佐藤 悠太(さとう ゆうた、1988年5月3日 - )は、日… 佐藤 悠太(さとう ゆうた、1988年5月3日 - )は、日本中央競馬会(JRA)・栗東トレーニングセンターの調教師。山形県上山市出身。父は元上山競馬場調教師で現金沢競馬場調教師の佐藤茂、祖父は上山競馬場元調教師の佐藤英一。 幼少期から父の厩舎があった上山競馬場で毎週レースを観る生活をしており小学生4年生頃から調教師を志す。 山形県立山形南高等学校を卒業後、日本獣医生命科学大学に進学し動物栄養学を専攻する。大学卒業後はノーザンファームに就職し、2012年10月にJRA競馬学校厩務員課程に入学する。競馬学校卒業後アイルランドに渡りトレイシー・コリンズ調教師の元で3カ月間競馬を学んだ。 帰国後の2013年9月から大学の先輩でもある栗東の田中章博厩舎に所属する。
板垣 吉則(いたがき よしのり、1972年9月3日 - )は… 板垣 吉則(いたがき よしのり、1972年9月3日 - )は、地方競馬の岩手県競馬組合・水沢競馬場の調教師、元騎手である。勝負服の柄は胴黒・袖桃。山形県山形市出身。血液型はB型。 幼少時より父に競馬場に連れられて行った事で競馬の世界に興味を持ち、上山競馬所属の騎手としてデビュー、初騎乗は1990年10月21日(ロンブエイト)、初勝利は1990年11月19日(マーチアゲン)、1992年に3歳優駿(ミヤカツエース)で重賞初勝利。 1997年のオフに水戸賢二騎手の紹介で自費でオーストラリア・クインズランド州へ研修に行き、12月7日にコーボールド競馬場で開催された未勝利戦 (1000メートル)で、現地所属馬インザキャッシュに騎乗して海外初勝利を収めた。
渡辺 修一(わたなべ しゅういち、1949年9月28日 - … 渡辺 修一(わたなべ しゅういち、1949年9月28日 - )は、山形県上山市出身の元騎手(中央→上山)・元調教師(上山)。 上山競馬場の裏に実家があり、当時は競馬場には馬房がなく、民間の軒先を貸りて代用していたため、渡辺家でも競走馬を預かっていた。子供の頃から馬に接する機会はあったほか、東京・佐藤林次郎調教師と父が知り合いという競馬に縁のある環境でもあった。 馬事公苑に入学したての頃は勝負服や靴を着けても35kg程度で軽すぎると言われたが、その内に体重が増えてしまい、後には減量では随分と苦労をした。 1968年3月に東京・八木沢勝美厩舎からデビューし、同2日の中山第4競走4歳未勝利・キングオールトン(10頭中9着)で初騎乗を果たすと、20日の中山第12競走5歳以上160万下未勝利・メジロフブキで初勝利を挙げる。
新田 嘉一(にった かいち、1933年〈昭和8年〉10月6日… 新田 嘉一(にった かいち、1933年〈昭和8年〉10月6日 - )は、日本の実業家、馬主。平田牧場会長、東北公益文科大学理事長、自由民主党酒田支部最高顧問、平田町名誉町民(現:酒田市名誉市民)。 山形県飽海郡平田町楢橋(現:酒田市)において16代にわたり続く地主に生まれる。 父である嘉助は名士で通るも、農業より政治に現を抜かすことが多かったという。 山形県立藤島農業高校を卒業後、大学進学を希望するも父から「農家に学は必要ない」と断言され、進学を断念。 戦後の高度経済成長において、和食中心から洋食へ食文化が変遷し、庄内地方においては離農し都会に出る人々が増えつつある現状を鑑みた新田は、田畑を処分した上で就労の途につく方が暮らしも楽になるのではないかと父に進言するも聞き入れられなかった。
茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月1… 茂木 善作(もぎ ぜんさく、1893年(明治26年)12月10日 - 1974年(昭和49年)12月24日)は、日本の陸上競技選手、スポーツ指導者、教員。山形県飽海郡本楯村(現・酒田市)の出身で、山形県初のオリンピック選手である。また、第1回箱根駅伝で最終10区を走り、11分52秒差を覆して東京高等師範学校(現・筑波大学)を優勝に導いた。 1893年(明治26年)12月10日、山形県飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市豊原)に生まれる。茂木家は農家で、善作は三男であった。当時はまだ、農家の三男が普通に学校に通える時代ではなく、晩年の茂木は両親や兄弟にいつも感謝していた。1913年(大正2年)に山形県師範学校(山形師範、現・山形大学地域教育文化学部)を卒業する。