土方 寧(ひじかた やすし、安政6年2月12日(1859年3… 土方 寧(ひじかた やすし、安政6年2月12日(1859年3月16日)– 昭和14年(1939年)5月18日)は、貴族院勅選議員、法学者。専門は民法学。帝国学士院会員。弟子に石坂音四郎、末延三次など。 土佐国高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に、土佐藩士土方直行の子として生まれる。1873年(明治6年)より、東京英語学校、開成学校、大学予備門で学んだ。1878年(明治11年)、東京大学法学部に入り、1882年(明治15年)に卒業した。 卒業後、文部省御用掛となり、翌年に東京大学法学部(のち東京帝国大学法科大学)助教授に任命された。また英吉利法律学校の創設発起人に名を連ね、講師も務めた。1887年(明治20年)よりイギリスのミドル・テンプルに留学した。
小山 久之助(こやま ひさのすけ、安政6年2月5日(1859… 小山 久之助(こやま ひさのすけ、安政6年2月5日(1859年3月9日) - 明治34年(1901年)10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員。号は騁斉。 信濃国佐久郡小諸城下与良町に小山敬義の次男として生まれる。小諸藩士の山本杏園に漢学を学び、明治5年(1872年)、私塾を開いて「孟子」を論ずる。同11年(1878年)新潟県師範学校に入学したが中退し、上京して興法学舎や、 中江兆民の仏学塾に学び、幸徳秋水とともに両高弟と称された。明治15年(1882年)、自由民権の雑誌「政理叢談」の発刊に加わり、欧米の憲法論を紹介した。 明治20年(1887年)の保安条例で兆民らが「皇居三里外」に追放され、仏学塾が解散したため、後藤象二郎や大石正巳らと全国を遊説した。
鳥取 柔三郎(とっとり じゅうさぶろう、1859年3月9日〈… 鳥取 柔三郎(とっとり じゅうさぶろう、1859年3月9日〈安政6年2月5日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、篤農家。讃岐農工銀行監査役。讃岐土管取締役。族籍は香川県平民。 讃岐国三野郡笠岡村(現・香川県三豊市)出身。鳥取為三郎の二男。1875年、分家した。住所は香川県三豊郡笠田村。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
風間 九郎(かざま くろう、安政6年〈1859年〉3月6日-… 風間 九郎(かざま くろう、安政6年〈1859年〉3月6日- 昭和5年〈1930年〉4月2日)は、日本の実業家、玩具の開発者。長岡藩領福島村(現、新潟県長岡市福島町)出身。東京浅草にて玩具の発明や開発をし、雑貨貿易商として商店を営み販売も行っていた。 風間九郎は、安政6年(1859年)3月6日に旧長岡藩領福島村にて、風間九八郎(1819-1901)とミツ(1833-1900)の長男として生まれる。大塚定吉の養子となるが離縁。九郎は故郷の新潟から上京し、東京に住む伯父の佐藤虎清と同居を始める。 風間家は代々、旧福島村の地主であった。彼の生まれ育った地域では、蔵王権現に対する信仰が盛んであり、頭屋制度のもと民間に巡祀される祭儀「王神祭」が行われてきた。
浅見 竹太郎(あさみ たけたろう、1859年3月6日(安政6… 浅見 竹太郎(あさみ たけたろう、1859年3月6日(安政6年2月2日) - 1930年(昭和5年)7月20日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(2期)。 近江国犬上郡彦根町(滋賀県犬上郡彦根町を経て現彦根市)出身。1872年、旧彦根藩校弘道館卒。卒業後は代言人となり、弁護士となる。滋賀県会議員を経て、近江水電会社を創立する。 1903年の第8回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。 政界引退後は朝鮮総督府判事となり、大邱、光州、京城の各地方法院判事を歴任し、その後は弁護士に戻った。
南里 琢一(なんり たくいち、1859年3月4日(安政6年1… 南里 琢一(なんり たくいち、1859年3月4日(安政6年1月30日)- 1938年(昭和13年)4月14日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員、佐賀県小城郡芦刈村長。 肥前国小城郡川越村(佐賀県小城郡浜枝川村、芦刈村、芦刈町川越を経て現小城市芦刈町浜枝川川越)で、小城藩士・南里俊八の長男として生まれる。小城藩校興譲館で学び、さらに川副二水に師事し漢学を修めた。農業を営み、地域の産業振興に尽力した。 2代刈芦村長に就任し13年間在任した。小城郡会議員、同参事会員、佐賀県会議員、西芦刈水利組合議員なども務めた。松田正久の側近として活動し、立憲政友会佐賀県支部長を務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙に佐賀県郡部から政友会所属で出馬して初当選。
