北 安博(きた やすひろ、1961年4月23日 - )は、石… 北 安博(きた やすひろ、1961年4月23日 - )は、石川県河北郡内灘町出身の元プロ野球選手(内野手)。
石川県:64人
北 安博(きた やすひろ、1961年4月23日 - )は、石… 北 安博(きた やすひろ、1961年4月23日 - )は、石川県河北郡内灘町出身の元プロ野球選手(内野手)。
小松 辰雄(こまつ たつお、1959年5月10日 - )は、… 小松 辰雄(こまつ たつお、1959年5月10日 - )は、石川県羽咋郡富来町(現:志賀町)出身の元プロ野球選手(投手)。
浅井 純哉(あさい すみや、1957年7月13日 - )は、… 浅井 純哉(あさい すみや、1957年7月13日 - )は、日本の高校野球指導者。金沢龍谷高等学校の野球部監督を務める。かつては金沢高等学校や鵬学園高等学校の野球部監督を務めた。 石川県輪島市出身。金沢高等学校野球部OB内野手(甲子園出場経験はなし)。国士舘大学準硬式野球部では投手。 輪島市の高校で臨時職員として勤務した後、1981年(昭和56年)に母校・金沢高等学校へ戻り、野球部コーチ。責任教師を経て、1993年(平成5年)秋より野球部監督就任。2011年(平成23年)6月、育成功労賞を受賞。同年10月の山口国体を最後に勇退を発表した。後任は野球部長の岩井大。 金沢高校時代は白山市(旧:美川町)の自宅を下宿として、輪島市など県内の遠隔地および希望する野球部員の面倒をみていた。
金森 栄治(かなもり えいじ、1957年1月24日 - )は… 金森 栄治(かなもり えいじ、1957年1月24日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手(外野手、捕手)・監督・コーチ・野球解説者。
谷内野 隆(やちの たかし、1956年1月10日 - )は、… 谷内野 隆(やちの たかし、1956年1月10日 - )は、石川県珠洲市出身の元アマチュア野球選手(投手)・指導者。 星稜高校では、2年生の時に、1972年の夏の甲子園に投手として出場した。しかし、2回戦で岡村隆則らがいた柳井高校に敗退した。高校卒業後は北陸銀行に入社した。 北陸銀行のエースだった1977年11月22日にはプロ野球ドラフト会議で横浜大洋ホエールズから5位指名を受けたが、入団を拒否し、チームに残留した。 チーム残留後もエースとして活躍し、1981年の都市対抗野球信越予選の決勝にも登板し、その決勝で国鉄新潟を破り、チームにとって、16年ぶりの都市対抗野球への出場を果たす。その大会で電電関東との1回戦の試合でも登板したが、一度は引き分けたが、再試合で敗れた。
笠間 雄二(かさま ゆうじ、1953年3月22日 - )は、… 笠間 雄二(かさま ゆうじ、1953年3月22日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手(捕手)。
堂上 照(どのうえ てらし、1951年6月9日 - )は中日… 堂上 照(どのうえ てらし、1951年6月9日 - )は中日ドラゴンズに所属していた元プロ野球選手である。石川県輪島市出身。現役時代の愛称は「ジャンボ」。堂上剛裕(読売ジャイアンツ)、堂上直倫(中日ドラゴンズ)の実父。
山本 雅弘(やまもと まさひろ、1951年5月23日 - )… 山本 雅弘(やまもと まさひろ、1951年5月23日 - )は、石川県白山市出身の野球指導者。星稜中学校、遊学館高等学校の監督を歴任した。理論(ビデオ分析等)立てた指導で知られる。 白山市立鳥越中学校在学時は軟式野球部に所属。石川県立金沢桜丘高等学校在学時には陸上競技に打ち込んだ。教員を目指して日本体育大学に進学し、卒業後は星稜高等学校に赴任。1990年に同校付属の星稜中学校野球部監督に就任すると11年の在任期間中に9度の全国大会に出場。全国中学校軟式野球大会で2度、全日本少年軟式野球大会で1度それぞれ優勝を果たす。同校は全国で唯一全国中学校軟式野球大会と全日本少年軟式野球大会の両方で優勝経験のある学校であると同時に、両大会での優勝経験を持つ監督は山本と後任の田中辰治のみである。
