勘解由小路 資淳(かでのこうじ すけあつ、1922年〈大正1… 勘解由小路 資淳(かでのこうじ すけあつ、1922年〈大正11年〉1月4日 - 2019年〈平成31年〉2月2日)は、室町時代に栄えた日野家分家である烏丸家の分家に当たる勘解由小路家11代目の当主、子爵。山口県に在住し、日本一長い五文字の名字を持つ人物の一人であることでも知られていた。山形県山形市生まれ。 出生時の名は松村淳二。大分県知事や貴族院勅選議員を務めた松村義一の次男であり、戸籍上の父である勘解由小路資承は母方の祖父にあたる。4歳で資承の養嗣子となり、資淳に改名し、勘解由小路家11代目当主となった。 母の松村好子(まつむら いつこ)は子爵勘解由小路資承の長女であり、副島種臣の外孫でもあった。
酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月2… 酒井 忠良(さかい ただなが、1888年〈明治21年〉9月22日 - 1962年〈昭和37年〉2月12日)は、日本の華族、詩人、歌人、書家。位階爵位は正三位伯爵。財団法人致道博物館の創設者。 庄内藩11代藩主だった華族の酒井忠篤伯爵の次男で、最後の藩主酒井忠宝(忠篤の弟)の養子にあたる。幼名は小五郎。1915年(大正4年)の忠篤の死去に伴い、酒井佐衛門尉家20代当主となるとともに、2代伯爵位を襲爵した。富裕な華族で、山形県の多額納税者だった。1947年(昭和22年)8月15日、昭和天皇が戦後巡幸した際には、鶴岡市内の邸宅が御泊所となった。 1950年(昭和25年)、地域振興のため所有する庄内藩主御隠殿及び藩校致道館資料を財団法人以文会(現:致道博物館)を設立の上で寄付。
山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文… 山下 源太郎(やました げんたろう、1863年8月26日〈文久3年7月30日〉- 1931年〈昭和6年〉2月18日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、華族。海軍大将正二位勲一等功三級男爵。日露戦争時の軍令部作戦班長(のちの作戦部長)、連合艦隊司令長官、軍令部長などを歴任した。 米沢藩士・山下新右衛門(禄高:25石)の次男。藩校興譲館、その後身の私立米沢中学校を経て明治12年(1879年)海軍兵学校に入校。明治15年(1882年)「龍驤」に乗り込み遠洋航海に参加した。翌年海軍兵学校を4位の成績で卒業(10期)。同期に首席の加藤定吉大将、17位の名和又八郎大将がいる。 帰国後は「浅間」で砲術訓練を積み、兵学校修学課程で学問を深め、明治19年(1886年)の長浦水雷営勤務から現場に出た。
酒井 忠宝(さかい ただみち)は、江戸末期の大名、明治から大… 酒井 忠宝(さかい ただみち)は、江戸末期の大名、明治から大正期の日本の華族。位階は従三位。幼名は徳之助。 第9代出羽庄内藩主酒井忠発の六男で、兄忠篤の蟄居後に酒井佐衛門尉家第18代当主となり、岩代若松(旧会津)、磐城平への転封を経て、庄内藩知事(のち大泉藩と改称)を務めた。正室は遠藤胤城の娘。 戊辰戦争で兄・酒井忠篤が新政府軍に降伏し、永蟄居に処された後、御家再興を許されて明治元年12月(1869年1月)に忠宝が家督を継ぎ岩代若松(のち若松県)へ、さらに版籍奉還直前の明治2年6月(1869年7月)に陸奥磐城平への移封を命じられたが、70万両の献納を条件に同年7月22日に庄内藩知事への復帰が認められた。