スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
矢野 光世(やの てるよ、1991年3月3日 - )は、福岡… 矢野 光世(やの てるよ、1991年3月3日 - )は、福岡市出身の元女子競輪選手。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第104期生。現役時代は日本競輪選手会福岡支部所属、ホームバンクは久留米競輪場。師匠は藤田剣次(85期)。 博多工業高等学校を経て、製菓の専門学校へと進む。その傍ら、メッセンジャーのアルバイトを始めたことがきっかけとなり、ガールズケイリンへの道へと進むことを決めた。2011年12月16日、競輪学校104回試験に合格した。 2013年3月29日、競輪学校を卒業。在校競走成績は第6位(16勝)。 2013年5月10日、京王閣競輪場でデビューし3着。同年6月8日、奈良競輪場で初勝利。
甲斐 雄平(かい ゆうへい、1988年3月15日 - )は、… 甲斐 雄平(かい ゆうへい、1988年3月15日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 福岡市立弥永小学校時代に元プロ野球投手の石丸進一をモデルにした映画『人間の翼 最後のキャッチボール』を見たことがきっかけで、曰佐中学校に進んでから本格的に野球を始めた。ボーイズリーグ福岡県南支部に所属する福南ファイターズ(現:福南ボーイズ)に在籍。当時のチームメイトに、後に女子硬式野球ワールドカップの日本代表捕手で4番を打つことになる西朝美がいた。 市立博多工業高校時代は4番を打ち、高校通算28本塁打を放った。 福岡大学では1年春からレギュラーとなり、主将も務めた。3年秋には九州六大学野球リーグのMVP・ベストナインに選出された。
畑瀬 聡(はたせ さとし、1982年12月18日 - )は、… 畑瀬 聡(はたせ さとし、1982年12月18日 - )は、日本の元陸上競技選手、指導者。砲丸投元日本記録保持者。福岡県出身。身長184cm 体重121kg。 福岡市立博多工業高等学校在学中の2000年8月、長良川陸上競技場で行われた全国高校総体において19m57(旧規格、5.443kg)という高校新記録を樹立した。10月には第84回日本選手権で16m64のジュニア日本新記録を樹立して2位に入り、サンティアゴで開催された世界ジュニア選手権に出場し15m86の記録で予選14位の成績を残した。 2001年に日本大学文理学部に入学。2004年に日本人2人目の18m越えを達成。 大学卒業後、群馬綜合ガードシステムに入社(現在のALSOK群馬株式会社)2006年7月の第90回日本選手権で8年ぶりの更新となる18m56の日本新記録を樹立した。
平田 忠則(ひらた ただのり、1976年11月13日 - )… 平田 忠則(ひらた ただのり、1976年11月13日 - )は、福岡県出身の競艇選手。 登録番号3898。身長166cm。血液型A型。80期。福岡支部所属。福岡市立吉塚中学校卒業。福岡市立博多工業高等学校自動車工学科卒。久留米工業大学中退。ニックネームは「ヒラチュウ」。 ペラグループは「げってんかい」所属。
篠原 英明(しのはら ひであき、1965年4月3日 - )は… 篠原 英明(しのはら ひであき、1965年4月3日 - )は福岡県出身の男性実業家。株式会社シノケングループ(旧商号株式会社シノケン)の創業者、代表取締役社長。
入江 道生(いりえ みちお、1951年9月15日 - )は、… 入江 道生(いりえ みちお、1951年9月15日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。 博多工業高では、1968年、2年生の時に控え内野手として春の選抜に出場。1回戦で平安高の池田信夫に完封負け。1969年の春の選抜に遊撃手、九番打者として連続出場。同期のエース岩崎清隆の好投もあり、準々決勝では岐阜商の左腕鍛治舎巧を攻略。準決勝に進むが、堀越高のエース但田裕介に抑えられ完封負けを喫する。他の高校同期に捕手の今久留主邦明がいた。 高校卒業後は社会人野球の電気化学から九州産交。1973年のドラフト会議で広島東洋カープから6位指名を受け入団。1974年に一軍に上がるが、活躍の場は少なく1976年限りで引退。
