飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月2… 飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月21日(嘉永5年7月7日)- 1923年(大正12年)9月18日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡日高村長。 越後国刈羽郡新道村、のちの新潟県刈羽郡日高村(高田村を経て現柏崎市新道)で、大地主・飯塚弥兵衛の長男として生れた。藍澤南城の三余堂学寮で漢学、洋学を学んだ。1868年(明治元年6月)に家督を相続。農業を営む。 実業界などでは、1882年(明治15年)1月、第百三十九国立銀行取締役に就任。その他、同行監査役、日本石油監査役、柏崎銀行取締役、同頭取、柏崎米穀取引所理事、北浜酒造監査役、北越植民監査役、日本赤十字社特別会員、帝国義勇艦隊名誉会員、恩賜財団済生会名誉会員などを務めた。
十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8… 十代目伊藤伝七(じゅうだいめ いとう でんしち、1852年8月9日(嘉永5年6月24日) - 1924年(大正13年)8月12日)は、 明治大正期の企業家。三重県四日市市出身の三重紡績創設者で第2代東洋紡績株式会社社長。三岐鉄道建設に私費を投じて沿線に小野田セメントを誘致した四日市市名誉市民の十一代目伊藤伝七は息子(養子)である。 伊勢国三重郡室山村(現在の三重県四日市市四郷地区)の酒造業の伊藤家に生まれる。母は進士みす。幼名は伊藤清太郎。江戸時代の幕末期に元服して伊藤伝一郎。1883年(明治16年)に父の9代目伊藤伝七が亡くなり、伊藤伝七(10代目)を襲名した。 1879年(明治12年)5月60歳で没した稀代の製糸王伊藤小左衛門 (5代目)の遺志を継いだのは、製糸頭の伊藤小十郎(伊藤小左衛門5代目の子)と、後に紡績王と称される伊藤伝一郎(伊藤伝七10代目、後の伊藤伝七知周)の2人であった。
梅浦 精一(うめうら せいいち、嘉永5年6月13日(1852… 梅浦 精一(うめうら せいいち、嘉永5年6月13日(1852年7月29日) - 1912年(明治45年)3月17日)は明治時代の実業家。越後国長岡出身。大蔵省紙幣寮、新潟県立新潟学校教頭、内務省勧業寮を経て、東京商法会議所書記長、石川島造船所専務取締役。日本初の銀行簿記書『銀行簿記精法』訳者。 嘉永5年(1852年)6月13日越後国長岡の医家に生まれた。幼名は敬助。10歳で刈羽郡南鯖石村三余塾藍沢南城に漢学を学び、13歳で長岡藩医山田到処にオランダ語初歩を学んだ。 1868年(明治元年)江戸に遊学して石井謙道に西洋医学を学び、学資が不足すると学友原田豊、岡玄卿の助けで開業医溝部有山の助手兼家僕となったが、結局医学を断念した。
竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852… 竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852年7月15日〉 - 1900年〈明治33年〉7月26日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、群馬県会議員。幼名・伴吉。 上野国勢多郡新川村(群馬県勢多郡新川村、南勢多郡新川村、新里村、勢多郡新里村を経て現桐生市新里町新川)で、竹内小吉郎、なか の二男として生れ、1877年(明治10年)叔父・竹内文五郎が病死したため、その死籍を継承し鼎三と改名した。学問を好み、村塾で儒学を修め、渡辺真楫から治水造林を学んだ。 15歳で父に代わって公務に就き、小学校教員、同教頭を務めた。学務委員、村吏となり、1880年(明治13年)7月、群馬県会議員に選出され、1891年(明治24年)まで在任し、この間、常置委員、第4代副議長も務めた。
都崎 秀太郎(つざき ひでたろう、1852年6月25日(嘉永… 都崎 秀太郎(つざき ひでたろう、1852年6月25日(嘉永5年5月8日)- 1926年(大正15年)11月4日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員、香川県会議長。号・梧庵。 讃岐国阿野郡福江村(香川県阿野郡金山村、綾歌郡金山村、坂出町を経て現坂出市福江町)で、糖業、富農・都崎光蔵の三男として生まれる。高松藩校・講道館で学んだ。1885年(明治18年)11月、家督相続した。 小学校訓導、福江村戸長などを務めた。1882年(明治15年)愛媛県会議員に選出され、同常置委員、同勧業諮問会員に在任。1888年(明治21年)香川県が再置され、その後、香川県会議員に選出され、同常置委員、所得調査委員、地方衛生会員、香川県育英会評議員なども務めた。
宮口 二郎(みやぐち じろう、1852年5月21日(嘉永5年… 宮口 二郎(みやぐち じろう、1852年5月21日(嘉永5年4月3日)- 1930年(昭和5年)9月9日)は、明治から昭和初期の養蚕家、実業家、政治家。衆議院議員、群馬県会議長、群馬県碓氷郡初代原市町長。 上野国碓氷郡郷原村(群馬県碓氷郡原市町、安中町を経て現安中市郷原)で、薬屋絹商人・孫平、みい の二男として生まれた。兄・裕平が上京したため家督を相続した。安中藩藩校造士館教授佐々木愚山に師事し漢学を修めた。 1873年(明治6年)原市村吏員に就任し、第21大区副区長、碓氷郡書記を歴任。1879年(明治12年)第1回群馬県会議員選挙で当選し、通算6期在任し、同常置委員、同副議長を務め、1891年(明治24年)第4代議長に就任。
