加納 宗七(かのう そうしち、1827年7月16日(文政10… 加納 宗七(かのう そうしち、1827年7月16日(文政10年6月23日) - 1887年(明治20年)5月5日)は、江戸・明治期に活動した日本の商人。 文政10年6月23日(1827年7月16日)、和歌山城城下町の北ノ新地分銅町(現在の和歌山市北ノ新地分銅町)に生まれる。生家は紀州藩の御用商人宮本家で、酒造業や廻船業を営んでいた。結婚後、宗七は姓を加納と改めた。宗七は倒幕運動に参加し、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬が暗殺されると、三浦休太郎が坂本龍馬殺害に関与したとの情報を海援隊にもたらし、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、陸奥宗光らとともに三浦を襲撃(天満屋事件)。
三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、181… 三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、1818年8月3日〈文政元年7月2日〉 - 1895年〈明治28年〉3月26日)は、群馬県館林の商人(米穀商、質屋)、醤油醸造家。正田醤油の基礎を作った。幼名藤十郎、家督を継ぐと、先代文右衛門を襲名し、隠居後更に文七と改めた。実業家の正田貞一郎は孫。上皇后美智子は玄孫にあたる。 館林で生まれた。祖父の業を継ぎ米穀商を営み、その傍らで質屋も家業とした。17歳のころより盛んに販路を江戸へ拡張し、常に高瀬舟数十隻を利根川・渡良瀬川の両川に浮かべ、大量取引に役だてた。とくに東国での大麦の評判は高く、「本館麦」として世間にその名が広まった。 また、海路遠く大阪までその影響力が及んで、当時、道頓堀において「上州米文」の名でよく相場の変動が左右された。
菅 運吉(すが うんきち、1817年(文化14年)3月 - … 菅 運吉(すが うんきち、1817年(文化14年)3月 - 1877年(明治10年)8月10日)は、幕末の秋田藩(佐竹藩)の御用商人。木材で財をなし、江戸深川にも木場を置き、御三家(尾州、紀州、水戸)の御用達をつとめ、秋田屋仁左衛門と称し、“幕末の紀文”と呼ばれた。 秋田神社(千秋公園内)、京都下鴨神社にも木材を寄進している。秋田出身の財界人として、息子の礼治(秋田第四十八銀行頭取)、孫の礼之助(東京電力会長、経団連評議会議長)と三代にわたる家系。 秋田藩内の雄勝郡雄勝町秋ノ宮岳ノ下(現在の秋田県湯沢市)に、藩から肝煎(きもいり)として山の管理を任されていた父、菅太右衛門(九代目)の子として生まれる。
鹿島 重正(かしま しげまさ、1816年 - 1857年)は… 鹿島 重正(かしま しげまさ、1816年 - 1857年)は、伯耆国米子(現・鳥取県米子市)の商人、歌人。下鹿島家3代目。次助と称する。 嘉永年間に、米子城四重櫓が腐朽して改築が必要になった時、本家とともにその費用を負担して再建する。翠の屋と号し、和歌をよくする。加納諸平編『類題鰒玉集』4編に名がみえる。『鰒玉集作者姓名録』3編は重正が編集した。墓所は米子市寺町の心光寺。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1… 白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1812年4月18日)- 明治13年(1880年)8月31日)は、奇兵隊のスポンサー、長府藩の支藩である清末藩の御用商人。名は資風。通称は駒吉。または熊之助。号は橘円。商人の自由を求めて、家が破滅するまで奇兵隊へ財政支援し明治維新をバックアップした。明治政府より感謝を込めて正五位を贈られた。 文化9年(1812年)、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(8代目)として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。
