木下 龍也(きのした たつや、1988年1月12日 - )は… 木下 龍也(きのした たつや、1988年1月12日 - )は、日本の歌人。山口県周南市出身。 コピーライター志望だったが、穂村弘の歌集を読んだことをきっかけに2011年より本格的に作歌を始める。雑誌『ダ・ヴィンチ』の穂村弘選の短歌投稿コーナー「短歌ください」に採用されたことで、新聞やラジオへ投稿するようになる。2012年には現代歌人協会主催の第41回全国短歌大会にて大会賞を受賞。2013年、東直子と加藤治郎が監修する書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」から第一歌集『つむじ風、ここにあります』を出版。 2018年には舞城王太郎と岡野大嗣と共著の『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』を出版し、短歌の書籍では異例の発行部数1万部を記録した。
竹中 優子(たけなか ゆうこ、1982年11月22日 - )… 竹中 優子(たけなか ゆうこ、1982年11月22日 - )は、日本の歌人、詩人、小説家。 山口県下関市出身、福岡市在住。早稲田大学第一文学部卒業。 2015年より「未来」黒瀬珂瀾選歌欄に所属。2016年、「輪をつくる」50首で、第62回角川短歌賞を受賞。第1歌集『輪をつくる』を上梓。2022年、『輪をつくる』が福岡市文学賞、第48回現代歌人集会賞、第23回現代短歌新人賞を受賞。 詩人としては、投稿詩により2022年の第60回現代詩手帖賞を受賞。第1詩集『冬が終わるとき』を上梓。同詩集が2023年2月に第28回中原中也賞最終候補となる(受賞は青柳菜摘『そだつのをやめる』)。 2024年、「ダンス」で第56回新潮新人賞を受賞し小説家デビュー。
上村 典子(うえむら のりこ、1958年11月16日 - )… 上村 典子(うえむら のりこ、1958年11月16日 - )は、歌人。 山口県山口市出身。サビエル高等学校を経て、ノートルダム清心女子大学文学部国文学科卒業。高校時代より作歌を始める。1985年、音短歌会に入会。1990年、作品「通過列車の風」50首で第36回角川短歌賞佳作。1991年、作品「貝寄風」50首で第37回角川短歌賞佳作。2005年、歌集『貝母』にて第14回ながらみ書房出版賞を受賞。山口県歌人協会理事を務める。
藤田 三保子(ふじた みほこ、1952年〈昭和27年〉10月… 藤田 三保子(ふじた みほこ、1952年〈昭和27年〉10月31日 - )は、日本の女優、シャンソン歌手、油絵画家、俳人。山口県宇部市出身、ないし山口県大島郡出身。旧芸名及び旧姓は藤田 美保子。 山口県立防府高等学校卒業。身長167cm、B85cm、W63cm、H92cm(1974年1月)。 母親は元新派女優・藤田美代子。父親は美保子が2歳のとき生き別れ。兄がいるが早めに独立し家を出たままで、長く母娘二人で暮らす。学生時代は、陸上競技に水泳、ソフトボールなどのスポーツで体を鍛えた。母の影響で子どもの頃から女優を志した。 高校卒業後、1971年3月8日、大島から俳優を目指して上京する。 歌手・井沢八郎の内弟子などを経て、1973年に文学座付属研究所夜間部に入学する。
大井 恒行(おおい つねゆき、1948年12月15日 - )… 大井 恒行(おおい つねゆき、1948年12月15日 - )は、山口県山口市出身の俳人。 1967年、立命館大学俳句会に入会。赤尾兜子に師事し「渦」に投句、また「俳句評論」句会にも出席。1980年、攝津幸彦らとともに「豈」創刊に参加。1988年、総合誌『俳句空間』(弘栄堂書店)の編集長に就任、1993年まで務める。代表句に「針は今夜かがやくことがあるだろうか」等。2025年、句集『水月伝』により、第80回現代俳句協会賞受賞。「豈」同人。現代俳句協会会員。
宇多 喜代子(うだ きよこ、1935年〈昭和10年〉10月1… 宇多 喜代子(うだ きよこ、1935年〈昭和10年〉10月15日 - )は、日本の俳人。現代俳句協会特別顧問、日本芸術院会員、文化功労者。 「草苑」編集長、「草樹」会員代表、大阪俳句研究会理事、現代俳句協会会長などを歴任した。 山口県徳山市(現:周南市)生まれ。武庫川学院女子短期大学家政学科卒。1953年、石井露月門下の遠山麦浪を知り俳句をはじめる。1962年、麦浪が没し前田正治主宰となった「獅林」に入会。1970年、「草苑」創刊に参加し、桂信子に師事、同誌編集長を務める。1976年から1985年まで坪内稔典編集の「現代俳句」に参加。1978年より「草苑」編集担当となり「獅林」退会。1981年「未定」に参加。
