新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1… 新井 領一郎(あらい りょういちろう、安政2年7月19日(1855年8月31日) - 昭和14年(1939年)4月10日)は、日本の実業家、日米生糸貿易の創始者。旧姓名は星野良助。星野長太郎の実弟、孫娘の夫に駐日米国大使のエドウィン・O・ライシャワー。 上野国勢多郡(現群馬県桐生市)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目した兄星野長太郎と連携し、日本製生糸の市場開拓のためニューヨークに渡った。直ちに顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実現した。有力絹織物業者などとの取引を通して生糸輸出量の飛躍的拡大を図った。絶えず高い品質維持を目指し品質向上にも努め、市場からの高い評価と信頼を勝ち取った。
斎藤 修一郎(さいとう しゅういちろう、1855年8月24日… 斎藤 修一郎(さいとう しゅういちろう、1855年8月24日〈安政2年7月12日〉- 1910年〈明治43年〉5月6日)は、日本の外交官、農商務官僚、実業家。農商務次官。号・半狂学人、談笑門人。「斉藤」と表記する場合がある。 越前国南条郡武生で、福井藩越前府中領主本多家家臣・眼科医、斎藤策順の息子として生まれる。沼津兵学校付属小学校、大学南校で学ぶ。1873年(明治6年)、大学南校が開成学校と改称して、1875年(明治8年)に卒業し、同年7月、文部省第一回海外留学生として渡米し、1878年(明治11年)6月、ボストン大学法科を卒業した。 1880年(明治13年)9月に帰国し、同年11月、外務省権少書記官に任じられ公信局勤務となる。
斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5… 斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5月15日) - 1938年(昭和13年)12月9日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員。 1855年(安政2年)に下総国相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)の齋藤家の長男として生まれる。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)[要出典]、弟に文学博士である斉藤隆三がいる[要出典]。 1859年(安政6年)頃より守谷町愛宕の私塾で木村正之に学び、1866年(慶応2年)より親戚の中山家に移り、後に東京帝国大学教授になる漢詩人の信夫恕軒や木戸栄伯、盛岡栄三郎に学んだ[要出典]。
丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2… 丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2年4月28日) - 1922年(大正11年)10月11日)は、日本の武士(会津藩士)、実業家、政治家である。戊辰戦争を戦ったのち、土木請負業を営む実業家となり、姫路において各種事業に関わる。姫路市商業会会長、衆議院議員一期。 会津藩藩士の丸山家に次男として生まれる。父は丸山玄斎。日新館に学び、会津戦争では会津若松城に籠城して戦った。池上三郎や南清は戦友である。戦後に上京し南摩綱紀門下となったのち、北海道で開拓に従事する。ここで島田組幹部大三輪長兵衛に知られ、その帰郷に従って同社に入社したものの、ほどなく同社は倒産し、苦渋の時代が続いた。
星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2… 星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2年4月27日)- 1906年(明治39年)4月18日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 宮城県登米郡、のちの佐沼町(迫町を経て現登米市迫町佐沼)で、商人・星松治郎の第七子(二男)として生まれた。村の儒者・中村竹徑に師事し、さらに英学を修めた。1875年(明治8年)から水害救民救恤係、勧業世話役、衛生委員、学校世話役などを務めた。 その後上京して商業を営むが不景気となり、1884年(明治17年)から1886年(明治19年)にかけて全国の民情視察を2回実施して、その報告書を作成して頒布した。1886年10月には欧米の政治経済の視察旅行を行った。
天野 藤三(あまの とうぞう、1855年6月7日(安政2年4… 天野 藤三(あまの とうぞう、1855年6月7日(安政2年4月23日) - 1928年(昭和3年)3月8日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。旧姓は井上。 八王子宿(現八王子市)の井上太郎兵衛の二男として生まれ、18歳の時に神奈川県津久井郡鳥屋村(津久井町を経て現相模原市緑区)の名主・天野三郎助の養子となる。上京し尾崎行雄と共に勉学に励んだのち、1885年(明治18年)養父の跡を継ぎ鳥屋村ほか2か村組合戸長となった。1889年(明治22年)初代鳥屋村長に就任し、治山治水に尽力した。1891年(明治24年)神奈川県会議員、1903年(明治36年)津久井郡会議員、同議長を歴任した。
