スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
鈴木 康大(すずき やすひろ、1985年10月6日 - )は… 鈴木 康大(すずき やすひろ、1985年10月6日 - )は、千葉県出身のカヌー選手。身長180cm。 鈴木は2020年東京オリンピックのカヤックフォア(4人制)日本代表候補となっていたが、このままでは自らの出場が危ういと判断。2017年9月11日に石川県小松市で行われた日本カヌースプリント選手権大会にて、代表入りを競う相手である小松正治の飲料用ボトル内に禁止薬物の筋肉増強剤メタンジエノンを混入し、ドーピングによる失格を図った。小松は同日のカヤックシングル200メートルで1位になったが、ドーピング検査で陽性反応を示し、日本アンチ・ドーピング機構より暫定的に資格停止処分を受けた。なお、鈴木は同種目で5位だった。
澤井 良輔(さわい りょうすけ、1978年3月9日 - )は… 澤井 良輔(さわい りょうすけ、1978年3月9日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(内野手)。 小学生の頃は運動が苦手だったが、仲間はずれになりたくないとの理由で4年から野球を始める。元々は右打ちだったが、中学3年の時に左打ちを試したところ右打ちより飛んだという。憧れだった篠塚利夫と同じ銚子商業高に進学し主軸として大活躍。3年生時に春夏連続甲子園出場。第67回選抜では準優勝、第77回全国選手権は3回戦敗退。そのパワーとスター性はプロ級と評判になり、「西の福留・東の澤井」とまで言われた。福留孝介とは交友関係があったが、2人をライバルとして扱うマスコミには不快感を覚えていた。 1995年度ドラフト会議では福留のハズレ1位としてロッテから指名を受けた。
石毛 克幸(いしげ かつゆき、1977年1月15日 - )は… 石毛 克幸(いしげ かつゆき、1977年1月15日 - )は、競輪選手。日本競輪選手会千葉支部に在籍。 師匠は小林裕司(日本競輪学校第71期生)。ホームバンクは千葉競輪場。 千葉県銚子市出身。千葉県立銚子商業高等学校では野球部に在籍した。 2000年4月2日、日本競輪学校第84期生として、小田原競輪場でデビューし1着、及び同開催の完全優勝を記録。同年12月29日、立川競輪場で行われたルーキーチャンピオンレースでは、同期ナンバーワンの渡部哲男(2着)らを破って優勝した。 2002年、ヤンググランプリ(立川)3着。 2005年、ふるさとダービー(弥彦競輪場)決勝戦において、最終バックストレッチからの捲りを決め優勝。
八木 政義(やぎ まさよし、1969年4月14日 - )は、… 八木 政義(やぎ まさよし、1969年4月14日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(投手)。 銚子商業高では1年春からベンチ入り、3年春は県大会で2試合連続14奪三振、ベスト4。3年夏は5回戦で優勝した習志野高に敗れた。住友金属鹿島に内定していたが1987年のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスから3位指名を受け入団。武器はカーブ、フォーク。 1年目の1988年に2試合に登板しただけで、その後は一軍登板がなく1991年に現役を引退。 背番号51は、入団前は福良淳一(八木入団時に1に変更)が着用し、八木の引退後はイチローに引き継がれた。
片平 哲也(かたひら てつや、1967年10月3日 - )は… 片平 哲也(かたひら てつや、1967年10月3日 - )は、福島県会津若松市 出身の元プロ野球選手(外野手、投手)。 銚子商業高では、3年次の1985年に同期の大川隆と投の二本柱を組み、春は関東大会で全イニングを投げてベスト4。続けて夏の甲子園に出場する。本戦の1回戦では、自身が先発を務め、大川は1番・中堅手として出場するが、この大会で準優勝した宇部商業高の田上昌徳(新日本製鐵光)に抑えられ敗退した。真上から投げ下ろす速球は威力があり、前評判は高かったが制球難が災いした。またこの試合で着用したキャップのサイズが全く合わず、投球のたびにマウンドに落下。これを見かねた球審の西大立目永から「ゴムひもでも付けときなさい!」と叱責される場面もあった。
