藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年… 藤井 宣正(ふじい せんしょう、安政6年3月2日(1859年4月4日) - 1903年6月6日)は、日本の宗教家・探検家。島崎藤村の「椰子の葉陰」主人公のモデルとなった人物である。 1859年、越後国三島郡本与板村(現新潟県長岡市与板町本与板)の光西寺に藤井宣界の次男として生まれた。旧制長岡中学を経て慶應義塾に学び、西本願寺からの内地留学生として初めて東京帝大哲学科に学んだ。 東大卒業と同時に西本願寺文学寮教授に就任。当時における仏教学のエキスパートとされ、1891年には日本で初めての仏教通史となる「佛教小史」を著した。1892年に飯山の井上寂英の長女瑞枝と結婚。瑞枝は日本英学校を首席で卒業「心の露」を出版した才媛であり、実家は島崎藤村「破戒」の中で蓮華寺のモデルとなった。
風間 九郎(かざま くろう、安政6年〈1859年〉3月6日-… 風間 九郎(かざま くろう、安政6年〈1859年〉3月6日- 昭和5年〈1930年〉4月2日)は、日本の実業家、玩具の開発者。長岡藩領福島村(現、新潟県長岡市福島町)出身。東京浅草にて玩具の発明や開発をし、雑貨貿易商として商店を営み販売も行っていた。 風間九郎は、安政6年(1859年)3月6日に旧長岡藩領福島村にて、風間九八郎(1819-1901)とミツ(1833-1900)の長男として生まれる。大塚定吉の養子となるが離縁。九郎は故郷の新潟から上京し、東京に住む伯父の佐藤虎清と同居を始める。 風間家は代々、旧福島村の地主であった。彼の生まれ育った地域では、蔵王権現に対する信仰が盛んであり、頭屋制度のもと民間に巡祀される祭儀「王神祭」が行われてきた。
小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政… 小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政5年12月14日) - 1944年(昭和19年)10月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。森鷗外の妹婿であり、星新一の祖父にあたる。陸軍軍医総監椰野巌は甥である。 越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行などの長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として、越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象山門下の二虎と称された。 1870年(明治3年)10月大学南校を経て、1872年(明治5年)10月第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)に入学、1880年(明治13年)7月に東京医学校(同年5月第一大学区医学校から改称)を卒業した。
関矢 儀八郎(せきや ぎはちろう、1858年12月3日(安政… 関矢 儀八郎(せきや ぎはちろう、1858年12月3日(安政5年10月28日)- 1924年(大正13年)11月22日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。号・剣山人。 越後国刈羽郡剣野村(新潟県刈羽郡枇杷島村大字剣野、柏崎町を経て現柏崎市剣野)で、関矢福右衛門の長男として生まれる。1880年(明治13年)9月に家督を相続した。 柏崎県立学校などで学び、上條義塾の漢学教師を務めた。自由民権運動に加わり、1883年(明治16年)の高田事件で検挙された。その後、新潟市に移り、北越学館漢学教師を務め、東北日報、自由新報の記者となった。沿海州の漁業、ロシアとの貿易に着目して、北陸地方の発展のための必要性を訴えた。
松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年… 松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年7月22日) - 1913年(大正2年)3月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、寿都町長。旧姓・若林、初名・忠太郎。 佐渡国雑太郡吉岡村(現新潟県佐渡市吉岡)で農業・若林源右衛門の二男として生まれ、同村・先代松井源内の養子となる。その後、養父の死去に伴い源内を襲名した。 1873年、義兄・高野吾吉に伴われ江差に移り、同地の呉服商・本郷家に奉公し、各地に行商した。1884年、寿都に移り同地で義兄・高野吾吉が経営していた呉服店を帰郷する高野から譲り受け、さらに海産仲買業、醸造業、回漕業、漁業などにも経営を広げた。また、寿都外三郡酒造組合長、後志興農銀行 (株) 取締役、寿都銀行 (株) 取締役、寿都倉庫 (株) 社長、寿都汽船 (株) 社長などを務めた。
井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、18… 井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1919年(大正8年)6月6日)は、日本の哲学者、教育者。 明治日本に哲学を広めた人物の一人。哲学館(現、東洋大学)や哲学堂公園を設立した。仏教哲学や妖怪学にも業績がある。 1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。幼名、岸丸。父は円悟、母はイク。 16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