荒木 白雲(あらき はくうん、安政6年(1859年)3月 -… 荒木 白雲(あらき はくうん、安政6年(1859年)3月 - 没年不明)は、明治時代の浮世絵師、日本画家。 河鍋暁斎の門人。通称は三吉。白雲、荒三と号す。麹町区山下町一丁目の荒木喜作の子として生まれた。明治5年(1872年)、満13歳の時、暁斎に入門、修行9年目の明治14年(1881年)には白雲の号を使用している。白雲は仏画、花鳥画を得意としていた。また、同年の第2回内国勧業博覧会に起立工商会社の出品作品として「萩に鶉図」、「花籠図」(ともに絹張りの作品)を出品している。さらに、明治17年(1884年)4月11日から5月30日まで開催された第2回内国絵画共進会に「羅漢」と「枯木に烏」の2点を出品したことが知られている。
西村 規矩(にしむら きく、1858年3月31日(安政5年2… 西村 規矩(にしむら きく、1858年3月31日(安政5年2月17日)- 1903年(明治36年)3月30日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・牟田。 肥前国彼杵郡矢上村(長崎県東彼杵郡矢上村、東長崎町を経て現長崎市)で牟田逸馬の二男として生まれる。1877年(明治10年)西村或之助の養子となる。漢籍を修めた。1877年(明治10年)長崎英語学校普通科を卒業。その後上京して、津田仙の学農社で学び、1880年(明治13年)に卒業した。1886年(明治19年)1月、家督を相続。農業、酒造業を営む。西村製糸場を経営し、諫早銀行頭取、矢上教育銀行監査役、大成社取締役なども務めた。
湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年… 湯浅 吉郎(ゆあさ きちろう、安政5年2月16日〈1858年3月30日〉 - 1943年〈昭和18年〉2月4日)は、明治から昭和戦中期にかけての聖書学者・図書館学者・詩人。雅号の半月(はんげつ)で知られる。兄は衆議院議員を務めた湯浅治郎。同志社大学、国際基督教大学の総長を務めた湯浅八郎は甥(治郎の子)に当たる。 上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて、味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の四男として生まれる。明治5年(1872年)、家業を継いだ兄・治郎が作った私立図書館「便覧舎」の設置を手伝い、後に同郷の新島襄の影響を受けて兄とともにキリスト教の洗礼を受けた。1877年(明治10年)に新島が京都に創設した同志社英学校に入学し、1885年(明治18年)に同校普通科ならびに神学科を卒業する。
和井内 貞行(わいない さだゆき、安政5年2月15日(185… 和井内 貞行(わいない さだゆき、安政5年2月15日(1858年3月29日) - 大正11年(1922年)5月16日)は、秋田県十和田湖開発の先駆者である。幼名は吉弥。 1858年、南部藩領陸奥国鹿角郡毛馬内村(現:秋田県鹿角市)に生まれた。和井内家は、南部藩重臣で毛馬内陣屋(柏崎新城)城代桜庭氏の筆頭家老職を代々務めていた。1866年、儒学者の泉沢恭助(修斉)の私塾に通った。1874年、毛馬内学校(現:鹿角市立十和田小学校)に助教員として採用され、1881年、工部省小坂鉱山寮に吏員として採用されて小坂鉱山に赴任する。1884年、十和田湖にはじめて鯉600尾を放流する。十和田湖への魚類放流は、貞行が6人目で、鯉の放流も3人目だった。
新関 善八(にいぜき ぜんぱち、1858年3月26日〈安政5… 新関 善八(にいぜき ぜんぱち、1858年3月26日〈安政5年2月12日〉 - 没年不明)は、明治時代の政治家。山形県山形市長(第5代)。 先代新関善八の長男としてのちの山形県山形市肴町に生まれ、高等商業学校(現一橋大学)に進学した。肴町出身の後輩に会計学者の鹿野清次郎がいた。山形県多額納税者に列し、山形商業会議所特別議員を務めた。ほか、山形市農会議員、山形県会議員、山形商業銀行監査役、山形市参事会員を歴任した。1906年(明治39年)12月、山形市長に就任。前市長の菱田義民に懲りた市会が土着のものからという基準で最適任者として市長の座に就いたが、誠実一点張りで市政の舵取りに不慣れなうえ、助役の木口市之助が事務の人でなかったため、助役二名説が議論された。
杉森 此馬(すぎもり このま、1858年(安政5年)3月25… 杉森 此馬(すぎもり このま、1858年(安政5年)3月25日 - 1936年)は、日本の教育者。 柳河藩納戸役杉森憲正の長男として、柳川奥州町に生まれる。妹のシカは杉森女紅会(現・福岡キャリアi高等学校)の創立者、日本郵船社長を務めた白仁武は従兄弟。 1874年熊本洋学校に入学、在学中はL.L.ジェーンズから英語を学んでいる。1877年柳河師範学校を経て、1884年東京一致英和学校(後の明治学院)高等普通学科を卒業し、英和予備校英文解釈教員となる。 1885年明治学院助教授、1890年同教授となり、1894年福岡県立尋常中学修猷館教諭、1896年茨城県尋常中学校教諭、1897年山口高等学校教授、1898年第四高等学校教授を経て、1902年新設された広島高等師範学校教授に就任。
小畑 岩次郎(おばた いわじろう、1858年3月22日(安政… 小畑 岩次郎(おばた いわじろう、1858年3月22日(安政5年2月8日) - 1936年(昭和11年)2月14日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県遠敷郡松永村長。 若狭国遠敷郡平野村(福井県遠敷郡平野村、松永村を経て現小浜市平野)で、小畑多四郎の長男として生まれた。1894年(明治27年)家督を相続した。漢学、算術を修めた。 1876年(明治9年)敦賀県属となり地租改正を担当し、滋賀県でも担って1881年(明治14年)に退官。若狭国敦賀郡人民総代となり復県の誓願を行う。福井県属となり勧業事務を担当し、養蚕、製糸、羽二重製造を奨励した。1890年(明治23年)農商務省に転じて大日本蚕糸会の設立に尽力し、同会幹事を務め、1894年(明治27年)に退官した。