栗原 イネ(くりはら イネ、嘉永5年3月5日(1852年4月… 栗原 イネ(くりはら イネ、嘉永5年3月5日(1852年4月23日)- 1922年(大正11年)1月31日)は明治期の実業家。ダイドーリミテッド創業者。
久保 九兵衛(九兵衞、くぼ くへえ、1852年4月22日(嘉… 久保 九兵衛(九兵衞、くぼ くへえ、1852年4月22日(嘉永5年3月4日)- 1937年(昭和12年)1月23日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・栄三郎。 越前国丹生郡風巻村(福井県丹生郡風巻村、天津村、清水町風巻を経て現福井市風巻町)で、斎藤(斉藤)清兵衛の三男として生まれ、1854年4月15日(安政元年3月18日)同郡三留村(三方村、清水町三留を経て現:福井市三留町)の大地主、庄屋、酒造業・先代久保九兵衛の養嗣子となり、1880年(明治13年)10月1日、家督を相続し九兵衛を襲名した。本保村(のち吉野村本保、現越前市)のたつみ(河野家屋号)塾などで漢学を修めた。
兵頭 昌隆(ひょうどう まさたか、1852年3月20日(嘉永… 兵頭 昌隆(ひょうどう まさたか、1852年3月20日(嘉永5年2月30日)- 1911年(明治44年)3月13日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県宇和郡川之石村長。旧姓・竹村、田中。 伊予国宇和郡宇和島城下(愛媛県宇和郡宇和島、北宇和郡宇和島町を経て現宇和島市)で宇和島藩士・竹村佐平の長男として生れ、宇和郡川之石浦(川之石村、川之石町、保内町を経て現八幡浜市保内町川之石)の郷士・田中孫右衛門の養子となり、その後、資産家・兵頭吉蔵の娘婿となった。 1885年(明治18年)3月、川之石浦戸長となり、川之石郵便局長も務めた。1886年(明治19年)3月、愛媛県会議員に選出され、1890年(明治23年)10月、病のため辞任。
長谷川 豊吉(はせがわ とよきち、1852年3月12日(嘉永… 長谷川 豊吉(はせがわ とよきち、1852年3月12日(嘉永5年2月22日)- 1923年(大正12年)9月1日)は、幕末の名主、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員。 相模国足柄下郡曽我谷津村(現:神奈川県小田原市)で、名主・長谷川文右衛門の長男として生まれる。漢学を修める。自由民権運動に加わり自由党に属して活動した。戸長、学務委員、郡徴兵参事員、下曽我村長、同村会議員、神奈川県会議員、同常置委員、県徴兵参事員、学校組合会議員、水利組合会議員などを歴任。その他、小田原通商銀行監査役、小田原電気鉄道取締役、足利肥料 (株) 監査役などを務めた。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙において神奈川県郡部区で立憲政友会から出馬し当選。
近藤 重三郎(こんどう じゅうさぶろう、1852年3月5日〈… 近藤 重三郎(こんどう じゅうさぶろう、1852年3月5日〈嘉永5年2月15日〉 - 1910年〈明治43年〉3月6日)は、明治時代における愛知県岡崎市の実業家・政治家である。 味噌・醤油醸造業「伊勢屋」を営む傍ら、有志とともに同地の電力会社岡崎電灯を起業し、同社を中心に電気事業に関わる。政界では岡崎町会議員・愛知県会議員を歴任した。死後は養嗣子が2代目近藤重三郎(1886年 - 1953年)を襲名している。 近藤重三郎は、嘉永5年2月15日(新暦:1852年3月5日)、三河国御油(現・愛知県豊川市御油町)の中村家に生まれた。幼名は安吉。生家の中村家は東海道の宿場御油宿で味噌・醤油醸造業と旅籠「大津屋」を営む旧家で、7代目当主の慶蔵は名望家として知られた。
門脇 重雄(かどわき しげお、嘉永5年2月8日(1852年2… 門脇 重雄(かどわき しげお、嘉永5年2月8日(1852年2月27日) - 大正10年(1921年)12月15日)は、日本の実業家、政治家。元渡村長、渡村会議員、鳥取県会議員、衆議院議員。鳥取県士族。 渡の日御崎神社神官から身をおこし新政府の高官となった門脇重綾の二男。福羽美静の東京英和学校に在学中父の死に遭い帰郷した。県会二期(第九代議長、第七代副議長)、国会三期を歴任し、県下の自由党、後の政友会のリーダーとして活躍した。養蚕業の振興、中海埋立をはじめ、米子銀行・県農工銀行創立や山陰電気株式会社設立等、殖産勧業面でも優れた業績を残した。 明治23年(1890年)7月、国会開設に伴う第一回衆議院議員選挙が実施され、本県第三区(会見・汗入・日野三郡)から県会議員門脇重雄が立候補した。
竹尾 茂(たけお しげる、1852年2月24日(嘉永5年2月… 竹尾 茂(たけお しげる、1852年2月24日(嘉永5年2月5日)- 1937年(昭和12年)1月16日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、福井県会議長、福井県大野郡上庄村長。旧姓・真柄(まから)。 越前国大野郡猪ノ島村(福井県大野郡上庄村を経て現大野市)で、真柄重右衛門の二男として生まれた。1873年(明治6年)7月、同郡稲郷村(上庄村を経て現:大野市)の旧家・故竹尾五右衛門の婿養子となり、その長女はま と結婚した。農業を営む。 1881年(明治14年)4月、福井県設置初の県会議員選挙で当選し、1899年(明治32年)9月まで通算6期在任した。この間、同議長(第5代1885年11月-12月)、同副議長(第6代1885年12月-1887年12月、第13代1892年11月-1893年9月)も務めた。