大川 隆(おおかわ たかし、1967年8月2日 - )は、茨… 大川 隆(おおかわ たかし、1967年8月2日 - )は、茨城県行方郡麻生町(現:行方市)出身 の元プロ野球選手(外野手、内野手、投手)。本名は「大川 隆哉」(読み方は「おおかわ りゅうさい」)。 銚子商業高では、3年次の1985年に同期の片平哲也と投の二本柱を組み、同年の夏の選手権に出場する。千葉県大会の決勝では、先発を務め7回を無失点で片平に繋いで市立柏高に圧勝した。本大会の1回戦では、片平が先発を務め、自身は1番・中堅手として出場、途中から救援登板したがこの大会で準優勝した宇部商業高の田上昌徳(新日本製鐵光)に抑えられ敗退した。 1985年のプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから投手として3位指名を受け入団する。
6代 木村 玉治郎(ろくだい きむら たまじろう、本名:武田… 6代 木村 玉治郎(ろくだい きむら たまじろう、本名:武田 雅史(たけだ まさし)、1960年(昭和35年)12月27日 - )は、大相撲の元三役格行司である。立浪部屋所属。血液型はO型。 福島県福島市出身。千葉県船橋市で育ち、小学生時代は野球(V9と当時の甲子園常連・千葉県立銚子商業高等学校)やサッカーに親しみ、相撲にはあまり興味はなかったが、6年生の時の九州場所をたまたまテレビ観戦した際、4代木村玉治郎(のちの27代木村庄之助)の姿を見て以来、4代玉治郎にあこがれるようになった。 その後、4代玉治郎が立行司に昇格し、23代式守伊之助を襲名した際には、わざわざ蔵前国技館(当時)まで足を運んでいる。
高岡 希一(たかおか きいち、1960年11月19日- )は… 高岡 希一(たかおか きいち、1960年11月19日- )は、千葉県銚子市出身のアニメーター・アニメーション演出家である。 演出家としては、「たかおか きいち」という別名義で表記される場合もある。 千葉県立銚子商業高等学校を卒業後、友人の勧誘を受けてスタジオぴえろに入社。『うる星やつら』の動画担当、『スプーンおばさん』などの動画チェッカーを経て、『魔法のスターマジカルエミ』にて初めて作画監督を務めた。 その後は、『魔法のアイドルパステルユーミ』『シティーハンター』などでも作画監督を務めている。 1987年頃にスタジオぴえろを退社し、以降は作画スタジオ「うさぎ屋」の代表者などを経て、2013年現在はフリーランスの立場でアニメーションの作画や演出に関わっているとの事である。
尾上 旭(おのうえ あきら、1959年4月22日 - 202… 尾上 旭(おのうえ あきら、1959年4月22日 - 2022年11月20日)は、千葉県旭市出身のプロ野球選手(内野手)。 小学4年から野球を始め、飯岡中学時代に投手から内野手に転向。 銚子商業高では1976年に中堅手として夏の甲子園に出場、準々決勝に進むが桜美林高に敗れる。チームメートに1年先輩の宇野勝がいた。1977年には遊撃手として春の選抜に出場、2回戦で智辯学園高の山口哲治に抑えられ敗退 。 卒業後は中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは1979年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で早大を降し優勝する。1981年の日米大学野球選手権日本代表に選出された。リーグ通算108試合出場、394打数105安打、打率.266、14本塁打、43打点。
石田 進(いしだ すすむ、1958年〈昭和33年〉9月2日 … 石田 進(いしだ すすむ、1958年〈昭和33年〉9月2日 - )は、日本の政治家。茨城県神栖市長(2期)。元茨城県議会議員(3期)、元神栖市議会議員(1期)、元波崎町議会議員(1期)。 茨城県波崎町(現・神栖市)出身。波崎町立波崎第一中学校、千葉県立銚子商業高等学校、東海大学政治経済学部卒業。大学4年時に学園祭実行委員長を務めた。 2003年に波崎町議会議員に当選。2005年(平成17年)8月1日、波崎町が神栖町に編入されて神栖市が誕生。在任特例により神栖市議会議員となる。 2006年12月の茨城県議会議員選挙に鹿島郡選挙区から無所属で立候補し初当選。2007年(平成19年)1月8日に就任。2010年(平成22年)の県議選は自由民主党公認で立候補し再選。