墨 宇吉(すみ うきち、1855年5月7日(安政2年3月21… 墨 宇吉(すみ うきち、1855年5月7日(安政2年3月21日) - 1938年(昭和13年)5月14日)は、尾張国葉栗郡玉ノ井村(現・愛知県一宮市)出身の実業家。 幼少期は実兄とともに家業である艶屋(織物の艶出し業)を手伝う。1888年(明治21年)分家し、その翌年起、1891年(明治24年)には小信に居を移し、次第に業務を拡大した。 1911年(明治44年)に、墨合名会社を設立。 1924年(大正13年)、艶金興業を設立。 出生地である一宮市木曽川町玉ノ井にある念敬寺には、1963年(昭和38年)に銅像「墨宇吉像」が建立されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森本 善七(もりもと ぜんしち、1855年3月28日(安政2… 森本 善七(もりもと ぜんしち、1855年3月28日(安政2年2月11日)- 1928年(昭和3年)5月1日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 尾張国知多郡大野村(愛知県知多郡大野町を経て現常滑市)出身。萩原宗平の長男として生まれる。元治元年6月(1864年7月)2代善七の養子となり明治4年8月(1871年)家督を相続し、天明元年創業の小間物商笹屋3代目となる。1881年(明治14年)愛知県会議員に当選。ついで名古屋市会議員、同参事会員、名古屋商業会議所常議員、名古屋銀行頭取、名古屋株式取引所理事長、東海倉庫、日本車輌製造各社長、尾張紡績、帝国撚糸などの重役を歴任した。
4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854… 4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854年〉 - 1896年〈明治29年〉10月7日)は、明治時代の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は勝太郎。雅号・富香。 3代桜井伊兵衛、なお子の長男としてのちの群馬県西群馬郡高崎本町(高崎町を経て現高崎市)に生まれる。絹太織問屋松屋を経営。1881年(明治14年)高崎町会議員に当選。1885年(明治18年)長野堰連合町村会議員を経て、1887年(明治20年)2月、西群馬、片岡両郡の所得税調査委員となった。日本鉄道創立の際にはその発起人に名を連ね、ほか多数の会社重役を歴任した。 1890年(明治23年)6月10日、群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元… 岡部 政太郎(おかべ まさたろう、1855年2月9日(安政元年12月23日)- 1934年(昭和9年)12月2日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡、現在の長崎県長崎市古町で、代々の呉服商の家に生まれた。明治の初め東浜町(現浜町)に転居し呉服商を営む。1910年(明治43年)に和仏法律学校(現法政大学)を卒業する 。1934年(昭和9年)岡政百貨店を開業した。その他、長崎市商業会議所特別議員、長崎市呉服商組合副取締などを務めた。 日露戦争時には、長崎市奉公会の設立に参画し会計監督となった。1905年(明治38年)所得税調査委員となり4期在任。1907年(明治40年)9月、長崎県会議員に選出された。
大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安… 大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安政元年11月28日) - 1909年(明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等。大河内子爵家の一族。 高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1872年(明治5年)3月〜11月東京の尺振八に就き英学修業。1873年(明治6年)1月〜翌年5月横浜在留米国人に就き英語学修業。1874年(明治7年)11月慶應義塾に入塾、1879年(明治12年)7月に学科卒業。
安川 寛三郎(やすかわ かんざぶろう、1855年1月8日(安… 安川 寛三郎(やすかわ かんざぶろう、1855年1月8日(安政元年11月20日)- 1926年(大正15年)7月22日)は、明治から大正期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、千葉県長生郡茂原町長。旧姓・横堀、幼名・篤造、号・雲山。 上総国長柄郡茂原村(千葉県長柄郡茂原町茂原、長生郡茂原町茂原を経て現茂原市)で、横堀確三郎の三男として生まれる。漢学を修めた。その後、代々里正を務め、醤油・酢製造業の酢屋当主、茶園も経営していた先代安川寛三郎の養子となる。1879年(明治12年)養父の死去に伴い家督を相続し寛三郎を襲名した。 家業を受け継ぎ、紅茶をイギリスに輸出するなど茶業経営に励んだ。1884年(明治17年)茂原町用掛となり、千葉県勧業諮問会員、長柄上埴生茶業組合委員長などを務め、地域の茶業振興に尽力した。
稲沢 徳一郎(稻澤 德一郎、いなざわ とくいちろう、1855… 稲沢 徳一郎(稻澤 德一郎、いなざわ とくいちろう、1855年1月3日(安政元年11月15日)- 1912年(明治45年)6月4日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、栃木県那須郡上江川村長。 下野国那須郡鹿子畑村(栃木県那須郡上江川村大字鹿子畑、喜連川町を経て現さくら市鹿子畑)で、豪農の家に生まれる。漢学、行政学、経済学、財政学を修めた。 戸長を務め、1888年(明治21年)立憲改進党に入党。那須郡会議員、同議長、栃木県会議員、所得税調査委員などを務め、1897年(明治30年)2代上江川村長に就任した。 1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(栃木県郡部、憲政本党)に立候補して当選し、衆議院議員に1期在任。
