関口 芳則(せきぐち よしのり、1947年〈昭和22年〉1月… 関口 芳則(せきぐち よしのり、1947年〈昭和22年〉1月10日 - )は日本映画の撮影技師。東京都出身。 1965年に東京都立本所工業高等学校電気通信科を卒業。[要出典]同年、東宝に入社し撮影部に配属される。元々は舞台の仕事を志望していたが、映画も好きであったためそのまま撮影の道に進んだ。 黒澤明監督作品の撮影助手チーフなどを務めたのち、『ゴジラvsキングギドラ』で本編班撮影監督に就任。特撮映画では、本編と特撮のトーンをつなげることや、合成を自然に観せることに腐心した。
木村 大作(きむら だいさく、1939年〈昭和14年〉7月1… 木村 大作(きむら だいさく、1939年〈昭和14年〉7月13日 - )は、日本の撮影技師、映画監督。文化功労者。 1939年生まれ。東京府出身。1958年、東京都立蔵前工業高等学校を卒業後、東宝撮影部にカメラ助手として入社し、黒澤明監督の組に配属される。1973年に『野獣狩り』でカメラマンデビュー。 自分の師匠は撮影助手として付いていた宮川一夫や斉藤孝雄ではなく黒澤明だとしており、その影響を強く受けたことを自認している。黒澤からも、そのピント合わせのうまさから一目置かれており、本人から「撮影助手で名前を憶えているのは大ちゃんくらいだ」と言われた事もあるという。黒澤は『用心棒』で犬が人の手首をくわえて歩いて来るカットをビデオで見るたびに、周りの人間に必ず「これ、ピント合わせてるの、大ちゃんだよ。
鈴木 耕一(すずき こういち、1937年10月22日 - )… 鈴木 耕一(すずき こういち、1937年10月22日 - )は、日本の映画・テレビドラマの撮影技師。東京都調布市出身。日本映画撮影監督協会(J.S.C)会員。 1956年、法政大学第一中・高等学校(現法政大学中学高等学校)卒業後、父が大映勤務を経て日活の美術関係を務めていたことがきっかけで、日活撮影所に入社。中平康監督作『狙われた男』の撮影助手を務め、萩原憲治に師事する。その後、ポルノ映画路線を変更し、山崎善弘に師事した。
川上 景司(かわかみ けいじ、1912年〈明治45年〉2月 … 川上 景司(かわかみ けいじ、1912年〈明治45年〉2月 - 1973年〈昭和48年〉6月2日)は、日本の撮影技師、特撮監督。東京府東京市小石川区(現東京都文京区小石川)出身。 1931年(昭和6年)、東京府立工芸学校(現:東京都立工芸高等学校)を卒業し、文部省文書課に入省する。その後、社会教育映画課に異動し、映画キャメラマンとなる。 1939年(昭和14年)10月27日を以て、東宝に見習い入社し、円谷英二を課長とする特殊技術課に配属される。特殊技術課には同期として、川上に先駆けて6月に鷺巣富雄(うしおそうじ)が入社している。 1940年(昭和15年)、『燃ゆる大空』(阿部豊監督)に参加。 1941年(昭和16年)、特殊技術課内の、三谷栄三を主任とする合成作画係に異動。
田口 修治(たぐち しゅうじ、1905年〈明治38年〉 - … 田口 修治(たぐち しゅうじ、1905年〈明治38年〉 - 1956年〈昭和31年〉3月)は、日本の撮影技師、映画監督、映画プロデューサーである。第二次世界大戦後はシュウ・タグチを名のり、1948年(昭和23年)10月にはシュウ・タグチ・プロダクション株式会社を設立、ドキュメンタリー映画を中心に自主製作を行なう。姪はタレント・女優の黒柳徹子。 東京市・本所の開業医・田口潔矩の三男として生まれる。実弟の黒柳守綱とともに日本橋の三越呉服店の小僧となり、将来のため仕事の合間を見つけて英語を勉強していたが、体を壊して18歳で退職。 長兄の田口桜村が1920年(大正9年)に松竹蒲田撮影所の初代所長に就任し、ヘンリー小谷を招聘、日本のニュースリール製作の草分けである小谷に師事する。
三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 19… 三浦 光雄(みうら みつお、1902年10月25日 - 1956年10月24日)は、日本の撮影技師である。日本映画撮影者倶楽部(現在の日本映画撮影監督協会)が1956年(昭和31年)に制定した「三浦賞」に名を残す。初期名三浦 光男(読み同)。 1902年(明治35年)10月25日、宮城県に生まれる。 旧制・私立商工中学校(通称東京商工中学校、現在の日本大学第三高等学校)を卒業し、1920年(大正9年)、開業とともに日活向島撮影所に入社した。1923年(大正12年)、撮影技師に昇進、記録に残る最初の技師作品は、1925年(大正14年)5月31日公開、五所平之助監督の『空は晴れたり』で、当時は「三浦光男」名義であった。
浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年… 浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年)は、日本の撮影技師。日本人で初めて活動写真(映画)を撮影した人物である。 小西写真店は1897年(明治30年)10月に、イギリスのバクスター・アンド・レイ社より撮影機を輸入した。本機械は輸入販売する為に仕入れたものだったが、使用方法を知らなかったため、うっかり発表することも出来なかった。そこで小西に命じられて機械の試験撮影を頼まれたのが、小西の店員で当時20歳の浅野だった。試行錯誤の末、撮影・現像に成功し、12月31日に日本橋の光景を写した『日本橋の鉄道馬車』を完成させ、日本人が撮った最初の映画となった。 その後、浅草観音境内で老婆が鳩に豆を撒く姿を写した『浅草観音』、『上野の汽車』『品川の海岸』など風景を写したものを撮り、1898年(明治31年)には劇的シチュエーションを持つ『化け地蔵』『死人の蘇生』といった小編を撮影している。
伊藤 学(いとう いたる)は、東京都調布市出身の撮影技師、照… 伊藤 学(いとう いたる)は、東京都調布市出身の撮影技師、照明技師。日本映画撮影監督協会技術委員会に所属。 大学在学中、井土紀州、吉岡文平、高橋和博らと出会い、自主映画製作に参加。同時に商業作品にもスタッフとして関わり、多くの現場を経験する。井土らが結成したスピリチュアル・ムービーズに参加、中核メンバーとして活動する。 劇映画「百年の絶唱」照明、短編劇映画「モリムラ」撮影、短編劇映画「ダム・ガール」撮影・照明、ドキュメンタリー映画「LEFT ALON 1部、2部」撮影・照明・スチール、TVドラマ「これから・・・」撮影などの後、2006年に日本映画撮影監督協会(JSC)のメンバーとなる。 井土紀州をはじめ、担当した映画作品のほとんどが新人監督のデビュー作となるなど、若い才能を技術面から支える活動を行う他、劇映画「月の下まで」とインディペンデント映画についてのコラムを、雑誌「映画撮影」190号で発表している。