高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1… 高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1856年5月2日) - 大正9年(1920年)6月4日)は明治・大正期の、医師、医学博士、薬理学者。東京帝国大学医科大学、初代薬物学教授。医術開業試験医員、日本薬局方調査委員、理学文書目録委員会委員、東京帝国大学評議委員などをつとめた。正三位勲一等瑞宝章。通称:順太郎、諱:信之(もりゆき)。石川県金沢市出身。著作に「河豚之毒」「肝油ノ効果ヲ論ス」「『ファゴール』二就テ」など 安政3年3月28日(1856年5月2日)、加賀藩知行御算用者小頭高橋荘兵衛(110石・通称:荘兵衛、諱:作善)・石橋鈴(御算用者:石橋良蔵・長女)の嫡男として、金澤勘解由町(金沢市瓢箪町)に生まれる。
高橋 良斎(たかはし りょうさい、1856年 - 1923年… 高橋 良斎(たかはし りょうさい、1856年 - 1923年)は、日本の医師、開業医、酒井伯爵家主治医、鶴岡地区大学卒医師第一号。
長田 重雄(おさだ しげお、1856年〈安政3年5月〉 - … 長田 重雄(おさだ しげお、1856年〈安政3年5月〉 - 1920年4月10日)は、明治期から大正期の日本の医師、教育者。築地病院(聖路加国際病院の前身)院長、熊本醫学校(旧制熊本医科大学の前身)教授。宮内省侍医(侍補)、御典医として、明治天皇および昭和天皇の担当医を務めた。 1856年(安政3年5月)、上州(現・群馬県)館林の藩士、林太夫の長男として生まれる。 8歳で、渡邊龍介に儒学と入木道(書道)を学んだのち、求道館に入り、杉四郎に師事し漢学を学ぶ。その後、朝枝静軒に英学を学ぶなどし、明治2年に洋学校が設立されると生徒となるが、生徒長に推挙され、明治3年に教授に推薦さた。1871年(明治4年9月)、廃藩とともに洋学校が廃校となるが、安藤豪鐡とともに子弟に英学を教えた。
西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政… 西郷 吉義(さいごう よしみち、1855年12月15日(安政2年11月7日) - 1927年(昭和2年)9月3日)は、明治期から大正期の医師、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医・宮中顧問官を歴任する。正三位勲一等功四級。 信濃国松本城下に松本藩士・西郷眞諒の次男として生まれ幼名を早苗と称し、後に叔父の西郷元善の養子となる。祖先は松平康長に仕えた三河西郷氏。1882年(明治15年)東京大学医学部を卒業し、同期には青山胤通・猪子止戈之助・田代正等がいる。 卒業後、医学部准助教授(内科学)となった後、日本陸軍軍医となり陸軍一等軍医に任官し軍医学校教官(内科学担当)となった。1896年(明治29年)12月16日『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員に任命され、また陸軍衛生会議議員に選ばれた。
賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日〈安政2年1月… 賀古 鶴所(かこ つるど、1855年2月18日〈安政2年1月2日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月1日)は、明治期から昭和初期の医師。日本陸軍軍医で日本に耳鼻咽喉科学をもたらした。歌人として常磐会を開催する。遠江国の出身。恩賜財団済生会病院の発起人の一人。 1855年2月18日((旧暦)安政2年1月2日)、遠江浜松藩の藩医賀古公斎と母カネ子の間に5人兄弟の長男として生まれる。幼名を銀弥といい、松雲と号した。明治維新後の転封(鶴舞藩)に伴い千葉県市原に転居。1870年(明治3年)藩主井上正直の命により江戸に遊学し箕作秋坪の塾に学び、第一大学区医学校に入学。在籍中の1881年(明治14年)に25歳で結婚し、翌7月、陸軍依託生として同じ陸軍軍医になる菊池常三郎・森林太郎(鷗外)・小池正直等と東京大学医学部を卒業すると、直後に陸軍軍医に任官した。
浜田 玄達(はまだ げんたつ、旧字体:濱田 玄達、嘉永7/安… 浜田 玄達(はまだ げんたつ、旧字体:濱田 玄達、嘉永7/安政元年11月26日〈1855年1月14日〉 - 1915年〈大正4年〉2月16日)は、日本の産婦人科医。医学博士。東京帝国大学医科大学教授、医科大学長を歴任。日本婦人科学会初代会長。日本における産科婦人科学及び助産師(産婆)養成の基礎づくりに貢献した。 肥後国宇土郡里浦村(現・熊本県宇城市三角町大岳)において、熊本藩の医師濱田玄齊(波多村の医家からの養子)の長男として生まれた(旧名は慶吉)。数え2歳で母を、11歳で父を亡くし、父方の伯父のもとで読書習字をならい、14歳で儒医福田元澤に入門、調剤の傍ら漢学及び蘭学を兼修した。1870年(明治3年)10月開設の西洋医学の藩立病院、通称・古城医学校(熊本大学医学部の源流)への入学を許され、翌年招聘されたオランダ人軍医マンスフェルトに師事した。
浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年1… 浜野 昇(はまの のぼる、1854年12月17日(安政元年10月28日) - 1920年(大正9年)2月11日)は、日本の医師、政治家。
鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7… 鈴木 孝之助(すずき こうのすけ、1854年8月5日(嘉永7年7月12日)- 1945年(昭和20年)8月20日)は、明治時代から昭和時代の医師、軍医。 三河国田原藩士の鈴木方舊の三男として生まれる。1879年家督を継ぐ。東京医学校を卒業。1883年、愛知県立医学校(現在の名古屋大学医学部)の校長に就任。後に海軍に入り、軍医となって軍医学校長などを歴任。1900年、海軍軍医総監となる。横須賀鎮守府、呉鎮守府、佐世保鎮守府の医務部長を歴任した。海軍軍医中将となり、1902年に医学博士となる。1906年、予備役に編入となる。 1907年、東京市麻布区飯倉にて肺結核専門の鈴木医院を開業する。1911年には鎌倉七里ヶ浜に鈴木結核療養所を設立した。
江口 襄(えぐち のぼる、1854年3月8日(嘉永7年2月1… 江口 襄(えぐち のぼる、1854年3月8日(嘉永7年2月10日) - 1924年(大正13年)7月31日)は、栃木県烏山町出身の医師、陸軍二等軍医正。作家江口渙の父。 1881年(明治14年)、東京医学校卒。同期に森鷗外、小池正直らがいた。軍医となり、日本で最初に肺外科手術に成功した。小倉師団では森鷗外の前任軍医部長を務めた。鷗外の『雁』のモデルの一人と言われている。 1885年(明治18年)東京府が「郡区医職務章程」を制定した際、郡医志願者の試験委員を務め、死体検案試験を担当した。 1892年(明治25年)相馬事件の解剖主任を務める。相馬誠胤(陸奥中村藩6万石第13代藩主)の死因に疑義がもたれたため青山霊園に葬られた遺骸を掘り起こし、胃部、心臓部などの局部を解剖した。
栗本 東明(くりもと とうめい、嘉永6年10月8日(1853… 栗本 東明(くりもと とうめい、嘉永6年10月8日(1853年11月8日) - 大正10年(1921年)1月1日)は、医学博士。狂犬病の予防注射液を世界で初めて発見し、第五高等学校教授、旧制長崎医科大学の主事心得、長崎医学専門学校長崎病院内科医長兼眼科医長などを歴任した。従五位勲六等。また、ロシア皇帝ニコライ2世から神聖アンチ第三等勲章が授与されている。 出羽国田川郡大山(現・山形県鶴岡市大山)に庄内藩医・栗本良意の子として生まれる(長男は医学者の栗本節安)。幼名は亀五郎。慶応2年(1866年)江戸で医師をしていた兄の節安を頼りに江戸に出府し、蘭方医・伊東玄朴に医術と英語を学ぶ。明治維新と共にいったん帰郷し、明治3年(1870年)11月に慶應義塾に入り、地理書などを学び、明治5年(1872年)に慶應義塾に再入学した。
大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(185… 大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(1852年12月20日) - 1912年2月19日)は日本の外科医、医学博士。日本の腹部外科の開拓者。 1852年(嘉永5年)、上山藩御典医、大森快春の長男として江戸に生まれる。以後、出羽国上山藩に移り、藩校の明新館に入学。 1879年東京大学医学部卒業後、福岡医学校に赴任し、1885年同校校長となる。1885年日本で初めて帝王切開手術に成功し、以来次々に腹部手術を行う。 1903年、福岡医科大学が創設された際に、初代学長兼付属医院長となり、外科学講座をもつ。1909年病気により退官、1911年九州帝国大学名誉教授。 1910年、九州大学医学部に大森の銅像が建てられた。
桜井 郁二郎(さくらい いくじろう、嘉永5年9月6日〈185… 桜井 郁二郎(さくらい いくじろう、嘉永5年9月6日〈1852年10月18日〉 - 大正4年(1915年)2月10日)は明治時代、大正時代初期の医師、産婦人科医。 西洋医学による近代的な産婆術の普及に努め、民間で初めてといわれる近代医学に基づく産婦人科専門病院を開設し、産科学の発展と、婦人病の治療、母性衛生の啓蒙に尽くした。 上野国西群馬郡(現在の群馬県)に生まれる。幼名は理作。父は江戸で柔術の天神真楊流の師範代を務めた武道家で、明治維新後は群馬県前橋町で整骨師を始めた。理作(郁二郎)は幼い時より地元の儒者の下で勉強し、1868年(明治元年)17歳の時、郷里を出て前橋に行き、兄が家業を継ぐべく武術と整骨術の道に進む一方で、医学を志し蘭学者で医師の宮下慎堂に就いた。
岡 玄卿(おか げんけい / げんきょう、嘉永5年7月18日… 岡 玄卿(おか げんけい / げんきょう、嘉永5年7月18日(1852年9月1日) - 大正14年(1925年)3月25日)は、日本の医師、華族(男爵)、宮中顧問官。医学博士。位階および勲等は正三位勲一等。 津山藩士の岡清二郎の子として大坂の藩の蔵屋敷で生まれる。父は早くに死に、母は再婚したため、親戚の岡芳蔵のもとに引き取られ、養育された。 明治になり上京し、大学東校(1874年に東京医学校に改称)に入学して医学を専攻し、ドイツ帝国からのお雇い外国人医師であるレオポルト・ミュルレルとテオドール・ホフマンに医学を学ぶ。1876年に東京医学校を第一期生として首席で卒業。翌年に東京大学医学部に改称された同校で助教授、教授を歴任し、大学病院内科部長を務めた。
