榎 康弘(えのき やすひろ、1972年5月22日 - )は、… 榎 康弘(えのき やすひろ、1972年5月22日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(投手)。
埼玉県:259人
榎 康弘(えのき やすひろ、1972年5月22日 - )は、… 榎 康弘(えのき やすひろ、1972年5月22日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(投手)。
関口 伊織(せきぐち いおり、1971年10月26日 - )… 関口 伊織(せきぐち いおり、1971年10月26日 - )は、埼玉県熊谷市出身の元プロ野球選手(投手)。2013年より東北楽天ゴールデンイーグルスのスコアラー。 熊谷市で鉄工所の経営者の長男として生まれる。小学4年の時に野球を始める。富士見中学ではエースとして県大会で3位になり、誘いを受けて大宮工業に進学。2年秋からエースになる。3年夏の埼玉大会ではベスト16で敗れたが、速球を評価され読売ジャイアンツ(巨人)や西武ライオンズから獲得の打診もあったという。しかし、高校野球部の監督の勧めもあって東洋大学へ進学。 東洋大野球部では1学年下に1年春のリーグ戦でMVPを獲得した銭場一浩の存在などもあってすぐに起用は増えなかったが、3年秋にはリーグ戦で完封勝利を挙げている。
山田 潤(やまだ じゅん、1971年8月30日 - )は、埼… 山田 潤(やまだ じゅん、1971年8月30日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 城西大城西高から朝日大学に進学。東海地区大学野球連盟に加盟する同校の硬式野球部では、通算16本塁打で首位打者に3回輝き、4年秋は三冠王を獲得するなど活躍を見せた。4年の大学選手権では本塁打を放つ。 1993年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受けて入団。大学及び所属連盟初のプロ野球選手となった。右の大砲候補として期待された。 1996年に一軍初出場。 1997年の対ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、同年シーズン終了時点で一軍通算4試合の出場しかなかった山田が第1戦で7番・レフトでスタメンに抜擢される。
野島 正弘(のじま まさひろ、1971年8月13日 - )は… 野島 正弘(のじま まさひろ、1971年8月13日 - )は、日本の社会人野球選手(内野手)。 埼玉県立川越工業高等学校3年夏の県大会ベスト8となり、その後東北福祉大学に進学。2年次の1991年には全日本大学野球選手権大会で優勝した。2学年上の浜名千広の後を受けて遊撃手に定着すると4季連続ベストナイン、4年秋に最優秀選手。 大学の同期に関根裕之、三野勝大、荒木準也がいる。 大学卒業後の1994年に日本石油に入社。1年目からレギュラーの座をつかみ、第50回東京スポニチ大会では新人賞と優秀選手賞を獲得、翌1995年には日本石油の第66回都市対抗野球大会制覇に大きく貢献、同年の社会人ベストナインに選出された。
松元 繁(まつもと しげる、1971年5月30日 - )は、… 松元 繁(まつもと しげる、1971年5月30日 - )は、埼玉県新座市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 朝霞高では1年秋に野球部に中途入部したが、その後は川越工業高の佐藤剛と並び、県下有数の投手として名を馳せた。2年秋の県大会では3試合5本塁打を記録し、打者としても注目された。3年春は県大会で3完封、夏は故障により4番打者で登板機会がなかったにもかかわらず、1989年のドラフト会議では広島東洋カープとヤクルトスワローズに重複5位指名され、抽選の末ヤクルトが交渉権を獲得し入団。同期入団には古田敦也や西村龍次がいた。 本格派の投手として期待されたが、2年目に腎臓疾患で重大故障認定選手となり(練習生制度廃止による1992年限定の臨時措置。
北原 泰二(きたはら たいじ、1971年4月30日 - )は… 北原 泰二(きたはら たいじ、1971年4月30日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(投手・内野手)。 小学4年の時にリトルリーグに入り野球を始める。川口工業高では、エースとして1989年春の県大会優勝、関東大会では準々決勝で佐野日大の麦倉洋一と延長10回を投げあって惜敗。夏の県大会は準決勝に進むが、川越商に敗退。同年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから6位指名を受け入団。 1992年にオーバースローからサイドスローに転向すると、同年に一軍初登板を果たす。1995年にイースタン・リーグで最優秀救援投手を受賞。同年オフ、桜井伸一との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍する。1996年シーズン途中から内野手に転向する。