友国 晴子(ともくに はるこ、旧字:友國睛子 安政5年2月7… 友国 晴子(ともくに はるこ、旧字:友國睛子 安政5年2月7日(1858年3月21日)- 大正14年(1925年)10月26日)は、日本の明治から大正期にかけて活躍した教育者。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、親和中学校・親和女子高等学校の基礎を築いた。摂津国八部郡東須磨村(現在の兵庫県神戸市須磨区)出身。 代々庄屋をつとめる大地主の豪農の家に生まれる。祖父甚左衛門は和漢の学に通じ、俳諧にも造詣が深かった。 8歳ごろから7歳年上の姉いわと一緒に村内の儒者であり医師でもある小松春徳の私塾に通った。祖父の影響を受けたのか晴子は学問好きになり、男子と一緒に実語教・童子教などの教科書をスラスラと読み上げたと伝えられている。
池内 信嘉(いけのうち のぶよし、1858年3月21日(安政… 池内 信嘉(いけのうち のぶよし、1858年3月21日(安政5年2月7日) - 1934年5月17日)は、能楽研究家。 伊予国松山(現・愛媛県松山市)で、松山藩の剣術監である池内信夫(荘四郎政忠)、リウ夫妻の3男として松山城下の長町新丁(現、港町4丁目)に生まれる。幼名、嘉源次、後に号を如水・如翠とした。6男の清は後年高浜家を継いだ(俳号虚子)。松山は能が盛んな所だった。 1869年(明治2年)旧浩久松家の東京移住に付き、献能の催しがあり、初めて能楽「安宅」の判官と 「皇帝」の子方を勤めた。能楽に足を踏み入れた発端であるという。 1874年(明治7年)秋、家禄奉還に伴い、父に従い、風早郡別府村大学柳原の町外れ字西の下に郷居し農業に従事する。
相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2… 相磯 慥(あいいそ まこと、1858年3月20日〈安政5年2月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉8月18日)は、日本の医師。宮中顧問官。 東京府出身。小柴家に生まれ、相磯格堂の養子となった。のち格堂の娘・正子と結婚。1882年(明治15年)、東京大学医学部を卒業し、岐阜県立医学校長・附属病院長ののち、ドイツに留学。1888年(明治21年)に侍医となった。専門は産婦人科。1924年(大正13年)に侍医を辞し、宮中顧問官に就任した。 食品微生物学者の相磯和嘉、永井荷風の側近の相磯凌霜は、義理の甥に当たる。
富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(185… 富谷 千太郎(とみたに せんたろう、安政5年2月5日(1858年3月19日) - 大正13年(1924年)10月23日)は、日本の茶人、政治家。余子村長(初代)、余子村会議員。 竹内村(のち鳥取県境港市竹内町)出身。父喜七郎は醤油醸造をはじめ手広く事業をやっており、元治元年(1864年)の外江大火には醤油を見舞ったという。また村役人を務めた記録もある。 千太郎は初代村長として余子尋常小学校を開校し、明治23年(1890年)竹内村津山長四郎宅に役場を移転した。 いつのころか家業に失敗し、その後は煮干鰮製造や養鶏等を手掛けた。 またお茶やお花の宗匠でもあり、この道を海外で広めようと渡米したが、時期尚早で目的成らず帰国した。
井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、18… 井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1919年(大正8年)6月6日)は、日本の哲学者、教育者。 明治日本に哲学を広めた人物の一人。哲学館(現、東洋大学)や哲学堂公園を設立した。仏教哲学や妖怪学にも業績がある。 1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。幼名、岸丸。父は円悟、母はイク。 16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
山口 定省(やまくち さだみ、やまぐち ていせい、1858年… 山口 定省(やまくち さだみ、やまぐち ていせい、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1926年(大正15年)1月20日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 若狭国遠敷郡和久里村(のち福井県遠敷郡今富村、現・小浜市)に小浜藩士山口甚太夫の子に生まれる。農業を営み、学務委員、和久里村戸長、今富村長、福井県会議員、同参事会員、遠敷郡会議員、同参事会員、福井農工銀行取締役、若越新聞社長となる。また、朝鮮で貿易業に従事する。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において福井4区から憲政党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1926年に死去した。