大沢 謙二(おおさわ けんじ、嘉永5年7月3日〈1852年8… 大沢 謙二(おおさわ けんじ、嘉永5年7月3日〈1852年8月17日〉 - 昭和2年〈1927年〉1月10日)は、日本の医師。貴族院勅選議員。医学博士。 三河国宝飯郡当古村(現在の愛知県豊川市当古町)に神職・大林美濃の四男として生まれ、三河吉田藩の侍医・大沢玄竜の養子となった。東京の医学所で医学を学んだ後、1870年(明治3年)にドイツ留学を命じられ、ベルリン大学で学んだ。帰国後、東京医学校教授に就任したが、1878年(明治11年)に辞職して、自費で再びドイツに留学し、シュトラスブルク大学で医学博士の称号を得た。 1882年(明治15年)に帰国後、東京大学医学部教授となり、1886年(明治19年)には東京帝国大学医科大学教頭に就任した。
吉村 英徴(よしむら えいちょう、1852年(嘉永5年7月)… 吉村 英徴(よしむら えいちょう、1852年(嘉永5年7月)– 1916年(大正5年)1月30日)は、明治から大正初期の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・菅沼、号・鉄幹。 紀伊国有田郡、のちの和歌山県有田郡湯浅町で菅沼家の第二子として生まれ、17歳で吉村家を相続した。和歌山県漢学授読を務め、ドイツ語学を修めた。 1880年(明治13年)京都療病院医学校(現京都府立医科大学)を卒業し、同病院医局詰、同看頭を務めた。1881年(明治14年)濱口梧陵の勧めで有田郡広村(広町を経て現広川町)で有田郡私立那耆病院を開業し院長に就任した。その他、有田郡医、地方衛生会委員、有田郡産婆及び看護婦養成所教授、有田郡医師会長などを務めた。
加藤 淳造(かとう じゅんぞう、1852年(嘉永5年3月) … 加藤 淳造(かとう じゅんぞう、1852年(嘉永5年3月) - 1914年(大正3年)10月10日)は、日本の医師。政治家、衆議院議員(1期)。 安房国平郡(のち千葉県安房郡平群村→富山町、現・南房総市)生まれ。海軍軍医寮で学ぶ。千葉県立千葉病院医学校医員となる。千葉県会議員、安房外三郡医師会長を務めた。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において千葉8区から弥生倶楽部所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。1914年に死去した。
井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11… 井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11月1日) - 昭和8年(1933年)5月22日)は、日本の医師、実業家、政治運動家。号は陸舟。鳥取県西伯郡中浜村(現在の境港市)出身。四谷病院、後楽堂医院長。東京府平民。 井田義枝の次男として生まれた。 慶応元年(1865年)長崎に出て長崎養生所(現・長崎大学医学部)に学び、蘭方医学を修めた。 明治7年(1874年)長崎養生所を出た。明治10年(1877年)の西南戦争に警視庁医員として従軍し功をたてる。明治11年(1878年)海軍軍医に転じ、軍艦「鳳翔号」軍医として朝鮮に派遣され、朝鮮人の診療に活躍した。 帰国後海軍を辞し、養神病院長となり、明教生命保険の設立計画をした。
原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治3… 原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治36年(1903年))は、日本の医師。旧姓大淵。 元長崎医専教授原正の養父。 伯耆日野郡印賀村(現鳥取県日南町)に大淵一馬の子として生まれた。母里藩の藩医であった原順庵の養子に入って医術を学んだ。 明治7年(1874年)、適塾に入った。養父順庵は廃藩後間もなく、鳥取県会見郡彦名村(現米子市彦名町)に移って医業をしたと伝えられ、澄斎も帰郷後彦名村で、その医業を継いだ。原家には明治十年陸軍軍医総監の押印のある医師免許状が残されているので、或は西南戦争に従軍していたのかもしれない。 明治19年(1886年)、会見郡医師組合の設立に努力しており、その地方で医術が優れているので評判であったという。
小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) -… 小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) - 1909年(明治42年)4月26日)は、日本最初の歯科医師。豊前国中津(現・大分県中津市)出身。 中津藩甲州流軍学師範役・小幡孫兵衛の長男で、慶應義塾塾長となった小幡篤次郎の従弟。 藩校・進脩館に学び、15歳で元服して藩大砲方に加わり長州戦争で初陣。1869年(明治2年)20歳で上京、叔父・小幡篤次郎を頼って芝新銭座の慶應義塾に入り、さらに同郷出身の医師・佐野諒元について医学を修め、次いで近藤良薫について横浜で外科を習得。 米国人歯科医師セント・ジョージ・エリオットから西洋式の最新歯科技術と知識を学び、1874年(明治7年)医制の公布の後、第1回目の医術開業試験に「歯科」として受験し合格した。
