藍原 寛子(あいはら ひろこ、1967年 - )は、日本の医… 藍原 寛子(あいはら ひろこ、1967年 - )は、日本の医療ジャーナリスト。現在、Japan Perspective News株式会社代表。 福島県福島市出身。福島県立福島女子高等学校を経て、1990年に千葉大学文学部行動科学科を卒業後、福島民友新聞社で取材記者兼デスクを担当。マイアミ大学医学部移植外科、フィリピン大学哲学科、アテネオ・デ・マニラ大学フィリピン文化研究所などの客員研究員、国会議員公設秘書を経て、2011年よりフリージャーナリスト。2013年2月28日、「Japan Perspective News株式会社」(本社・福島市)を設立。
黒井 文太郎(くろい ぶんたろう、1963年 - )は、日本… 黒井 文太郎(くろい ぶんたろう、1963年 - )は、日本の軍事ジャーナリスト。2024年より新領域安全保障研究所(INODS)リサーチフェロー。 1963年、福島県いわき市生まれ。福島県立磐城高等学校を経て、横浜市立大学文理学部国際関係課程を卒業後、講談社に入社する。学生時代はバックパッカーをしていた。講談社時代は週刊誌フライデーの編集に携わる。退社後はニューヨークを拠点にジャーナリストとして活動した。その後、戦場カメラマンとしてモスクワ、カイロを拠点に内戦中のサラエボ市内やコントラに日本人初取材を行う等、精力的に活動した。これら紛争地からの帰国後には、月刊『軍事研究』の特約記者となった。 専門分野はインテリジェンス、テロ、国際紛争、日本の安全保障、北朝鮮情勢、中東情勢、サイバー戦、旧軍特務機関など。
長岡 義幸(ながおか よしゆき、1962年(昭和37年) -… 長岡 義幸(ながおか よしゆき、1962年(昭和37年) - )は、フリーランスのジャーナリスト。 福島県小高町(現・南相馬市)出身。国立福島工業高等専門学校、早稲田大学第二文学部3年編入後、中退(除籍)。出版業界紙『新文化』(新文化通信社)記者を経て、フリーランス(インデペンデント)記者に。執筆分野は、出版の自由、出版流通、子どもの権利、労働問題(労働者協同組合)など。雑誌『創』や『みんなの図書館』などに記事を掲載している。
星 浩(ほし ひろし、1955年7月29日 - )は、日本の… 星 浩(ほし ひろし、1955年7月29日 - )は、日本のジャーナリスト、TBSテレビスペシャルコメンテーター。元朝日新聞社政治部特別編集委員。 血液型はO型。趣味はサッカーと料理、孫と遊ぶ事。 福島県白河市出身。福島県立福島高等学校、東京大学教養学部卒業後の1979年4月、朝日新聞社に入社。長野支局、千葉支局を経て1985年から東京本社政治部記者として、首相官邸、自民党、外務省等を担当。その後ワシントンD.C.特派員、政治部デスクを経て、2000年から政治担当編集委員。また、2004年から2006年まで東京大学大学院特任教授を兼務、また、日本記者クラブ企画委員を務める。2012年6月1日付で東京本社オピニオン編集長兼論説主幹代理。
柳澤 秀夫(やなぎさわ ひでお、1953年9月27日 - )… 柳澤 秀夫(やなぎさわ ひでお、1953年9月27日 - )は、日本の放送・国際ジャーナリスト。元NHK解説委員長。 福島県若松市 (現・会津若松市) 出身。 子供の頃から典型的な天文少年で、天文学者になる事が夢だった。どうしても手に入れたかった天体望遠鏡を手に入れるため、母が勤める食料品店の手伝いをしたり、親戚に頼まれことを引き受けるアルバイトをしたり、小学生なりに堅実に小遣いを稼いだ。小学6年生の時に大彗星の美しい姿に大いに興奮した。中学一年生の時に、念願だった天体望遠鏡を手に入れた[要出典]。 また、機械工作などを趣味として秋葉原ラジオ会館へ部品探しに通い、アマチュア無線技士として自作の無線機を用いてアマチュア無線家ともなる。
瀨戸 弘幸(せと ひろゆき、1952年〈昭和27年〉3月3日… 瀨戸 弘幸(せと ひろゆき、1952年〈昭和27年〉3月3日 - )は、日本の政治活動家、ジャーナリスト、果樹園農家。維新政党・新風副代表、日本第一党最高顧問、外国人犯罪追放運動最高顧問などを務めた。行動する保守の代表的人物。 1952年3月3日、福島県生まれ。少年時代から英雄伝を読み、中学生の頃にヒトラーやムッソリーニへ興味を持つ。福島県立福島農蚕高等学校卒業後、実家の農業を手伝っていたが、力不足を感じ後継者となることを断念。福島市役所に臨時職員として入職し、1971年に正職員に昇格して公務員になる。 左翼系労組の影響が強かった職場に反発して、自民党に入党。東京の日比谷で大日本愛国党の赤尾敏の演説を目撃し、強い影響を受け、個人として右翼活動を始めた。
丹藤 佳紀(たんどう よしのり、1940年 - )は、日本の… 丹藤 佳紀(たんどう よしのり、1940年 - )は、日本のジャーナリスト、元読売新聞記者。中国研究者。 福島県会津若松市生まれ。福島県立会津高等学校卒、1963年東京外国語大学中国語科卒、読売新聞社入社。横浜支局を経て外報部勤務。サイゴン・ソウル・北京各特派員、北京支局長、編集委員。2000年から2006年まで東洋大学教授を務める。日中友好協会参与。