三国 大学(みくに だいがく、文化7年10月1日(1810年… 三国 大学(みくに だいがく、文化7年10月1日(1810年10月28日) - 明治29年(1896年)5月31日)は、幕末の商人、儒学者。豪商三国鶴叟の三男。諱は直準。字は士繩。別称・与吉郎。鷹巣、碌々山人と号、出家後は幽眠と称した。 越前国坂井郡三国の生まれ。当初は彦根藩士中村漁村に徂徠学を学んだ。同門で机を並べていたのが、当時は彦根藩主の息子ながら先の定まらぬ捨扶持の部屋住みの身分であり、しかしのちに幕府大老として安政の大獄を主導する井伊直弼であった。 天保3年(1832年)上洛して折衷学派を学んで梁川星巌や森田節斎らと交流する。天保7年(1836年)には私塾を開き、また『孝経傍訓』を著すなどした。
飯田 新七(いいだ しんしち、享和3年(1803年) - 明… 飯田 新七(いいだ しんしち、享和3年(1803年) - 明治7年(1874年)7月29日)は、江戸時代後期の商人。近江商人飯田家の婿養子となり、髙島屋・高島飯田の礎を築いた。 新七は、享和3年(1803年)越前国敦賀(現福井県敦賀市)中野宗兵衛の子として生まれ、幼名を鉄次郎と言い、文化11年(1814年)京に出呉服商角田呉服店に丁稚奉公するにおいて、名を新七とした。又、諱を宏遠と言う。 近江国高島郡南新保村(現滋賀県高島市今津町南新保)の出身の飯田儀兵衛は、京都烏丸松原上ル(現京都市下京区)において米穀商『高島屋』を営んでいた。子供は娘「秀」一人であった儀兵衛は、京三条大橋東入ル(現京都市東山区)の角田呉服店の奉公人新七の仕事振りに感心し、角田呉服店が倒産したのを契機に文政11年(1828年)新七を娘婿として迎え入れた。
青柳 文蔵(あおやぎ ぶんぞう、宝暦11年〈1761年〉 -… 青柳 文蔵(あおやぎ ぶんぞう、宝暦11年〈1761年〉 - 天保10年3月14日〈1839年4月27日〉)は、仙台藩領磐井郡東山町(現在の岩手県一関市東山町松川)出身の江戸時代後期の商人。医師・小野寺三達の三男として生まれる。名は茂明、号は東里、近水楼主人。青柳文庫の名前の由来となった人物である。 清和源氏佐竹氏あるいは武田氏の後裔と称し、兄2人、姉3人の末子であった。父は私塾もやっていたので幼いころから和漢の書物に触れる機会を持っていた。18歳で江戸に出て、苦労しながら学問を続け、井上金峨に儒学を学んだ。その後、公事師として財をなすに至った。 墓所は東京都豊島区高田の金乗院にある。 1831年(天保2年)、仙台藩に書籍2,885部、9,937冊、また100両を贈り、藩はこれを公開図書館として一般に供することとなり、これが日本の最初の公開図書館となる。
安孫子 石太郎(あびこ いしたろう、生年不明 - 1906年… 安孫子 石太郎(あびこ いしたろう、生年不明 - 1906年〈明治39年〉)は、日本の商人(柏屋、荒物小間物商並びに蝋燭製造)、政治家。新潟県北蒲原郡水原町長。名は石、字は頑夫、通称は石太郎、号は城南。 新潟県北蒲原郡水原町(現・阿賀野市)の人で、安孫子貽堂の孫。諏訪山の大野耻堂塾に学ぶ。更に東京へ出て安井息軒に就いて2年学んで帰郷する。後に再び上京し、大野楳華に、次いで中村敬宇の同人社に投じ2年留まる。 両親が高齢のため遂に郷里の営業に戻ることとなり、推されて町長となり、又郵便局長となる。 安孫子家は水原の安孫子氏の一族に相違ないが、何処から分かれた家かはっきりしない。蝋燭を製し紙を売って生業とし、傍ら質屋を営んだ。
