秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) -… 秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) - 1915年(大正4年)10月27日)は、岡山県倉敷市出身の実業家。 1845年、備中国倉敷で秋山文三郎の二男として生まれた。生家である天城屋は、代々米問屋と味噌糀の製造を兼業していた。 14歳で家業を手伝い、後に伯母の繁井屋を継ぎ、米問屋を経営した。 1865年(慶応元年)大坂堂島で仲買を始める。明治維新の際に一旦岡山へ帰り、「繁儀」の商号で米穀仲買を営む。 1870年(明治3年)再び堂島で開業する。1884年(明治17年)堂島で売買両派の対立があった際、売派の頭取の五代友厚一派の不正を摘発し、注目された。 1892年(明治25年)堂島より引退する。
馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保… 馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保15年10月12日) - 1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の実業家。三井物産に勤務し、大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」「東洋のビール王」とよばれた。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。茶人・馬越化生としても知られた。 1844年(弘化元年)、備中国後月郡木之子村(現・岡山県井原市)で父の元泉と母の古尾子の2男として生まれる。馬越家は医者を生業としており兄の元育が医学で親と対立し東京に出たため、次期当主として期待されていた。幼少期は「負けずの恭弥やん」と呼ばれていた。
佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)… 佐藤 兵八(さとう ひょうはち、1844年(弘化元年11月)- 1900年(明治33年)6月22日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 備中国上房郡有漢村(岡山県上房郡有漢町を経て現高梁市有漢町有漢)で、酒造業の家に生まれる。幼少期は綱島某(名不詳)から漢学を学び、その後、進鴻渓に十余年師事し塾頭を務めた。 農業を営み、家業の酒造業に従事し、その後、醤油醸造業にも事業を拡大した。その他、高梁銀行頭取も務めた。公共のために私財を投じ、道路改修、官衙学校の建設、低所得者の救済に尽くした。 1890年(明治23年)岡山県会議員に選出され、学務委員、所得税調査委員、徴兵参事員なども務めた。
浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年… 浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年11月22日)は、岡山県窪屋郡子位庄(現・倉敷市)出身の実業家。 1843年、窪屋郡小位庄で生まれる。叔父である忠義と木綿栽培、材木業、漁業を営んでいたが成功しなかった。 1876年、開業資金を得て、廃坑となっていた中庄村の猿曳山銅山の再掘を始める。出費がかさむ事から、採掘事業は解散したが、和七郎一人踏みとどまり、新抗を試みていたところ鉱脈に接することに成功した。 また、早島村金田山廃坑の再掘を開始。多くの銅鉱を採掘し、巨額の富を得た。 巨額の利益を得たことから、数十町の田畑を買い、更に船舶を買い、海運業を始めた。 1883年11月22日、病で死去。
堀 和平(ほり わへい、1841年2月16日(天保12年1月… 堀 和平(ほり わへい、1841年2月16日(天保12年1月25日) - 1892年(明治25年)5月16日)は、日本の洋画家・実業家である。岡山県洋画界の先駆者である。 氏は堀、名を和平安郷(やすさと)、杏邨(きょうそん)と称した。備中国賀陽郡八田部村(現岡山県総社市総社)西宮本町の豪商堀和助安忠の四男に生まれる。生家は備中国総社宮の神主のほか酒店、質屋、廻船問屋などを営み、屋号を「志保屋」(塩屋)と称し、備中松山藩の御用商人を務めた。二兄、三兄が早世し、長兄堀安道が病弱で学問の道に進んだため家業を継ぐ。1876年(明治9年)に玉島の西山武治や柚木金蔵ら有力者と共同で、浅口郡柏島村(現倉敷市玉島)の海面干潟に灰貝(モ貝)の養殖についての願書を県に提出したり、児島味野の足袋を作る材料でもある備中小倉織を売買するなど、実業家としての片鱗を見せている。