三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年1… 三宅 秀(みやけ ひいず、嘉永元年11月17日(1848年12月12日) - 昭和13年(1938年)3月16日)は、日本の医師・洋学者・医学者・貴族院議員。東京大学で最初の医学博士、のち名誉教授。幼名は復一(またいち)。
黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848… 黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848年11月28日) - 1916年(大正5年)11月4日)は、豊後国直入郡竹田(現・大分県竹田市)出身の医師・政治家・実業家。大分の町、郡会議員、県会副議長を務めるとともに、竹田中学校や竹田駅、黒川文庫(現在の竹田市立図書館の前身)の設立に尽力する。 嘉永元年11月(西暦1848年11)、直入郡竹田(現・大分県竹田市)に黒川正章の嫡男として生まれた。黒川家は18世紀前半から続く医家(藩医)であり、文哲は黒川家の9代目に当たる。 岡藩(竹田藩)の藩校である由学館に学び、元治元年(1864年)には外科医の佐久間純徳に師事した。明治元年12月(1869年1月)には医学修行のために上京を命じられ、明治2年4月(1869年)に東京の岡藩御屋敷に入った。
西山 関一郎(關一郎、にしやま かんいちろう、1848年11… 西山 関一郎(關一郎、にしやま かんいちろう、1848年11月7日(嘉永元年10月12日)- 1903年(明治36年)7月4日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 出雲国神門郡荻杼村(島根県簸川郡川跡村、出雲町を経て現出雲市)で、医師、2代・西山沙保、やゑの長男として生まれる。儒学を今市の伊藤宜堂に学んだ。その後、神戸洋学館で英語を学び、1870年(明治3年)大阪医学校(現大阪大学医学部)に入学し4年間修学。その後上京し、佐々木東洋の私塾主幹に就任。1874年(明治7年)に帰郷し開業した。 1876年(明治9年)9月に公立松江病院が開設され院医に就任。1977年(明治10年)12月、院長心得となり1881年(明治14年)まで在任。
浅井国幹(あざい こっかん、1848年 - 1903年)は、… 浅井国幹(あざい こっかん、1848年 - 1903年)は、明治時代に漢方復興運動に奔走した日本の医師。名は正典。 国幹の略歴と医師資格制度・漢方復興運動の略史を以下に示す。 この項目は、医療関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:医学と医療、PJ:医学、PJ:歯学)。
時岡 又左衛門(ときおか またざえもん、1848年(嘉永元年… 時岡 又左衛門(ときおか またざえもん、1848年(嘉永元年8月) - 1904年(明治37年)9月23日)は、明治時代の政治家、医師。衆議院議員(4期)。旧姓・樽木、幼名・嘉市。 若狭国遠敷郡大谷村(福井県遠敷郡宮川村を経て現小浜市)で樽木四郎左衛門の二男として生まれた。1876年(明治9年)福井県大飯郡、のちの本郷村(大飯郡大飯町を経て、現おおい町)の先代・時岡又左衛門の養子となり、又左衛門を襲名した。医師を務める傍ら、1879年(明治12年)滋賀県会議員に当選。1881年(明治14年)福井県会議員に転じ、同議長を務めた。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では福井県郡部から自由党所属で出馬し当選。
斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年… 斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年3月26日) - 1938年(昭和13年)2月17日)は、日本の外科医、政治家。衆議院議員(3期)、群馬県会議員(10期)、初代群馬県医師会長。 上野国北甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)の小幡藩藩医、斎藤寿幹(のち寿安)の子として生まれる。幼名・鋌策。はじめ藩の学問所で学び、文久元年(1861年)江戸の医師・福富玄同に弟子入りし、翌年群馬郡野田村(現・北群馬郡吉岡町)の外科医・原沢文仲の弟子となった。また高崎の五藤俊英に種痘術の教えを受けた。慶応3年(1867年)小幡藩奥詰医師となり寿幹の名を襲名。七日市藩医も兼務した。 明治2年(1869年)寿雄と改名し東京に遊学、明治4年(1871年)より大学南校に学び、翌年帰郷。