肥後 静雄(ひご しずお、1858年3月17日(安政5年2月… 肥後 静雄(ひご しずお、1858年3月17日(安政5年2月3日) - 1924年(大正13年)8月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県出身。曽於郡志布志郷の後の東志布志村(志布志町を経て現志布志市の一部)に生まれる。薩摩藩藩校造士館に学ぶ。囎唹郡東志布志村長、鹿児島県会議員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1924年に死去した。
折田 兼至(おりた かねたか、1858年3月11日(安政5年… 折田 兼至(おりた かねたか、1858年3月11日(安政5年1月26日) - 1923年(大正12年)6月5日)は、明治から大正期の政治家・実業家。衆議院議員(4期)。 薩摩国給黎郡知覧郷(鹿児島県給黎郡知覧村、川辺郡知覧村、知覧町を経て現南九州市)で、神職・折田丹江の長男として生まれた。1882年(明治15年)2月、家督を相続する。私学校に学ぶ。和漢学、英学を修めた。1882年(明治15年)熊本に九州進歩党を創立した。ほか、学務委員、徴兵参事員、衛生会委員、県教育会副会長などを歴任した。 1883年(明治16年)7月、鹿児島県会議員に選出され、1887年(明治20年)6月、県会副議長、1888年(明治21年)3月、第6代県会議長に就任し、同常置委員も務めた。
池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10… 池辺 棟三郎(池邊、いけべ とうざぶろう、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1926年(大正15年)4月13日)は、明治から大正時代の医師。宮中顧問官。旧姓は渡邊。子孫に香川京子と池辺晋一郎がいる。 渡邊建節の二男として豊後国(現大分県)に生まれ、1888年(明治21年)5月、池辺田村の養嗣子となり家督を相続する。1871年(明治4年)加藤賢成の門に入り漢学を修め、1873年(明治6年)大分町英学校、豊前中津において英語を研鑽したのち上京しドイツ人・ヒュルゲルマイステルに従いドイツ語を修めた。同年9月、東京外国語学校に進んだのち、翌年3月、帝国大学医学部に入り、1886年(明治19年)10月に卒業し、医学士の称号を得た。
御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政… 御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1954年(昭和29年)9月21日) は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。 志摩国答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。
田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年… 田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年3月9日) - 昭和5年(1930年)7月21日)は、日本の教育者。 美作国勝山(岡山県真庭市)出身。同人社・三叉学舎・慶應義塾を経て、1878年(明治11年)に東京師範学校(後の東京高等師範学校)に入り、1884年(明治17年)に卒業した。 長崎外国語学校教諭、長崎県中学校教諭、長崎県師範学校教諭、高等師範学校助教諭・訓導、岐阜県師範学校教頭、同校長を経て、1892年(明治25年)に宮城県師範学校校長に就任した。1893年(明治26年)、東京女子高等師範学校教授となり、1897年(明治30年)に東京府師範学校校長に転じた。1900年(明治33年)、台湾総督府国語学校校長となる。
乾 亀松(いぬい かめまつ、1858年3月7日〈安政5年1月… 乾 亀松(いぬい かめまつ、1858年3月7日〈安政5年1月22日〉 - 1925年〈大正14年〉12月23日)は、日本の政治家(衆議院議員、大阪府郡部選出、当選1回、立憲政友会)、篤農家。 河内国高安郡恩智村(大阪府中河内郡南高安村大字恩智、高安村を経て現八尾市)出身。喜一の長男。18歳の時に父が病没し、家督を相続する。 恩智村総代役、同村会議員、高安村会議員、中河内郡会議員、大阪府会議員・同議長、同参事会員、郡部会副議長に挙げられる。また水利築留樋連合会議員、学事委員、地押調査掛、地方森林会議員等となる。 1902年、八尾銀行監査役に就任。1909年、八尾銀行取締役に就任。住所は大阪府中河内郡南高安村大字恩智。
六代目 藤井 佐次兵衛(ふじい さじへえ、安政5年1月20日… 六代目 藤井 佐次兵衛(ふじい さじへえ、安政5年1月20日(1858年3月5日) - 1931年(昭和6年)3月25日)は、三河国幡豆郡佐久島村(現・愛知県西尾市佐久島)出身の漁業者・地方自治功労者。佐久島村漁業組合の設立に尽力し、1908年(明治41年)には佐久島村長を務めた。 安政5年1月20日(1858年3月5日)、三河国幡豆郡佐久島村(現・愛知県西尾市佐久島)西側97番地に生まれた。藤井佐次兵衛の長男である。幼名を覚三郎といい、やがて六代目藤井佐次兵衛を襲名した。 四番組長、学務委員、地積取調委員、戸長、佐久島村会議員などを歴任した。農事改良、金融の利便向上、防波堤の築造などに力を注ぎ、1903年(明治36年)2月1日には筒井新次郎、筒井由次郎、筒井金兵衛、筒井浅次郎らと協力して佐久島村漁業組合を設立した。