和田 孝志(わだ たかし、1970年10月7日 - )は、埼… 和田 孝志(わだ たかし、1970年10月7日 - )は、埼玉県春日部市出身の元プロ野球選手(投手)。 越谷シニアから進んだ拓大紅陵高では高橋憲幸と投の二本柱を組み活躍するが、肩の故障もあって3年生時には控えに回る。1988年夏の甲子園には一塁手として出場。2回戦(初戦)で松山商を降すが、3回戦で浜松商に惜敗。高校の2学年先輩に飯田哲也と佐藤幸彦がおり、佐藤とはプロで再びチームメイトとなる。 東洋大に進学。東都大学野球リーグでは、2年時の1990年春季リーグで優勝した亜大の4年生エース小池秀郎と投げ合い、リーグ10人目のノーヒットノーランを達成する。翌1991年春季リーグでは同季リーグMVPの1年銭場一浩とともに投手陣の中軸となり優勝に貢献。
酒井 忠晴(さかい ただはる、1970年6月21日 - )は… 酒井 忠晴(さかい ただはる、1970年6月21日 - )は、埼玉県三郷市出身の元プロ野球選手(内野手)、コーチ。 修徳高等学校では本来は遊撃手であったが強肩を買われ、2年生からエースとなる。1987年夏の東東京大会決勝に進むが帝京高の芝草宇宙と投げ合ったが、準優勝。翌1988年夏はエース、1番打者、主将として再度、東東京大会決勝に進むが、日大一高に3-4で惜敗し、準優勝。1988年度ドラフト会議にて中日ドラゴンズから5位指名を受け、入団。 プロ入り後、すぐに内野手登録となった。 1989年はアメリカの教育リーグに留学した。 1991年シーズンから控えとして一軍に定着した。 1992年シーズンには、シーズン中盤に種田仁が欠場したこともあり、遊撃手として37試合に先発出場。
斉藤 貢(さいとう みつぐ、1970年4月26日 - )は、… 斉藤 貢(さいとう みつぐ、1970年4月26日 - )は、埼玉県所沢市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。1996年の登録名は「ミツグ」。 所沢商業高校卒業後、明治大学に進学するも半年で中退。警備員等約20種類のアルバイトを経てプリンスホテルに入社。1992年の日本選手権では初戦先発で勝利、2回戦では先発・武藤潤一郎の後に3回無失点を抑えて逆転勝利を呼び込むなど準優勝に貢献。1994年の東京スポニチ大会で優秀選手、同年の都市対抗野球には東芝府中の補強選手としてベスト8に貢献。同年秋の日本選手権では初戦から2試合連続完投勝利して、準々決勝では9回途中から登板したが逆転サヨナラ負け。1994年のプロ野球ドラフト会議にて福岡ダイエーホークスから2位指名され入団した。
徳田 吉成(とくだ よしなり、1970年1月6日 - )は、… 徳田 吉成(とくだ よしなり、1970年1月6日 - )は、埼玉県上尾市出身の元プロ野球選手(捕手)。2010年から2011年まで北海道日本ハムファイターズのコーチを務めた。 上尾高では高校通算39本塁打を記録。 高校卒業後は、東洋大学へ進学。3年途中まで外野手としてプレーし、4年春は捕手としてベストナインを獲得。1部リーグ通算47試合に出場、121打数27安打、打率.223、6本塁打を記録。大学の同期に桧山進次郎、1学年後輩に和田孝志、2学年後輩に関口伊織がいた。 1991年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから3位指名され入団。その後、打撃を活かすため外野手登録に変更した。 プロ入り後は一軍での出場機会がないまま、1999年10月7日に戦力外通告を受け現役引退。
長岡 学(ながおか まなぶ、1969年11月5日 - )は、… 長岡 学(ながおか まなぶ、1969年11月5日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(外野手)。 市立川口高では1年時の夏からレギュラーで活躍、2年秋の県大会決勝では本塁打を放って優勝したが関東大会初戦で常総学院の島田直也に完封されて6回コールドで敗退。 1987年のNPBドラフト会議で、近鉄バファローズから5位で指名された後に入団した。背番号は53。チームメイトの牛山晃一も阪神タイガースからの5位指名を受け入団した。 「報道では『高校時代に対外試合で30本の本塁打を放った』と伝えられているが、実際の本塁打数は50本以上」と自ら豪語するほどの長打力と俊足の持ち主であったことに加えて、当時の近鉄の一軍外野陣に淡口憲治・栗橋茂などのベテラン選手が揃っていたことから、入団当初は「将来の4番打者候補」として期待されていた。
中山 雅行(なかやま まさゆき、1969年9月3日 - )は… 中山 雅行(なかやま まさゆき、1969年9月3日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。 埼玉栄東高から中央大へ進み、2部リーグ19勝、1部で1勝。2年秋からは2部リーグとなり、3年春から3季連続で入替戦に臨むも敗れる。4年春は2部最優秀投手。4年次にはドラフト候補とされたが熊谷組に進む。1992年都市対抗野球にて決勝進出、杉浦正則擁する日本生命に破れたものの、エースとしてチームを牽引した功績を評され若獅子賞を獲得する。全日本選抜メンバーにも選出され、直球とキレのあるフォークを武器にキューバ戦ではオマール・リナレス、オレステス・キンデランらを手玉にとった。翌年、チームの休部が決まっていた最後の都市対抗野球では補強の藪恵一との2本柱で臨み、初戦から2回戦と連続して先発勝利するも準々決勝では救援登板してサヨナラ負け。
