に挫折したことで、他の二人に大きく遅れをとった。 プロデビュー当初は米倉健司会長の方針により、プロ向きのインファイトに近いスタイルであったが(特にジムの先輩でもある大橋秀行にファイトスタイルは酷似していた)徐々にアウトボクサーとしてのスタイルを確立していった。
西谷 徳行(にしたに のりゆき、1965年2月11日 - )… 西谷 徳行(にしたに のりゆき、1965年2月11日 - )は徳島県海部郡海南町出身のライフル射撃選手。2000年シドニーオリンピック代表。海南中学校、海南高等学校出身。
浜内 千波(はまうち ちなみ、1955年1月1日 - )は、… 浜内 千波(はまうち ちなみ、1955年1月1日 - )は、日本の料理研究家。徳島県海部郡海陽町(旧海南町)出身。大阪成蹊女子短期大学(現・大阪成蹊短期大学)栄養科卒業。 徳島県の徳島県立海南高等学校を経て、大阪成蹊女子短期大学(現・大阪成蹊短期大学)栄養科を卒業。大阪の証券会社にて3年間勤務。1978年、23歳の時に単身、大阪から上京。岡松料理研究所へ入所し、岡松喜与子先生の弟子となる。1980年に東京都中野区中野坂上に「ファミリークッキングスクール」を開校する。1990年に株式会社ファミリークッキングスクールの社長に就任。2006年にキッチン用品「Chinami」のブランドを立ち上げる。現在ではテレビや雑誌などでも活躍している。
大石 友好(おおいし ともよし、1954年1月15日 - )… 大石 友好(おおいし ともよし、1954年1月15日 - )は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 海南高校では尾崎健夫とバッテリーを組み、2年次の1971年に春季徳島大会で優勝するが、代表決定戦で徳島商(選抜代表校)に敗れて四国大会には進めなかった。同年夏も県予選準々決勝で池田高に敗れ、甲子園には出場できなかった。他の高校同期に北川裕司、後にセ・リーグ審判となる谷博、同志社大学から日本生命に進んだ花野巧がいた。高校卒業後の1973年、当初志望していた関西大学が学生運動の影響で野球部員としての募集を行っておらず、日本生命からのオファーもあったものの大学進学を希望したため先輩のつてを頼って北川と共に神奈川大学へ進学。
尾崎 健夫(おざき たてお、1954年1月9日 - )は、日… 尾崎 健夫(おざき たてお、1954年1月9日 - )は、日本のプロゴルファーである。 ジャンボ尾崎こと尾崎将司は兄で、ジョー尾崎こと尾崎直道は弟である。徳島県海陽町出身で海南高校野球部のエースとして活躍した。ドライバーショットがジェット機のように強烈なことから、アメリカの下部ツアー転戦時に若手プロらが「ジェット」と称して以来、ジェット、あるいは姓を続けてジェット尾崎、と愛称されている。 1998年から事実婚関係にあった女優の坂口良子と2012年8月10日、宍喰温泉ホテルリビエラで挙式し、その模様はTBS「ぴったんこカン・カン」で放映されたが、坂口とは翌2013年3月27日に死別。坂口良子との間に子供はなく、坂口の連れ子(坂口杏里とその兄)とは養子縁組をしておらず法的な親子関係はない。
花野 巧(はなの たくみ、1953年9月21日 - )は、元… 花野 巧(はなの たくみ、1953年9月21日 - )は、元アマチュア野球選手である。ポジションは内野手。 海南高校では尾崎健夫、大石友好のバッテリーを擁し、1971年春季四国大会県予選で優勝するが、県代表決定戦で徳島商(選抜代表校)に敗れ四国大会には進めなかった。同年夏も県予選準々決勝で池田高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 同志社大学商学部に入学。同期のエース田尾安志を擁し、関西六大学野球リーグでは在学中3回優勝。1973年の全日本大学野球選手権大会は準決勝に進むが、中大の田村政雄に完封負けを喫する。同年の明治神宮野球大会は決勝で駒大に敗れ準優勝。1974年の明治神宮野球大会もベスト4に喰い込む。
谷 博(たに ひろし、1953年6月20日 - )は元プロ野… 谷 博(たに ひろし、1953年6月20日 - )は元プロ野球審判員。徳島県出身。審判員袖番号は19 (1988年初採用から。谷は関西審判部で袖番号が初採用された年度の中で最古参であった)。 徳島県立海南高等学校では野球部で尾崎健夫、大石友好と同期。京都産業大学を経て1976年にセントラル・リーグ審判部入局。井野修元審判とは同期入局である(井野は公募で合格、谷はアマ時代の経験を買われて入局)。入局1年目の4月25日の阪神-大洋戦(甲子園)での左翼外審で一軍試合出場を果たす。 バース・掛布雅之・岡田彰布の3人によるバックスクリーン3連発があった1985年の巨人対阪神戦では一塁塁審をしており、その18年後の平成の3連発では二塁塁審をしていた。
北川 裕司(きたがわ ゆうじ、1953年〈昭和28年〉6月1… 北川 裕司(きたがわ ゆうじ、1953年〈昭和28年〉6月14日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 海南高校では尾崎健夫、大石友好のバッテリーを擁し、甲子園には出場できなかったが強豪校として知られた。1971年(昭和46年)春季徳島大会で優勝するが、代表決定戦で徳島商(選抜代表校)に敗れ、四国大会には進めなかった。他の高校同期にセントラル・リーグ審判の谷博がいた。卒業後は大石とともに神奈川大学へ進学。神奈川五大学野球リーグでは在学中5度優勝。最優秀選手、ベストナイン1回。 1975年プロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから5位指名され入団。1年目の1976年から一軍に上がり、6月には遊撃手として2試合に先発出場を果たす。