春田 祐清(はるた すけきよ、1858年3月3日(安政5年1… 春田 祐清(はるた すけきよ、1858年3月3日(安政5年1月18日) - 1929年(昭和4年)11月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 愛知県出身。1874年、愛知県養成学校小学教科卒。小学校訓導、南麻績村戸長、実田村長、中島郡会議員、同参事会員、愛知県会議員となる。また、破産管財人、愛知県教育会、同県農会各評議員、日光川倉庫銀行取締役を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において愛知県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙で再選した。1915年の第12回衆議院議員総選挙では51票差で落選した。1929年に死去した。
村松 愛蔵(むらまつ あいぞう、安政4年3月2日(1857年… 村松 愛蔵(むらまつ あいぞう、安政4年3月2日(1857年3月27日) - 昭和14年(1939年)4月11日)は、日本の政治家、キリスト教伝道者、社会事業家。 藩校成章館(現愛知県立成章高等学校)で伊藤鳳山から儒学を学ぶ。16歳で上京。東京外国語学校ロシア語学科に入学。レフ・メーチニコフの門下生となる。板垣退助の思想に影響を受け、帰郷後、鈴木孝之助、広中鹿次郎たちと「恒心社」を結成。 自由民権運動に加わり、私擬憲法「日本国憲法草案」を起草、愛岐日報に発表した。飯田事件により投獄されたが、1889年大赦により出獄した。 下宿先の娘きみと結婚後、1894年(明治27年)自由党から衆議院選挙に立候補するが落選。
神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2… 神田 乃武(かんだ ないぶ、1857年3月22日(安政4年2月27日) - 1923年(大正12年)12月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者、英学者。男爵。
内藤 守三(ないとう もりぞう、安政4年2月13日(1857… 内藤 守三(ないとう もりぞう、安政4年2月13日(1857年3月8日) - 昭和21年(1946年)2月22日)は、実業家、政治家。国勢調査創設者。安芸国賀茂郡板城村馬木(現在の広島県東広島市)出身。幼名・太郎一。 若くして庄屋をつとめ、戸長にもなる。竹原の学館で漢学を修め1870年上京、東京開成学校で英語、法律、国勢学(統計学)を、皇典講究所で国学を学ぶ。卒業後黒瀬川の浚渫事業に携わった後、実業家となり1888年呉市に呉土工会社を設立。呉海軍工廠の誘致・山陽鉄道の国有化等に尽力、また呉市二河公園の建設など同地の市街地整備にあたった。1892年には高性能爆弾の研究を進めていた下瀬雅允に資金を提供し、日露戦争で威力を発揮した下瀬火薬の開発に協力した。
佐藤 佐(さとう たすく、1857年3月6日〈安政4年2月1… 佐藤 佐(さとう たすく、1857年3月6日〈安政4年2月11日〉 - 1919年〈大正8年〉3月3日)は、明治期の医師、医学者、順天堂医院副院長。大日本薬局方調査會委員。 佐倉藩士井上信利の三男井上虎三として生まれ、11歳で藩医佐藤尚中に入塾する。大学東校に入り、1878年夏、脚気の再発で足腰が立たないまでの症状に陥ったが翌年から復学、1881年3月、東京大学医学部を卒業。卒業が確定となった事で佐藤尚中の三女:楽との婚姻を結び、佐藤家へ養嗣子となる。 同期は三浦守治、高橋順太郎、中濱東一郎、森林太郎、賀古鶴所であった。 明治15年(1882年)2月4日、佐藤佐と同じく明治14年度派遣留学生、三浦守治、榊俶、高橋順太郎とフランス客船メンザリー号で横浜港を出発、3月23日にベルリンに到着、ドイツ及びオーストリアに私費留学、1886年(明治19年)に帰朝し、順天堂医院の内科医療に従事する。
大和田 荘七(おおわだ しょうしち、安政4年2月11日(18… 大和田 荘七(おおわだ しょうしち、安政4年2月11日(1857年3月6日) - 昭和22年(1947年)1月30日)は、日本の実業家。北前船の船主であり、大和田銀行や大和田貯金銀行を創立した。 安政4年2月11日(1857年3月6日)、越前国敦賀(現・福井県敦賀市)に生まれた。出生名は山本 亀次郎(やまもと かめじろう)。父親は薬屋の山本三郎兵衛であり、兄の山本九郎左衛門は、大和田炭鉱株式会社取締役を務めた。初代大和田荘七に見込まれ、初代大和田荘七の長女万寿子と結婚して大和田家の婿養子となった)。1887年(明治20年)、30歳のときに2代目大和田荘七を襲名した。1892年(明治25年)、大和田銀行を設立した。