久保田 右作(くぼた うさく、1858年(安政5年1月) -… 久保田 右作(くぼた うさく、1858年(安政5年1月) - 1923年(大正12年)6月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越後国魚沼郡小千谷町(のち新潟県北魚沼郡小千谷町、現・小千谷市)生まれ。漢学と英語を学ぶ。学務委員、小千谷町会議員、同助役、町村組合会議員、新潟県会議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟7区から立憲改進党所属で立候補して初当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1923年に死去した。
小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(18… 小山 正太郎(こやま しょうたろう、安政4年1月21日(1857年2月15日) - 大正5年(1916年)1月7日)は、明治時代の日本の武士、洋画家。実作者としてよりも教育者として名高い。小山善元の長男であり、小山觀翁の大伯父にあたる。 越後国長岡藩・藩医の惣領。明治2年(1869年)家督相続をして、長岡藩士として出仕(高100石)。廃藩後に地元の長岡洋学校で学ぶ。明治4年(1871年)政治家を志して上京するが、翌年、川上冬崖の画塾「聴香読画館」に入り、まもなく塾頭になる。同6年、陸軍兵学寮に入り,翌年陸軍士官学校図画教授掛となって、陸軍省に招聘されていたフランス人教官アベル・ゲリノー(Abel Guérineau)から水彩画法などを学んだ。
初代 板谷 宮吉(いたや みやきち、1857年2月4日(安政… 初代 板谷 宮吉(いたや みやきち、1857年2月4日(安政4年1月10日) - 1924年(大正13年)5月13日)は、日本の実業家、政治家。北海道の海運王と呼ばれた。 越後国刈羽郡宮川村(のち新潟県刈羽郡高浜町大字宮川、現柏崎市)で板谷善左衛門の四男として生まれ、兄・常太の養嗣子となる。 明治3年(1870年)北海道渡島国松前に渡り、1875年、小樽に移って海産物商に奉公した。1882年に独立して米穀雑貨の販売業を営む。1893年、小型汽船を購入し、これが海運業を営むきっかけとなった。1899年、兄・常太と板谷合名を創立し、物産販売、倉庫業、醸造業、海運業、鉱業、農業、漁業を営んだ。1912年、板谷合名を板谷商船に改組した。
清水 宜輝(しみず よしてる、安政3年9月13日〈1856年… 清水 宜輝(しみず よしてる、安政3年9月13日〈1856年10月11日〉 - 1934年〈昭和9年〉9月7日)は、明治から昭和初頭にかけて活動した日本の銀行経営者・実業家である。十五銀行支配人・取締役や中央電気第2代社長などを務めた。新潟県出身。 清水宜輝は、安政3年9月13日(新暦:1856年10月11日)、越後高田藩士・清水宜義の長男として生まれた。生家は高田。1873年(明治6年)上京し中村正直(敬宇)の「同人社」に学ぶ。1874年(明治7年)には大蔵省銀行局の官費生に選ばれ、4年間ヨーロッパで経済学を学んだ。 1877年(明治10年)、華族に交付された金禄公債を原資として第十五国立銀行が設立された。
山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3… 山田 順一(やまだ じゅんいち、1856年9月11日(安政3年8月13日) - 1919年(大正8年)10月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。名は篤敬、字は子信、号は忠焉齋、旧姓飯塚。 越後国刈羽郡新道村(のち新潟県刈羽郡日高村→高田村、現・柏崎市)生まれ。神奈川県立修文館で英語を学び、東京湯島共貫義塾を経て、麻布学農社で農学を学ぶ。新潟県会議員、刈羽郡連合会議員、同議長、郡教育会議員、同議長、学務委員、両田尻村(現・柏崎市)外七ヶ村戸長、郡所得税調査委員、徴兵参事員、田尻村会議員、刈羽郡会議員、同議長代理となる。第百三十九国立銀行取締役、柏崎物産(株)社長、越後セメント取締役、柏崎米穀取引所理事長、宝(株)石油、日東石油(株)各取締役、七十七銀行、石地銀行各監査役を務めた。
城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3… 城 泉太郎(じょう せんたろう、1856年8月17日(安政3年7月17日) - 1936年(昭和11年)1月8日)は、日本の武士(越後長岡藩士)、教育者、共和主義思想家、自由民権運動家。 旧暦安政3年7月(1856年8月)、越後長岡藩士・河井資信とちよの長男として長岡に生まれる。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる。 藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村(現・長岡市)の遠藤軍平塾を経て、戊辰戦争における同藩の敗北を経験した後、明治3年6月(1870年)、慶應義塾に入塾。明治5年(1872年)に義塾の教員となり(1890年に特選塾員)、新暦1876年(明治9年)からは徳島慶應義塾の二代目校長となる。