柳瀬 春次郎(やなせ はるじろう、1852年2月20日(嘉永… 柳瀬 春次郎(やなせ はるじろう、1852年2月20日(嘉永5年2月1日)- 1910年(明治43年)5月28日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡今治村風早(愛媛県越智郡今治村、今治町を経て現今治市)で生れた。京都同志社で学んだ。 帝国議会前に愛媛県政界が活発になるとこれに加わり、当初は改進派として活動したが、長屋忠明の勧めで大同派に転じた。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(愛媛県第2区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。同年9月の第4回総選挙では村上芳太郎に敗れて落選し、政界を引退した。 その後、実業界で活躍し、伊予本木取締役、伊予晒粉監査役、伊予興業合資会社業務担当社員などを務め、柳瀬商行を設立して社長に就任した。
大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永… 大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永5年1月20日)- 1927年(昭和2年)5月2日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国御井郡久留米城下苧扱川町(現福岡県久留米市本町)で、富豪・大藪萬蔵の長男として生まれる。1900年(明治33年)8月に分家した。 第六十一国立銀行取締役、久留米紡績会社社長、筑後水力電気顧問、大川鉄道顧問などを務め、市営瓦斯事業の開始などに尽力し、貧困層への義捐などを行った。 政界では、1889年(明治22年)4月の市制施行の際に久留米市会議員に選出されたが数ヶ月で辞職。その後、市参事会員に就任。1889年(明治22年)4月から1914年(大正3年)まで久留米市会議員に選出され、その他、所得税調査委員会会長、宅地価修正委員会会長などを務めた。
坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5… 坂元 規貞(さかもと のりさだ、1852年1月22日(嘉永5年1月2日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の官吏、実業家、政治家。衆議院議員。 肥前国佐賀郡新郷村(佐賀県佐賀郡北川副村新郷を経て現佐賀市)で、佐賀藩士・坂元敬之進の長男として生まれる。藩校弘道館で学んだ。その後、木原隆忠の木原塾に入り塾長を務めた。 1876年(明治9年)長崎県15等出仕となり、1887年(明治20年)文部属に転じ、その後退官した。 1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区から中央交渉会所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。 その後、実業界に転じ、1912年(明治45年)佐賀米穀取引所理事に就任した。
日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年… 日下 義雄(くさか よしお、嘉永4年12月25日(1852年1月16日) - 大正12年(1923年)3月18日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。位階および勲等は正四位・勲二等。 現在の会津若松市で会津藩の侍医・石田龍玄(常雄)の長男として生まれる。父は農家の出身だが、幼年より医学を学び公家の側醫格となり士分に登用され七人扶持を賜った。龍玄は特に内科の名医として名声があり、貧しきものには無銭にて薬を処方した。母は中村為七郎の娘のちえ子。幼名は五郎。初名は石田伍助。弟に白虎隊二番士中組の1人で飯盛山で自刃した石田和助がいる。妻は水野忠精の娘。 藩校・日新館で学び、鳥羽・伏見の戦いに従軍。会津戦争では、大鳥圭介らと行動をし、落城前に会津を脱出し、箱館戦争に加わった。
河村 藤四郎(かわむら とうしろう、1852年(嘉永5年) … 河村 藤四郎(かわむら とうしろう、1852年(嘉永5年) - 1929年(昭和3年)4月)は、佐賀県出身の政治家・実業家。藩末期から明治にかけて唐津の教育、政治、経済界で幅広く活躍した。長兄は初代唐津村長の河村如壽(河村家四代目当主)。唐津市初代の市長河村嘉一郎は藤四郎の長男。 唐津藩士で奉行職(普請小奉行)を勤めた河村如茂(河村家三代目当主)の三男として生まれる。 少年時代、陽明学派の一色耕造が開いた町田の一色塾に学び、後に多久の儒家草場佩川(はいせん)の長男草場船山(せんざん)の門に入った。その学業の優秀さが認められた藤四郎は、若年にもかかわらず、藩から食料を給された。次いで、長崎師範学校に学んだ藤四郎は上京し、1880年(明治14年)、岸本辰雄や西園寺公望らによって創立された明治法律学校(現在の明治大学)に入学、第1回生となった。
皆川 四郎(みながわ しろう、1852年 - 1911年)は… 皆川 四郎(みながわ しろう、1852年 - 1911年)は日本の実業家。旧姓は岩崎。幼名は馬之助。 信濃国伊那郡中村(現長野県飯田市)に生まれ、飯田城下の皆川家の養子となる。維新後に上京し、安井息軒に師事した後、代言人となったが実業界に転身する。 代言人時代は、明治12年に植木鋼二郎と京橋区銀座四丁目十五番地に法律事務所を開き、その翌年明治13年、司法省附属代言人 星亨の組合加入に対し、楠木鋼二郎、田村成義などと反対運動を展開した。また、明治11年、幕末の豪商伊藤八兵衛の八女信子と結婚する。信子の姉は渋沢栄一の妻兼子で、この結婚により渋沢ファミリーの団体竜門社の一員となった。 その後明治15年4月 長野県警部兼典獄(警部長に次ぎ監獄係としては最高責任者)として長野県警に入り、6月に警部長となる。