芝草 宇宙(しばくさ ひろし、1969年8月18日 - )は… 芝草 宇宙(しばくさ ひろし、1969年8月18日 - )は、埼玉県所沢市出身の元プロ野球選手(投手)。野球解説者、野球指導者。現在は帝京長岡高等学校の野球部監督。 帝京高校で高校野球大会に通算3回出場。3年時の1987年は、春夏の甲子園に共にエースとして出場。春の59回大会は、前年の秋の成績が芳しくなかったこともあってそれほど注目されていなかったが、2回戦で優勝候補の一角で、近畿大会王者の京都西を完封。準々決勝で野村弘、橋本清、立浪和義、片岡篤史らを擁するPL学園高校に延長11回、2-3でサヨナラ負け、2試合連続で好投したことで、一躍注目を浴びることとなった。夏の第69回選手権大会では2回戦・対東北高校戦でノーヒットノーランを達成(選手権大会史上20人目)するなど、3試合連続完封して準決勝に進出したが春夏連覇したPL学園に打ち込まれ、5-12で再び敗れた。
小原沢 重頼(こはらざわ しげより、1969年8月9日 - … 小原沢 重頼(こはらざわ しげより、1969年8月9日 - )は、埼玉県三郷市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 小学2年の時に野球を始め、中学3年の時に投手となる。 浦和実業高から、首都大学野球連盟に加盟する城西大学に進学。1年春から登板し、2年の時にリリーフから先発に転向する。大学時代は、伸びのある速球と縦に大きく割れるカーブを武器に1部通算43登板20勝8敗、通算防御率1.80の成績を残した。3年次の秋には5勝1敗、防御率0.68の成績をマークし最優秀投手賞とベストナインを獲得している。4年夏には全日本メンバーにも選ばれた。 1991年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名を受け入団。
黒須 隆(くろす たかし、1968年9月18日 - )は、社… 黒須 隆(くろす たかし、1968年9月18日 - )は、社会人野球の元選手(捕手、右投げ右打ち)である。 1996年アトランタオリンピック野球日本代表。 埼玉県出身。浦和学院では3年の夏に1年後輩の鈴木健(西武→ヤクルト)、バッテリーを組んだ谷口英功(大学でも同僚)らとともに夏の甲子園ベスト4入り。その後東洋大へ進学、1年秋には明治神宮大会にも先発出場。3年春は二部リーグであった。一部リーグ通算76試合出場、224打数58安打、打率.259、1本塁打、26打点。1学年後輩に桧山進次郎のほか徳田吉成もいたが黒須の存在もあって3年までは野手であった。1991年に日産自動車に入社。 強打の捕手として社会人野球界でも注目を集め、1993年、1994年と社会人野球日本選手権大会2年連続準優勝に貢献。
米倉 忠信(よねくら ただのぶ、1968年8月22日 - )… 米倉 忠信(よねくら ただのぶ、1968年8月22日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)・ブルペン捕手。 狭山ヶ丘高校から東都大学野球リーグに所属する拓殖大学に進学。大学時代は控え捕手、外野手で、4年間のリーグ戦では2部で1打席しか立っておらず完全に無名の存在であった。 大学4年次に思い出作りとして、高校時代に続いて読売ジャイアンツの入団テストを受験したが、打撃を評価されテストに合格し、1989年のドラフト外で入団した。 同年のジャイアンツのドラフト外入団選手には柏田貴史、出口幸夫らがいた。なお拓大出身者としては、中尾明生、山本良材に続いて3人目のプロ野球選手となった。 当時のジャイアンツ捕手陣は、山倉和博の衰えが顕著となり、また故障がちであった中尾孝義のバックアップとして村田真一が台頭し、それらに次ぐ若手捕手陣が群雄割拠の様相を呈していた時期でもあったが、アマチュア時代の実績が皆無であった米倉は2軍でも出場機会はほとんど与えられず、1991年シーズン後に入団から僅か2年で戦力外通告を受けた。
奈良原 浩(ならはら ひろし、1968年5月16日 - )は… 奈良原 浩(ならはら ひろし、1968年5月16日 - )は、埼玉県白岡市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。 埼玉県白岡町でクリーニング店を営む家庭に生まれる。4歳の時に軟式野球のボールとグローブを買ってもらい、父と仕事の合間などにキャッチボールをするようになった。白岡市立篠津小学校ではスポーツ少年団で野球をし、篠津中学を経て帝京高校に進学。帝京では練習時間の2/3が守備練習に充てられ、監督の前田三夫による優れたノックで守備を鍛えられたという。1学年上に河田雄祐と小林昭則、1学年下に芝草宇宙がおり、チームは2年春の選抜大会で準優勝している。夏は東東京大会決勝で敗れて主将となった2年秋は東京都大会で優勝すると3年春も選抜大会に出場し、初戦で高知高校と対戦して自身は「1番・遊撃手」として2安打1盗塁の成績を残したが、チームは0対3で敗れている。
荒川 哲男(あらかわ てつお、1968年4月27日 - )は… 荒川 哲男(あらかわ てつお、1968年4月27日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。 大宮東高では、高校通算本塁打42本を記録する。明大への進学が濃厚といわれていたが、1986年のプロ野球ドラフト会議で明大OB・星野仙一監督が就任した中日ドラゴンズから4位指名を受け入団する。高校同期の芹澤裕二もドラフト外で入団している。尚、翌年も上原晃が同様に明大進学と言われながら指名、入団し、2年後には大宮東の後輩でスラッガーとして注目されながら進学濃厚とされた山口幸司も中日入りしている。 プロ1年目の1987年は、入団直後に山崎武司とともにロサンゼルス・ドジャース傘下のガルフ・コーストリーグのチームへ野球留学をした。