北里 貞之(きたざと さだゆき、1857年3月4日(安政4年… 北里 貞之(きたざと さだゆき、1857年3月4日(安政4年2月9日) - 1928年(昭和3年))は日本の裁判官、弁護士。元・大審院判事。 1857年(安政4年2月9日)、熊本藩士北里一格の長男として生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学び、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格する。1890年(明治23年)に北里崎次郎の養子となる。 福島地方裁判所判事、宮崎地方裁判所長、大分地方裁判所長、鹿児島地方裁判所長を経て、1919年(大正8年)に大審院判事に就任する。正五位勲四等。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
菅 了法(すが りょうほう、安政4年2月8日(1857年3月… 菅 了法(すが りょうほう、安政4年2月8日(1857年3月3日) – 昭和11年(1936年)7月26日)は、明治期のジャーナリスト、「グリム童話」の訳者、衆議院議員、僧(本願寺顧問)。号は桐南。筆名は桐南居士。 石見国邑智郡銀山領川本村(現・島根県邑智郡川本町川本)の浄土真宗本願寺派・壽國山光永寺に住職・菅了雲の長男として生まれる。 明治8年(1875年)、学制施行により設立された川本小学(現・川本小学校)の初代校長となる。明治9年(1876年)秋、川本小学を辞して、大阪英語学校(後の第三高等学校)に学び、明治10年(1877年)6月、本願寺からの援助を受けて慶應義塾「大人科」に入学。明治12年(1879年)暮れないし明治13年(1880年)春まで在学。
土方 千種(ひじかた ちくさ、安政4年2月7日(1857年3… 土方 千種(ひじかた ちくさ、安政4年2月7日(1857年3月2日) - 大正10年(1921年)5月14日)は日本の政治家、法律家。衆議院議員(1期、立憲国民党)。 1857年(安政4年)2月7日、江戸麹町に生まれる。東京法学校(現在の法政大学)で学んだ後、1887年(明治20年)に判事試験に合格する。久留米区裁判所、福岡地方裁判所、小倉区裁判所等で判事として勤務し、1897年(明治30年)に退官し、小倉市で弁護士を開業する。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。1921年(大正10年)5月14日に死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856… 松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856年3月28日) - 昭和3年(1928年)1月18日)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町長、境町会議員、郡会副議長、境町学務委員。伯州境港の豪商。 境町に生まれた。吉三郎の四男。幼名を虎之助と称す。夙に算数の術に長ず。 年甫二十五歳の時、厳君の許容を得、資を分つて同町に分家を創立し鉄石油商を開始した。 日本海上火災保険等の代理商を営むほか、ニューヨークスタンダード石油等の販売商として手広く商いに励み、その傍ら政治にも関心をもった。 若くして町会議員に立ち、町長就任時には郡会副議長の要職にあった。 大正3年(1914年)町の将来的発展と貨客の便を図るため、境駅を現在地に移し、お台場までの中心道路新設改修を計画、一部竣工させた。
新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日(1856年… 新井 章吾(あらい しょうご、安政3年2月22日(1856年3月28日)- 明治39年(1906年)10月16日)は、明治前期の政治家。衆議院議員として通算7期。位階および勲等は従四位・勲四等。 自由党幹部として活躍した。 下野国都賀郡吹上村(現在の栃木県栃木市吹上町)の豪農の家に生まれる。吹上藩の藩校日就館で学んだ後、壬生の育英舎で英学を学んだ。明治10年(1877年)、吹上村の戸長になる。 明治13年(1880年)以後、自由民権運動に参加して自由党に加入、郷里を中心に運動の興隆に努め、明治15年(1882年)に栃木県会議員となる。翌年、官吏侮辱罪・集会条例違反で5か月間収監され、更に大阪事件に関与して朝鮮渡航部隊の責任者となったことから捕らえられて重懲役9年の判決を受ける。
持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月… 持田 直(もちだ ちょく、1856年3月26日(安政3年2月20日)- 1937年(昭和12年)11月3日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員、埼玉県児玉郡本庄町長。 武蔵国児玉郡本庄宿(のちの埼玉県児玉郡本庄町、現:本庄市)で、商家・持田市平の第四子として生まれる。書を僧・純道に、経史詩文を矢口謙斎について学ぶ。1875年、熊谷県立暢発学校師範学科を卒業。改進学校(現:本庄市立旭小学校)長、埼玉県教育会員を務めた。 1887年、公証人試験に合格。埼玉県会議員、同常置委員、児玉郡参事会員、本庄町会議員、同町長などを歴任。埼玉県庁の熊谷移転を主張した。 1898年3月、第5回衆議院議員総選挙で埼玉県第五区から自由党所属で出馬して当選。