大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1… 大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1910年(明治43年)7月26日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、岡山県磐梨郡可真村長。 備前国磐梨郡弥上村(岡山県磐梨郡可真村、赤磐郡可真村、熊山町を経て現赤磐市弥上)で、誠太の二男として生れた。漢学、仏式兵学を修めた。岡山藩第3兵団予備隊機械弾薬掛、同藩第3大隊2番小隊半隊長心得、同第3大隊長を務めた。その後、里正に就任。 1877年(明治10年)第3区務所戸長に就任。以後、磐梨郡書記、同郡第7部戸長を務めた。1889年(明治22年)初代可真村長に就任し1895年(明治28年)まで在任した。1892年(明治25年)岡山県会議員に当選。
高岡 忠郷(たかおか たださと、1852年(嘉永4年12月)… 高岡 忠郷(たかおか たださと、1852年(嘉永4年12月) - 1922年(大正11年)3月26日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 越後国蒲原郡別所村(新潟県中蒲原郡十全村、村松町を経て、現五泉市別所)に生まれる。大肝煎の兄・永三の跡を継いだ。 石油採掘および精製業に従事し、1897年(明治30年)5月、新津礦油を創立し社長に就任した。ほか、沼垂銀行取締役を務めた。 早くから自由民権運動に加わり、地方自治においては、十全村会議員、十全村長、新潟県会議員、同議長を歴任した。一時期、友人大竹貫一の意見を受けて中蒲原郡のため中立派に属した以外は、自由党系に所属して活動した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第3区から出馬し当選。
本間 直(ほんま ちょく、1852年(嘉永5年11月) - … 本間 直(ほんま ちょく、1852年(嘉永5年11月) - 1919年(大正8年)12月12日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(3期)。 佐渡国雑太郡、のちの新潟県雑太郡国中村(佐渡郡国中村、新穂村および畑野村(畑野町)を経て現佐渡市)に生まれる。幼くして浮屠氏の門に入り清水寺の住職圓明に従い仏典を修める。のち大和国式上郡初瀬村(式上郡初瀬町、磯城郡初瀬町、現奈良県桜井市初瀬)にある真言宗豊山派総本山の長谷寺に托し修学する。教導となり、本官権訓導、権少講義を経て、1881年(明治14年)還俗し、的場弥三郎と共に初瀬に紡績工場を興した。その後、初瀬村長、初瀬町会議員、同町長を歴任した。
柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月… 柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月)- 1940年(昭和15年)4月25日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。製塩家。衆議院議員(1期)。 志賀源作の三男として備前岡山藩領和気郡(のちの岡山県和気郡片上町、備前町を経て現備前市)に生まれ、1870年(明治3年)9月、赤穂郡塩屋村(兵庫県赤穂郡赤穂町を経て現赤穂市)の柴原政右衛門の死跡を相続する。漢学を修める。製塩業を営む。1871年(明治4年)赤穂郡の塩田取締となり、1874年(明治7年)戸長に就任する。郡内7箇村戸長に挙げられるが、1883年(明治16年)5月に脳充血により職を辞した。ほか、赤穂鉄道社長、同相談役を歴任した。
佐々木 善右衛門(ささき ぜんうえもん/ ぜんえもん、185… 佐々木 善右衛門(ささき ぜんうえもん/ ぜんえもん、1852年(嘉永5年1月) - 1917年(大正6年)8月16日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(2期)。幼名は猪太郎。 出雲国能義郡荒島村(現島根県安来市)に生まれる。生家は代々商業を営んだ。和漢学を修めた。1881年(明治14年)島根県会議員に当選し、ついで常置委員となり、副議長を兼任した。1884年(明治17年)任期満了ののち、再度県会議員に再選される。ほか、地方衛生会委員を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では島根県第2区から出馬し当選。つづく第2回総選挙でも当選した。 1890年、松江日報社の設立に参画し総代となる。
山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4… 山辺 丈夫(やまのべ たけお、1851年12月30日〈嘉永4年12月8日〉 - 1920年〈大正9年〉5月14日)は、日本の武士(津和野藩士)、明治期の紡績技師・実業家。従五位。 東洋紡(東証プライム)の創業者である。 嘉永4年(1851年)、石見国津和野城下の森町堀内にて津和野藩重臣・清水格亮(大目付、側用人を歴任し、明治維新後は権大参事を務めた)の二男として生まれる。幼名は虎槌または善蔵で、後に丈夫と改めた。4歳の時に同藩士の山辺正義の養子となる。 津和野潘の藩校であった養老館に学んだ後、1870年(明治3年)に藩の奨学制度によって文学修行の命を受け上京。当初は同藩出身の福羽美静の培達塾で学んでいたが、元来洋学を志していたため、西周の育英舎や中村敬宇の英学同人舎に移り英語や洋学を学んだ。