芹澤 裕二(せりざわ ゆうじ、1968年4月12日 - )は… 芹澤 裕二(せりざわ ゆうじ、1968年4月12日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(捕手)、コーチ。 川越市立芳野中学校卒業後の1984年に大宮東高校へ進学し、捕手として攻守に活躍。高校通算本塁打15本を記録し、1986年オフにドラフト外で中日ドラゴンズへ入団。高校のチームメイトでスラッガーとして期待された荒川哲男と同期入団となったほか、同じ高卒捕手の山﨑武司・長谷部裕もいた。一軍出場が無いまま、晩年は主にブルペンを担当して1996年限りで現役を引退。 引退後は中日で二軍バッテリーコーチ(1997年)→一軍バッテリーコーチ(1998年 - 2003年)→ブルペン捕手(2004年)を歴任し、コーチ時代は星野仙一・山田久志ら2人の監督に仕え、1999年のリーグ優勝に貢献。
福島 明弘(ふくしま あきひろ、1967年9月20日 - )… 福島 明弘(ふくしま あきひろ、1967年9月20日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。現在は福嶋 明弘(読み同じ)名義で千葉ロッテマリーンズで打撃投手を務めている。 大宮東高では水沢正浩との2本柱、1985年のドラフト3位指名を受け、近鉄バファローズに入団。1989年はルーキーリーグ・ソルトレイクシティ・トラッパーズに野球留学した。 一軍出場のないまま、1993年に現役引退。千葉ロッテマリーンズの打撃投手に転身した。 1998年、名字を福嶋に改姓した。 2020年9月8日、本拠地での対北海道日本ハムファイターズ13回戦において、香月一也とのトレードで入団したばかりの澤村拓一が、移籍後初登板にユニフォームが間に合わなかったため、福嶋のユニフォームを借りてマウンドに上がった。
高野 和樹(こうの かずき、1967年6月5日- )は、埼玉… 高野 和樹(こうの かずき、1967年6月5日- )は、埼玉県秩父郡東秩父村出身の日本の高校野球指導者。埼玉県立上尾高等学校商業科教諭、野球部監督。 東秩父村立東秩父中学校を卒業後、埼玉県立上尾高等学校に進学。小学2年生の時、上尾が準決勝まで勝ち上がる姿を見て強い憧れを抱き、進学を決意した。中学時代は体格に恵まれなかったものの、上尾高校では、プロ野球でも活躍した仁村兄弟(仁村薫・仁村徹)のいとこで上尾の1学年上に当たる仁村武の実家(川越市)で下宿をしながら、当時監督だった野本喜一郎のもと励んだ。高校2年生になると野本監督が浦和学院に赴任する。夏の大会では控え捕手として、第66回全国高等学校野球選手権大会に出場。
水沢 正浩(みずさわ まさひろ、1967年5月6日 - )は… 水沢 正浩(みずさわ まさひろ、1967年5月6日 - )は、埼玉県上尾市出身の元プロ野球選手(投手)。 上尾市立原市中学校では県大会準優勝、大宮東高では、エースとして2年春に県大会優勝して夏は県大会ベスト4。同期の投手に福島明弘、1学年下に荒川哲男、芹沢裕二がいた。 1985年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから5位指名され入団。 プロ2年目の1987年に一軍初登板するが、一軍での登板はこの1試合だけに留まり1991年限りで現役を引退した。
石田 雅彦(いしだ まさひこ、1967年4月24日 - )は… 石田 雅彦(いしだ まさひこ、1967年4月24日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(投手)。2021年現在は、千葉ロッテマリーンズの打撃投手。 川越工業高では2人いたエースピッチャーのうち左のエースであった。1985年春の関東大会で準優勝。夏は埼玉県大会決勝戦で5点リードを守りきれず、立教高校に逆転負け。 社会人野球チームから内定が出ていたが、1985年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから1位指名を受け入団。 しかし、プロでは2年目の春季キャンプで左肘の靭帯を部分断裂するなど、在籍9年間でリリーフでの2試合しか登板がなく、1994年に現役を引退。引退後から現在までロッテの打撃投手を務めている。
原口 哲也(はらぐち てつや、1967年4月14日 - )は… 原口 哲也(はらぐち てつや、1967年4月14日 - )は、埼玉県熊谷市出身の元プロ野球選手(投手)である。 熊谷商業高では1985年の春のセンバツに出場。チームメイトにはお笑いコンビ「TIM」のゴルゴ松本(三塁ベースコーチ)がいた。 同年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから3位指名を受け入団。 プロ3年目の1988年に一軍初出場を果たすが、出場機会は増えずに1993年オフに自由契約となり退団、翌1994年に福岡ダイエーホークスに移籍するが、一軍出場機会はなく同年限りで現役を引退した。 現在は地元の熊谷市で焼き鳥屋(居酒屋32)を経営する傍ら、かつてのチームメイトである大久保博元が開講した野球教室「デーブベースボールアカデミー」にて非常勤講師も務めている。