高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年… 高橋 五郎(たかはし ごろう、1856年4月24日(安政3年3月20日) - 1935年9月7日)は、明治時代から昭和初期の翻訳家、啓蒙的英文学者、英語学者、言語学者、評論家、教育者である。 聖書の翻訳や英語教育を行い、立教大学、早稲田大学、駒澤大学で教授を歴任した。 1856年(安政3年)に越後国柏崎の庄屋の家に生まれる。本名は吾良である。1868年、群馬県高崎に行き、竜門寺で市川左近に漢学や仏学を学ぶ。1871年より牧野再竜、高崎藩校の田中毛野に学ぶ。 1873年に洋学を学ぶために上京し、緒方塾で緒方惟孝(緒方城次郎、緒方洪庵の三男)に学び、植村正久と知り合いになる。1875年(明治8年)に横浜へ行き、植村の紹介でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師S・R・ブラウンのブラウン塾で英学と英語、仏語、独語を習った。
倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年… 倉石 源造(くらいし げんぞう、1856年4月6日〈安政3年3月2日〉 - 1921年〈大正10年〉5月13日)は、日本の政治家。新潟県高田市長。 越後国頸城郡高田城下中小町に生まれる。漢学を修め、柏崎県立学校に入学したが、父の死により退学した。のち神奈川県の小学校の教員となったが、短期間で辞め、逓信属となった。その後、帰郷し洋品店を開き、1895年に家督を相続、同年行われた高田町会議員選挙に立候補して当選する。翌1896年に高田町長に就任、1908年まで務めた。この間、高田町外七ヶ村組合立高等小学校組合長、高田町尚武会長、高田町外四ヶ村組合立高田高等小学校組合長を歴任し、師範学校(高田師範学校)の設置、第十三師団に誘致に尽力した。
高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1… 高橋 直治(たかはし なおじ、1856年3月4日(安政3年1月28日) - 1926年(大正15年)2月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 越後国刈羽郡石地村(現・柏崎市)で高橋喜惣八の長男として生まれる。1875年(明治8年)小樽に渡り荒物商の店員となる。1878年(明治11年)に独立し合羽荒物雑貨商を開業し、さらに米穀海産委託問屋、味噌醤油製造、石炭販売、精米所、回漕業を営んだ。1896年(明治29年)弟・喜蔵と共に高橋合名会社を組織し代表社員に就任。事業を米雑穀業に転換した。第一次世界大戦により日本からヨーロッパへ菜豆類の輸出が急増した際に、大量の大豆を貯蔵し直輸出を行い、日本やロンドン市場を左右するほどの影響を与えたことから「小豆将軍」と称された。
小金井 権三郎(權三郎、こがねい ごんざぶろう、1856年(… 小金井 権三郎(權三郎、こがねい ごんざぶろう、1856年(安政3年8月) - 1925年(大正14年)7月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 越後国古志郡長岡(のち新潟県古志郡長岡本町→長岡町、現・長岡市)生まれ。慶應義塾で学ぶ。巡査、小学校教員、時事新報社社員、写真用品製造(株)取締役となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において新潟5区から自由党所属で立候補したが落選。1894年9月の第4回衆議院議員総選挙で当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では自由党から出馬したが次点で落選した。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党から出馬したが落選した。
丹後 直平(たんご なおへい、1855年11月18日(安政2… 丹後 直平(たんご なおへい、1855年11月18日(安政2年10月9日)- 1920年(大正9年)3月17日)は、日本の実業家、篤農家、政治家。衆議院議員(立憲政友会)。族籍は新潟県平民。 越後国蒲原郡本郷村(後の北蒲原郡中条町大字本郷、現新潟県胎内市)で、丹後宗民の十二男として生まれ、1882年、丹後宗淳の後を相続した。家は医業を営む。 漢学塾に入り漢籍を学ぶ。経伝諸子百家の書を渉猟する。1873年、大学南校に入学する。東京大学文学部で学び、第一科を修める。病により退学して帰郷する。 帰郷後、町村会議員、北蒲原郡会議員、新潟県会議員、学務委員、徴兵参事員などを務めた。実業界では、農業、絵具塗料製造・販売を営み、蚕糸業組合長、中条共立銀行取締役などを務めた。
鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2… 鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1901年(明治34年)9月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 佐渡国加茂郡河崎村(新潟県佐渡郡河崎村、両津市を経て現佐渡市)出身。1876年、新潟師範学校卒。卒業後は東京府雇、新潟師範学校教員、中学校教諭、新潟県会議員となる。また、雑誌「回天」を発行する。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において新潟9区から自由倶楽部公認で立候補して初当選する。1892年の第2回衆議院議員総選挙では独立俱楽部から立候補して再選した。1894年の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して落選した。1901年に死去した。
