赤﨑 優花(あかさき ゆうか、旧姓:鈴木〈すずき〉、1999… 赤﨑 優花(あかさき ゆうか、旧姓:鈴木〈すずき〉、1999年9月14日 - )は、日本の陸上競技選手、長距離走。2019年夏季ユニバーシアードハーフマラソン個人・団体金メダリスト。マラソン女子日本学生記録保持者。 秋田県仙北郡中仙町長野(現在の大仙市)出身。大仙市立中仙中学校時代に陸上競技とバスケットボールの二刀流でスポーツに打ち込む。また中学校時代には東北電力主催の中学生作文コンクールで佳作入選を果たした経歴を持つ。 秋田県立大曲高等学校に進学後に本格的に競技に打ち込む。高校時代は3年時の平成29年度全国高等学校総合体育大会(山形県総合運動公園陸上競技場)女子3000m予選に出場、同組で走った田中希実(兵庫県立西脇工業高等学校)、大西ひかり(須磨学園高等学校)らに大きく水をあけられて12位で予選落ちした。
小林 快(こばやし かい、1993年2月28日 - )は、日… 小林 快(こばやし かい、1993年2月28日 - )は、日本の元陸上競技選手。専門は競歩。早稲田大学卒業後、ビックカメラを経て、新潟アルビレックスランニングクラブに所属。 秋田県大館市出身。秋田工業高等学校で競歩を始める。2010年インターハイ5000m競歩で2位。早稲田大学では、2014年日本インカレ10000m競歩2位、2015年元旦競歩優勝。 2015年3月に大学を卒業し、同4月、岡田久美子の所属するビックカメラに入社。ビックカメラ所属後はビックカメラ池袋本店のサングラスコーナーで接客の傍ら陸上競技活動を行っている。 第55回全日本50km競歩高畠大会 男子50km競歩 優勝 (日本歴代4位)、ロンドン世界陸上競技選手権大会3位(自己新記録)。
伊藤 正樹(いとう まさき、1989年5月19日 - )は、… 伊藤 正樹(いとう まさき、1989年5月19日 - )は、日本の陸上競技選手、専門は長距離種目。秋田県大館市出身。秋田工業高校、国士舘大学卒業。コニカミノルタに所属していた。 小学校4年生から陸上を始める。大学は国士舘大学に進学。1年目から箱根駅伝に出場する(4区-5位)。2年目の箱根駅伝では、国士舘大学は予選落ちし本戦に出場できなかったものの、伊藤は関東学連選抜の一員として出走した(2区-16位)。3年目も国士舘大学は予選落ち。前年と同じく伊藤は学連選抜のメンバーに選ばれていたが出走はなかった。4年目には駅伝主将としてチームを引っ張り、箱根駅伝予選会3位(日本人2位)の力走で国士舘大学を3年ぶりに本戦出場に導いた。
佐々木 悟(ささき さとる 1985年10月16日- )は、… 佐々木 悟(ささき さとる 1985年10月16日- )は、秋田県大仙市出身の元陸上競技選手、陸上競技指導者。専門は長距離走・マラソン。 大仙市立南外中学校、秋田県立秋田工業高等学校、大東文化大学卒業。現役時代は旭化成陸上部に所属し、2011年から2016年まで同部の主将を務めた。2016年リオデジャネイロオリンピック男子マラソン日本代表(16位)。また、2017年ニューイヤー駅伝では、チームの18年ぶり22回目の優勝のゴールテープを切った。2024年11月から、亜細亜大学陸上競技部の監督を務める。 秋田工業高等学校時代には全国高等学校駅伝競走大会に2回出場し、第53回(2002年)、第54回(2003年) と3区を走っている。
高橋 正仁(たかはし まさひと、1980年3月6日 - )は… 高橋 正仁(たかはし まさひと、1980年3月6日 - )は、日本の陸上競技選手、陸上競技指導者。秋田県大仙市出身。秋田工業高等学校、駒澤大学法学部卒業。コニカミノルタ所属を経て、2019年4月より秋田工業高等学校陸上部の監督を務める。 駒澤大学陸上競技部出身者の一人。大学在学中は東京箱根間往復大学駅伝競走に、2年時の2000年第76回大会から4年時の2002年第78回大会までの3大会連続出場を果たした。第76回大会では10区を走って駒澤大学箱根駅伝初優勝のゴールテープを切った。記録も1時間10分26秒の区間新記録(区間順位1位)を樹立した。第77回大会は9区を走って順天堂大学の高橋謙介を逆転し駒澤大学を首位に立たせた。
松宮 隆行(まつみや たかゆき、1980年2月21日 - )… 松宮 隆行(まつみや たかゆき、1980年2月21日 - )は日本の男子陸上競技(長距離走・マラソン)選手。コニカミノルタ陸上競技部⇒愛知製鋼陸上競技部所属。秋田県鹿角市出身、秋田県立花輪高等学校卒業。2008年北京オリンピック男子長距離トラック日本代表。男子5000mの元日本記録保持者。30km競走の前世界記録保持者である。
松宮 祐行(まつみや ゆうこう、1980年2月21日 - )… 松宮 祐行(まつみや ゆうこう、1980年2月21日 - )は、日本の男子陸上競技(長距離走・マラソン)選手。コニカミノルタ陸上競技部⇒日立物流陸上部⇒セキノ興産陸上部所属。秋田県鹿角市出身、秋田県立花輪高等学校卒業。