岩崎 清隆(いわさき きよたか、1951年6月15日 - )… 岩崎 清隆(いわさき きよたか、1951年6月15日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 博多工業高校では1968年、2年生の時に一塁手として春の選抜に出場。1回戦で平安高の池田信夫に完封負け。この試合でリリーフとして甲子園初登板を果たす。その後、エースとして今久留主邦明とバッテリーを組み、同年の秋季九州大会で決勝に進出。宮崎商の西井哲夫と投げ合うが惜敗した。1969年の春の選抜に連続出場。準々決勝で県岐阜商の鍛治舎巧に投げ勝ち、準決勝に進むが、堀越高校の但田裕介に完封負けを喫する。他の高校同期に遊撃手の入江道生がいる。 1969年ドラフト会議で東映フライヤーズから4位指名を受け入団。
倉田 晃(くらた あきら、1947年4月14日 - )は、福… 倉田 晃(くらた あきら、1947年4月14日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。1973年の登録名は倉田 隆司(くらた たかし)。 博多工業高では1964年、2年生の時に遊撃手として春の選抜に出場。エース橋本孝志を擁し準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和に抑えられ完封負け。しかし、同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を降し初優勝を飾る。 高校卒業後は、明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1968年春季リーグで打率.441を記録、首位打者となる。1969年春季リーグでは同期の古屋英雄、1年下の今井恒夫の好投もあって8年ぶりの優勝を飾った。古屋以外の大学同期に外野手の小野寺重之らがいた。
橋本 孝志(はしもと たかし、1946年6月21日 - )は… 橋本 孝志(はしもと たかし、1946年6月21日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。 博多工では1963年、2年の時に控え投手、外野手として春の選抜に出場、1回戦で海南高のエース山下慶徳に抑えられ敗退、橋本の登板はなかった。同年夏の甲子園県予選でも決勝に進みリリーフとして登板するが、柳川商に完封負けを喫する。翌1964年はエースとして選抜に連続出場。2回戦で池永正明を擁する下関商を降し準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和投手に0-4で完封負け。しかし同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を2-0で完封し初優勝、一躍注目を集めた。同年夏は県予選準々決勝で、末永吉幸のいた小倉工に日没引き分け再試合の末に敗退。
早川 清孝(はやかわ きよたか、1946年4月11日 - 2… 早川 清孝(はやかわ きよたか、1946年4月11日 - 2005年3月29日)は、福岡県出身のハンドボール選手、指導者。1972年ミュンヘンオリンピックハンドボール全日本代表。 福岡市立博多工業高等学校から日本体育大学に進み、卒業後湧永製薬に入社。同社ハンドボール部に所属。その後、大阪イーグルスに移籍した。 全日本では、1970年日体大生としてフランスで行われた世界選手権に出場。1972年には湧永の選手としてミュンヘン五輪代表。 現役引退後、指導者としても活躍、全日本コーチも務めた。1979年、日本オリンピック委員会スポーツ指導者海外研修員として、ドイツ・ケルン体育大学へ留学している。 晩年には京都市立芸術大学教授を務めた。