鳥越 彦三郎(とりごえ ひこさぶろう、生年不明 - 1942… 鳥越 彦三郎(とりごえ ひこさぶろう、生年不明 - 1942年〈昭和17年〉2月20日)は、福岡県吉井町の商人(米穀商)。鳥越製粉創業者。ジャーナリスト鳥越俊太郎の曽祖父。 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)出身。実父は鳥越半助。鳥越家は江戸の末期くらいから米を脱穀する仕事をやっていた。裕福な家庭の二男坊として何不自由なく育つ。 1877年、父から独立を言い渡される。徴兵強化の風評は高まっていたが、一家の嗣子、長男だけは兵役を猶予されるので、父は彦三郎を身内の鳥越順作の養嗣子として入籍させた。 1877年、吉井町で米穀・日用雑貨取扱業を創業。大地主である鳥越家の斜め向かい50坪の場所で米を量り売りする米穀商店を始めた。
木田 弥平(きだ やへい)は、現在の滋賀県湖南市下田に居住し… 木田 弥平(きだ やへい)は、現在の滋賀県湖南市下田に居住した江戸期の商人。 なお、「木田 弥平」の名を持つ人物は襲名によって複数人存在する。 出身地の湖南市下田では口頭でぼくだ やへえと呼ばれている。旧代及び略書は、弥兵栄、彌平、弥兵衛、弥平 (「やへい」または「やへえ」、口頭では「やへえ」)。 代々国内物産の商いを生業としていた。 第6代は下田村助役を務め、下田の並び、日枝神社向いあたりで、材木商、金融業も営んでいた。 第7代、第8代もこの地に居住したが、長男が麻疹により難聴となったため、第9代は、京都市右京区・京都府立聾学校近くの宇多野へ移住した。 現在から150年以上前に木田弥平が美濃から下田に持ち帰った。
3代 阿部 市太郎(あべ いちたろう、天保11年(1840年… 3代 阿部 市太郎(あべ いちたろう、天保11年(1840年) - 大正12年(1923年))は、明治維新期の近江商人・実業家。日本の産業と人材の育成に務めた。 3代目阿部市太郎は、天保11年(1840年)に近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれた。父である2代市太郎は本家に当たる阿部市郎兵衛家第5代当主の次子で、初代市太郎に継子なく養子となった。また、兄は本家の養子となり7代目市郎兵衛となり、弟は市三郎家に養子に入り2代目市三郎となった。 3代目家督相続後、明治4年(1871年)本家市郎兵衛家と共に大阪(現大阪市東区)に支店を出し、家業である麻布販売と共に持ち船を回漕して塩・蜜柑を北陸地方・東北地方で売り、帰路北海道に立ち寄り物産を仕入れ大阪で販売した。
田中 長兵衛(たなか ちょうべえ)は静岡県出身の商人。明治政… 田中 長兵衛(たなか ちょうべえ)は静岡県出身の商人。明治政府が失敗し廃止とした日本最初の官営製鉄所の払い下げに唯一手を挙げ、ついに再建に成功。一時は国内需要の六割超を生産するなど、日本近代製鉄の礎を築いた。 1834年(天保5年)遠江国榛原郡萩間村白井(現牧之原市)の生まれ。母を産褥熱で亡くし、貧しい石灰焼き人夫の父と親一人子一人で育った長兵衛だったが、数えで13歳の時に父もまた病気で他界。天涯孤独の身となった長兵衛は故郷を離れ一人江戸へと向かった。そして日本橋横山町で鉄釘銅物問屋を営んでいた鉄屋・喜兵衛の店で奉公。身を粉にして働きのれん分けを受けると、1855年(安政2年)に鉄屋の屋号を掲げ麻布飯倉で金物商古鉄買いを始めた。
名島 平次郎(名島 平治郎、なしま へいじろう、生没年不詳)… 名島 平次郎(名島 平治郎、なしま へいじろう、生没年不詳)は、日本の商人、醸造家、鳥取県の大地主。名島家4代目。 伯耆国米子博労町(現・鳥取県米子市博労町)の人。屋号を「名和川屋」と号し、醤油醸造並びに砂糖綛糸卸売業を営み、目代役をつとめ、苗字帯刀を許される。 家運はもと微々として振るわなかったが、平次郎は早くから家業に奮勉し勤倹力行、家運の振興に意を用い焦心苦慮、商業につとめたため漸々隆運に向かい、家声を発揚した。荒尾家へ銀一貫目献上する。 1876年(明治9年)に三菱汽船により、大阪、境港、函館航路の開拓が請願され、1878年(明治11年)2月から瓊浦丸・九州丸の2隻が就航したが、このとき荷集取扱人として米子から5名(稲田喜重郎、坂口平吉郎、村上辰三郎、佐藤宗吉、名島平治郎)が名を連ねた。