宇野 勝(うの まさる、1958年5月30日 - )は、千葉… 宇野 勝(うの まさる、1958年5月30日 - )は、千葉県八日市場市(現:匝瑳市)出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)・コーチ・野球解説者・YouTuber。愛称はうーやん。 NPBにおける、史上初(現在まで唯一)の遊撃手としての本塁打王獲得者。 銚子商業高校では遊撃手、3番打者として活躍。1975年秋季関東大会県予選決勝に進むが、習志野高の鵜野稔に完封を喫し春の選抜出場を逸する。1976年の夏の甲子園に出場。エース佐藤斉(住金鹿島)の投打にわたる活躍もあり準々決勝に進むが、この大会に優勝した桜美林高の松本吉啓(明大 - 明治生命)に抑えられ敗退。2学年上に土屋正勝、1学年上に篠塚利夫、1学年下にプロで同僚となる中堅手の尾上旭がいた。
篠塚 和典(しのづか かずのり、本名・旧登録名:篠塚 利夫〈… 篠塚 和典(しのづか かずのり、本名・旧登録名:篠塚 利夫〈しのづか としお〉、1957年7月16日 - )は、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、野球解説者・野球評論家。 愛称は「シノ」「シノさん」。 銚子商業校2年次に3年生エースの土屋正勝を擁し、春夏の甲子園大会では「4番・三塁手」として連続出場。春は準々決勝で報徳学園に1-2で惜敗。夏は全試合勝ち進み、8月19日の決勝で防府商を7-0で降し同校初の夏の大会優勝を飾った。この大会から金属バットが導入されたが篠塚はプロ野球の道に進んだ時に適応できるように木製バットで打席に入り、2本塁打を放った。1学年後輩に宇野勝がいた。
宮内 英雄(みやうち ひでお、1957年 - )は、元競輪選… 宮内 英雄(みやうち ひでお、1957年 - )は、元競輪選手。日本競輪選手会神奈川支部に在籍していた。 千葉県立銚子商業高等学校野球部主将として、1974年に開催された第56回全国高等学校野球選手権大会に出場。同大会では選手宣誓も行った。1番・遊撃手として、同大会の大会第11号本塁打も記録。そしてチームは、土屋正勝投手、篠塚利夫三塁手らを擁し優勝。自身は真紅の優勝旗を受け取った。 その後、社会人野球チームの三菱自動車川崎に進んだものの、わずか1年で退部。ここで野球とも縁を切り、その後、日本競輪学校第41期生となった。なお、同期には、井上茂徳、伊藤豊明らがいる。 1978年5月18日、川崎競輪場でデビュー(4着)。
土屋 正勝(つちや まさかつ、1956年11月6日 - )は… 土屋 正勝(つちや まさかつ、1956年11月6日 - )は、千葉県旭市出身の元プロ野球投手。 叔父は千葉県立銚子商業高等学校が1965年に木樽正明を擁して夏の甲子園で準優勝した際の左翼手で、その祝賀パレードを見たことが野球を始めるきっかけとなった。そのときの憧れから土屋も銚子商に進学し1973年春から4期連続で甲子園に出場を果たす。1年秋の県大会では木更津中央高の古屋英夫と投げ合うと、古屋は途中降板したが延長14回を投げて完投勝利で優勝。関東大会では準決勝で江川卓が先発した作新学院を相手に2番手で登板したが完封負け。2年春の選抜は控え投手として出場。1回戦で報徳学園に大敗するが、この試合でリリーフに立ち甲子園初登板。
岩井 美樹(いわい よしき、1955年4月6日 - )は、日… 岩井 美樹(いわい よしき、1955年4月6日 - )は、日本のアマチュア野球指導者、体育学者(国際武道大学教授)である。 1955年4月6日、千葉県銚子市出身。 1971年に千葉県立銚子商業高等学校に入学。銚子商時代には斎藤一之の指導を受け、3年生だった1973年の第55回全国高等学校野球選手権大会では六番・一塁手として出場。大会2回戦では江川卓擁する作新学院高等学校と対戦して、雨中の熱戦の末に延長戦で勝利した試合にフル出場した選手でもあった。 高校卒業と同時に東海大学に進学し、硬式野球部に入部。同期には遠藤一彦、石井昭男がいた。大学3年及び4年時には首都大学野球リーグ戦の2年連続春秋連覇を経験した。
岩井 美樹(いわい よしき、1955年4月6日 - )は、日… 岩井 美樹(いわい よしき、1955年4月6日 - )は、日本の体育学者(国際武道大学教授)、アマチュア野球指導者である。
根本 隆(ねもと たかし、1954年6月14日 - )は、千… 根本 隆(ねもと たかし、1954年6月14日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(投手)。大洋ホエールズ、西武ライオンズに所属した。引退後は西武の打撃投手、スコアラーを務める。 銚子商では1971年、2年の時にエースとして夏の甲子園に出場。1回戦で竹内広明投手を擁する深谷商、2回戦で鶴崎茂樹投手を擁する筑紫工を、いずれも延長10回サヨナラ勝ちで降し準々決勝に進むが、郡山高に9回サヨナラ負け。この大会の県予選準決勝(東関東大会県代表決定戦)では、勝浦高を相手にノーヒットノーランを記録。 秋の県大会準決勝では成東高の鈴木孝政と投げ合って完封勝利すると決勝も延長12回を完封して優勝。続く関東大会でも全3試合を投げ切って1失点で優勝に貢献した。