矢野 七三郎(やの しちさぶろう、1855年(安政2年) -… 矢野 七三郎(やの しちさぶろう、1855年(安政2年) - 1889年(明治22年)12月24日)は、伊予国野間郡宮脇村(現在の愛媛県今治市大西町宮脇)出身の日本の実業家。「伊予ネル」の創始者であり、「今治綿業の父」と呼ばれる。 1855年(安政2年)、伊予国野間郡宮脇村(現在の愛媛県今治市大西町宮脇)の矢野家の長男として生まれた。幼名は通正。父は矢野節太、母は美喜。幼少期には山本五左衛門に学んだ。1879年(明治12年)の今治に四国初のプロテスタント教会(会衆派)が設立されると、七三郎はキリスト教に入信し、キリスト教指導者の横井時雄と親交を深めた。のちに同志社大学を設立する新島襄や、のちに小説家となる徳冨蘆花と知り合っている。
永沢 清之助(ながさわ せいのすけ、1855年(安政2年4月… 永沢 清之助(ながさわ せいのすけ、1855年(安政2年4月)- 1906年(明治39年)6月28日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。 陸奥仙台藩領志田郡古川村(古川町、古川市を経て現大崎市古川)に生まれる。1889年(明治22年)古川町会議員に当選したのを皮切りに、志田郡会議員、宮城県農工銀行、同商業銀行、古川馬車鉄道各取締役などを歴任した。 1904年(明治37年)高橋徳右衛門の後を受けて宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
工藤 干城(くどう たてき、1855年(安政2年4月)- 1… 工藤 干城(くどう たてき、1855年(安政2年4月)- 1916年(大正5年)5月2日)は、明治から大正初期の地主、実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県新居郡神戸村長。旧姓・三並。 伊予国新居郡中野村(愛媛県新居郡中野村、神戸村を経て現西条市)で三並家に生れ、その後、神戸村の工藤淑三の養子となる。漢学を修めた。農業を営む。 自由民権運動に加わり、植松暢美らと政治団体・正志社を結成。大同団結運動では大同派東予倶楽部で活躍した。1883年(明治16年)愛媛県会議員に選出され、1894年(明治27年)3月まで在任し、同常置委員も務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(愛媛県第4区、自由党)で当選し、弥生倶楽部に所属し衆議院議員に1期在任。
石橋 彦三郎(いしばし ひこさぶろう、1855年〈安政2年5… 石橋 彦三郎(いしばし ひこさぶろう、1855年〈安政2年5月〉または1862年8月11日(文久2年7月16日) - 1938年または1939年)は、日本の実業家。滋賀県出身であるが、北海道に渡って「丸ヨ石橋彦三郎商店」の屋号で醤油醸造を手がけ、道内でトップ、日本でも「醤油御三家」に数えられる生産高の事業に育てた。 後の滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)に生まれる。出生当時の名前は「捨治郎」もしくは「捨次郎」。彦治の五男であった。 兄の先代・彦三郎は彦根藩が幕末に北海道日高国沙流に藩士を駐在させる際に御用商人として箱館で米穀荒物商を開き、1871年(明治4年)に小樽に店舗を移した。先代・彦三郎は海産物を江戸に運ぶ事業もおこなったとされる。
清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月… 清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月) - 1928年(昭和3年)9月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 肥前島原藩領国東郡高田村(大分県西国東郡高田町、豊後高田町を経て現豊後高田市)に生まれる。1880年(明治13年)高田村会議員に就任したのを皮切りに、西国東郡会議員、同参事会員、同高田郵便電信局長、大分県木蝋業組合長、西国東郡農会長などを歴任する。ほか、実業家として共立高田銀行頭取、豊州製蝋社長、宇佐参宮鉄道取締役などを務めた。 1918年(大正7年)大分県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年7月20日から同年9月28日まで在任した。
広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月2… 広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月22日(安政元年11月3日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。5代二三郎。北前船主。 広海常信(4代二三郎)の長男として、加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)に生まれる。生家は加賀大聖寺藩の海運界の旧家。家訓により16歳から5年間手船に乗って船乗りと商売の基礎を学んだ。1887年(明治20年)1月、常信の死亡により家督を相続する。 1884年(明治17年)大阪に進出し、広海商店と屋号を掲げ、船舶業および海産物業を経営し、1889年(明治22年)には北海道小樽に「広海倉庫」を設立した。