北田 傀子(きただ かいじ、本名:北田 茂(きただ しげる)… 北田 傀子(きただ かいじ、本名:北田 茂(きただ しげる)、1923年(大正12年)5月7日 - 2019年(令和元年)9月)は、日本の自由律俳句の俳人。自由律俳句結社「草原」主宰、月刊随句誌『草原』を発行する随句社社主。前号は千秋子。 山口県大島郡小松町中田(現・周防大島町小松)に生まれる。 1938年に上京し、淀橋区の薬局で働き始めるとともに、夜間学校に入学する。1940年、自由律俳句結社「層雲」に入門。荻原井泉水に師事する。この時の俳号は千秋子。1944年、応召され、広島船舶通信連隊補充隊に配属される。1945年、台北の野戦病院で終戦を迎える。同年、東芝に入社。以降、1983年に定年退職を迎えるまで、途中タイへの出向をはさみつつ、同社に勤務する。
中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月2… 中原 中也(なかはら ちゅうや1907年〈明治40年〉4月29日 - 1937年〈昭和12年〉10月22日)は、日本の詩人・歌人・翻訳家。旧姓は柏村(かしむら)。 代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待されていた。小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟が脳膜炎により病死したことで文学に目覚めた。中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した第1詩集『山羊の歌』および中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や、数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人小説家の翻訳もしている。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
生田 蝶介(いくた ちょうすけ、1889年5月26日 - 1… 生田 蝶介(いくた ちょうすけ、1889年5月26日 - 1976年5月3日)は、日本の歌人、小説家。本名・調介。雑誌に初めて短歌欄を設けた人物である。 山口県豊浦郡長府町(現在の下関市)の田嶋家に生まれる。13歳で京都の叔父の養子となり、生田姓となる。早稲田大学英文科に入学。 1909年、博文館の社員となり、『講談雑誌』を出版した。この雑誌は、日本で初めて雑誌に短歌欄を設けたものだった。1916年、歌集『長旅』を刊行。 1924年には歌誌『吾妹(わぎも)』を創刊する。『聖火燃ゆ』などの小説や批評も発表した。 1976年5月3日没。行年88歳。戒名は皐月院芙氿泉光蝶歌聖禅居士。墓所は青山霊園。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ … 種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。 山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝()と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。 自由律俳句の代表として、同じ『層雲』の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある。
近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年… 近藤 芳樹(こんどう よしき、享和元年5月25日〈1801年7月5日〉 - 1880年〈明治13年〉2月29日)は、幕末から明治時代の国学者、歌人、長州藩士である。本姓は田中、初名は裕。通称は源吾後に晋一郎。字は子潜、真蔭。号は寄居子庵、風月史生等。 周防国吉敷郡岩淵(現・山口県防府市)の百姓・田中源吉の長男として生まれる。猪飼敬所や原古処が周防を訪れた際に教えを受ける。文政6年()上方へ赴き、村田春門に歌学を、本居大平に国学を、山田以文に有職故実を学んだ。その後広島に居住。 天保10年()長州藩主・毛利敬親に召されて萩へ移る。翌年長州藩士近藤家を継承し近藤芳樹と改める。萩で家塾・抄宗寮を開いて弟子を育てる。