渡辺 進(わたなべ すすむ、1952年8月25日 - )は、… 渡辺 進(わたなべ すすむ、1952年8月25日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、コーチ。 銚子商業では1970年、四番打者、遊撃手として夏の甲子園予選東関東大会に進出。準決勝で鉾田一高の、後にプロで同僚となる梶間健一を打ち崩し、決勝ではエース鵜沢達雄を擁する成東高に9回サヨナラ勝ち。夏の甲子園に出場し、高知商を破って2回戦に進出するが、この大会に準優勝したPL学園の新美敏に完封負け。 1971年のドラフト4位でヤクルトアトムズに入団。 1976年には開幕から遊撃手として起用され、69試合に先発出場。その後も水谷新太郎、永尾泰憲とレギュラーを争う。 1978年の阪急ブレーブスとの日本シリーズは2試合に出場した。
田中 清隆(たなか きよたか、1951年12月16日 - )… 田中 清隆(たなか きよたか、1951年12月16日 - )は、千葉県銚子市出身の元騎手・元調教師。 調教師としての主な管理馬にシンコウウインディ、グルメフロンティア、レディパステル、ホエールキャプチャなどがいる。 舅は元騎手・調教師の今津福松。 銚子商業卒業後は銚子信用金庫に入社したが、小柄かつ敏捷であったことから、競馬好きの上司に騎手になることを勧められた。数々の厩舎へ入門願いの電話を掛けた末、中山・野平省三厩舎に入門を認められ、1971年から1974年まで候補生として4年間を過ごす。 1975年に騎手免許を取得し、師匠の野平省が前年に死去していたため、跡を継いでいた野平祐二厩舎からデビュー。
伊藤 邦雄(いとう くにお、1951年12月13日 - )は… 伊藤 邦雄(いとう くにお、1951年12月13日 - )は、日本の会計学者。学位は商学博士(一橋大学・論文博士・1996年)。一橋大学名誉教授。 一橋大学大学院商学研究科教授、中央大学専門職大学院戦略経営研究科特任教授、国立大学法人一橋大学理事、日本ベンチャー学会会長、日本インベスター・リレーションズ学会会長、一橋大学副学長、原子力損害賠償・廃炉等支援機構運営委員長、日本会計研究学会会長などを歴任。 経済産業省・東京証券取引所「DX銘柄」評価委員会委員長 経済産業省「コーポレート・ガバナンス・システム研究会」委員、内閣府「未来投資会議・構造改革徹底推進会合」委員、東京証券取引所「企業価値向上表彰制度委員会」委員長、経済産業省・東京証券取引所「攻めのIT経営銘柄」選定委員長、日本取締役協会「コーポレートガバナンス・オブ・ザ・イヤー」選考委員、経済産業省「トランジション・ファイナンス環境整備検討会」座長、TCFD(気候変動財務情報開示)コンソーシアム会長などを務める。
町田 公雄(まちだ きみお、1951年3月5日 - )は、千… 町田 公雄(まちだ きみお、1951年3月5日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(外野手)。 銚子商では1968年の春の甲子園に出場、準々決勝に進出するが倉敷工に敗退。同年夏の県大会でも決勝に進むが、千葉商に敗れ甲子園出場を逸する。高校の同期生に市原明、杉山茂がいる。 卒業後は日本石油に進み、1969年から都市対抗野球大会の常連として活躍。1971年の同大会ではチームの準々決勝進出に貢献。1972年の日本産業対抗野球大会は五月女豊の好投もあって勝ち進み、決勝で鐘淵化学を降しチームの初優勝に貢献、優秀選手に選出された。この時のチームメイトに秋元国武、磯部史雄らがいた。1973年の産業対抗は準決勝で熊谷組に敗退。
高品 剛(たかしな ごう、1950年11月20日 ‐ )は、… 高品 剛(たかしな ごう、1950年11月20日 ‐ )は、日本の俳優。本名、高品 正廣(たかしな まさひろ)。旧芸名、高品 正広(読み同一)。 千葉県旭市出身。千葉県立銚子商業高等学校卒業。ぷろだくしょん森、大鷲プロ、宝塚企画を経て、加川事務所所属。 東映演技研修所に入り俳優生活をスタートし、東映のテレビドラマを中心に端役で多数の作品に出演。 1977年に映画『ドカベン』のオーディションに合格し、同作で岩鬼正美役を演じる。本作での演技が東映プロデューサー七條敬三の目に留まり、同年放送された特撮テレビ番組『大鉄人17』の第16話よりレギュラー出演。当時の紹介記事では「下積みが長かったので、これをきっかけとして役者としての自分を作り上げたい」と述べている。