斉藤 直哉(さいとう なおや、1967年1月24日 - )は… 斉藤 直哉(さいとう なおや、1967年1月24日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(投手)。 城西大川越高から、1984年オフにドラフト外で阪神タイガースに入団。内角低めに食い込むシュートと様々な落ち方をするフォークが武器。 ウエスタンではローテーションで活躍し、1年目の1985年9月5日の対近鉄戦では9回完了まで無安打無得点の投球。2年目の1986年は27試合に登板して8勝1敗で勝率1位になっている。 1987年に一軍初登板を果たすが、肩を痛めた影響もあり1989年からは練習生になり同年限りで阪神を退団した。 阪神退団後は三井リハウス東京(現:三井不動産リアルティ)に勤務。現在は、三井のリハウス高田馬場センターのユニットリーダーを務めている。
矢作 公一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )… 矢作 公一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手、スポーツライター。 医者の息子として生まれ、跡継ぎとして期待されたが野球の道に進む。立教高校(現・立教新座高校)から、立教大学へ進学。立教大では、高校時代から1年先輩の長嶋一茂とクリーンナップを組んだこともあった。東京六大学リーグ通算83試合に出場し、245打数71安打、打率.290、17本塁打(当時歴代6位、現歴代10位タイ、立教大学の選手としては当時歴代1位)、38打点。ベストナイン2回。第16回日米大学野球選手権大会オールジャパンのメンバー。 1988年のドラフト会議で、大学の先輩である大沢啓二が常務であった日本ハムファイターズから6位指名され入団。
矢作 光一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )… 矢作 光一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロ野球選手、スポーツライター。現役時代の登録名は矢作 公一(読み同じ)。
角田 満(つのだ みつる、1966年10月11日 - )は、… 角田 満(つのだ みつる、1966年10月11日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 浦和実業学園高から国士舘大学へ進学するが、野球部の公式戦出場停止などもあり中退し、日本ハムファイターズの球団職員となる。 1986年オフ、ドラフト外で日本ハムファイターズの選手となり、1991年に引退した。 引退後の2016年5月、2014年から2015年にかけて足利ホールディングスの株を巡る架空の投資話で兵庫や岡山などに住む高齢者6人から現金計6898万円を詐取したとして、他3人とともに大阪府警と兵庫県警に詐欺などの疑いで逮捕され、2017年4月27日に詐欺と詐欺未遂の罪で、大阪地裁より懲役4年6月の実刑判決を受ける。
渡辺 英昭(わたなべ ひであき、1966年8月18日 - )… 渡辺 英昭(わたなべ ひであき、1966年8月18日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(内野手)。 日大二高から日本大学へ進学、東都大学野球リーグでは2年秋からは2部リーグであった。1988年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名され入団。 1989年から一軍初出場を果たす。 1991年には33試合に出場する。 1996年オフに戦力外通告を受け現役を引退した。その後、球団フロント入りし、編成部((調査担当、渉外担当)に所属し、プロ野球2軍調査担当経て、MLB調査担当として、マイナーリーグを中心にスカウティング担当し、2000年オフに退団。2001年からは、スポーツマネジメントを手掛ける株式会社SPORTS BIZに務める。
小美濃 武芳(おみの たけよし、1965年8月24日 - )… 小美濃 武芳(おみの たけよし、1965年8月24日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。 東亜学園高では、1983年夏の甲子園西東京予選で準々決勝に進出するが、桜美林高に敗退。 1984年に高校卒業後東洋大学に進学。東都大学リーグでは4年時の1987年に、3年生保坂彰茂投手(新日鉄名古屋)との二本柱で秋季リーグの優勝に貢献、同季の最高殊勲選手に選ばれた。リーグ通算4勝3敗。大学同期には山下徳人がいる。 農協に就職が内定していたが、1987年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから4位指名を受け入団。しかし当時から右肘の故障に悩まされており、一軍での登板機会はなかった。2年目の1989年シーズンは二軍(ウエスタン・リーグ)で17試合に登板した後で、7月中旬からは登板機会がなく、同年11月23日に任意引退となった。
前田 俊郎(まえだ としろう、1965年7月28日 - )は… 前田 俊郎(まえだ としろう、1965年7月28日 - )は、埼玉県飯能市出身の元プロ野球選手(内野手)。引退後は埼玉西武ライオンズの二軍守備走塁コーチを務めた。プロ入り前の名は「前田東郎」。 所沢商業高時代の3年夏に出場した第65回全国高等学校野球選手権大会では、初戦のPL学園高戦で桑田真澄と投げ合い、桑田からは本塁打を打ったが、加藤正樹に本塁打を打たれるなどして2-6で敗れた。 高校卒業後は、社会人野球の新日本製鐵君津を経て、1987年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから5位指名を受け入団。 しかし、一軍出場がないまま1992年に現役を引退した。 その後はスカウトとして球団に残り、2009年の1シーズンのみ二軍守備走塁コーチとして現場に復帰したが、翌2010年からはフロント入りしている。