中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年… 中川 源造(なかがわ げんぞう、安政2年3月4日(1855年4月20日) - 明治40年(1907年)4月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(憲政本党)、新潟県高田町長。 越後国高田横春日町(現在の新潟県上越市)に中川源蔵の子として生まれる。東京に遊学の後、第8大区用掛を務めた。1880年(明治13年)、県会議員に当選し、また中頸城郡総町村組合会議員・議長となり、信越鉄道の建設に尽力した。1882年(明治15年)、室孝次郎とともに上越立憲改進党を結成し、翌年に高田新聞を創刊した。 1889年(明治22年)から翌年にかけて高田町長を務め、1893年(明治26年)に再選されて1896年(明治29年)まで在職した。
目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4… 目黒 徳松(めぐろ とくまつ、1854年5月7日(安政元年4月11日)- 1899年(明治32年)12月31日)は、明治期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。号・楓堂(ふうどう)。 越後国魚沼郡、のちの新潟県北魚沼郡須原村(守門村須原を経て現魚沼市須原)で、須原村庄屋・目黒五郎助の息子として生まれる。1868年1月26日(明治元年1月2日)家督を相続した。 戸長を務める。1880年(明治13年)10月、新潟県会議員半数改選で初当選し、1883年(明治16年)1月まで在任。1882年(明治15年)12月、小千谷町(現小千谷市)で魚沼立憲改進党が結成されると関矢孫左衛門、岡田龍松らと共に加わった。1887年(明治20年)7月、新潟県会議員補欠選挙で当選し1888年(明治21年)11月まで在任。
西巻 豊佐久(にしまき とよさく、安政元年(1854年)4月… 西巻 豊佐久(にしまき とよさく、安政元年(1854年)4月23日 - 明治43年(1910年)8月26日)は、日本の実業家、銀行家。横浜正金銀行の幹部として上海・神戸・ロンドン各支店の経営を担い、同銀行の国際金融展開を支えた人物。日本人による初のキリスト教団体「福音会」の創設者の一人でもある。 越後国刈羽郡田尻村(現在の新潟県柏崎市)に生まれる。明治10年(1877年)、志を抱いて渡米し、サンフランシスコで苦学生生活を送りながら学んだ。同地では、美山貫一、小方仙之助らと共に日本人初のキリスト教団体「福音会」を設立した。この福音会は、後の日本プロテスタント史における初期留学生信徒グループとして知られている。
小西 信八(こにし のぶはち、1854年2月21日〈安政元年… 小西 信八(こにし のぶはち、1854年2月21日〈安政元年1月24日〉 - 1938年〈昭和13年〉7月5日)は、明治から大正にかけての日本の教育者。長らく東京盲唖学校および東京聾唖学校(筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身)の校長を務め、盲聾教育の発展に尽力した。 1854年(安政元年)に越後で生まれる。戊辰戦争で長岡城が落ちた時、小西一家は藩主とともに会津・山形まで逃げた。最後にかくまってくれた農家に、小西は終生恩義を感じていたという。1875年(明治8年)、東京師範学校に入学した。卒業後は、千葉県の中学校・女子師範学校を経て、東京女子師範学校で幼稚園教育の実践と諸外国の保育を研究した。 1886年に、文部省直轄となった築地訓盲唖院の専務となり、その後東京盲唖学校長心得を経て校長となる。
市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6… 市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6月)- 1923年(大正12年)7月25日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県加茂郡梅津村長、同県佐渡郡加茂村長。 佐渡国加茂郡梅津村(新潟県加茂郡梅津村、佐渡郡梅津村、加茂村、両津市梅津を経て現佐渡市梅津)で生まれた。圓山溟北に学んだ。農業を営む。佐渡三郡勧業殖産下掛を務めた。 1872年(明治5年)加茂歌代郷校読方補助に就任。以後、梅津戸長、地租改正下調役、第二十六区副大区長兼小六区長、佐渡三郡町村連合会議員、同議長、所得税調査委員、徴兵参事員などを務めた。1889年(明治22年)梅津村長に就任。1900年(明治33年)新潟県会議員に選出され、海底電線の敷設、中等学校の拡充などに尽力した。
青山 準二郎(あおやま じゅんじろう、嘉永6年9月3日〈18… 青山 準二郎(あおやま じゅんじろう、嘉永6年9月3日〈1853年10月5日〉 - 没年不詳)は、明治時代に活躍した長老派系の日本基督教会の牧師。北海道の宣教で活躍した。 越後国村上藩士中山湛斉の3男として生まれる。1878年(明治11年)エディンバラ医療宣教会宣教師T・A・パームと押川方義に出会いキリスト教に回心する。1880年(明治13年)3月にパームより洗礼を受ける。 パームの薫陶を受けて、伝道者になることを決心して、1883年(明治16年)に上京し、東京府築地の東京一致神学校に入学する。上京して間もない5月には第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加し、植村正久や内村鑑三と一緒に写真と取っている。
牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5… 牧口 義方(まきぐち よしかた、1853年1月13日(嘉永5年12月4日)- 1899年(明治32年)12月20日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。幼名・正太郎。 越後国刈羽郡荒浜村(新潟県刈羽郡荒浜村を経て現柏崎市荒浜)で、代々村の組頭役を務め、回船業を営む牧口家4代当主・庄三郎の息子として生まれた。同郡比角村の星野鏡里に師事し漢学を修め、さらに同郡南条村の藍沢朴斎につき、柏崎県立学校で学んだ。 海運業を営み、柏崎銀行頭取、直江津取引所理事長、新潟商業銀行取締役、新潟銀行監査役などを務めた。 1881年(明治14年)12月、新潟県第18中学区第18小学区学務委員に就任。以後、荒浜村戸長、所得税調査委員などを務めた。
佐藤 力作(さとう りきさく、1853年(嘉永5年12月) … 佐藤 力作(さとう りきさく、1853年(嘉永5年12月) - 1924年(大正13年)2月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 越後国岩船郡村上城下(のち新潟県岩船郡村上本町→村上町、現・村上市)生まれ。岩船郡会議員、新潟県会議員、村上鮭産育養所長、大日本水産会評議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟2区から自由党所属で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。衆議院議員は1期務め、1924年に死去した。
飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月2… 飯塚 弥一郎(彌一郎、いいづか やいちろう、1852年8月21日(嘉永5年7月7日)- 1923年(大正12年)9月18日)は、明治から大正期の地主、農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県刈羽郡日高村長。 越後国刈羽郡新道村、のちの新潟県刈羽郡日高村(高田村を経て現柏崎市新道)で、大地主・飯塚弥兵衛の長男として生れた。藍澤南城の三余堂学寮で漢学、洋学を学んだ。1868年(明治元年6月)に家督を相続。農業を営む。 実業界などでは、1882年(明治15年)1月、第百三十九国立銀行取締役に就任。その他、同行監査役、日本石油監査役、柏崎銀行取締役、同頭取、柏崎米穀取引所理事、北浜酒造監査役、北越植民監査役、日本赤十字社特別会員、帝国義勇艦隊名誉会員、恩賜財団済生会名誉会員などを務めた。
梅浦 精一(うめうら せいいち、嘉永5年6月13日(1852… 梅浦 精一(うめうら せいいち、嘉永5年6月13日(1852年7月29日) - 1912年(明治45年)3月17日)は明治時代の実業家。越後国長岡出身。大蔵省紙幣寮、新潟県立新潟学校教頭、内務省勧業寮を経て、東京商法会議所書記長、石川島造船所専務取締役。日本初の銀行簿記書『銀行簿記精法』訳者。 嘉永5年(1852年)6月13日越後国長岡の医家に生まれた。幼名は敬助。10歳で刈羽郡南鯖石村三余塾藍沢南城に漢学を学び、13歳で長岡藩医山田到処にオランダ語初歩を学んだ。 1868年(明治元年)江戸に遊学して石井謙道に西洋医学を学び、学資が不足すると学友原田豊、岡玄卿の助けで開業医溝部有山の助手兼家僕となったが、結局医学を断念した。
高田 慎蔵(たかた しんぞう、嘉永5年2月2日〈1852年2… 高田 慎蔵(たかた しんぞう、嘉永5年2月2日〈1852年2月21日〉 - 大正10年〈1921年〉12月26日)は、明治大正期の機械貿易商。勲三等。墓は谷中霊園。 高田商会創業者。旧幕府佐渡奉行の下級官吏、支配地役人組頭で広間役だった天野孫太郎の子として佐渡国相川(現新潟県佐渡市)に生まれる。4歳で父の同僚高田六郎の養子となる。14歳にして慶応元年(1865年)佐渡奉行所に出仕見習いから、公事方書役となる。戊辰戦争(1868年)時には新政府に対抗する中山信安の迅雷隊に名を連ねたが、明治維新後、新政府の相川鉱山下調役となり、英国公使のパークスやお雇い外国人エラスムス・ガウワーらの佐渡金山視察に遭遇し、英語の必要性を感じる。
高岡 忠郷(たかおか たださと、1852年(嘉永4年12月)… 高岡 忠郷(たかおか たださと、1852年(嘉永4年12月) - 1922年(大正11年)3月26日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 越後国蒲原郡別所村(新潟県中蒲原郡十全村、村松町を経て、現五泉市別所)に生まれる。大肝煎の兄・永三の跡を継いだ。 石油採掘および精製業に従事し、1897年(明治30年)5月、新津礦油を創立し社長に就任した。ほか、沼垂銀行取締役を務めた。 早くから自由民権運動に加わり、地方自治においては、十全村会議員、十全村長、新潟県会議員、同議長を歴任した。一時期、友人大竹貫一の意見を受けて中蒲原郡のため中立派に属した以外は、自由党系に所属して活動した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第3区から出馬し当選。
金子 静枝(かねこ しずえ、男性、1851年5月31日(嘉永… 金子 静枝(かねこ しずえ、男性、1851年5月31日(嘉永4年5月1日) - 1909年(明治42年)2月18日)は、明治時代の新聞・雑誌記者で、主に日出新聞(現:京都新聞)の新聞記者、小説家として活躍した。また、美術品鑑定家でもあった。明治20年代からこの名前を名乗る。本名は錦二(きんじ)。 竹居明男『『日出新聞』記者金子静枝と明治の京都』による。 (同書に木下知威「金子静枝に向かって」が収録されている)