加賀美 光賢(かがみ みつかた、弘化3年2月24日(1846… 加賀美 光賢(かがみ みつかた、弘化3年2月24日(1846年3月21日) - 1907年(明治40年)4月8日)は、日本の海軍軍人(軍医)、医師。宮中顧問官。最終階級は海軍軍医総監。位階および勲等は正四位・勲三等。 弘化3年(1846年)2月24日、甲斐国西山梨郡住吉村(現在の山梨県甲府市で、身延線の甲斐住吉駅周辺)にある住吉神社の神職・加賀美光矩と、その妻である察の子として生まれる。清和源氏武田氏流・加賀美氏の末裔。 薩摩藩の医師石神良策に師事し、西洋医学をイギリス人医師のウィリアム・ウィリスに学ぶ。1872年、海軍軍医部の創設にともない軍医頭となり、1892年、海軍軍医学校長に任命された。
佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年1… 佐藤 進(さとう すすむ、1845年12月23日〈弘化2年11月25日〉 - 1921年〈大正10年〉7月25日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、順天堂医院院長。最終階級は陸軍軍医総監(中将相当官)。男爵。医学博士。 常陸国太田内堀(現:茨城県常陸太田市内堀町)で醸造業を営む高和清兵衛の長男として生まれる。佐倉順天堂に入り、その堂主であり叔母の夫である佐藤尚中の養嗣子となる。戊辰戦争では奥州に出張し、白河、三春で新政府軍の病院頭取を務めた。 明治2年(1869年)、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、1874年(明治7年)にアジア人として初の医学士の学位を取得し帰国。
五十川 基(いかがわ もとい、天保15年9月6日(1844年… 五十川 基(いかがわ もとい、天保15年9月6日(1844年10月17日) - 明治6年(1873年)2月22日)は、幕末・明治初期の備後福山藩士、医師。通称は基之丞、芳之丞。字は敬甫、号は米里。福山医学校兼病院(のちの同仁館病院)の設立に尽力した。 備後国に藩医・五十川周圭の嗣子として生まれる。五十川家は代々漢方医を業とし、周圭の代で蘭方に転じた。江木鰐水、寺地舟里の薫陶を受け、藩校・誠之館で学び、文久3年(1863年)10月17日に藩から洋学修業を命ぜられ、江戸の藩邸に寄留し、蕃書調所・医学所に通学修業。佐藤春海(尚中)の塾において、蘭学を修め、転じて慶応2年(1866年)に福沢諭吉の慶應義塾へ入塾(『慶應義塾入社帳』第一巻58頁,167頁)。
近藤 坦平(こんどう たんぺい、弘化元年3月12日(1844… 近藤 坦平(こんどう たんぺい、弘化元年3月12日(1844年4月29日) - 昭和4年(1929年)1月27日)は、三河国碧海郡鷲塚村(現・愛知県碧南市)出身の医師。 西洋式診療所である洋々医館、東海地方初の西洋式医学校である蜜蜂義塾の創立者であり、三河地方における西洋医学の開祖とされる。 文化7年(1810年)9月5日、近藤賛斎の息子として近藤安中(こんどうあんちゅう)が生まれた。近藤家は京都から三河国に移った家であり、伯琴の字や鹿山の号を持っていた近藤賛斎から医師となった。文政13年(1830年)、安中は紀伊国那賀郡西野山村(現・和歌山県紀の川市)に赴き、華岡青洲の医塾である春林軒に入門した。
赤星 研造(あかぼし けんぞう、1844年(弘化元年)2月5… 赤星 研造(あかぼし けんぞう、1844年(弘化元年)2月5日または25日 - 1904年(明治37年)1月6日)は明治時代の医師。 福岡藩オランダ留学生として渡欧し、ドイツハイデルベルク大学在学中、新政府に呼び戻された。台湾出兵に従軍し、東京医学校、東京大学教授を務めた後、仙台市県立宮城病院長に招かれた。一時久留米市整理堂病院教師を務め、仙台に戻り、七ヶ浜村赤星自治院を拠点に仙台や周辺各地で診療活動を行った。 1844年(弘化元年)2月5日または25日、筑前国鞍手郡金生村医師赤星見竜の長男として生まれた。 1857年(安政4年)父見竜の師武谷元立の子武谷椋亭に入門し、1865年(慶応元年)藩遊学生として長崎に派遣され、精得館でアントニウス・ボードウィンに語学を学んだ。
松江 安見(まつえ やすみ、弘化元年1月13日〈1844年2… 松江 安見(まつえ やすみ、弘化元年1月13日〈1844年2月1日〉 - 明治22年〈1889年〉3月4日)は、日本の医師。石川県白山市(旧松任市)出身。石川県で初めて篤志解剖を行った。 石川郡徳丸村(現白山市徳丸町)で父安右ェ門、母ヒナの長男として生まれる。松江家は徳丸村宮井甚平家の分家にあたる。宮井家は地方きっての豪農で、藩政中期より1870年(明治3年)まで村肝煎を勤めた家柄であった。甚平の二男が分家し松江安右エ門と名乗ったのが松江家の初代である。安右エ門には安見、安茂、陳好、甚作、兵二、安仁、嘉平、昇、意之の9人の子があった。 松江安見は若くして医学の道を志し、金沢医学所で、漢方医学を大益良吉に、西洋医学を石川孝恭に学んだ。
土岐 頼徳(とき よりのり、1843年10月8日 (天保14… 土岐 頼徳(とき よりのり、1843年10月8日 (天保14年9月15日) - 1911年(明治44年)5月12日)は、明治期の医師、日本陸軍軍医。最終階級は陸軍軍医総監(少将相当官)。美濃国出身。従四位勲二等。 1843年10月8日((旧暦)天保14年9月15日) 美濃国山縣郡下伊自良村小倉(現・岐阜県山県市)の医師高井松亭の長子に生まれ、幼名を孝太郎と称した。長じて漢学を学び、名古屋の麻生頼三に西洋医学を学び、京都の出て巖垣六藏・廣瀬元恭に就いて漢方医学を修める。1862年(文久2年)伊勢の土井郁之助、1866年4月(慶応2年3月)幕府の西洋医学所教授坪井芳州の塾に入り医学所に入校した。 明治維新後、姓を高井氏から本家の土岐姓に復姓して頼徳と名を改めた。