杉山 茂(すぎやま しげる、1950年4月23日 - )は、… 杉山 茂(すぎやま しげる、1950年4月23日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(捕手)。 銚子商では捕手として1968年の春の甲子園に出場、準々決勝に進出するが倉敷工に敗退。同年夏の甲子園県予選でも決勝に進むが、千葉商に敗れ甲子園出場を逸する。高校の同期生に市原明、町田公雄がいる。 同年のドラフト6位で読売ジャイアンツ入団。1971年にはジュニアオールスターに出場する。しかし一軍では森昌彦、吉田孝司ら捕手陣の層が厚く、活躍の機会は少なかった。1977年にはシーズン終盤に吉田が欠場したこともあり、15試合に先発マスクを被る。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでも3試合に出場した。翌1978年には福島知春の台頭、山倉和博の入団により出場機会が激減し、1982年限りで現役を引退。
阿天坊 俊明(あてんぼう としあき、1948年1月27日 -… 阿天坊 俊明(あてんぼう としあき、1948年1月27日 - )は、千葉県銚子市出身の元社会人野球の選手(内野手)。 銚子商業高校では、1965年夏の甲子園に三番打者、遊撃手として出場。同期の木樽正明の好投で順調に勝ち進み、準決勝ではエース牧憲二郎を擁する高鍋高に9回裏2-1でサヨナラ勝ち。決勝では三池工と対戦するが、上田卓三に0-2で完封を喫し準優勝にとどまった。同年の岐阜国体では、決勝で岐阜短大付の淵上澄雄を打ち崩し優勝。同年秋の第1回プロ野球ドラフト会議で南海ホークスより2位指名を受けるも入団を拒否。 立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは、入学直後の1966年春季リーグから二番打者として起用され、同季は槌田誠、谷木恭平、秋山重雄らとともに7年ぶりの優勝を飾る。
木樽 正明(きたる まさあき、1947年6月13日 - )は… 木樽 正明(きたる まさあき、1947年6月13日 - )は、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 銚子商業1年次の1963年、夏の甲子園に一塁手として出場し、準々決勝に進むが今治西高に敗退。2年上のチームメートに三塁手の田中達彦がいた。2年次の1964年は夏の県予選は3回戦で東金商に敗れ、秋季関東大会県予選では決勝に進むが市銚子高に完封負け。3年次の1965年には夏の甲子園でエース・4番打者として順調に勝ち進み、準決勝で高鍋高の牧憲二郎と投げ合い2-1で逆転勝ち。決勝では三池工と対戦するが上田卓三に0-2で完封を喫し、準優勝にとどまった。同年の岐阜国体では、決勝で岐阜短大付の淵上澄雄に投げ勝ち優勝。
古川 明(ふるかわ あきら、1946年9月14日 - )は、… 古川 明(ふるかわ あきら、1946年9月14日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(内野手)。 銚子商業高校では野球部に所属せず、卒業後は軟式野球をしていたところ1967年にドラフト外でサンケイアトムズにテスト入団するも、2か月で退団。 1969年は、中南米に設立されたグローバルリーグの東京ドラゴンズに参加するが、現地に赴く前に退団した。投手として大洋ホエールズのテストを受けたが失敗。下手投げであった古川をロッテオリオンズが打撃投手として採用する。 1970年は投手としてプレー、1971年には、二軍監督の大沢啓二が俊足や守備力を評価して野手に転向するとジュニアオールスターに出場し、一軍でも俊足を活かした代走として起用される。