高橋 九郎(たかはし くろう、1851年1月4日(嘉永3年1… 高橋 九郎(たかはし くろう、1851年1月4日(嘉永3年12月17日) - 1922年(大正11年)9月21日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越後国三島郡宮川外新田(のち新潟県三島郡浦村→来迎寺村→越路町→長岡市)出身。漢籍を学ぶ。新潟県第十六区副長、学務委員、道半村(のち浦村)、宮川外新田戸長、のち宮川外新田外十二ヶ村戸長、三島郡所得税調査委員となる。また、第六十九国立銀行取締役、両毛鉄道(株)監査役、同取締役、関原銀行、沼垂銀行、北越倉庫各(株)取締役、与板銀行監査役を務めた。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟5区から自由党公認で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。
大矢 透(おおや とおる、1851年1月4日(嘉永3年12月… 大矢 透(おおや とおる、1851年1月4日(嘉永3年12月3日) - 1928年(昭和3年)3月16日)は、日本の国語学者。仮名の歴史的変遷や上代日本語の音韻を解明したことで有名。また、『隋唐音図』において、反切に基づく漢字の音読み(漢音部分)を網羅的に比定した。 越後国蒲原郡根岸村(現新潟県新潟市)出身。幼名は又七郎。号は蔦廼舎(つたのや)水斎。戊辰戦争時には新発田藩の兵として従軍した。1875年、新潟師範学校卒業。山梨県師範学校、茨城県師範学校、茨城第二中学校で教職を務めた後、1886年より文部省勤務。1899年から1901年には台湾総督府民政部の職員となった。1909年文部省国語調査委員会委員。
久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(… 久須美 秀三郎(くすみ ひでさぶろう、1850年4月26日(嘉永3年3月15日)- 1928年(昭和3年)1月18日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。号・雲堂。 越後国三島郡小島谷村(新潟県三島郡小島谷村、島田村、和島村を経て現:長岡市)で、素封家の旗本知行所代官・久須美毅堂(左衛門)の長男として生まれる。 長岡藩需士、大瀬虎治・田中春回に漢籍を、1870年(明治3年)に上京して島田重礼に学んだ。 1875年(明治8年)柏崎県第二大区副大区長に就任。1876年、久須美家当主、叔父・三郎が死去したため家督を相続。1884年(明治17年)吉田村他14ヵ村戸長となる。三島郡参事会員、新潟県会議員、同副議長も務めた。
今井 藤七(いまい とうしち、嘉永2年12月24日(1850… 今井 藤七(いまい とうしち、嘉永2年12月24日(1850年2月5日) - 大正14年(1925年)10月24日)は、日本の実業家。北海道の老舗百貨店丸井今井(現・三越伊勢丹ホールディングス傘下)の創業者。 1878年に今井藤七の次弟・武七の長男として新潟県南蒲原郡三条町に生まれ、子がいなかった藤七の養子となる。1898年に慶應義塾を卒業し、藤七の許しを得て渡米。帰国後は丸井今井に入り、1925年藤七の死去を受け後継。1935年に武徳殿(現・三条市歴史民俗産業資料館)の建設基金として3万円を三条市に寄付、1940年の三条商工会議所の設立には初代会頭に推薦され就任。1944年死去、66歳。定明寺に眠る。
益田 孝(ますだ たかし、嘉永元年10月17日(1848年1… 益田 孝(ますだ たかし、嘉永元年10月17日(1848年11月12日) - 昭和13年(1938年)12月28日)は、日本の実業家。男爵。三井合名理事長。 草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた。明治維新後、世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。 佐渡国雑太郡相川町(現在の新潟県佐渡市相川)に生まれる。幼名は徳之進。 安政2年(1855年)、江戸幕府は箱館奉行を設置(再設置)することとなり、父の鷹之助が幕臣として取り立てられたため一家で箱館(函館)に移住した。安政6年(1859年)、鷹之助が江戸詰の外国奉行支配定役となったため、一家は江戸に移った。
相馬 一郎(そうま いちろう、1848年7月23日(嘉永元年… 相馬 一郎(そうま いちろう、1848年7月23日(嘉永元年6月23日)- 1929年(昭和4年)11月22日)は、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県北蒲原郡五十公野村長。 越後国蒲原郡新発田(新潟県北蒲原郡新発田町を経て現新発田市)で、相馬善右衛門、よし の長男として生まれる。農業を営む。 用掛小区長、副大区長、学務委員、五十公野村長、北蒲原郡会議員、同議長、新潟県会議員、同副議長などを務めた。憲政本党に所属していたが、1901年(明治34年)の増税案に対して党議と意見が不一致のため離党し、同志と共に新潟進歩党を組織した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に新潟県郡部から同志倶楽部所属で出馬して初当選。
