谷口 行規(たにぐち ゆきのり、1968年9月27日 - )… 谷口 行規(たにぐち ゆきのり、1968年9月27日 - )は、日本の実業家、レーサー、ゲームクリエイターにしてユークスの創業者。広島県広島市出身。 小学生の時、大流行したインベーダーゲームに始まり、ゲーム好きが高じて高校時代はゲームソフト作りに熱中した。1年の時、広島のゲーム製作会社と契約し、2年時にアメリカの高校に編入して1989年に卒業すると、大阪府立大学工学部への入学と同時にコンパイル大阪開発室長に就任した。1993年、大学3年で24歳の時には堺市のマンションでユークスを創業し、大学卒業までに約20本の作品を開発した。卒業後はPlayStationの立体表現を活かそうとプロレスゲームを開発し、1995年に製作したPlayStation用ゲームソフト『新日本プロレスリング闘魂烈伝』はトミーから発売されてシリーズ化され、累計販売100万本の大ヒットとなった。
山田 眞次郎(やまだ しんじろう、1949年12月3日 - … 山田 眞次郎(やまだ しんじろう、1949年12月3日 - )は日本の企業家、インクス(現SOLIZE)の創業者。 広島県出身。広島県立呉三津田高等学校を経て、1974年に青山学院大学理工学部機械工学科を卒業。同年、三井金属鉱業株式会社に入社し、自動車用ドアロックの設計に従事。1990年三井金属鉱業株式会社退社、同年株式会社インクスを設立。2008年、インクスは受注が決まっていた2社40億円のコンサルティングがリーマンショックの影響で取り消されたことにより、入居していた新丸の内ビルディングの年間家賃15億円が払えなくなり、三菱地所にビルからの退去を通告したが、定期借款契約だったため、契約期間の残りの家賃として約200億円を要求され退去もできず、2009年5月までには資金繰りに窮する状況に追い込まれた。
金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月1… 金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月15日 - 1962年(昭和37年)10月6日)は、日本の実業家、サンスターの創業者。広島県安芸郡坂町出身。 大阪に出て1932年、金田兄弟商會を設立し自転車や履物用ゴム糊の製造を開始。1941年、4社のゴム製造業者統合により帝國合同護謨工業が設立され、翌年社長に就任。太平洋戦争期の空襲で工場の大半を焼失したが戦後1946年、金田軽金属チューブ工業所(同年改組し金田金属工業)を設立し、焼け残ったゴム糊を金属チューブに充填する機械を活かし、金属チューブ容器の開発に成功。その後取引先であった星光社からの相談によりチューブに歯磨剤を充填し、金属チューブ入り練歯磨剤を開発し発売した。
吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、… 吉田 五郎(よしだ ごろう、1900年 - 1993年)は、日本の技術者で、キヤノンのルーツである精機光学研究所の創業者。 広島県福山市出身。小学生からカメラを分解し組み立てるというカメラ少年で、これが病みつきになり福山中学(現・福山誠之館高校)を学業半ばにして1917年上京。機械知識を生かして光学精密機械の輸入商社に出入りしたのが切っ掛けで映画の世界に入り、映写機関係の仕事に身を託した。この期の技術習得が実を結び、昭和の初めには映写機の修理、改良の域を脱し、製作にも手を伸ばしていた。日本初の本格的なトーキー映画といわれる『マダムと女房』(1931年)で使われた土橋式の録音機は土橋武夫・土橋晴夫兄弟の製作した物であるが、再生機は吉田が中国の上海で買って来た物が使われたという。
津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 19… 津田 喜次郎(つだ きじろう、1888年7月11日 - 1959年)は、株式会社津田式ポンプ製作所の創業者であり、同社元社長、広島県立広島観音高等学校元PTA会長。紫綬褒章と紺綬褒章を受章。 明治21年(1888年)7月11日に広島県佐伯郡鹿川村に生まれる。その後、養子として親戚の津田氏に入籍した。 大正9年(1920年)10月、広島市広瀬町において、従来の手押しポンプを改良・考案し、合資会社・津田式ポンプ製作所を設立し「津田式ポンプ大臣號」と名付けたポンプの製造販売を行った。「菱形の中に大臣」の商標を使用した。 専売特許などを自身が持つ約30種以上の各種ポンプ製造に従事した。また地下水に含まれる塩分を薬品を用いずに完全に除去する機能を持つ浄水ポンプを発明、特許を取得した。
阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月… 阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月 - 昭和19年(1944年)3月5日)は、日本の実業家、サカタインクス創業者。俳人。大中寅二は女婿、阪田寛夫は孫、大浦みずきは曾孫にあたる。 阪田家は、代々紺屋の屋号で安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた。恒四郎の父・林助は少年期に大坂へ出て幕府御用商の銅精錬所に奉公。恒四郎は大坂で生まれるが文久元年(1861年)、父の帰郷と共に4歳から広島忠海で育つ。23歳で広島県豊田郡役所に書記として採用される。恒四郎の次男・阪田素夫(阪田寛夫の父)他、のちに家業を継ぐ五男のうちの3人はいずれも忠海生まれ。明治28年(1895年)退職して広島市で銀行員となる。