山下 智茂(やました ともしげ、1945年〈昭和20年〉2月… 山下 智茂(やました ともしげ、1945年〈昭和20年〉2月25日 - )は、日本の高校野球指導者。学校法人稲置学園理事、金沢星稜大学特任教授、星稜高等学校野球部名誉監督(元・社会科(公民)教諭)、甲子園歴史館顧問。2005年(平成17年)9月1日まで星稜高等学校の野球部監督を務め、甲子園に春夏通算25回導いた。 石川県立門前高等学校から東都の名門・駒澤大学に入学。レギュラーの壁は厚く、公式戦出場はなかった。 大学卒業後、1967年(昭和42年)4月に星稜高校野球部監督に就任。当時は無名校で、野球部用グラウンドはなく、部員は8人だけ。公立校を落ちて嫌々入学した生徒ばかり。自分たちの学校に夢や誇りを持たせたいと考え「3年で甲子園へ行く」と宣言した。
西能 勇夫(さいのう いさお、1938年5月28日 - )は… 西能 勇夫(さいのう いさお、1938年5月28日 - )は、石川県出身の元プロ野球選手。 金沢桜丘高校から金沢鉄道管理局を経て1958年に大阪タイガースへ入団。1959年に退団。
大根 晃(おおね あきら、1935年7月15日 - )は、石… 大根 晃(おおね あきら、1935年7月15日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手(投手)。 金沢桜丘高校時代は、高校1年からエースで4番だった。高校3年時には1953年春の甲子園に出場(初戦で、浪華商に0-7で大敗)。夏は県大会準決勝・決勝で2試合連続ノーヒットノーラン達成し優勝したが、北陸大会で金沢泉丘高校(その後、本大会に出場)に敗退し、甲子園に行けなかった。この事でプロ入りを決意し、秋に大阪タイガースの入団テストを受けて合格し、入団した。 ルーキーイヤーの1954年7月8日に洋松戦(大阪スタヂアム)で、プロ入り初登板にして初先発。タイガースの選手において、初の石川県出身者として出場を果たした。
宮地 惟友(みやじ よしとも、1932年1月18日 - )は… 宮地 惟友(みやじ よしとも、1932年1月18日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手(投手)。
横井 啓二(よこい けいじ、1930年7月15日 - )は、… 横井 啓二(よこい けいじ、1930年7月15日 - )は、元プロ野球選手。ポジションは捕手、内野手。 石川県金沢市出身。金沢三中時代は、1948年春の甲子園に出場(初戦で、北野中に3-5で惜敗)。夏は投手・三塁手・右翼手など、色々な守備についたが県大会予選でライバルの金沢一中に敗退し、甲子園に行けなかった。 卒業後は、社会人野球の強豪・日鉄鉱業二瀬に入団。ここで真野春美監督と出会い、真野監督が同じ大学(明治大学)の後輩に当たる松木謙治郎に三船正俊投手と共に紹介したことが縁で、1951年に大阪タイガースに入団した。石川県出身者としては初のプロ野球選手かつ初のタイガース選手でもあったが、翌1952年に選手登録(1952年は内野手、1953年は捕手として登録)されるも三船とは違い、一軍出場を果たすことなく1953年に退団した。
河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月3… 河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月31日 - 1946年〈昭和21年〉1月12日)は、石川県大聖寺町(現:加賀市)出身のアマチュア野球選手(投手)。日本初のプロ野球チーム創設者。 父は河野通理で、加賀藩士。妻の河野いゑは飛田穂洲(忠順)の妹。 1897年(明治30年)一家は横浜に転居し、野球に親しむようになる。旧制横浜商業学校在学中は野球に熱中しすぎたためか中退した。転校した明治学院には4年に編入し、わずか半年ほど在籍しただけだが、この時期に安部磯雄と出会い、彼のキリスト教精神に共鳴した。東京高等商業学校を目指していたが、1903年(明治36年)に早稲田大学商科入学。早大入学後、創設して3年目の野球部に入部し、ここでまたも野球部部長の安部に偶々出会う。