日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(… 日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(1848年3月25日) - 大正10年(1921年)1月9日)は、明治期の紡績実業家。東京富士瓦斯紡績や日清紡績など紡績業に深く関わり、東京商業会議所副会頭を務めた。鐘淵紡績、東京毛織物各社長。 越後国蒲原郡裏館村(現・三条市)の旅宿営業者・大島栄造の3男として生まれる。万延元年(1860年)より江戸日本橋堀留の綿糸棉花問屋松本屋・斎藤弥助のもとで奉公し、のち日比谷家の養子となる。明治11年(1878年)に独立して浅草区茅町に綿糸染糸店を開くが、松本屋廃業によりそれを受け継ぎ、事務所を堀留に移して 綿糸・綿花を扱う卸商・日比谷商店を設立。
本山 健治(もとやま けんじ、1848年(嘉永元年3月) -… 本山 健治(もとやま けんじ、1848年(嘉永元年3月) - 1919年(大正8年)3月14日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・野口。 越後国頸城郡、のちの新潟県中頸城郡津有村の野口家に生まれ、幼くして東頸城郡菖蒲村(元保倉村、大島村字菖蒲を経て現上越市)の本山家の養子となる。十一大区副長、村会議員を経て、1879年(明治12年)新潟県会議員に当選。1882年(明治15年)病を理由に議員を辞すが、1884年(明治17年)県議に返り咲く。翌年再び県議を辞し実業界に入り、新潟農工銀行監査役などを務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では新潟県第7区から出馬し当選。
8代市島 徳治郎(市島 徳次郎、いちじま/いちしま とくじろ… 8代市島 徳治郎(市島 徳次郎、いちじま/いちしま とくじろう、1847年6月6日(弘化4年4月23日) - 1917年(大正6年)2月26日)は、明治時代の地主、政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。族籍は新潟県平民。幼名は千吉、のち宗輔と称した。第四国立銀行設立者。 越後国蒲原郡天王新田(新潟県北蒲原郡天王新田、天王村、中浦村、福島村、豊浦村、豊浦町を経て現新発田市)出身。1871年(明治4年)以降、新潟県第二十二大区小八区天王新田用掛、同県第二十二大区長、天王村長を歴任する。第四銀行の発起人に名を連ね、1874年(明治7年)初代頭取に就任した。 また、新潟県下第一の大地主であり、1890年(明治23年)には新潟県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任した。
松山 高吉(まつやま たかよし、弘化3年12月10日(184… 松山 高吉(まつやま たかよし、弘化3年12月10日(1847年1月26日) - 昭和10年(1935年)1月4日)は、日本の国学者、牧師。文語訳聖書の翻訳に関わった。日本における賛美歌事業の草分けである。 1846年(弘化3年)に越後国糸魚川で生まれ、国学者平田鐵胤に学ぶ。京都の白川家学館で国史律令を、江戸の黒川真頼の下で国文学を修めた。1872年(明治5年)、キリスト教排斥を志し、その実態を探るために神戸のアメリカンボード宣教師D.C.グリーンの日本語教師となったが、回心して1874年(明治7年)に洗礼を受けた。このとき受洗した松山ら11名は摂津第一基督教会(のちの神戸教会)を設立した。 組合教会系の信徒としては最も早くから新島譲と親交があり、新島がアメリカから帰国した際に「譲」は「ゆずる」と誤読される恐れがあるとして「襄」と改めるように忠告したといわれている。
田沼 健(たぬま けん、弘化3年11月16日〈1847年1月… 田沼 健(たぬま けん、弘化3年11月16日〈1847年1月2日〉 - 1909年〈明治42年〉7月6日)は、幕末の高田藩士、明治期の内務官僚。官選山梨県知事。名・利遂、通称・周太郎。 越後国頸城郡高田蓮池横町(現新潟県上越市)で、高田藩士・田沼善太夫(通称・恆)の長男として生まれる。藩儒・木村容斎に学んだ。明治2年9月(1869年)、高田藩史監となり、さらに同藩少属十四等出仕を務めた。 廃藩置県後、柏崎県に出仕。1873年8月、新潟県少属に就任し、楠本正隆県令に仕えた。楠本が東京府知事に転じると、1876年、同府少書記官に就任。1883年6月、神奈川県大書記官に転じた。 1893年(明治26年)3月21日、山梨県知事に就任。
栗林 得太郎(くりばやし とくたろう、弘化3年7月11日(1… 栗林 得太郎(くりばやし とくたろう、弘化3年7月11日(1846年9月1日) - 明治17年(1884年)2月11日)は新潟県の豪農。第七大区第二小区戸長、第十大区長、南蒲原郡書記を歴任した。子に栗林五朔。 弘化3年(1846年)7月11日、越後国蒲原郡三条町に六代目栗林七郎治の五男三女の長男として生まれた。安政3年(1856年)父が西大崎村名主を命じられたため、同村に移り、安政6年(1859年)14歳で家督を継いだ。 幼少より帯織村岩崎塾に学び、江戸に出て蒲生重章に入門し、片桐省介、岩崎幸太郎等と交わったが、明治元年(1868年)戊辰戦争勃発に伴い帰郷した。 明治2年(1869年)御徒士取扱として新潟県商館御取立取締役を命じられ、明治5年(1872年)9月第七大区第二小区戸長となった。