9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月2… 9代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1851年12月24日(嘉永4年12月2日)- 1911年(明治44年)8月2日)は、明治期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・九八郎。 陸奥国信夫郡八島田村(福島県信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田。当時は越後新発田藩の領地。)に於いて名主吉野安兵衛の四男として生まれる。兄・周太郎の死後に9代周太郎を襲名し、1898年(明治31年)4月に家督を相続した。 1897年(明治30年)以降、第百七国立銀行取締役、同頭取などを務めた。1904年(明治37年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、 1911年8月、在任中に死去した。
瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(185… 瀧川 辨三(たきがわ べんぞう、嘉永4年11月21日(1851年12月13日) - 大正14年(1925年)1月12日)は、日本の実業家、政治家。 1884年、神戸で興したマッチ製造会社(精燧社)が成功、精燧社は数々の会社を吸収して東洋燐寸株式会社と改名し、辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれるようになる。神戸のガス・水道・電気・築港などの公共事業にも参画した。神戸商工会議所会頭、貴族院多額納税者議員(1915年1月21日 - 1918年9月28日)などを歴任し1925年没。享年75。 嘉永4年(1851年)11月21日長府藩士瀧川清の二男として生まれた(戸籍では兵庫県平民)。幼名は百十郎、通称は武熊。
能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11… 能川 登(のがわ のぼる、1851年12月5日(嘉永4年11月13日)- 1910年(明治43年)4月7日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・辰太郎。号・西京農夫。 加賀国石川郡本吉町(金沢県石川郡美川町、石川県石川郡美川町を経て現白山市美川本吉町)で、船主・能川太平治の長男として生まれる。金沢の叔父・畑春斎宅に寄寓し漢学を修めた。13歳で帰郷し、郷校開道館・素読教師、加賀藩銃卒取締、駅逓取締を務めた。1879年(明治12年)家督を相続。 1874年(明治7年)大阪に出て法学を研究し、1877年(明治8年)京都に移り、草場船山に師事し漢学を修めた。1878年(明治9年)9月、京都米商会所の創立委員として上京し、政府に出願をしたが許可を得られなかったため、内務卿大久保利通に面会して允許の内諭を得て帰京した。
井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11… 井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11月1日) - 昭和8年(1933年)5月22日)は、日本の医師、実業家、政治運動家。号は陸舟。鳥取県西伯郡中浜村(現在の境港市)出身。四谷病院、後楽堂医院長。東京府平民。 井田義枝の次男として生まれた。 慶応元年(1865年)長崎に出て長崎養生所(現・長崎大学医学部)に学び、蘭方医学を修めた。 明治7年(1874年)長崎養生所を出た。明治10年(1877年)の西南戦争に警視庁医員として従軍し功をたてる。明治11年(1878年)海軍軍医に転じ、軍艦「鳳翔号」軍医として朝鮮に派遣され、朝鮮人の診療に活躍した。 帰国後海軍を辞し、養神病院長となり、明教生命保険の設立計画をした。
椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4… 椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4年9月19日) - 1912年(明治44年)4月4日)は、日本の文筆家・漢文学者・実業家。筆名・雅号は南浦。海運業などで活躍した明治の実業家の一人。『南浦遺集』という書名はこの雅号に由来する。 子孫には、実業家で元日本鉱業株式会社の役員・椎名芳胤、音楽家・文筆家の菊村紀彦、元奥州大学(現・富士大学)教授で近代日本の図書館学等に貢献した椎名六郎らがいる。日本鉱業は新日鉱ホールディングスへと受け継がれ、日立製作所や日産自動車を生んだ第二次世界大戦前の新興財閥、日産コンツェルンの源流となった企業の一つであった。 讃岐高松(現在の香川県高松市)にある石清尾八幡宮の宮司・岡田秀高の次男として生まれる。
東尾 平太郎(ひがしお へいたろう、1851年10月1日(嘉… 東尾 平太郎(ひがしお へいたろう、1851年10月1日(嘉永4年9月7日)- 1919年(大正8年)10月8日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(7期)。 和泉伯太藩領志紀郡林村(大阪府志紀郡沢田村、南河内郡道明寺村、道明寺町、藤井寺道明寺町、美陵町を経て現藤井寺市)の豪農の家に生まれる。漢学を修める。1881年(明治14年)3月、大阪府会議員に当選。同常置委員、同郡部会委員を歴任する。ほか、大阪府農学校(のちの大阪獣医畜産専門学校、浪速大学を経て現大阪府立大学)長、大阪府農会会頭、パリ大博覧会評議員、高野鉄道社長などを務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では大阪府第7区から出馬し当選。