香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月2… 香月 恕経(かつき じょけい / ゆきつね、1842年7月21日(天保13年6月14日)- 1894年(明治27年)5月18日)は、幕末の医師、明治期の政治家、教育者。衆議院議員。玄洋社社員。幼名・恕吉郎、字・子貫。号・晦処、晦洞。 筑前国夜須郡下浦村(現福岡県朝倉市下浦)で、医師・香月春庵の長男として生まれる。佐野東庵(甘木高原町)の私塾梅西舎で漢籍を、医師・深水玄門(熊本)に漢方内科医術を、玉井養純(筑後国生葉郡)に漢学・医術をそれぞれ師事した。文久2年(1862年)父の死去により家督を相続し医業を開業し、幕末には国事に奔走した。 明治2年3月13日(1869年4月24日)秋月藩に同藩の情報を久留米藩に提供したとして捕らえられたが、同月17日に釈放された。
足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月… 足立 寛(あだち かん、1842年6月14日(天保13年5月6日) - 1917年(大正6年)7月7日)は、幕末から明治にかけての医師、医学者、日本陸軍軍医、陸軍軍医学校校長。最終階級は陸軍軍医総監。字は士得。号は菊径、欲堂。妻は坪井信道の娘。 遠江国山名郡国本村(現・静岡県袋井市)生まれ。木村軍太郎に師事した後、緒方洪庵の適塾、福沢諭吉の書生として慶應義塾で学び、のちに塾長も務める。幕府の西洋医学校塾頭となる。1887年(明治20年)陸軍軍医学舎長となり、一等軍医正まで昇格する。陸軍省に出仕し、軍医総監、陸軍軍医学校長、慶應義塾医学所の設立に携わる。文部省医術開業試験委員長、文部省薬剤師開業試験委員長をつとめ、多忙を極める中、衛生学教程本を多数記す。
池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保1… 池田 謙斎(いけだ けんさい、1841年12月22日〈天保12年11月10日〉- 1918年〈大正7年〉4月30日)は、明治時代の医者。日本の近代医学の礎を築いた人物。学位は、医学博士。華族(男爵)、宮中顧問官、錦鶏間祗候。諱・秀之、幼名・圭助。通称・桂太郎または謙輔(けんすけ)で謙斎に改めた。 1841年、入沢健蔵の次男として越後国蒲原郡中之島村(現長岡市)に生まれる。幼名は圭助。安政5年3月(1858年1月 - 2月)に江戸に出、伯父の入澤貞意宅に寄宿する。漢学を瀬川道元に、剣術を心形刀流伊庭軍兵衛、オランダ語を竹垣龍太郎に学ぶ。 竹垣の紹介を経て適塾に入門し、1862年に西洋医学所へ入学した。
奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1… 奥山 虎炳(おくやま とらあきら、天保11年(1840年)1月8日 – 大正15年(1926年)10月13日)は、幕末から明治期にかけて活動した医師・海軍軍医。幕府の歩兵屯所附医師を経て、維新後に海軍医官として要職を歴任し、のち開業医として活動した。幼名は瓊太郎、のち省吾。幕末期には玄省(げんせい)を名乗り、明治初年に虎炳と改めた。 天保11年(1840年)1月8日、出羽国上山藩医・奥山玄仲(1809-1905)の長男として長崎に生まれる。父玄仲に従って江戸に出て、林復斎・安積艮斎・安井息軒らについて儒学を学び、語学面では当初父から、のち堀達之助から蘭語を学んだ。文久3年(1863年)9月、歩兵屯所附医師となり西丸下屯所に詰め、慶応元年(1865年)5月には歩兵屯所附御抱医師・富士見御宝蔵番格、慶応3年(1867年)5月には歩兵屯所附医師取締介に進んだ。
須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (18… 須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (1839年11月30日)- 大正6年(1917年)11月13日)は、江戸時代末期・明治時代の歌人、医師。宮内省御歌所寄人(よりゅうど)、『明治天皇御集』の編纂委員を務めた。 須川信行は、天保10年10月25日(1839年11月30日)に近江高島郡西万木村(現滋賀県高島市)の医師清水玄孝の次男として生まれ、19歳の時に御所出入り医師須川覚性(須川検校)の養子となった。医業を修める傍らで早くから和歌に興味を覚え、香川景樹の高弟で故郷高島出身の歌人渡忠秋に入門し、同人死去後小出粲に師事した。養嗣子鶴吉に医業を譲り自身は歌道に専念し、明治23年(1890年)宮中御歌会始の勅題詠進歌『いにしへに 照して今を仰ぐにも 余るは国の光なりけり』が入選した。