高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(185… 高峰 譲吉(たかみね じょうきち、嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)は、日本の化学者、実業家。工学博士号と薬学博士号を受ける。タカジアスターゼ、アドレナリンを発見し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。日本人による開発型ベンチャー企業やスタートアップの先駆者とされる。理化学研究所の設立者の一人。1912年帝国学士院賞受賞、1913年帝国学士院会員。 現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒、応用化学を専攻し、社会人となってから3年間、官費で留学。 1854年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の漢方医高峰精一の長男として生まれる。
小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1… 小野木 源次郎(おのぎ げんじろう、安政元年10月28日〈1854年12月17日〉 - 1925年〈大正14年〉9月11日)は、幕末・戊辰戦争期の武士、明治から大正にかけての警察官・実業家・政治家である。 会津藩藩士として生まれ、戊辰戦争に従軍。その後は警察官に転じ、各地の警察署長や県警察部長などを歴任した。1907年(明治40年)より実業界に転じて長野県の電力会社信濃電気の社長に就任し、1912年(大正元年)には郷里の福島県若松市(現・会津若松市)に戻って若松市長(第5代)を務めた。 小野木源次郎は、安政元年10月28日(新暦:1854年12月17日)、会津若松城下(現・福島県会津若松市)に生まれた。
金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) -… 金子 弥平(かねこ やへい、安政元年12月(1854年) - 1924年2月17日)は、明治期の官僚、満州開拓者、実業家。興亜会や黒龍会といったアジア主義団体に幅広く通じたナショナリストの魁的な存在。正式名は金子弥兵衛。 弥平はペリー来航の翌年、安政元年12月(1854年)に現在の岩手県花巻市で生まれる。金子家は近江系の有力商家で、南部藩から苗字帯刀を許されていた郷士に当たる人物である。明治維新後の1872年(明治5年)の春に単身上京して福澤諭吉の書生となり、翌年の1873年(明治6年)5月には慶應義塾に入る。卒業後は、郷党の先輩・東政図に触発され、清国北京公使館通弁見習として大陸に渡り、種々の活動を試みた。
伊藤 淳(いとう あつし、1854年11月22日(安政元年1… 伊藤 淳(いとう あつし、1854年11月22日(安政元年10月3日)- 1903年(明治36年)5月29日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越前国大野郡御領村(福井県大野郡阪谷村を経て現大野市御領)で、豪農・伊藤三郎左衛門の長男として生まれた。普通学を修めた。1874年(明治7年)8月に家督を相続した。 大区副区長、阪谷村五箇村組合長、大野郡会議員(2期)、同参事会員などを務め、明治初期に永昌社(金融機関)を創立して農家の便宜を図った。1885年(明治18年)11月、福井県会議員に選出され、1902年(明治35年)8月まで5期在任。この間、同常置委員、同参事会員などにも在任し、道路の整備などに尽力した。
稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854… 稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854年10月30日〉 - 昭和15年8月31日〈1940年8月31日〉)は、日本の政治家、実業家。地主。 伯耆国米子(現、鳥取県米子市紺屋町)出身。元米子町会議員。酒・醤油醸造業合名会社稲田本店代表社員。稲田家の六代目。鳥取県平民。米子銀行監査役。元衆議院議員、稲田家の七代目稲田藤治郎の兄。 当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである。10000円〜15000円の部に稲田秀太郎の名前がみえる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年1… 11代 森川 六右衛門(もりかわ ろくうえもん、1854年10月12日(安政元年8月21日)- 1905年(明治38年)10月15日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・卯之助、六太郎。号・顕堂。 伊賀国阿拝郡上野福居町(三重県阿拝郡上野町福居町、阿山郡上野町、上野市を経て現伊賀市)で、商業、10代・森川六右衛門(顕斎)、欽子の息子として生まれる。熊田二爻に学び、さらに猪飼箕山(猪飼敬所の子)、富士林東峡、速水謙堂、山中房之助などにつき和漢学を修めた。津藩武術指南役・太田小源太、橋本佐源太らにつき剣術砲術を修めた。 1869年(明治2年)津藩から米問屋役を命じられた。1873年(明治6年)私塾を開いて漢学、数学を伝授した。