千田 軍之助(せんだ ぐんのすけ、安政3年2月11日(185… 千田 軍之助(せんだ ぐんのすけ、安政3年2月11日(1856年3月17日) – 大正3年(1914年)3月2日)は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、ジャーナリスト。 紀伊国那賀郡南志野村(現在の和歌山県紀の川市)の郷士の家に生まれた。1874年(明治7年)、副戸長となり、第三大区第二小区会議所に勤務した。1876年(明治9年)、地租改正にあたって県令神山郡廉に地価の不当を訴えたが、容れられなかったため副戸長を辞した。その後、児玉庄右衛門(児玉仲児の父)らとともに自由民権運動を展開したため、投獄された。これに対し数百の民衆が彼らを奪還しようと蜂起したため、神山は大阪鎮台に出兵を乞う事態となった(粉河騒動)。
神谷 傳兵衛(かみや でんべえ、安政3年2月11日(1856… 神谷 傳兵衛(かみや でんべえ、安政3年2月11日(1856年3月17日) - 大正11年(1922年)4月24日)は、三河国幡豆郡松木島村(現在の愛知県西尾市一色町松木島)出身の実業家。神谷 伝兵衛とも表記される。 東京都台東区浅草の洋酒バーの神谷バー、茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者。旭製薬社長のほか、神谷醸造、日本製粉、九州炭鉱汽船、三河鉄道、東洋遊園地などの役員を務めた。 幼名は松太郎。実子はなく、養女のぶ(神谷桂助長女)の婿養子の神谷(旧姓:小林)伝蔵(傳藏とも表記される)が2世神谷傳兵衛を名乗る。 安政3年2月11日(1856年3月17日)、三河国松木島村の名主の六男として生まれた。
斎藤 孝治(さいとう こうじ、1856年3月10日(安政3年… 斎藤 孝治(さいとう こうじ、1856年3月10日(安政3年2月4日) - 1917年(大正6年)8月22日)は、日本の弁護士、公証人、東京府会議員。 古河藩士・斎藤三平の子として江戸駒込の藩邸で生まれた。1872年に上京して儒者亀田鶯谷の塾で学んだ。1875年警視庁巡査となり、西南戦争に従軍。戦後、北畠道龍・矢代操らの講法学舎に入ったが、1881年、明治法律学校(明治大学の前身)の開校にあたって幹事として庶務にあたり、また一学生として法学を修め、同校最初の卒業生の一人となった。 1882年に代言人試験に合格し、秩父事件や野口男三郎事件などで弁護活動に従事。日本弁護士協会の創設に参画し、1898年には副会長となった。
丹羽 藤吉郎(にわ とうきちろう、1856年3月8日(安政3… 丹羽 藤吉郎(にわ とうきちろう、1856年3月8日(安政3年2月2日)- 1930年(昭和5年)3月12日)は、日本の薬学者である。 佐賀藩士だった丹羽与左衛門の次男として生まれる。佐賀藩校を経て、廃藩置県により1871年(明治4年)に大学校に入学し、当時お雇い外国人として来日していたドイツ人のヤーコプ・カデルリー(カドリーとも、1827年 - 1874年)からドイツ語を学んだ。その後同学校は東京帝国大学(現在の東京大学)に名称変更し、1873年(明治6年)に初めドイツ語学科に入学にし、フグ毒に関する研究に携わる田原良純らが所属した製薬学科に移る。この頃に同じくお雇い外国人として来日していたドイツ人のアレクサンダー・ランガルトに師事し、製薬化学の研究に携わった。
鈴木 儀左衛門(儀左衞門、すずき ぎざえもん、1856年3月… 鈴木 儀左衛門(儀左衞門、すずき ぎざえもん、1856年3月4日(安政3年1月28日)- 1933年(昭和8年)8月6日)は、明治から昭和初期の農業経営者、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県海上郡嚶鳴村長。 下総国夷隅郡琴田村(千葉県夷隅郡琴田村、嚶鳴村琴田、海上町 を経て現旭市琴田)で、農業、先代・鈴木儀左衛門の長男として生まれた。安中藩儒・伊藤桂次郎に師事し漢籍を修めた。 1872年(明治5年)大区選挙人に就任。1876年(明治9年)地租改正で苦しむ村民の先頭に立ち、地租等級の改訂を誓願する減租運動を10年有余にわたって継続し、ついに改定を実現した。また自由党の板倉中、西村甚右衛門らと交際し、1890年(明治23年)自由党系の政治結社・興東倶楽部を結成した。
高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1… 高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1月28日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 越後国刈羽郡石地村(現・柏崎市)で高橋喜惣八の長男として生まれる。1875年(明治8年)小樽に渡り荒物商の店員となる。1878年(明治11年)に独立し合羽荒物雑貨商を開業し、さらに米穀海産委託問屋、味噌醤油製造、石炭販売、精米所、回漕業を営んだ。1896年(明治29年)弟・喜蔵と共に高橋合名会社を組織し代表社員に就任。事業を米雑穀業に転換した。第一次世界大戦により日本からヨーロッパへ菜豆類の輸出が急増した際に、大量の大豆を貯蔵し直輸出を行い、日本やロンドン市場を左右するほどの影響を与えたことから「小豆将軍」と称された。