斎藤 雅樹(さいとう まさき、1965年2月18日 - )は… 斎藤 雅樹(さいとう まさき、1965年2月18日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(投手)、指導者。読売ジャイアンツ二軍監督。
森 士(もり おさむ、1964年6月23日 - )は、埼玉県… 森 士(もり おさむ、1964年6月23日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市南区)日本のアマチュア野球指導者、教育者。浦和学院高等学校副校長。NPO法人ファイアーレッズメディカルスポーツクラブ理事長。現役時代は投手(高校の恩師の野本喜一郎や高校・大学の先輩の仁村徹と同じアンダースロー)。 埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれ、浦和市立(現さいたま市立)谷田小学校2年生の頃、軟式野球チームに入団して本格的に野球を始める。週末には父・克が練習の手伝いに来るなど親子二人三脚で汗を流した。父は野球経験者ではないが、剣道経験者であいさつなど礼儀に厳しかった。 浦和市立(現さいたま市立)大谷場中学校時代に中体連主催の大会ではないが、横浜スタジアムで開催された大会で全国3位に入り、その時に1試合10奪三振を取って新聞に掲載された。
清水 達也(しみず たつや、1964年6月10日 - )は、… 清水 達也(しみず たつや、1964年6月10日 - )は、埼玉県出身の大学野球監督、元社会人野球選手(内野手)。右投右打。 現役時代は内野手としてプレー。上尾高校時代は3年春にセンバツへ出場。中央大学では宮井勝成監督の下でプレー。3年秋から2部リーグとなるが4年秋に優勝すると東農大との入替戦では大学最後となる打席で逆転サヨナラ本塁打を放ち1部昇格を決めた。2学年上に岡部明一、2学年下に笘篠賢治がいた。卒業後は河合楽器でプレーし、都市対抗野球大会には11年連続出場を果たす。 現役引退翌年の1999年2月より、母校・中央大学の監督に就任。就任当時、東都大学野球連盟2部所属だった同部だが、その年の春、阿部慎之助、花田真人らを擁して2部優勝し、入替戦を経て11年ぶりの1部昇格を達成。
高柳 出己(たかやなぎ いずみ、1964年6月2日 - )は… 高柳 出己(たかやなぎ いずみ、1964年6月2日 - )は、埼玉県久喜市出身の元プロ野球選手(投手)。1996年の登録名は髙柳 出己(読み同じ)で、引退後も日本プロ野球OBクラブなど一部活動では「髙柳」表記を用いている。 野球を始めたのは中学校の頃からで小学校時代は剣道をやっていた。後にこの剣道の経験がけん制やフィールディングに役立ったという。久喜市立久喜南中学校卒業後、春日部工高に進学するも、高校時代は登板機会に恵まれなかった。2年秋に関東大会初戦で先発するも敗退。1年先輩には、当時投手だった古川慎一がいる。 高校卒業後は、明治大学のセレクションを受け合格していたものの、社会人野球の日本通運に入社。
串原 泰夫(くしはら やすお、1963年4月13日 - )は… 串原 泰夫(くしはら やすお、1963年4月13日 - )は、埼玉県所沢市出身の元プロ野球選手(投手)。 所沢商業高では3年夏の埼玉県大会で準々決勝まで進出するも古川慎一がいた春日部工業に敗れた。 1981年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから4位指名を受け入団。 1984年と1985年はアメリカ1Aのサンノゼ・ビーズに野球留学した。プロ5年目の1986年に1試合のみ一軍登板を果たすが、以降は一軍での登板はなく1989年限りで現役を引退。 引退後は西武園ゆうえんちに勤務している。
山崎 賢一(やまざき けんいち、1962年7月20日 - )… 山崎 賢一(やまざき けんいち、1962年7月20日 - )は、埼玉県志木市出身(東京都生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。 「こけしバット」といわれるグリップエンドがこけしの頭のような形をした、極端にバットを短くグリップすることが出来るバットを使用して活躍した。 所沢商業では3年次の1980年、夏の甲子園埼玉大会準々決勝で敗退。 監督に勧められて地元の西武ライオンズと横浜大洋ホエールズの入団テストを受け、西武は不合格であった一方、大洋の首脳陣に打撃を評価されて、オフにドラフト外で大洋に入団。背番号は46。 入団後、1年目の1981年から4年間は二軍生活を送り、二軍でも代打要員で、2年目の1982年はイースタン・リーグでチームは優勝しているが、28試合で打率.200と優勝に貢献したとは言い難かった。