赤城 信一(あかぎ しんいち、1839年11月11日(天保1… 赤城 信一(あかぎ しんいち、1839年11月11日(天保10年10月6日) - 1896年(明治29年)2月1日)は戊辰戦争の時の会津藩の医師、後に北海道開拓使に出仕した人物である。 1839年(天保10年)会津藩の医者阿部昌信の第3子として会津に生まれる。その後、叔父の赤城家の家督を継ぐ。1868年(慶応4年)藩令により長崎遊学をしている時に鳥羽・伏見の戦いに巻き込まれ、敗走する会津歩兵隊付軍医になり会津に帰還した。 会津戦争にも軍医として参加するが、鶴ヶ城が降伏すると、負傷兵を伴って仙台藩に落ち延びる。その後、榎本武揚らの旧幕府軍に参加した。医官高松凌雲の元で、佐々城本支(伊東友賢)らと函館病院でも軍医として働く。
松山 棟庵(まつやま とうあん、1839年10月23日(天保… 松山 棟庵(まつやま とうあん、1839年10月23日(天保10年9月17日) - 1919年(大正8年)12月12日)は、幕末・明治の日本の医師。大学東校(現東京大学医学部)大教授。慶應義塾医学所校長。東京慈恵会医科大学創立者。初名は勤。棟庵は名、字は功、号は棲菝で尊生舎と称した。紀州藩出身。 紀伊国那賀郡神田村(現・和歌山県紀の川市)で。医師松山庄太郎の四男として生まれた。兄は蘭方医新宮凉庭の養子の凉介。帯刀を許されていた藩士で、浜口梧陵と共に、福沢諭吉を6000石で紀州藩に招聘しようと企てたが拒否されたため、紀州和歌山藩の選抜留学生として江戸の慶應義塾に派遣される。紀州藩士の慶應義塾留学に重要な役割を果たしたといわれる山口良蔵が同門に居る。
佐々木 東洋(ささき とうよう、天保10年6月22日(183… 佐々木 東洋(ささき とうよう、天保10年6月22日(1839年8月1日) - 大正9年(1918年)10月9日)は、洋方医、内科医。 江戸本所生まれ。 佐倉順天堂で佐藤泰然、長崎でオランダ人医師ポンペに医学を学ぶ。 1861年に帰郷後、本所などで開業、その後は東京府病院副院長、博愛舎医師、大学東校病院長などを歴任。1877年西南戦争の際、大阪陸軍病院で軍医として診療。1878年、政府が脚気病院を設立、洋方医として診療に当たり、西洋医学が漢方医学に優ることを証明した。脚気病院閉鎖後、1882年神田駿河台に杏雲堂醫院を創立。1885年、石黒忠悳、長与専斎らと乙酉会を組織、医学制度について審議。1886年東京府医師会及び神田区医師会会長、内務省中央衛生会委員就任。
武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年… 武田 準平(たけだ じゅんぺい、1839年1月9日(天保9年11月24日) - 1882年(明治15年)1月2日)は、明治期の日本の医師、愛知県議会初代議長、自由民権運動家。民権結社、進取社副社長。明治生命保険(現・明治安田生命保険)創立者の阿部泰蔵は実弟。 1838年(天保9年)三河国八名郡下吉田村(現・愛知県新城市)の医者・豊田鉉剛の次男として生まれたが、18歳の時に、宝飯郡森村(現・豊川市)の武田家の養子となる。 江戸に出て、蘭方医の伊東玄朴が開いた象先堂に入門して医学を学び、1859年(安政6年)に宝飯郡森村に帰り開業する。その後、1869年(明治2年)修道館の教官となり、青少年の教育にも携わった。
長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8… 長與 專齋(新字体:長与 専斎、ながよ せんさい、天保9年8月28日〈1838年10月16日〉 - 明治35年〈1902年〉9月8日)は、日本の官僚、医師。本姓は藤原氏、号は松香、諱は秉継。 肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医・長与中庵の子として生まれる。 大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。 文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年… 早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年9月8日〉 - 明治34年〈1901年〉2月18日)は、岩村藩藩医で明治期の日本の実業家、医師、官吏。丸善、横浜正金銀行の創業者として知られる。 天保8年(1837年)、美濃国武儀郡笹賀村(現山県市)に岩村藩医師・山田柳長の子として生まれるが、父は有的の顔を見ることなく26歳で亡くなったため、同村の名主早矢仕才兵衛の養子となる。大垣、次いで名古屋に出て医学を学ぶ。早矢仕自身が優れた医師でもあった。安政元年(1854年)、郷里に戻り医院を開業する。 安政6年(1859年)、江戸に上り、万延元年(1860年)6月に開業する。坪井信道に学んだ後、慶應3年(1867年)、慶應義塾に入塾して福澤諭吉らに蘭学、英学を学び貿易に関心を持つ。
阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保… 阿波加 脩造(あわか しゅうぞう、1836年1月30日(天保6年12月13日)- 1916年(大正5年)5月12日)は、幕末から明治期の医師、教育者、政治家。衆議院議員。旧姓・佐渡、幼名・捨五郎、通称・正頴、字・士栗。号・酔夢、六無斎。衆議院議員としては野村脩造を名乗った。 越中国射水郡高岡(現富山県高岡市)で、漢方医・8代佐渡養順の息子として生まれる。魚津町(現魚津市)の漢方医・阿波加家の養子となる。春日寛平、緒方洪庵、華岡鹿城、山岡民部などに師事し、医学、蘭学を修めた。 1858年(安政5年)魚津で開業し、コレラの治療に従事した。1872年(明治5年)病院・好生舎を設立。1876年(明治9年)新川県新川郡医務取締に就任。