森本 善七(もりもと ぜんしち、1855年3月28日(安政2… 森本 善七(もりもと ぜんしち、1855年3月28日(安政2年2月11日)- 1928年(昭和3年)5月1日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 尾張国知多郡大野村(愛知県知多郡大野町を経て現常滑市)出身。萩原宗平の長男として生まれる。元治元年6月(1864年7月)2代善七の養子となり明治4年8月(1871年)家督を相続し、天明元年創業の小間物商笹屋3代目となる。1881年(明治14年)愛知県会議員に当選。ついで名古屋市会議員、同参事会員、名古屋商業会議所常議員、名古屋銀行頭取、名古屋株式取引所理事長、東海倉庫、日本車輌製造各社長、尾張紡績、帝国撚糸などの重役を歴任した。
陸 鉞巌(りく えつがん、1855年3月25日 - 1937… 陸 鉞巌(りく えつがん、1855年3月25日 - 1937年2月24日)は、日本の僧侶。名古屋市円通寺第28世、両本山布教師、曹洞宗大学林総監などを歴任。別名、鉞巌沙門。号は仙雄。 安政2年2月8日、尾張国名古屋生まれ。1886年(明治19年)曹洞宗大学林(現: 駒澤大学)卒業。研究生に特選され、1887年から1890年まで哲学館に在学。1885年(明治18年)9月、曹洞宗大学林寮監。明治23年11月より曹洞宗東京中学林教授。曹洞宗台湾布教師。1900年(明治33年)9月、曹洞宗大学林総監。 著書に「修道用心偈六百首布皷」「正法眼蔵布皷」「永平正法眼蔵知津布皷」など。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。
田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年… 田 健治郎(でん けんじろう、1855年3月25日〈安政2年2月8日〉- 1930年〈昭和5年〉11月16日)は、日本の官僚、政治家、華族(男爵)。幼名は梅之助、号は譲山。衆議院議員・貴族院議員(勅選)・逓信大臣・司法大臣・農商務大臣・台湾総督・枢密顧問官等を歴任。田艇吉(衆議院議員)は兄。田英夫(参議院議員)は孫。また先祖に元禄時代の女流俳人田捨女がいる。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)に田文平の子として生まれる。健治郎の家は代々大庄屋を務めた豪農であった。幼時には強健・腕白で、虚弱だった兄・艇吉がケンカに負けるとその仕返しに出向いたという逸話が残っている。 1874年(明治7年)に上京し、同郷の先輩の紹介で熊谷県の下級吏員に採用、翌年に愛知県に移り、名古屋裁判所安濃津支庁(現三重県津市)の糺問係に就いた。
小野田 又蔵(おのだ またぞう、安政2年2月8日(1855年… 小野田 又蔵(おのだ またぞう、安政2年2月8日(1855年3月25日) - 1939年(昭和14年)6月13日)は、三河国加茂郡明知村(現・愛知県みよし市明知町)出身の堂宮大工(棟梁)。 明治期から大正期にかけて、愛知県を中心に滋賀県も含めて60か所以上の寺院や神社の建築を手掛けた。温和で忍耐強い性格だった。 安政2年(1855年)2月8日、三河国加茂郡明知村(現・愛知県みよし市明知町)に生まれた。父は小野田菊蔵であり、又蔵は二男だった。 18歳だった1873年(明治6年)3月に棟梁の石川貞助(貞蔵)に弟子入りした。石川貞助は知多郡前山村(現・常滑市)出身の堂宮大工であり、三好の石川家に養子に入ったとされる。
菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年… 菊池 大麓(きくち だいろく、1855年3月17日〈安政2年1月29日〉- 1917年〈大正6年〉8月19日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の数学者、教育行政官。男爵、理学博士。 東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。 蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸天神下(現:新宿区喜久井町)の津山藩の下屋敷に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。秋坪は蘭学者箕作阮甫の弟子で、つねはその阮甫の三女である。 蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)に幕府派遣で、1870年(明治3年)に新政府派遣で、2度に渡り英国に留学した。
今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年… 今立 吐酔(いまだて とすい、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1931年〈昭和6年〉)は、日本の教育者(理学士)・外交官。京都府京都中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)初代校長。 安政2年(1855年)、越前国今立郡松成村(現・福井県鯖江市松成町)の浄土真宗本願寺派の満願寺の第14世今立乗永の五男として生まれる。幼名は芳丸。神童と言われるほど幼い頃から優れた才能を現した。14、5才の時に吐酔と改名。 旧暦1871年(明治4年)、福井藩の藩校明新館(旧明道館)に入学、アメリカ人理化学者ウィリアム・グリフィスに学ぶ。1972年(明治5年)1月にグリフィスが大学南校(東京大学の前身の1つ)教授に転じて福井を去った後、武生進修小学校で1年間英語を教えた(教え子に松本源太郎・土肥慶蔵がいた)。