保立 一男(ほたて かずお、1945年〈昭和20年〉9月15… 保立 一男(ほたて かずお、1945年〈昭和20年〉9月15日 - 2023年〈令和5年〉7月2日)は、日本の政治家。位階は正五位。元茨城県神栖市長(3期)、元神栖町議会議員(5期)。 茨城県軽野村(現・神栖市日川)に生まれる。1964年(昭和39年)3月、千葉県立銚子商業高等学校卒業。 1988年(昭和63年)、神栖町議会議員選挙に初当選。1998年(平成10年)9月、議長就任。2003年(平成15年)8月、保立運送代表に就任。 2005年(平成17年)8月1日、神栖町は波崎町を編入、市制施行し神栖市となる。これに伴い同年11月6日に行われた神栖市長選挙に出馬。現職で初代神栖市長の岡野敬四郎を破り初当選した(保立:26,360票、岡野:20,108票)。
田中 達彦(たなか たつひこ、1945年8月27日 - )は… 田中 達彦(たなか たつひこ、1945年8月27日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 銚子商では1年生の時、1961年夏の甲子園に控え内野手として出場するが、2回戦で浪商に敗退する。最上級生となった1963年には、三塁手、四番打者として夏の甲子園に再び出場。1回戦では柳川商に12-1で大勝、大会第1号本塁打を放つ。2回戦では静岡高に勝利、この試合では2年生エース勝浦完(サッポロビール)をリリーフし甲子園初登板を果たす。準々決勝に進出するが今治西高に0-3で完封負けを喫した。2年下のチームメートに、この大会では一塁手として出場した木樽正明がいる。8月末からは全日本高校選抜の一員としてハワイ遠征に参加した。
関根 知雄(せきね ともお、1944年3月12日 - )は、… 関根 知雄(せきね ともお、1944年3月12日 - )は、千葉県銚子市愛宕町出身の元プロ野球選手、(内野手)。 銚子商業高校では1961年、遊撃手、一番打者として夏の甲子園に出場。1回戦は矢島勝彦のいた法政一高を、延長12回、柴武利の夏の大会史上初のサヨナラ本塁打で降す。しかし2回戦では、この大会に優勝した浪商の尾崎行雄に抑えられ、1-2で惜敗。チームメートに控え内野手の田中達彦がいた。 卒業後は日本ビールに進む。1962年の都市対抗に出場し、1回戦では電電近畿と対決。日本ビールは小川健太郎(立正佼成会から補強)から五代友和、角谷隆に継投、電電近畿はエース永易将之が好投して共に無得点のまま進む。
山口 東一(やまぐち とういち、1941年12月15日 - … 山口 東一(やまぐち とういち、1941年12月15日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は中距離走。 1964年東京オリンピックに1500メートル競走で出場した 。 中央大学で2年次(第43回)と4年次(第45回)に、箱根駅伝に出場した。
新井 彰(あらい あきら、1939年9月19日 - )は、千… 新井 彰(あらい あきら、1939年9月19日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手。 銚子商業高校から昭和鉄管を経て、1962年に大毎オリオンズへ入団。1964年に引退。
飯島 恵喜(いいじま けいき、1938年5月16日 - )は… 飯島 恵喜(いいじま けいき、1938年5月16日 - )は、日本の陸上競技選手。専門はハードル。1950年代から1960年代にかけて活躍し、400mハードルの日本記録を保持していた。 1964年東京オリンピックで男子400メートルハードルに出場した。 千葉県海上郡旭町(現在の旭市)出身。千葉県立銚子商業高等学校在学中の1956年(昭和31年)、第11回国民体育大会(神戸市)で110mハードルに出場し優勝。 早稲田大学に進む。1960年(昭和35年)には、日本陸上競技選手権大会400mハードルで優勝するなどの成績をおさめ、ユニバーシアード陸上競技大会(ブルガリア)に出場した。 1961年、早稲田大学教育学部を卒業し、大昭和製紙に入社。
花沢 英雄(はなざわ ひでお、1937年4月20日 - )は… 花沢 英雄(はなざわ ひでお、1937年4月20日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉県立銚子商業高等学校から1956年に大映スターズへ入団。1957年まで在籍したが制球に難があり1勝もできなかった。