小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1851年8月8日(… 小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1851年8月8日(嘉永4年7月12日) - 1929年(昭和4年)8月27日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員(1期)。 下野国都賀郡日光(栃木県下都賀郡日光町を経て現日光市)出身。漢学を学ぶ。主に外国人を相手とする美術貿易商を営み、日光町会議員、栃木県会議員となる。豊富な財力と人脈を有していた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において栃木県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。 1905年頃から訪日外国人旅行者を対象とする「大名ホテル」の建設を進め、1919年頃に建物が完成したが、ホテルの開業には至らなかった。
平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう、嘉永4年6月23日(18… 平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう、嘉永4年6月23日(1851年7月21日) - 明治39年(1906年)10月24日) は、日本の政治団体玄洋社初代社長、自由民権運動家。
内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4… 内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4年6月2日)- 1911年(明治44年)1月8日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国婦負郡石坂村(富山県婦負郡石坂村、桜谷村を経て現富山市)で、十村役を務めた内山吉治の息子として生まれた。1864年(元治元年)富山藩の高島流兵式練修を命じられ、さらに仏式兵法を修めた。農業を営む。 1876年(明治9年)石川県越中第11大区戸長に就任。石坂村外11カ村戸長、田刈屋外23カ村戸長を歴任。その他、学務委員、村会議員、町村組合会議員、所得税調査委員、用水組合会議員なども務めた。 1888年(明治21年)富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)まで在任。
石井 虎之助(いしい とらのすけ、1851年5月27日(嘉永… 石井 虎之助(いしい とらのすけ、1851年5月27日(嘉永4年4月27日) - 1933年(昭和8年)1月23日)は、日本の政治家・貴族院多額納税者議員、実業家。武相貯蓄銀行頭取。江之島電氣鐵道監査役。族籍は神奈川県平民。 相模国大住郡石田村(中郡成瀬村、伊勢原町を経て現伊勢原市石田)に生まれる。石井作右衛門の長男。農業を営む。1878年(明治11年)、家督を相続。 1881年(明治14年)7月、補欠選挙で神奈川県会議員に当選し、その後、1888年(明治21年)1月まで4期在任した。1884年(明治17年)7月、戸長、1890年(明治23年)10月、2代成瀬村長を歴任。成瀬村長を1894年(明治27年)10月まで務め、同年から1897年(明治30年)まで成瀬村会議員に在任した。
江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年… 江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年4月20日) - 1915年(大正4年)4月24日)は佐賀藩出身の明治、大正時代の士族、弁護士、政治家、実業家。佐賀新聞の創刊者・初代社長、衆議院議員。本姓は野口。幼名は又四郎。 1851年(嘉永4年)、肥前国佐賀郡大堂村(東川副村、諸富町を経て現佐賀市諸富町)に佐賀藩士、野口惣三の三男として生まれ、のち江副家の養子となった。藩校弘道館に学び17歳で江戸藩邸詰に任ぜられた。 明治維新後に慶應義塾に入り、横浜のヘボン塾に遊学した。慶應義塾在学中の1872年(明治5年)に新聞社を設立するがこれは失敗し、ほどなく廃刊となった。その後1874年(明治7年)、24歳の時に迎えた佐賀の乱では江藤新平率いる征韓党に属している。
沼田 静治(ぬまた せいじ、1851年5月14日〈嘉永4年4… 沼田 静治(ぬまた せいじ、1851年5月14日〈嘉永4年4月14日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、兵庫県の大地主。志方銀行頭取。国包銀行取締役。広尾金融社長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県人・沼田惣左衛門の長男。1870年、家督を相続する。住所は兵庫県印南郡東志方村(現・加古川市志方町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
12代 山田 荘左衛門(やまだ しょうざえもん / そうざえ… 12代 山田 荘左衛門(やまだ しょうざえもん / そうざえもん、嘉永4年4月6日〈1851年5月6日〉 - 1917年〈大正6年〉10月1日)は、明治時代の政治家、明治・大正時代の実業家である。長野県下高井郡平野村(現・中野市)の地主で、長野県会議員・貴族院多額納税者議員・衆議院議員を歴任するとともに銀行・会社経営にも関わった。晩年は山田 荘哉(やまだ しょうさい)を名乗った。 山田荘左衛門は、嘉永4年4月6日(新暦:1851年5月6日)、山田董平の長男として生まれた。初名は熊太郎。1881年(明治14年)に先代荘左衛門の養子となり、1885年(明治18年)12月に家を継いで荘左衛門を襲名した。