前田 恵(まえだ めぐむ、1951年3月28日 - )は、日… 前田 恵(まえだ めぐむ、1951年3月28日 - )は、日本の政治家。元徳島県海陽町長(1期)。 徳島県立海南高等学校卒業。1969年に旧海部町職員となり、教育次長・税務保険課長・住民福祉課長を歴任。1999年から2006年まで同町の教育長を務めた。 2014年4月23日の海陽町長選挙で無投票で当選した。 2018年の町長選で前町議の三浦茂貴との一騎打ちに敗れ、落選。
杣友 厚(そまとも あつし、1949年6月10日 - )は、… 杣友 厚(そまとも あつし、1949年6月10日 - )は、元バスケットボール選手である。ポジションはフォワード。185cm。 徳島海南高校から日本大学を経て、住友金属に入社。 全日本にも選出され、1972年ミュンヘンオリンピックにも出場した。
尾崎 将司(おざき まさし、1947年1月24日 - 202… 尾崎 将司(おざき まさし、1947年1月24日 - 2025年12月23日)は、日本のプロゴルファー、元プロ野球選手。 本名およびプロ野球時代の登録名は尾崎 正司(読みは同じ)。徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)出身。 ジャンボ尾崎の別名でも知られ、公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記された。通称「ジャンボ」。この通称はデビュー間もない1970年5月にスポーツニッポンの紙面で紹介された際、大柄な体格から放たれるドライバーショットを当時日本でも就航したボーイング747(ジャンボジェット)になぞらえてつけられた。 世界ランキングの自己最高位は1997年ブリヂストンオープン優勝後の5位である。
羽里 功(はり いさお、1944年7月26日 - )は、徳島… 羽里 功(はり いさお、1944年7月26日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手である。現役時代のポジションは、投手。 徳島県立海南高校では2年生時に、1961年秋季四国大会県予選決勝に進むが徳島商に敗退。翌1962年夏も県予選準々決勝で阿波高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 1963年に広島カープへ入団。2年目の1964年に初登板。翌1965年には7月14日に大洋ホエールズから初勝利、同月25日に初先発を果たす。同年のジュニアオールスターにも選出された。しかしこれ以降は白星に恵まれず、1968年暮れ、金銭トレードで西鉄ライオンズへ移籍。ここでもそこそこ登板機会はあったが、1勝もできず、翌1969年のシーズンオフに引退した。
浜口 春好(はまぐち はるよし、1944年1月11日 - )… 浜口 春好(はまぐち はるよし、1944年1月11日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 徳島海南高校では1961年夏の甲子園予選南四国大会決勝に進むが、高知商のエース高橋善正に抑えられ9回裏0-1xでサヨナラ負け、甲子園出場を逸する。 卒業後は電電近畿へ入社。1965年の都市対抗に三塁手、四番打者として出場。小弓場保(日本生命から補強)の好投もあって勝ち進み、決勝で住友金属を降し電電公社の野球部として初優勝を飾る。この時のチームメートに井上弘昭がいた。この大会では優秀選手に選ばれ、大会後の全日本代表中南米遠征チームにも選出された。 1965年プロ野球ドラフト会議で東映フライヤーズに3位で指名され入団。
富田 孝佳(とみた たかよし、1940年10月30日 - 2… 富田 孝佳(とみた たかよし、1940年10月30日 - 2015年9月2日)は、徳島県出身のプロ野球選手。 海南高校ではエースとして活躍。1957年秋季四国大会県予選決勝に進み、徳島商の板東英二と投げ合うが敗退。1959年に大洋ホエールズへ外野手として入団。1960年の最終戦で広島を相手に右翼手、八番打者として先発出場を果たすが、その後は出場機会に恵まれず1961年限りで引退。
上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 20… 上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 - 2017年7月1日)は、徳島県海部郡宍喰町(現:海陽町)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 鮮魚店を営む家に5人兄弟の長男として生まれ、叔父は徳島県弁護士会の副会長であった。 上田の徳島の実家のすぐ近くには、高校の後輩となる元西鉄選手でプロゴルファーの尾崎将司、その実弟でゴルファーの健夫・直道の実家があった。 海南高校時代から捕手で、3年次の1954年には夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、撫養高に惜敗。学業成績も優秀で、高校時代は野球の練習と生徒会の活動を同時に行いつつ、毎朝しっかりと勉強していたため、睡眠時間は4時間程度であったという。
後藤 善猛(ごとう ぜんみょう、1926年8月18日 - 2… 後藤 善猛(ごとう ぜんみょう、1926年8月18日 - 2008年10月18日)は、日本の真言宗の僧侶。徳島県阿南市にある真言宗大覚寺派・梅谷寺住職。 徳島県出身。京都大学大学院文学研究科(哲学)修了。鳴門工業高等学校、徳島県立脇町高等学校、徳島県立城南高等学校校長を歴任。その後高野山に登り、大覚寺教学研究室審議委員、洛南高等学校・附属中学校校長。1997年に密教教化賞を受賞。