青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 201… 青木 半治(あおき はんじ、1915年7月16日 - 2010年5月30日)は、日本のスポーツ指導者、日本陸上競技連盟第5代会長。日本体育協会第11代会長。また国際陸上競技連盟とアジア陸上競技連盟でも役員を歴任し、副会長を務めた。後に終身名誉副会長。 千葉県長生郡太東村(現いすみ市)出身。旧制銚子商業学校(現在の千葉県立銚子商業高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に早稲田大学商学部を卒業。 日立製作所に入社し、同年日本陸上競技選手権大会の砲丸投競技で優勝。その後は三徳工業、昭和電工を経て、1945年(昭和20年)に独立し、1946年(昭和21年)青木金属興業株式会社を設立。 会社経営の傍ら、母校の早稲田大学競走部監督を務めた。
仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月1… 仲内 憲治(なかうち けんじ、1902年(明治35年)1月12日 - 1971年(昭和46年)2月10日)は、昭和期の外交官、教育者、政治家。位階は従三位。 衆議院議員(2期)。在アフガニスタン日本大使を務めた。 千葉県海上郡、後の銚子市で生まれる。1919年(大正8年)銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を卒業。中央大学専門部法科で学ぶ。三井物産を経て、1922年(大正11年)外務省に入省し外務書記生に任官。1929年(昭和4年)10月、第38回高等試験外交科試験に合格。1930年(昭和5年)6月、アメリカ合衆国に派遣されクラーク大学で学ぶ。以後、外務属、外交官補、領事官補、外務事務官、領事、駐タイ国一等書記官、外務書記官、終戦連絡中央事務局連絡官などを歴任し、外務省政務局第四課長で退官した。
椎名 隆(しいな たかし、1900年(明治33年)9月12日… 椎名 隆(しいな たかし、1900年(明治33年)9月12日 - 1983年(昭和58年)1月17日)は、大正から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。 千葉県海上郡西銚子町(現銚子市)で、椎名八十二郎の長男として生まれる。千葉県立銚子商業学校(現千葉県立銚子商業高等学校)を経て、1920年(大正9年)早稲田大学専門部法律科を卒業した。 1923年(大正12年)弁護士を開業した。銚子市会議員に選出され4期在任。1940年(昭和15年)1月、千葉県会議員に当選し7年間在任し、参事会員(3期)、同補充員(2期)も務めた。その他、銚子市消防団長、銚子市西漁業協同組合長に在任した。 1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙で千葉県第2区から民主党公認で出馬して次点で落選。
鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - … 鈴木 文史朗(すずき ぶんしろう、1890年3月19日 - 1951年2月23日)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、政治家。 千葉県海上郡豊浦(現銚子市)出身。本名は文四郎。旧制銚子中学校(現千葉県立銚子商業高等学校)、東京外国語学校英語学科卒業。三菱合資会社地所部を経て1917年東京朝日新聞に入社。シベリア出兵の従軍記者や、パリ講和会議などの特派員として活躍する。社会部長、編集局総務、論説委員、整理部長、名古屋支社長、取締役を歴任し、1942年常務取締役となるが、朝日新聞社内の人事で冷遇されたことから反緒方竹虎の急先鋒となった。 敗戦直後退社し、1946年『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版編集長となる。
井上哲夫(いのうえ てつお)は、千葉県八日市場市出身の元卓球… 井上哲夫(いのうえ てつお)は、千葉県八日市場市出身の元卓球選手。専修大学在学中、全日本学生卓球選手権大会で優勝を果たした。卒業後シチズン時計に所属した。世界卓球選手権にも日本代表として3大会に出場している。 千葉県立銚子商業高等学校から1967年に専修大学へ入学、2年次の1968年全日本選手権で3位となり、3年次の1969年には世界選手権ミュンヘン大会の代表となり、全日本学生卓球選手権で優勝、全日本選手権で準優勝した。4年次の1970年も全日本選手権で3位、卒業後はシチズン時計に入社して卒業後も実業団で卓球を続け1971年世界選手権名古屋大会、1977年世界選手権バーミンガム大会のメンバーになり、団体の予選リーグ、ユーゴスラビア戦では、4-4のラストで勝利し、準優勝に貢献した。