小林 雄七郎(こばやし ゆうしちろう、弘化2年12月23日(… 小林 雄七郎(こばやし ゆうしちろう、弘化2年12月23日(1846年1月20日) - 明治24年(1891年)4月4日)は、幕末期の越後長岡藩士、明治期の官吏、衆議院議員。 新潟町奉行を務めた長岡藩士小林又兵衛の第7子で、「米百俵」で知られた小林虎三郎の弟。藩校の崇徳館に学ぶ。戊辰戦争で敗北し、江戸に出て、明治3年(1870年)慶應義塾に入学。卒業後に大蔵省紙幣寮(現・国立印刷局)の官吏となる。第六十九国立銀行設立に尽力した。その後、文部省・工部省などを転々とし、当時工部省にいた伊藤博文と共に高島炭鉱の後藤象二郎への払い下げを決定した。 明治8年(1875年)東京に在住していた旧長岡藩士と共に育英事業団体「長岡社」を創設、商人や農民も受け入れて広く人材の養成に努めた。
西潟 為蔵(にしかた ためぞう、1845年11月14日(弘化… 西潟 為蔵(にしかた ためぞう、1845年11月14日(弘化2年10月15日)- 1924年(大正13年)9月6日)は、日本の政治家。衆議院議員。 越後国蒲原郡下田郷福岡新田(現:新潟県三条市)で、地主・西潟浅五郎の長男として生まれる。目黒市左衛門、村松藩士・山上謙之助から漢籍を学ぶ。慶応2年(1866年)1月から3月にかけて東山・東海・南海・山陽・畿内・北陸を旅行して見聞を広めた。慶応4年8月29日(1868年10月14日)鹿峠・長沢組一揆の際に、百姓惣代として請願十ヶ条を纏め村松藩と交渉を行った。 明治5年9月(1872年10月)地主惣代として壬申地券交付取調、1874年、地租改正掛、1876年、第十八大区小八区村位等級調査委員となり地租改正事業で実績を残した。
初代 五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1845年(弘化2年… 初代 五十嵐 甚蔵(いがらし じんぞう、1845年(弘化2年10月) - 1911年(明治44年)3月20日)は、明治時代の政治家。銀行家。大地主。貴族院多額納税者議員。諱は信澄、号は梅雨山人。 越後国蒲原郡金屋村(新潟県北蒲原郡金屋村、笹岡村、笹神村を経て現阿賀野市)出身。19歳の時、父が没し家督を相続する。 1870年(明治3年)越後府により治河会議所会計方試補に任ぜられ、1872年(明治5年)小区戸長となった。1875年(明治8年)第22大区長を最後に官職を辞した。 1879年(明治12年)同志と共に第百十六国立銀行を設立し、頭取に就任した。1897年(明治30年)私立銀行に転換後は取締役を務めた。
銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年… 銀林 綱男(ぎんばやし つなお、1844年5月6日〈弘化元年3月19日〉 - 1905年〈明治38年〉9月20日)は、幕末の尊攘運動家、明治期の内務官僚・実業家。官選埼玉県知事。孫に数学者の銀林浩、曾孫に政治家の片山さつきがいる。同郷の前島密と親交があった。 越後国頸城郡青海村(後の新潟県西頸城郡青海町→糸魚川市)の青海神社の宮司銀林玄類の息子として生まれる。江戸で医学、詩文を学んだ。戊辰戦争では新政府側の居之隊に属して転戦した。 慶応4年(1868年)8月、新政府に出仕し民政方御用掛に就任。以後、新潟県少属、同一等警部を歴任。1876年、東京府に転じ、同大属、同戸籍掛長、同学務課長、同建築調査委員、同官報通信主任、同会計主務官代理などを務めた。
関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(… 関矢 孫左衛門(せきや まござえもん、1844年3月12日(弘化元年1月24日) - 1917年(大正6年)6月21日)は、明治時代の政治家、銀行家、実業家。衆議院議員(1期)。北海道開拓者。号・道菴、北海道人。 越後国刈羽郡新道村(新潟県刈羽郡日高村、高田村を経て、現柏崎市新道)出身。飯塚七十郎の子として生まれ、1858年(安政5年)魚沼郡並柳新田(新潟県北魚沼郡並柳村、下条村、広瀬村、広神村を経て現魚沼市)の関矢家の養子となった。戊辰戦争では居之隊に属して新政府軍とともに各地に転戦した。西南戦争にも従軍した。 1870年(明治3年)帰郷後、大区長に就任。のち三等警部、地租改正御用掛、北魚沼郡長兼南魚沼郡長を歴任する。
秋山 恒太郎(あきやま つねたろう / こうたろう、1844… 秋山 恒太郎(あきやま つねたろう / こうたろう、1844年(弘化元年6月)? - 1911年(明治44年)6月7日)は明治時代の日本の教育者、文部官僚。号は不羈斎(ふきさい)。 官立長崎師範学校、官立東京師範学校(筑波大学の前身の1つ)をはじめ、各地の県立師範学校・中学校校長を歴任した。 越後国長岡に生まれる。長岡藩校崇徳館初代都講秋山景山の嗣子・四郎左衛門の孫にあたり、四郎左衛門の婿養子・左内の養子となって秋山家を継いだ。安政初年(1855年頃)、幕府の老中を務めていた藩主牧野忠雅の命により小林見義、藤野善蔵、武謙斎の3名と江戸に遊学。儒学者・安井息軒の門に学んだ。また慶応2年(1866年)頃、帰郷していた長岡藩出身の幕臣・鵜殿団次郎(春風)と親しく交際。
岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈184… 岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈1843年6月22日〉 - 1915年〈大正4年〉2月21日)は、幕末期の桑名藩士、明治時代の司法官僚、大審院判事。 越後国山室(現在の新潟県柏崎市)に、行田常冶改め常左衛門の次男として生まれ、まもなく山室の庄屋岡村家第14代権之丞の娘と入婿して岡村家を継ぐ。14歳で庄屋見習。慶応3年(1867年)桑名藩柏崎陣屋から郡中取締役を申し付けられ、その年の6月には一代苗字帯刀を許され武士となる。桑名藩が戊辰戦争で鯨波戦争を最後に敗走し、新政府が柏崎民政局を置くと、民政局御用掛となり、敗戦処理の経験を買われて会津戦争の戦後処理のため、若松県に2年出向。