団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(… 団野 記平治(團野、だんの きへいじ、1854年10月8日(安政元年8月17日)- 1923年(大正12年)12月3日)は、明治期の農業経営者、醸造家、政治家。衆議院議員、兵庫県多紀郡城南村長。 丹波国多紀郡八上内村(兵庫県多紀郡八上内村、八上村、篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市八上内)で、中川儀十郎の二男として生まれた。漢学、数学を修めた。1879年(明治12年)同郡小枕村(城南村、丹南町、篠山市を経て現:丹波篠山市小枕)の素封家・団野仲右衛門の養子となり、農業・酒造業を営む。 酒造組合長、城南村農会長を務め、村落の共有林の松を杉檜に植替えるなど造林の振興に貢献した。 政界では学務委員、城南村会議員、学区組合会議員、郡組合会議員、多紀郡会議員、同副議長などを務めた。
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈… 中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈1854年10月4日〉 - 1901年〈明治34年〉10月7日)は、明治時代の官吏、実業家、ジャーナリスト。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。名字の読みは「なかかみがわ」とされたものもあるが、正しくは「なかみがわ」である。 現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。婉は福澤百助の娘で、諭吉の姉にあたる。
佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉… 佐々木 勇之助(ささき ゆうのすけ、1854年9月29日(嘉永7年8月8日) - 1943年(昭和18年)12月28日)は、東京(江戸)出身の銀行家、実業家。号は茗香。 嘉永7年8月8日、武蔵国江戸本所六間堀(現 江東区新大橋)で生まれる。幼名清松。父は旗本浅野伊賀守の家臣佐々木直右衛門。 幼くして藤沢次謙に算術の手ほどきを受け、のち幕府講武所傘下で築地にあった軍艦操練所で数学始め西洋実学を修得。さらに青木松次郎福軒の塾で漢学を習い、余暇に剣術を学ぶといった当時の武士の子弟の教育を受けて育つ。 明治維新後、三井小野組の為替方に入り1873年(明治6年)に三井小野組を中心とする第一国立銀行が創立されると、それに伴い同行へ移籍。
斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(… 斎藤 善右衛門(さいとう ぜんえもん、安政元年閏7月28日(1854年9月20日) - 1925年(大正14年)7月25日) は、戦前宮城県の資産家、政治家、実業家。石巻市黒沢斎藤家9代目。名は有成。前谷地村二等戸長、斎藤株式会社社長、財団法人斎藤報恩会理事長、仙台信託取締役社長。 安政元年閏7月28日(1854年9月)、黒沢斎藤家の8代斎藤善次右衛門の長男として陸奥国桃生郡前谷地村黒沢に生まれた。幼名は養之助。黒沢斎藤家は東北三大地主と称される大地主の近代資産家であった。 地元で増田小五郎に四書五経の句読を受け、慶応3年(1867年)仙台に出て叔母すゑの白幡嘉膳宅に住み、藩校養賢堂に通い、秋保太輔に経史、桜田景輔に剣道を学んだ。
右田 古文(みぎた こぶん、1854年8月12日(安政元年7… 右田 古文(みぎた こぶん、1854年8月12日(安政元年7月19日)- 1933年(昭和8年)12月12日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 石見国那賀郡田野原村(島根県那賀郡杵束村、弥栄村を経て現浜田市弥栄町田野原)で、豪農・右田常十郞の長男として生れ、右田古信の養子となった。津和野の福羽美静に師事し漢学を修めた。1892年(明治25年)6月、家督を相続した。 1874年(明治7年)木束部副戸長に就任。以後、田野原村会議員、町村浦連合会議員、杵束村会議員、町村組合会議員、田野原区会議員などを務めた。1885年(明治18年)島根県会議員に選出され、1894年(明治27年)同議長に就任。
加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(185… 加藤 政之助(かとう まさのすけ、嘉永7年7月18日(1854年8月11日) - 昭和16年(1941年)8月2日)は、明治期、大正期、昭和期の政治家、ジャーナリスト、実業家、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長(第7代)などを歴任した。 武蔵国足立郡滝馬室村(現・埼玉県鴻巣市)加藤唯右衛門の長男として生まれる。1869年、英漢私塾を開く。16歳で父を亡くす。。馬室村の村長に就任した。糠田学校の教員時代に白根多助埼玉県令に見出され、県の学務課に就職したが、友人の桐原捨三の誘いで、1875年(明治8年)11月、慶應義塾に入学。在学中より、東京日日新聞や東京曙新聞に寄稿していた。福沢諭吉の紹介で五代友厚が経営する大阪新報記者となり、同紙にて、福沢が提唱していた商業学校設立の啓蒙キャンペーンを行い、大阪での商業講習所設立に尽力する。
小野 慶蔵(おの けいぞう、1854年7月24日〈嘉永7年6… 小野 慶蔵(おの けいぞう、1854年7月24日〈嘉永7年6月30日〉 - 1920年〈大正9年〉10月31日)は、日本の実業家、政治家。 陸奥国盛岡呉服町にて、豪商小野組の支流である芳野屋の子として生まれた。藩校作人舘に学び,1872年(明治5年)、18歳で京都に出て商業の修業をした。帰郷後に金銀・株売買業で産を成し、盛岡の経済界に頭角を現すようになる。盛岡に市制が施行された1889年(明治22年)に35歳で市会議員となり、1912年(明治45年)まで23年間務めた。 1890年(明治23年)第九十国立銀行取締役に就任以来、同行株式を集め、筆頭株主でありながら1907年(明治40年)に(旧)岩手銀行を設立し、これ以来、“盛岡経済界の風雲児”と呼ばれるようになる。
佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月… 佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月11日)- 1921年(大正10年)7月17日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡谷村長。 豊後国大分郡、のちの大分県大分郡谷村(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町)で、佐藤運喜の長男として生まれる。1867年(慶応3年)熊本藩英式練兵小隊長となる。1872年(明治5年9月)家督を相続した。農業を営む。 1873年(明治6年)保長、1876年(明治9年)戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により誕生した谷村の初代村長となり1893年(明治26年)まで在任。1901年(明治34年)4代谷村長に再任され1903年(明治36年)まで務めた。
初代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、嘉永7年6月9日(18… 初代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、嘉永7年6月9日(1854年7月3日)- 昭和8年(1933年)7月31日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員、町会議員、郡会議長を務めた。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。 坂口合名会社・代表社員会長2代目坂口平兵衛の実父。 米子・尾高町に生まれた。坂口家は藩政時代“沢屋”と称し、綿、木綿仲買業を営んでいた。米子の商家ではまず中堅クラスであった。 青少年時代についてはくわしいことはわからない。同家所蔵の『歴代伝記』によると、幼にして学に志ざし、今井芳斎、高嶋倫閑、樋野含斎などの門に入り漢学を修め、長ずるに及んで家業のため大いに妨げられたが、余暇常に書をひもとき竹馬の友と遊びごとはほとんどなかったと述べている。
大垣 平次(おおがき へいじ、1854年7月2日(安政元年6… 大垣 平次(おおがき へいじ、1854年7月2日(安政元年6月8日)- 1939年(昭和14年)2月11日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 加賀国石川郡徳光村(石川県石川郡徳光村、御手洗村、松任町、松任市を経て現白山市徳光町)で、豪農・大垣兵三郎の長男として生まれた。農業を営む。 1879年(明治12年)4月、石川県会議員に選出され、通算5期在任し、1888年(明治21年)10月まで務め、同常置委員にも選ばれた。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(石川県第1区、立憲改進党)では次点で落選し、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(石川県第1区、中央交渉会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永… 日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永7年4月26日)- 1895年(明治28年)8月4日)は、明治期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。 備前国和気郡奥吉原村(岡山県和気郡熊山村、赤磐郡熊山町を経て現赤磐市奥吉原)で、大庄屋・日笠太左衛門の長男として生れた。閑谷校で学び漢学を修めた。農業を営む。 1877年(明治10年)1月、和気郡第5戸長役場戸長に就任。1878年(明治11年)郡役所が設置され郡書記となる。1882年(明治15年)岡山県会議員に選出され、3期12年間在任し、この間、常置委員を2期務めた。 1889年(明治22年)12月、山陽鉄道に入社して書記となり、岡山派出所に在勤し1891年(明治24年)の岡山開通に尽力。
目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4… 目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4月11日)- 1899年(明治32年)12月31日)は、明治期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。号・楓堂(ふうどう)。 越後国魚沼郡、のちの新潟県北魚沼郡須原村(守門村須原を経て現魚沼市須原)で、須原村庄屋・目黒五郎助の息子として生まれる。1868年1月26日(明治元年1月2日)家督を相続した。 戸長を務める。1880年(明治13年)10月、新潟県会議員半数改選で初当選し、1883年(明治16年)1月まで在任。1882年(明治15年)12月、小千谷町(現小千谷市)で魚沼立憲改進党が結成されると関矢孫左衛門、岡田龍松らと共に加わった。1887年(明治20年)7月、新潟県会議員補欠選挙で当選し1888年(明治21年)11月まで在任。
牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月… 牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月29日)- 1934年(昭和9年)4月29日)は、日本の官僚、政治家、実業家。県知事、衆議院議員。幼名・銑太郎。 肥前国南高来郡島原村新建(現:長崎県島原市)で、島原藩士・牧真成の長男として生まれる。 1875年1月、長崎県等外一等出仕となる。同年2月、福岡県に転じ十五等出仕・地租改正掛に就任。以後、史生、権少属、兼警部心得、少属などを歴任。 1880年4月、太政官に転じ四等属・内務部勤務となる。以後、審理局御用掛、参事院書記生、同議官補、法制局参事官、枢密院書記官などを歴任し、1889年3月に退官した。その後、総武鉄道株式会社の創立委員長となり、1890年1月、会社設立と共に社長に就任し1892年11月まで在任した。
西巻 豊佐久(にしまき とよさく、安政元年(1854年)4月… 西巻 豊佐久(にしまき とよさく、安政元年(1854年)4月23日 - 明治43年(1910年)8月26日)は、日本の実業家、銀行家。横浜正金銀行の幹部として上海・神戸・ロンドン各支店の経営を担い、同銀行の国際金融展開を支えた人物。日本人による初のキリスト教団体「福音会」の創設者の一人でもある。 越後国刈羽郡田尻村(現在の新潟県柏崎市)に生まれる。明治10年(1877年)、志を抱いて渡米し、サンフランシスコで苦学生生活を送りながら学んだ。同地では、美山貫一、小方仙之助らと共に日本人初のキリスト教団体「福音会」を設立した。この福音会は、後の日本プロテスタント史における初期留学生信徒グループとして知られている。
青木 正太郎(あおき しょうたろう、安政元年3月18日(18… 青木 正太郎(あおき しょうたろう、安政元年3月18日(1854年4月15日) - 昭和7年(1932年)7月20日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員を経て、東京米穀商品取引所理事長や、京浜電気鉄道社長を務めた。 武蔵国多摩郡相原村(神奈川県南多摩郡堺村、その後東京府に移管され現町田市相原町)の豪農、青木勘次郎の長男として生まれる。幼少時は父から勉強することを禁じられていた。1882年から神奈川県会議員を務め、埼玉往還の開設にあたるなどした。1884年武相銀行頭取。1896年には自由党から衆議院議員選挙に出馬したが進歩党との関係が疑われて除名となり落選した。1898年無所属で出馬して衆議院議員に当選した。
山田 嘉穀(やまだ かこく、1854年4月12日(嘉永7年3… 山田 嘉穀(やまだ かこく、1854年4月12日(嘉永7年3月15日)- 1928年(昭和3年)12月2日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、神奈川県高座郡海老名村長。雅号・稼堂。 相模国高座郡河原口村(のち神奈川県高座郡海老名村、現:海老名市)の醸造家・山田嘉年、時夫妻の長男として生まれる。耕余塾に通い小笠原東陽に漢学を学んだ。 海老名小学校教員、神奈川県属、河原口村戸長を務め、その後、神奈川県会議員に当選。武相困民党事件の仲裁役を担ったが、金融会社(債権者)と農民(負債者)との間の主張の隔たりは大きく仲裁を断念した。1884年、高座郡会議長に就任し、自由党に入党した。 1892年2月の第2回衆議院議員総選挙で中島信行の後継として神奈川県第五区から自由党所属で出馬して当選。
岡崎 邦輔(おかざき くにすけ、1854年4月12日(嘉永7… 岡崎 邦輔(おかざき くにすけ、1854年4月12日(嘉永7年3月15日) - 1936年(昭和11年)7月22日)は、日本の政治家・実業家。号は晩香。 自由党を経て、立憲政友会衆議院議員、加藤高明内閣の農林大臣、貴族院議員を歴任する。陸奥宗光の配下として活躍し、政界の寝業師、策士として知られた。 現在の和歌山市で、嘉永7年(1854年)3月15日(衆議院に提出した履歴による。嘉永6年(1853年)説もあり)、紀州藩士・長坂学弥(がくや)の子として生まれる。孫の岡崎久彦によれば、長坂家は長坂血鑓九郎の末裔であるという。江戸の旗本直参・長坂本家との関係は、系図に明らかでなく、大坂夏の陣後の元和年間に徳川頼宣に従って紀州入りしたときに与えられた1,000石のお墨付が遺るのみという。
古屋 専蔵(專藏、ふるや せんぞう、1854年4月4日(安政… 古屋 専蔵(專藏、ふるや せんぞう、1854年4月4日(安政元年3月7日)- 1924年(大正13年)7月25日)は、明治から大正期の豪農、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・清太郎。 甲斐国八代郡土塚村(山梨県八代郡御代咲村、東八代郡御代咲村土塚、浅間村、一宮町を経て現笛吹市一宮町土塚)で、豪農・古屋総兵衛、かつ の長男として生まれる。古屋家は代々当主が専蔵と総兵衛を交互に襲名する決まりで、1874年(明治7年)に祖父の通称・専蔵を襲名した。幼くして学問に関心が高く一宮村の蜂谷(名不詳)から学び、次いで徽典館分校・石和教諭所で深町小七郎から指導を受けた。その後上京を願ったが果たせず独学を続けた。