長堀 肇(ながほり はじめ、1962年3月7日 - )は、埼… 長堀 肇(ながほり はじめ、1962年3月7日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元社会人野球選手(外野手)、野球指導者。 上尾高校時代には1979年夏開催の第61回全国高等学校野球選手権大会に一塁手として出場。1回戦で牛島和彦、香川伸行、山本昭良、山脇光治らを擁する浪商高校と対戦。後1死まで迫るも敗退した。高校時代の監督に野本喜一郎、同級生に仁村徹、福田治男らがいる。 高校卒業後には仁村徹、福田とともに東都大学野球連盟所属の東洋大学経営学部に進学。大学時代は外野手として活躍し、リーグのベストナインも3度受賞している。1982年には第11回日米大学野球選手権大会に日本代表として出場。 1984年に東洋大学を卒業後は日本電信電話公社に入社し、同社の電電東京野球部に入部。
仁村 徹(にむら とおる、1961年12月26日 - )は、… 仁村 徹(にむら とおる、1961年12月26日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、投手)、プロ野球指導者。 実兄は元プロ野球選手の仁村薫で、現役時代は中日ドラゴンズで一緒にプレーした経験がある(当時、スコアボードなどには「仁村兄(=薫)」「仁村弟(=徹)」と表記されていた)。 上尾高校では、右下手投げのエースとして活躍。1979年春季関東大会決勝に進み、銚子商に惜敗するが好投手として注目される。同年夏の甲子園に出場。1回戦で浪商と対戦、9回二死まで2-0とリードしながら勝利目前で牛島和彦に同点2ランを打たれ、延長11回敗北。このときの試合は今も甲子園史上に残る名試合として語り継がれている。
阿久根 謙司(あくね けんじ、1961年10月5日 - )は… 阿久根 謙司(あくね けんじ、1961年10月5日 - )は、埼玉県出身の野球選手、野球指導者、実業家。早稲田大学商学部卒。
清水 治美(しみず はるよし、1961年9月25日 - )は… 清水 治美(しみず はるよし、1961年9月25日 - )は、埼玉県比企郡川島町出身の元プロ野球選手(投手)。 川越商業高では2番手投手だったが、卒業後に入社した社会人野球の日本通運で2種類の落差のあるカーブ、シンカー、シュートを武器に頭角を現した。第54回都市対抗野球大会では先発。高校の2年先輩には仁村薫がいる。 1983年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから6位指名を受けた。しかし、諸事情により入団は1年遅れ、1984年のシーズン終了後に入団し1985年からのプレーとなった。入団時の契約は、契約金3500万円、推定年俸400万円だった。 当時の中日には、都裕次郎以外、先発ローテーションとして計算できる左投手がいなかったため、即戦力として期待されていたが、同年は故障に悩まされ、一軍公式戦では1試合も登板できなかった。
新井 克太郎(あらい かつたろう、1959年10月22日 -… 新井 克太郎(あらい かつたろう、1959年10月22日 - )は、埼玉県戸田市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 大宮工業高時代は、1年次の夏前に野球部を退部する。以降は、知り合いが所属する軟式野球チームで遊びでプレーするだけであった。 3年次に、たまたま新聞で見た大洋ホエールズの新人入団テストを腕試しに受験する。200人の中から新井を含めた2人が合格し、1977年オフにドラフト外として入団した。 4年目の1981年に、一軍初登板を果たす。通算6試合目となった8月31日の対中日ドラゴンズ戦で初先発を果たし、149球を投げ5安打1失点でプロ初完投初勝利を記録した。しかし、2度目の先発となった9月6日の対中日ドラゴンズ戦では早々に打込まれ降板。
駒崎 幸一(こまざき ゆきいち、1959年8月30日 - )… 駒崎 幸一(こまざき ゆきいち、1959年8月30日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(外野手)。 川口工業高では、左翼手で中心打者として活躍。強打の選手として注目され、1977年に夏の甲子園埼玉県予選決勝で熊谷商高を降し、チームを甲子園初出場に導く原動力となった。甲子園では、2回戦(初戦)で智辯学園高のエース山口哲治に抑えられ敗退。 その年のプロ野球ドラフト会議でも指名候補としても注目されていたが指名はなく、社会人野球の日本通運に進んだ。高校卒業でプロ入りしなかった理由としては、甲子園の初戦でチームが大敗(0-12)し自分も活躍できなかった(山口から1安打を放つも最終打席は併殺打となり試合終了)ことから、プロ入りに対する自信がなくなったことが一因だった。
大塚 淳弘(おおつか あつひろ、1959年8月19日 - )… 大塚 淳弘(おおつか あつひろ、1959年8月19日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。 現役時代に所属していた読売ジャイアンツに、引退後も一貫して在籍。球団職員を経て、2018年10月から2023年まで球団の副代表を務めていた。 埼玉県立春日部工業高等学校の2年時に、秋季埼玉県大会で優勝。準決勝で投手戦を演じた埼玉県川越商業高等学校の仁村薫とは、後に巨人でチームメイトになった。 高校からの卒業後に、日産ディーゼル工業(現在のUDトラックス)を経て、1981年に(当時NPBで認められていた)ドラフト外で読売ジャイアンツに入団した。 入団後は一軍公式戦への登板機会がなく、3年目(1984年)の春季キャンプ中に球団職員への転向を言い渡されたことを機に現役を引退した。