池田 善吾(いけだ ぜんご、1946年 - )は、福岡県出身… 池田 善吾(いけだ ぜんご、1946年 - )は、福岡県出身の元アマチュア野球選手(投手)日本で初めてキューバを抑えた投手。 博多工業高等学校では、同期にエース橋本孝志がおり、主に一塁手として起用される。投手としても1963年秋季九州大会決勝で日南高に完封勝ちを記録している。1964年春の選抜に出場。2回戦で池永正明を擁する下関商を降し準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和に0-4で完封負け。しかし同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を降し初優勝。同年夏は県予選準々決勝で、末永吉幸のいた小倉工に日没引き分け再試合の末に敗退。1学年下に遊撃手の倉田晃がいる。 芝浦工業大学に進学。東都大学野球リーグでは、エースとして1968年秋季リーグで7年振りに優勝。
古屋 哲美(ふるや てつみ、1945年1月7日 - )は、福… 古屋 哲美(ふるや てつみ、1945年1月7日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。 博多工業高では1964年、2年生の時にエース橋本孝志の控えとして春の甲子園に出場。準決勝まで進出するが、尾道商の小川邦和に抑えられ完封負け。同年6月の新潟国体では、決勝で尾道商を降し初優勝を飾る。いずれも自らの登板はなかった。高校同期に倉田晃がいる。 卒業後は九州産業大学に進学。九州地区大学野球選手権大会では福岡工大の後塵を拝し、優勝には届かなかった。 1969年にドラフト外で西鉄ライオンズへテスト入団。1年目の1970年には8試合に中継ぎとして登板。5月10日には乗替寿好をリリーフし3回から登板するが、5回に打ち込まれ敗戦投手となる。
山田 勝国(やまだ かつくに、1944年2月9日 - )は、… 山田 勝国(やまだ かつくに、1944年2月9日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 博多工業高校では春季九州大会県予選南部決勝に進むが、福岡工に惜敗。東洋高圧大牟田を経て、1963年に近鉄バファローズへ入団。 翌1964年から一軍に定着。主に代打や守備要員として起用されるが、その後は徐々に力を付け、控え外野手として出場機会を増やす。1969年には開幕から中堅手、二番打者として起用され、俊足のチャンスメーカーとして65試合に先発出場した。翌年も13本塁打を放つなど活躍を続けるが、打率が今一つ上がらず、1972年に溜池敏隆とのトレードでヤクルトアトムズへ移籍。ここではあまり出場機会がなく、同年限りで引退した。
寺田 陽介(てらだ ようすけ、1934年11月19日 - )… 寺田 陽介(てらだ ようすけ、1934年11月19日 - )は、福岡県福岡市出身の元プロ野球選手(一塁手)。右投右打。 博多工業から濃人渉が監督を務める日鉄二瀬に進む。1954年から2年連続で都市対抗野球大会に出場。1955年の大会では東洋高圧大牟田に補強され、日立製作所との1回戦で決勝本塁打を放つなど活躍。準々決勝で全鐘紡に敗退するが好打者として注目を集める。この時のチームメートに小淵泰輔がいた。 1956年に南海ホークスに入団。入団に当たっては地元の西鉄ライオンズとの間で激しい争奪戦があり、西鉄が投手の島原幸雄を獲得の見返りに日鉄に譲渡するという噂まで流れたほどであった[要出典]。当時、南海の監督であった鶴岡一人は、守備はよい一方で、「穴が多く、いい投手にかかると打てないという欠点」があり、期待ほどの実績はあげられなかったと評しているものの、南海が400フィート打線と称していた打線の担い手の一人と位置づけられていた。
大神 武俊(おおがみ たけとし、1932年11月1日 - 2… 大神 武俊(おおがみ たけとし、1932年11月1日 - 2003年1月16日)は、福岡県福岡市出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・解説者、野球指導者。 博多工業高から社会人野球の東洋高圧大牟田を経て、1951年に南海ホークスの2軍的なチームであった社会人野球の南海土建に入団。 1952年に南海ホークスに昇格する。1年目の当初は、ぱっと見で身体が細くて、使い物になるか危ぶまれるような選手であったという。しかし、キャンプで注目を集めると、シーズンでは8勝を挙げる。巨人との日本シリーズでは新人にもかかわらず、第1戦の先発に抜擢される(大神以後、日本シリーズ第1戦に先発登板した新人投手は、楽天の則本昂大が2013年に先発登板するまで61年間にわたって現れなかった。