佐藤 通代(さとう みちしろ、1851年5月(嘉永4年4月)… 佐藤 通代(さとう みちしろ、1851年5月(嘉永4年4月)- 1914年(大正3年)11月22日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・河野。 日向国諸県郡志布志郷帖村(現・志布志市志布志町帖)で河野家に生まれた。 西南戦争に中隊長として従軍。戦後に刑を受けた。佐藤家に入籍し、農業を営む。内之倉村戸長、蓬原村戸長を務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(鹿児島県第6区)で当選し、その後、第6回総選挙でも再選され、最後は立憲政友会に所属し衆議院議員に連続2期在任した。 その後、郷里の子弟の教育、産業振興に尽力した。1914年11月、郷里で病のため死去した。
佐藤 秀蔵(さとう ひでぞう/しゅうぞう、1851年4月29… 佐藤 秀蔵(さとう ひでぞう/しゅうぞう、1851年4月29日(嘉永4年3月28日)- 1934年(昭和9年)3月27日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は亀次郎。 陸奥国磐井郡摺沢村(岩手県東磐井郡摺沢村、摺沢町、大東町を経て現一関市)で、先代・佐藤秀蔵の長男として生まれる。1889年(明治22年)秀蔵を襲名した。1898年(明治31年)摺沢村会議員に当選。ついで東磐井郡会議員、所得税調査委員、八十八銀行取締役、横屋社長、陸中国東山製糸組合長などを歴任した。1909年(明治42年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月3日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
遠山 正和(とうやま まさかず、1851年4月16日(嘉永4… 遠山 正和(とうやま まさかず、1851年4月16日(嘉永4年3月15日)- 1907年(明治40年)11月8日)は、明治期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長、丸亀市会議長。 讃岐国那珂郡、のちの香川県丸亀市で、里正の家に生まれる。経史を修めた。 1873年(明治6年)香川県六大区一小区副小区長兼学務取締に就任。自由民権運動に加わった。1879年(明治12年)愛媛県会議員に選出された。1882年(明治15年)代言人(弁護士)となる。同年、自由党大会で警官と衝突して投獄された。1888年(明治21年)香川県が再置され、その後、香川県会議員に選出され、同常置委員も務めた。1894年(明治27年)4月、香川県会議長に就任し1895年(明治28年)10月まで在任した。
倉田 雲平(くらた うんぺい、嘉永4年4月〈1851年5月〉… 倉田 雲平(くらた うんぺい、嘉永4年4月〈1851年5月〉 - 大正6年〈1917年〉6月)は、日本の実業家、足袋職人。主として明治時代から大正時代にかけて活動した人物であり、ムーンスターの創業者である。足袋王、九州の足袋王あるいは久留米の足袋王と異名される。大正3年(1914年)に緑綬褒章を受章している。 倉田家の祖先は武士であり、江戸時代に久留米藩に出仕して御先手物頭を務めたこともあったとされる。やがて町人に転向してからは、両替商や呉服商、米穀商を営む豪商となったが、水難事故や火災などに相次いで遭遇したために、家の経済力は徐々に衰退していき、雲平が生まれる頃には煎餅屋を経営していた。 雲平は、嘉永4年4月(1851年5月)、筑後国御井郡(現在の福岡県久留米市)の米屋町に五男一女の末子として出生した。
岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4… 岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4年1月8日) - 1908年(明治41年)3月25日)は、日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。 岩崎弥次郎・美和夫妻の三男として土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれた。 1867年(慶応3年)、満16歳のときに土佐藩校の致道館に入学。この時、岩崎家は郷士の地位を失って地下浪人に没落しており、武士の教育を受けられる身分ではなかったが、兄の弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していたため、入学することができた。 1869年(明治2年)には大阪に出て、重野安繹の私塾成達書院に入門し、この時に英語を学んだ。
牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年… 牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年12月28日) - 1922年(大正11年)3月5日)は、明治期から大正期のジャーナリスト、官僚、実業家、政治家。慶應義塾出身、衆議院議員、山陽鉄道取締役会長などを務めた。 伊勢国安濃郡渋見村(後の安東村、現三重県津市)の井草家に生まれる。伊勢国一志郡(後の七栗村、現三重県津市)の牛場圭次郎の養子となる。慶應義塾に学び、島田三郎らと共に陸奥宗光の家に寄食する。 『郵便報知新聞』記者、兵庫県庁の勧業課長を経て、内務省に出仕。1881年(明治14年)、明治十四年の政変で罷免され下野。1882年(明治15年)、新聞『時事新報』の創刊に参画し記事を執筆。