山中 重信(やまなか しげのぶ、1959年6月3日 - )は… 山中 重信(やまなか しげのぶ、1959年6月3日 - )は、埼玉県熊谷市出身の元プロ野球選手(捕手)。 上尾高では2年夏、秋の県大会は準優勝、3年夏は県大会ベスト4。1977年のドラフト6位でクラウンライターライオンズに入団。1年目の1978年は一軍での試合出場機会はなく、球団が地元・埼玉に移転して西武に変わった2年目の1979年は、打撃力と俊足を生かすために捕手から内野手へコンバートされた。同年も一軍での試合出場は果たせなかったが、内野手としての経験を積むために二軍の試合では積極的に起用された。イースタン・リーグの試合では、内野手として一塁手7試合、三塁手17試合に出場した一方で外野手でも13試合に出場。
仁村 薫(にむら かおる、1959年5月9日 - )は、埼玉… 仁村 薫(にむら かおる、1959年5月9日 - )は、埼玉県川越市出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。 弟は自身と同じ元プロ野球選手の仁村徹で、現役時代は中日で一緒にプレーした経験がある(当時はスコアボードなどには「仁村兄(=薫)」「仁村弟(=徹)」と表記されていた)。 川越商業高ではエース投手だったが、2年秋の県大会準決勝で春日部工の大塚淳弘と投げ合って敗れる。 高校卒業後は早稲田大学へ進む。3年時からエース投手としてリーグ通算36試合登板し17勝10敗、防御率1.57、163奪三振。4年時には第10回日米大学野球選手権大会の代表に選ばれ1勝を挙げたほか、打力を買った島岡吉郎代表監督が代打に起用、ホームランを放った。
長井 秀夫(ながい ひでお、1959年2月2日 - )は、埼… 長井 秀夫(ながい ひでお、1959年2月2日 - )は、埼玉県出身の元野球選手(内野手)、野球指導者。 埼玉県の市立川口高校卒業後、国士舘大学政経学部に進学し東都大学野球連盟所属の野球部に入部。内野手としてプレーし、大学3年の秋にチーム唯一の1部リーグ優勝を果たし、一塁手のベストナインに選出された。2学年先輩に高柳秀樹、2学年下に早川和夫がいた。 大学卒業後、社会人野球の電電関東に入社。都市対抗野球大会への10年連続出場に貢献をし、1992年から主将を務めた。1998年にコーチに就任し、同年開催の第25回社会人野球日本選手権大会で優勝を果たす。 1999年、NTT東日本グループの硬式野球部はNTT東日本硬式野球部に再編され、長井は再編後の野球部の初代監督に就任。都市対抗野球大会では、4強1回、8強2回の成績を収める。 2005年、母校の市立川口高校の野球部監督に就任。監督退任後は川口市に再任用され、2019年から総監督に就任。 2023年春季リーグより、国士舘大の野球部監督に就任。監督就任以前から休日等に指導を行なっていた。
君波 隆祥(きみなみ たかよし、1958年7月20日 - )… 君波 隆祥(きみなみ たかよし、1958年7月20日 - )は、埼玉県熊谷市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投左打。1993年のみ登録名「君波 威嘉」(読み同じ)。 熊谷商業高では、1975年秋季関東大会県予選準々決勝に進むが、春日部高にコールド負け。1977年に卒業後は中央大学に進学。1年上に大学日本代表捕手の長井研介(本田技研)がおり、3年生までは外野手も兼ねる。東都大学野球リーグでは1年上のエース香坂英典を擁し、1979年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会では決勝で早大を降し優勝している。大学同期に高木豊のほか、末次秀樹捕手などがいる。 1980年オフに、ドラフト外でヤクルトスワローズに入団。
橋本 敬司(はしもと けいじ、1958年6月20日 - )は… 橋本 敬司(はしもと けいじ、1958年6月20日 - )は、埼玉県熊谷市出身の元プロ野球選手(投手)である。左投左打。 熊谷農業高から社会人野球の富士重工業に進み、主として救援投手として起用される。1981年の都市対抗に出場。同年の日本選手権では、エースの向田佳元とともに活躍しチームの初優勝に貢献。準決勝では河合楽器を降し勝利投手となる。 同年のドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け、翌1982年シーズン終了後に入団。 1年目の1983年終盤に一軍昇格を果たし、2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。1984年にはローテーションに定着できなかったものの7試合に先発。ヤクルト戦では3勝と活躍し、「ヤクルトキラー」と呼ばれていた。
引間 克幸(ひきま かつゆき、1958年2月21日 - )は… 引間 克幸(ひきま かつゆき、1958年2月21日 - )は、埼玉県秩父郡荒川村(現:秩父市)出身の元プロ野球選手(内野手)。右投両打。一時期、登録名を引間功侑(読みは同じ)とした。 秩父農工高から社会人野球の電電関東では都市対抗野球に出場、1980年オフにドラフト外で阪神タイガースに入団。 ウエスタンリーグで2度の盗塁王になるなど、その俊足を評され代走での起用が大半であった。しかし、1983年のシーズン終盤には遊撃手として7試合に先発出場、翌1984年にも5試合に先発している。1988年限りで現役を引退。引退後はゴルフプラザ72の新橋店に勤務した。