加藤 正義(かとう まさよし、1854年3月21日(嘉永7年… 加藤 正義(かとう まさよし、1854年3月21日(嘉永7年2月23日) - 1923年(大正12年)12月24日)は日本の実業家、政治家。元日本郵船副社長。幼名源太郎。 元中央大学総長・東京大学名誉教授加藤正治の養父(岳父)。 1854年3月21日(嘉永7年2月23日)、伯耆国日野郡渡村(現・鳥取県日野郡日野町別所)の農家に生まれた。加藤良吉の二男。7歳の頃から寺子屋に通った。12歳に達した時、根雨の大庄屋近藤喜八郎のもとに奉公に出された。 1873年、鳥取県庁を皮切りに山形県庁、兵庫県庁に勤務した。1885年、兵庫県令森岡昌純が農商務少輔に転出すると、その推薦で農商務権少書記官となり 当時過当競争の弊害で産業発展にブレーキをかけていた三菱汽船と共同汽船の合併に奔走、日本郵船の創立をみた。
箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7… 箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7年2月15日〉- 1929年〈昭和4年〉8月30日)は、日本の新聞記者、実業家、政治家。 豊後国臼杵で、臼杵藩の武道師範の実相寺常之丞の次男として生まれる。15歳で藩士箕浦又生の養子となる。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。福澤諭吉の子孫の家庭教師を担当した。1880年(明治13年)、神戸新報(慶応義塾―交詢社系の新聞)を主筆(兵神交詢社会員、神戸商法講習所所長)として、社主安倍清誠五郎、代表三木善八(のち『郵便報知新聞』社主)、主幹鹿島 秀麿(のち兵庫県会議員をへて改進党系代議士)等と共に、創刊に関わった。郵便報知新聞社に入社し、新聞記者の後、社長となる。
先代 植竹 三右衛門(うえたけ さんえもん、1854年3月1… 先代 植竹 三右衛門(うえたけ さんえもん、1854年3月13日〈安政元年2月15日〉 - 1933年〈昭和8年〉7月6日)は、日本の政治家(貴族院議員)、実業家、資産家、篤農家、味噌醤油醸造家、栃木県の大地主、栃木県地主会顧問、栃木県多額納税者、宇都宮商業会議所特別議員。従六位。勲四等。族籍は栃木県平民。 下野国那須郡、のちの栃木県那須郡川西町(現・大田原市)で三右衛門(のち三重郎)の二男として生まれた。1874年、家督を相続し、幼名・虎次郎を改め、三右衛門を襲名した。農業、味噌醤油醸造業を営む。傍ら殖産興業に鋭意し、実業界に活躍し、公共慈善事業に尽くした。 1897年、栃木県農工銀行設立委員を命ぜられた。
川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈… 川喜田 四郎兵衛(かわきた しろうべえ、嘉永7年1月12日〈1854年2月9日〉 - 1919年〈大正8年〉7月31日)は、明治から大正時代にかけて三重県津市を拠点に活動した日本の実業家・政治家である。「四郎兵衛」は当主が代々襲名した名跡であり、諱は政孝という。 家業として酒類・米穀・肥料などを扱う問屋を営みつつ地元財界に進出し、津商業会議所(現・津商工会議所)会頭と百五銀行頭取を約25年にわたり兼任。政界では1889年(明治22年)の市制施行以来30年にわたり津市会議員を務め、その間副議長・議長を歴任した。女婿に百五銀行頭取の職を継いだ川喜田久太夫(諱は政令、号は半泥子)がいる。 嘉永7年1月12日(=安政元年、新暦:1854年2月9日)、先代川喜田四郎兵衛(隠居号「岫斎」、1832年生)の長男として生まれた。
若宮 正音(わかみや しょうおん、1854年2月7日〈安政元… 若宮 正音(わかみや しょうおん、1854年2月7日〈安政元年1月10日〉 - 1924年〈大正13年〉4月5日)は、日本の実業家、官吏。農商務省商工局長。逓信省電務局長。電信協会会長。無線電信講習所初代所長。族籍は東京府平民。 兵庫県城崎郡豊岡滋茂町(現・兵庫県豊岡市元町)の人。若宮正海の長男。成長して興国寺に入り仏典を修める。また池田草庵に就き漢籍を学ぶ。自由党総理板垣退助に従い民権自由を唱道する。 明治の初め大阪師範学校に入り、卒業すると教員になる。辞して東京に出て1881年に初めて内務省に出仕する。工部省の官吏となり逓信省が新設されるとこれに転じる。1883年に駅逓局に転じ逓信省書記官に進み兼ねて秘書官となる。
野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日… 野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日(安政元年1月1日) - 1917年(大正6年)12月23日)は、日本の会社役員。多久鉱業、古賀山炭坑各取締役。族籍は福岡県平民。 豊前国下毛郡宮園村(現・大分県中津市耶馬溪町大字宮園)出身。朝吹泰蔵の三男。1864年に野依半七郎の養子となり、1877年に家督を相続する。会社の重役である。住所は佐賀市西田代町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月… 天埜 伊左衛門(伊左衞門、あまの いざえもん、1854年1月27日(嘉永6年12月29日)- 1930年(昭和5年)8月28日)は、明治から大正期の酒造家、実業家、政治家。衆議院議員、愛知県知多郡亀崎町長。 尾張国知多郡乙川村(愛知県知多郡乙川村、亀崎町を経て現半田市亀崎町)で、先代・天埜伊左衛門の長男として生まれた。1869年(明治2年6月)家督を相続した。酒造業を営む。私塾を設け郷土の子弟の教育に尽くした。 乙川村戸長となる。1884年(明治17年)愛知県会議員に選出され1892年(明治25年)まで在任。1889年(明治22年)亀崎町長に就任。所得税調査委員、亀崎教育会長も務めた。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(愛知県第7区)で初当選し、その後、第4回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。