初代 二田 是儀(ふただ これのり、1851年1月20日(嘉… 初代 二田 是儀(ふただ これのり、1851年1月20日(嘉永3年12月19日)- 1910年(明治43年)1月23日)は、明治期の開拓者、農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・門間、初名・謹治。 出羽国秋田郡飯塚村(秋田県南秋田郡飯田川村、飯田川町、昭和町、飯田川町〔第二次〕を経て現潟上市飯田川飯塚)で、開拓者・門間祐蔵(のち二田是雄)の長男として生まれた。1867年(慶応3年)父と共に秋田郡天王村浜中(向船越村、典農村、南秋田郡天王村、天王町二田を経て現:潟上市天王二田)に移り開拓に従事。二田に改姓し開拓の地を二田村と名付けた。1874年(明治7年)に家督を相続。その後下向して、林靏梁(鶴梁)、副島種臣、根本通明らに師事し漢籍を修めた。
4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4… 4代 松木 彦右衛門(まつき ひこえもん、1851年(嘉永4年11月) - 1921年(大正10年)1月9日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 弘前城下松森町(弘前松森町を経て現弘前市松森町)で酒造業・松木家に生まれる。1867年(慶応3年)以降、弘前藩御用達となり、ついで松前商社頭取となった。1894年(明治27年)弘前両益銀行を創立し頭取に就任。1898年(明治31年)弘前銀行取締役を経て、のち第4代頭取となる。 そののち弘前電燈発起人筆頭を経て、1899年(明治32年)10月、青森県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年11月21日から務め、任期途中の1902年(明治35年)6月13日に辞職して、宮本甚兵衛にその職を譲った。
木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850… 木村 利武(きむら としたけ、嘉永3年11月28日(1850年12月31日) - 1914年(大正3年)10月2日)は、明治時代の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 松山城下柳井町で藩士・木村利長の長男として生まれる。1871年(明治4年)松山県庁掌、1874年(明治7年)愛媛県雇・戸長、1878年(明治11年)風早郡書記、1880年(明治13年)同郡長心得、1886年(明治19年)風早・和気・温泉・久米郡長心得を歴任。1890年(明治23年)1月に松山五十二銀行取締役に転じたが、同年2月6日、推挙され松山市長に就任した。 1896年(明治29年)2月まで市長を務めたのち、実業界に入り、松山商業銀行頭取、同行取締役、松山商業会議所会長などを歴任した。
高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永… 高取 伊好(たかとり これよし、1850年12月15日(嘉永3年11月12日) - 1927年(昭和2年)1月7日)は、明治時代に活躍した佐賀藩出身の実業家、炭鉱技術者である。漢詩も嗜み西渓と号した。正六位。 法律家で元老院議員を務めた鶴田皓は実兄。Z旗のTakaこと高取ヒデアキとNobuこと高取伸和は曾孫。佐藤栞里の遠い親戚でもある。 1850年、佐賀藩多久領の武士、鶴田斌の三男として生まれる。その後、9歳の時には姉の嫁ぎ先である高取家の養子となりその家督を継いだ。 また、多久家の世継ぎである多久乾一郎の御学友に選ばれており、多久藩の郷校東原庠舎や佐賀藩校弘道館などで共に漢学と国学を学んでいる。
和田 方正(わだ ほうせい、1850年12月(嘉永3年11月… 和田 方正(わだ ほうせい、1850年12月(嘉永3年11月)- 1895年(明治28年)5月2日)は、明治期の地主、農業経営者、政治家。衆議院議員。 下野国塩谷郡、のちの栃木県塩谷郡岡村(片岡村大字岡村、矢板町を経て現矢板市)で、戸長を務める家に生まれた。農業を営む。 三大区三小区副戸長に就任。1872年(明治5年)29カ村戸長となる。以後、地主総代、区長、学区取締を務めた。1882年(明治15年)2月、栃木県会議員に選出され、立憲改進党に所属して、1890年(明治23年)まで8年間在任した。この間、塩谷郡学務課長を務めた。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(栃木県第4区)で当選したが、議員在任中の1895年5月、日本赤十字社病院で肺疾患のため死去した。
湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年… 湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年11月24日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月7日)は、日本の明治から昭和戦前期にかけての政治家(衆議院議員、群馬県会議員)・実業家・社会運動家。雅号は雲外。同郷の新島襄から洗礼を受け、中村栄助、大澤善助とともに経営面で初期同志社を支えた。 弟は詩人の湯浅吉郎(半月)、妻は徳富蘇峰・蘆花の姉・初子、子に画家の湯浅一郎や同志社総長・国際基督教大学学長の湯浅八郎など。海老名弾正、山室軍平、深井英五らと親交があった。 嘉永3年10月21日(1850年11月24日)、上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長男として生まれる。