岡崎 惟素(おかざき これもと、1840年(天保11年) -… 岡崎 惟素(おかざき これもと、1840年(天保11年) - 1905年(明治38年)5月20日)は、日本の武士(岡山藩士)、実業家(三菱商会本社副支配人、日本郵船長崎支店長、日本逓業取締役、東京株式取引所理事)、茶人(織部流)。幼名は滝吉、のち滝之助。号は淵冲、谷神。 1840年(天保11年) 、備前国御野郡内田村(現・岡山市)生まれ。1870年(明治3年)、30歳の時は、岡山藩家老で金川領主の日置健太郎支配の下級藩士(陪臣)であった。廃藩置県後は東京に出て、官吏となるも、1877年(明治10年)36歳の時に岩崎弥太郎が創設した三菱商会に書記係として入社。のちに本社副支配人となる。1887年(明治20年)、三菱の荘田平五郎・内田耕作・浅田正文・岡本健三郎らと共に日本郵船(共同運輸と三菱汽船との合併会社)を創立した。
香川 真一(かがわ しんいち、天保6年4月6日(1835年5… 香川 真一(かがわ しんいち、天保6年4月6日(1835年5月3日) - 1920年(大正9年)3月8日)は、日本の官僚、実業家。元備前岡山藩士。岩倉具視に随行して、欧米を視察。大分県令(現在の知事に相当)。大分県令を退いてのち、実業界に転じ、岡山殖産協会会頭や岡山商業会議所会頭などを歴任。岡山地方の産業の発展に尽力。本姓は岡。通称は英太郎。別名は忠武。 1835年、現・岡山市北区船頭町に、岡山藩士の家に生まれ、西洋式砲術を学んだ。明治2年(1869年)、権大参事。明治4年(1871年)、岩倉使節団に先立つ半年前に第1回欧米視察団に選ばれ、津田弘道らとともに欧米を視察した。翌年に帰国した後は、伊万里県参事、ついで静岡県参事に任じられた。
大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(… 大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(天保4年11月2日) - 1910年(明治43年)7月6日)は、日本の実業家。大原孫三郎の父。 岡山藩士藤田傳吉の三男として生まれる。1858年(安政5年)に備中国窪屋郡倉敷村の庄屋・豪商大原壮平の養嗣子となり、幼名幸三郎を孝四郎と改名。儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学んだ。呉服、繰綿、米、金融を手広く営むとともに大地主であり、学問、絵、書を好む文化人でもあった。 1888年(明治21年)に倉敷紡績所(クラボウ)の初代社長に就任すると、養父壮平が森田節斎から学んだ謙受説を社訓とした。これは「満は損を招き、謙は益を受く」という思想で、常にへり下った気持ちで、より高いものを求めて努力すべし、という内容であった。
沼本 雅文(ぬまもと まさふみ)は、日本の実業家である。住商… 沼本 雅文(ぬまもと まさふみ)は、日本の実業家である。住商リース(現:三井住友ファイナンス&リース)取締役となり、その後、エムジーリース(現:みずほ丸紅リース)第3代代表取締役となる。岡山県出身。 岡山県で出生する。高校は、岡山県立高梁高等学校へ進学し、同期には、建築家の樋口修がいた。1968年(昭和43年)に同校を卒業を経て、大学へ進学。大学卒業後、当時設立されて間もない住商リースへ就職する。 この後、2004年(平成16年)沼本が54歳のときに、住商リースの取締役執行役員理事となる。2006年(平成18年)には、前任であるエムジーリース(現:みずほ丸紅リース)社長の長速水昭の退任に伴い、住商リース・コーポレート部門分掌付で子会社のエムジーリース第3代社長に就任する。
多田 勤(ただ つとむ、1959年 - ) は 日本の実業家… 多田 勤(ただ つとむ、1959年 - ) は 日本の実業家。岡山県倉敷市出身 株式会社サノテック代表取締役社長。サノヤスホールディングス(株)常務執行役員。
磯崎 眠亀(いそざき みんき)は、花筵製造業の実業家、発明家… 磯崎 眠亀(いそざき みんき)は、花筵製造業の実業家、発明家である。 都宇郡帯江新田村(現、倉敷市茶屋町)生まれ。父は児島郡田之口村(現、倉敷市児島田の口)出身の小倉織を扱う商人で織元。 梯型筬(ていけいおさ)を発明、広組縮織(ひろぐみちぢみおり)を考案した。これにより、緻密な花筵を織ることに成功、錦莞筵(きんかんえん)と名付けた。この錦莞筵が海外に輸出され、これをきっかけに、花筵が明治後期の日本の重要な輸出品の一つとなった。 天保5年10月(1834年11月ごろ)、備中国都宇郡帯江新田村(現、岡山県倉敷市茶屋町)にて誕生する。幼名を興三郎、後家をついで什三郎、そして、明治5年(1872年)、眠亀と改名した。