門馬 忠雄(もんま ただお、1938年6月27日 - )は日… 門馬 忠雄(もんま ただお、1938年6月27日 - )は日本のジャーナリスト、プロレス評論家。ニックネームは「ぼやき評論の第一人者」。 福島県相馬市出身。日本大学藝術学部卒業後の1962年、東京スポーツ新聞社に入社(「新日本プロレス12人の怪人」著者紹介より)。以降、プロレス記者として現場に関わり続け、記者時代には取材よりも取材先での飲み歩きに没頭していたことから「ドサ回りのモン」と呼ばれ、多い時には年間約200日も出張取材を行っていた。国際プロレスを主に担当し、国際プロレス所属レスラーやスタッフから「モンちゃん」のあだ名で親しまれた。1970年代には国際プロレス中継「国際プロレスアワー」の、また1980年代には「世界のプロレス」(ともにテレビ東京にて放映)の解説者も務めた。
遊佐 雄彦(ゆさ かつひこ、1935年3月6日 - 2012… 遊佐 雄彦(ゆさ かつひこ、1935年3月6日 - 2012年12月13日)は、日本のジャーナリスト。 福島県二本松市出身。1958年、埼玉大学文理学部卒、読売新聞社に入り、地方支局を回って1962年本社復帰。地方部、整理部、婦人部、1974年新聞監査委員。
四至本 愛子(ししもと あいこ、1910年12月11日 - … 四至本 愛子(ししもと あいこ、1910年12月11日 - 2013年1月25日)は、日本のジャーナリスト。四至本八郎の妻。大伴昌司の母。戸籍名は四至本アイ。 福島県東白川郡塙町生まれ。宇都宮女学校(現:栃木県立宇都宮女子高等学校)を卒業し、進学のため上京。その後、幼時から関心のあった社会運動に参加するようになり、婦女通信社に記者として勤務するかたわら、社会民衆党の本部に出入りするようになる。1931年には、吉野作造の長女の赤松明子に提唱された社会民衆党の婦人同盟の結成に参加し、広報担当者として機関紙を受け持つ。また、鐘紡本社に鐘紡女工学校を作り、女工たちに社会運動への自覚を促す講義をおこなった。
高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17… 高野 信(たかの まこと、1903年(明治36年)12月17日 - 1982年(昭和57年)1月9日)は、日本のジャーナリスト、実業家。九州朝日放送(KBC)、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)社長を務めた。 福島県いわき市出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学を卒業後、朝日新聞社に入社する。 東京本社編集局長、西部本社代表、国策パルプ代表などを歴任し、1967年1月から1973年5月までに九州朝日放送社長を務め、1973年5月から1974年11月までに同社会長を務めた。 1974年(昭和49年)11月、NET社長に転じ、同じ朝日出身の副社長、中川英造と相談し三浦甲子二を編成、制作担当役員に抜擢した。
荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日… 荒木 武行(あらき ぶこう、1896年(明治29年)8月5日 - 1972年(昭和47年)6月12日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員、福島県耶麻郡駒形村長。 福島県耶麻郡駒形村(塩川町を経て現喜多方市)で、荒木與三郎の息子として生まれる。会津中学校(現福島県立会津高等学校)を中退し、その後は独学した。 18歳で福島民報記者となり、福島民友などを経て、1920年(大正9年)1月に上京し東京日日新聞の地方部記者となる。その後、やまと新聞、時事新報を経て、1925年(大正14年)4月、中外商業新報の編輯局長付となり、同論説委員を務めた。1929年(昭和4年)9月、夕刊会津タイムス社を設立し社長に就任。
大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月… 大内 一郎(おおうち いちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)3月18日)は、日本のジャーナリスト、実業家、政治家。衆議院議員。号・逸堂。 福島県安達郡針道村(東和村、東和町針道を経て現二本松市針道)で、大内丈右衛門の息子として生まれる。早稲田大学大学専門部政経科を中退した。 立憲政友会に入党し、1919年(大正8年)10月、安達郡会議員に当選し(2期在任)、公立福島病院組合議員(5期)を務め、1927年(昭和2年)9月、福島県会議員に選出され4期在任した。 また、福島新聞主筆、福島民報主筆、読売新聞福島支局長を務め、1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで岩盤中央新聞を経営した。
鈴木 天眼(すずき てんがん、慶応3年7月8日(1867年8… 鈴木 天眼(すずき てんがん、慶応3年7月8日(1867年8月7日) - 大正15年(1926年)12月10日)は、福島県二本松出身で、明治後期から大正時代にかけて活動したジャーナリスト。東京で『二六新報』主筆を務めた後、長崎で『東洋日の出新聞』を創刊、社長兼主筆として活躍した。衆議院議員1期。天眼は号、本名は力(ちから)。生涯にわたって軍国主義反対、人権・平和尊重の論陣を貫いた。中国の辛亥革命を熱烈に応援し、革命成就後に来日した孫文から長崎の自宅に感謝の訪問を受けた。従来、黒龍会『東亜先覚志士記伝』の記述などから天眼も国家主義者、大陸進出論者であると誤解されてきたが、東洋日の出新聞の論説を調査した結果、実際はそれとは正反対の思想の持ち主で、国家主義を否定し、個人の自由と権利を尊重する、当時としては稀に見るリベラルな主張を展開していたことが判明した。