戸塚 文海(とつか ぶんかい、天保6年9月3日(1835年1… 戸塚 文海(とつか ぶんかい、天保6年9月3日(1835年10月24日) - 明治34年(1901年)9月9日)は、日本海軍の軍人、医師。茶人。最終階級は海軍軍医総監。海軍軍医制度創設に貢献した。 備中国浅口郡玉島村(現在の倉敷市)出身。中桐幸右衛門の息子として生まれ、幕府奥医師・戸塚静海の養子となる。適塾、シーボルトに学び、将軍侍医となる。 明治維新後、静岡病院頭となる。明治5年(1872年)、海軍省5等出仕となり、軍医寮学舎長、海軍省医務局長兼本病院長、本病院長などを歴任し、明治9年(1876年)12月、海軍軍医総監(少将相当)に進級した。 明治10年(1877年)1月から同16年(1883年)10月まで医務局長に在任。
大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年… 大井 卜新(おおい ぼくしん、天保5年3月10日(1834年4月18日) - 大正13年(1924年)5月11日)は、江戸時代の医師、明治、大正期の薬剤師、実業家、政治家。 和歌山県平民・大井源四郎の長男として紀伊国牟婁郡西山郷平谷村(三重県南牟婁郡西山村、紀和町を経て現熊野市紀和町平谷)に生まれ、1845年(弘化元年)から1848年(嘉永元年)まで、菊岡隆之助に漢学を学び、その後京都に出て医学を修め、さらに1855年(安政元年)から長崎でオランダ人、ポンペ、ボードウィンのもとで蘭学と医学を学んで蘭方医となる。 長崎に9年いたのち、1861年(文久3年)飫肥藩で1年洋医学を教え、1865年(慶応元年)に大阪で開業、1867年(慶応3年)には大坂歩兵屯営付き軍医として伏見の役に出陣。
藤野 昌言(ふじの しょうげん、1832年11月4日〈天保3… 藤野 昌言(ふじの しょうげん、1832年11月4日〈天保3年10月12日〉 - 1879年〈明治12年〉10月6日)は、明治時代の医師。本名は守誠(もりのぶ)。備後国芦田郡府中市村(現広島県府中市)出身。 1832年(天保3年)、備後国芦田郡府中市村(現広島県府中市)で代々医業を行っていた藤野元英の長男として生まれた。大阪で医学を修め、父親の死により19歳で府中に帰って医業に専念した。貧しい時代に困窮していた人の治療費もとらず、生活の面倒を見ていたともいわれ、正に「医は仁術なり」を言葉通り実行した。1879年(明治12年)、府中市にコレラが猛威を振るったとき、多くの医者が恐れる中で敢然として患者の手当をして救い、遂に自身もコレラに感染し48歳で没した。
松本 暢(まつもと ちょう、1832年5月8日(天保3年4月… 松本 暢(まつもと ちょう、1832年5月8日(天保3年4月8日) - 1889年(明治22年))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての医師・尊王攘夷派の志士。のちに壬生藩御典医・石崎家の婿養子となり石崎 誠庵(省菴)を名乗った。明治維新後は中央政府に出仕し、刑法官判事、東京株式取引所理事長などを務めた。 天保3年4月8日、下都賀郡富山村富田(現栃木市)に生まれる。松本新右衛門の次男で、幼名は新作。一度松本又作の養子となるが、後に実子出生により生家へ戻る。学問は水代村の鍋山休文に始め、ついで瀧山西谷に従学、その後藤森弘菴に私淑し、さらに水戸の藩医・本間玄長に医業を学ぶ。この頃より号を「省菴」と称した。
桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - … 桂川 甫策(かつらがわ ほさく、天保3年(1832年) - 明治23年(1890年)10月19日)は、幕末から明治の洋学者・医師・化学者。 桂川甫賢の次男で、蘭学の家として知られる桂川家の8代目。幼名辰次郎(達次郎)後に甫策。本姓は中原、諱は国幹(くにもと)。字は和春。号は淳斎。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
須田 泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月… 須田 泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月20日) - 明治41年(1908年)9月5日)は日本の医師(蘭方医)。諱は経哲 、号は経石、老嶺。 信濃国伊那郡西伊那部村(三州街道伊那部宿、現長野県伊那市)の医家に生まれる。弘化元年(1844年)には江戸の林洞海、嘉永元年(1848年)には佐倉の佐藤泰然に入門し蘭方医学を学んだ。嘉永4年(1851年)に帰郷して外科、産科を開業し、種痘を実施したことで高遠藩から賞詞を授かった。また天保の大飢饉に直面する農民の飢餓を『天保雑記』に記した。 安政4年(1857年)藩命で再び上京し、林洞海と伊東玄朴に入門し、象先堂の塾頭を務め、文久元年(1861年)、麻酔薬クロロホルムを使用した下腿切断手術を日本で初めて実施した。