北島 良子(きたじま りょうこ、1976年6月12日 - )… 北島 良子(きたじま りょうこ、1976年6月12日 - )は、秋田県秋田市出身の女子陸上競技(長距離走・マラソン)選手・指導者・トレイルランナー。 秋田県立秋田北高等学校、城西短期大学卒業。 短大卒業後、みずほ銀行(入社当時は富士銀行)へ入社し陸上競技部に所属するも、2004年に陸上競技部が廃部。その後ヤマダ電機女子陸上部へ移籍。 初マラソンは1998年のベルリンマラソンで2時間36分55秒で8位。4年後の2002年大阪国際女子マラソンで2時間29分20秒で6位。2年後の2004年大阪国際女子マラソンは2時間31分18秒で再び6位。 2004年2月に結婚し、姓名登録を北島から「江田(えだ)良子」へ変更。
高橋 勇市(たかはし ゆういち、1965年6月12日 - )… 高橋 勇市(たかはし ゆういち、1965年6月12日 - )は、視覚障害の陸上競技・マラソン選手。秋田県横手市出身、三菱商事所属。 IPC 陸上競技クラス T11 、身長 169cm 、体重 58kg 。血液型A型。 2004年、アテネパラリンピックマラソンの金メダリスト。2006年、IPC 陸上競技世界選手権大会マラソン金メダルの世界選手権者。2004年、国際盲人マラソンかすみがうら大会で当時の世界最高記録で優勝他、クラス T11 の 5000m 、 10000m 、マラソンの日本記録を樹立した。 農家の長男として生まれ、横手市立黒川小学校、同横手西中学校を経て秋田県立大曲農業高等学校に入学した。
遠藤 司(えんどう つかさ、1961年11月9日 - )は、… 遠藤 司(えんどう つかさ、1961年11月9日 - )は、日本の陸上競技(長距離走)選手・指導者。 秋田県平鹿郡平鹿町(現在の横手市)出身。小学校の卒業文集に「オリンピックに出たい」と記したという。秋田県立横手工業高等学校在学中、全国高等学校総合体育大会で男子800メートル走に出場、1分50秒9で優勝。高校3年生の時に早稲田大学競走部の中村清監督と出会い、早稲田大学を目指す。高校3年生の入試の結果発表前に行ったニュージーランド合宿中に中村から、不合格であることを伝えられたが、その時に聖書の言葉を引用して「『成功する道は、狭くて険しい』。これから成功する道を選んだのだから、頑張りなさい」と言われ、一浪の末合格した。
成田 道彦(なりた みちひこ、1956年2月6日 - )は、… 成田 道彦(なりた みちひこ、1956年2月6日 - )は、秋田県北秋田市出身の元陸上競技選手。法政大学陸上競技部監督を経て、2013年4月より同校陸上競技部副部長を務める。 秋田県立西目農業高等学校(現・秋田県立西目高等学校)卒業後、法政大学に入学。当時低迷期にあったチームでエースとして活躍し、箱根駅伝では2年時から3年連続で2区を走った。4年時にあたる1978年の第54回大会では、早稲田大学の瀬古利彦、日本体育大学の中村孝生ら強豪を抑えて区間賞を獲得。母校を17年振りに先頭に立たせ、9年振りのシード権獲得(8位)の原動力となった。特に学生最強ランナーと言われた瀬古を破った男として現在でも名前を見つけることができる。
鈴木 重晴(すずき しげはる、1934年4月5日 – 201… 鈴木 重晴(すずき しげはる、1934年4月5日 – 2012年2月27日)は、日本の陸上競技選手、指導者。 1946年、学制改革期の旧制秋田中学校(在学中の1948年に秋田南高等学校と改称。現在の秋田県立秋田高等学校)に入学。楢山の歯医者であった叔父宅から通学しており、鈴木自身も歯医者を目指していたという。1年生より陸上競技を始め、3年生の折に400mと800mで全県大会・東北大会に優勝して駒を進め、インターハイで両種目3位。東西対抗400mで全国優勝を果たした。 早稲田大学に進学し競走部に入部。大学在学中に中距離4種目(400m、800m、1000m、1600mリレー)で日本新記録を立てた。
佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1… 佐々木 吉蔵(ささき きちぞう、1912年3月10日 - 1983年1月23日)は、日本の陸上競技選手。 秋田県鹿角郡小坂村(現在の小坂町)に生まれる。1929年に大館中学校(現在の秋田県立大館鳳鳴高等学校)を卒業し、小坂鉱山花岡支社に入社し、明治神宮大会の男子100mで優勝する。 翌年、東京高等師範学校に進み、日本陸上競技選手権大会の男子200mで優勝し、ついで1931年には一般対抗学生選手権の4×100mリレーの学生チームの第2走者として、41秒6で当時の日本記録を樹立した。 1932年ロサンゼルスオリンピック代表に選ばれたが、怪我のために辞退した。つづく1936年ベルリンオリンピックでは男子100メートルに出場した。