倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年… 倉光 藤太(くらみつ とうた、1859年4月26日(安政6年3月28日)- 1935年(昭和10年)7月13日)は、明治から大正期の漁業家、政治家。衆議院議員。幼名・棟太郎。 壱岐国壱岐郡箱崎村(長崎県壱岐郡芦辺町を経て現壱岐市)で、水産業、先代倉光藤太、モトの長男として生まれる。和漢学を修めた。1890年(明治23年)4月、藤太を襲名した。 家業の水産業を継ぎ、その改良発展に尽力した。壱岐実業会副会長に就任。 1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で長崎県郡部区から無所属で出馬して初当選。実業界に専念するため第11回総選挙に立候補しなかったが、1915年(大正4年)3月の第12回総選挙に立憲同志会から出馬して再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
島村 成達(嶋村、しまむら せいだつ、1859年(安政6年1… 島村 成達(嶋村、しまむら せいだつ、1859年(安政6年10月) - 1903年(明治36年)11月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡(のち長崎県下県郡、現・対馬市)生まれ。対馬藩校で学ぶ。小茂田村(のち佐須村→厳原町、現・対馬市)長となる。また、青年団を組織し、対馬の島政に力を尽くした。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎6区から自由党所属で立候補したが1票差で落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党から立候補し34票を獲得、対立候補と同数だったが、島村が年長者のため当選者となった。
西村 規矩(にしむら きく、1858年3月31日(安政5年2… 西村 規矩(にしむら きく、1858年3月31日(安政5年2月17日)- 1903年(明治36年)3月30日)は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・牟田。 肥前国彼杵郡矢上村(長崎県東彼杵郡矢上村、東長崎町を経て現長崎市)で牟田逸馬の二男として生まれる。1877年(明治10年)西村或之助の養子となる。漢籍を修めた。1877年(明治10年)長崎英語学校普通科を卒業。その後上京して、津田仙の学農社で学び、1880年(明治13年)に卒業した。1886年(明治19年)1月、家督を相続。農業、酒造業を営む。西村製糸場を経営し、諫早銀行頭取、矢上教育銀行監査役、大成社取締役なども務めた。
浅田 次郎(淺田、あさだ じろう、1858年(安政5年8月)… 浅田 次郎(淺田、あさだ じろう、1858年(安政5年8月)- 1899年(明治32年)11月14日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡、のちの長崎県東彼杵郡大村(現大村市)で生まれた。漢籍を修めた。 活版印刷業、貿易商を営む。また、長崎米穀石油取引所理事長、長崎新報社監査役、遠洋捕鯨取締役、長崎商業会議所議員などを務めた。 政界では、長崎市会議員、長崎市参事会員、徴兵参事員などを務めた。1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙(長崎県第1区、憲政党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1899年11月に死去した。
川本 達(かわもと とおる、1858年(安政5年2月) - … 川本 達(かわもと とおる、1858年(安政5年2月) - 1940年(昭和15年)1月24日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡府中今屋敷町(のち長崎県下県郡厳原町、現・対馬市)生まれ。漢学を学ぶ。厳原町会議員、下県郡会議員、長崎県会議員、上県郡仁田村(のち上県町、現・対馬市)、下県郡雞知村(のち雞知町→美津島町、現・対馬市)各村長、第百二国立銀行頭取、対馬漁業組合頭取、対馬汽船会社社長となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎6区から中央交渉会で立候補して当選、対立候補とは1票差の11票だった。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。
植木 元太郎(うえき もとたろう、1857年9月19日(安政… 植木 元太郎(うえき もとたろう、1857年9月19日(安政4年8月2日) - 1943年(昭和18年)1月25日)は日本の実業家、政治家。島原鉄道および口之津鉄道(のちに島原鉄道に合併)、温泉軽便鉄道(のちの雲仙鉄道)、小浜鉄道(同)を設立し、島原半島内の鉄道網の整備を進め、のち初代島原市長を務めた。号「鉄狂斎」。 1857年、肥前国高来郡多比良村(長崎県南高来郡多比良町、国見町を経て現雲仙市国見町)で、酒造業を営む植木直平の子として生まれる。肥前鹿島の谷口藍田に漢学を、長崎の中島広行に国学を学んだ。 1874年(明治7年)、父の没後家業を継ぐ。1879年(明治12年)頃から副業として山野の開墾や海面埋め立てにより農地を造成しクワや果樹の栽培を手がけ、養蚕製糸業を営む。
富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年… 富永 隼太(とみなが はやた、1857年7月23日(安政4年6月3日)- 1926年(大正15年)10月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(5期)。 肥前大村藩領彼杵郡大村(長崎県東彼杵郡大村、大村町を経て現大村市)に生まれる。生家は農業を営んだ。幼くして漢学と英学を修めた。1882年(明治15年)から8年間に渡り長崎県会議員を務め、その間、常置委員、徴兵参事員、所得税調査委員、学務委員などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では長崎県第1区から出馬し当選。第3回、第4回、第5回、第6回総選挙でも当選し衆議院議員を通算5期務めた。
伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日〈1857年5… 伊東 巳代治(いとう みよじ、安政4年5月7日〈1857年5月29日〉- 昭和9年〈1934年〉2月19日)は、明治から昭和の日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位勲一等伯爵。 安政4年(1857年)、長崎町年寄・伊東善平の三男として長崎酒屋町で誕生。早くから長崎英語伝習所でグイド・フルベッキに師事して英語を修め語学を修得。明治4年(1871年)に明治政府の工部省の試験に合格して上京、電信技師となったが退職、明治6年(1873年)に兵庫県に六等訳官として登用され、県令神田孝平から目をかけられた。明治9年(1876年)に神田が元老院議官として上京する際に、伊東も再び上京することを決意。
今村 千代太(いまむら ちよた、1857年2月7日(安政4年… 今村 千代太(いまむら ちよた、1857年2月7日(安政4年1月13日)- 1916年(大正5年)1月15日)は、明治期の教育者・銀行家・政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡大村(長崎県東彼杵郡西大村、大村町を経て現大村市)の農家に生まれる。小学校卒業後、長崎県師範学校を卒業した。 小学校訓導、小学校長、中学校教員、学務委員、戸長、郡書記などを歴任した。 政界では長崎県会議員に選出された。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(長崎県第2区、進歩党)で当選し、同年8月の第6回総選挙(長崎県第2区、憲政本党でも再選され、最後は三四倶楽部に所属して衆議院議員に連続2期在任した。 その他、玖島銀行頭取を務めた。
梅野 初実(初實、うめの はつみ、1857年1月26日(安政… 梅野 初実(初實、うめの はつみ、1857年1月26日(安政4年1月1日)- 1938年(昭和13年)11月3日)は、明治期の政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡曽村(長崎県下県郡曽村、仁位村、豊玉村、豊玉町を経て現対馬市豊玉町曽)で、対馬府中藩士・梅野益太郎の長男として生まれる。漢籍を修めた。農業を営み、数年間、教育に従事した。 1885年(明治18年)上県下県両郡総町村連合会議員に就任し、同議長、徴兵参事員を務めた。その他、村会議員、同議長にも在任。1889年(明治22年)対馬民党を組織し、同年、長崎県会議員に選出され6期在任した。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に長崎県対馬から憲政本党所属で出馬して初当選。
横田 虎彦(よこた とらひこ、1857年1月13日(安政3年… 横田 虎彦(よこた とらひこ、1857年1月13日(安政3年12月18日)- 没年不詳)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 肥前国高来郡深江村(現:南島原市)で、豪農・横田政八の第五子として生まれる。漢籍を修め、その後、長崎に出てドイツ語を学ぶ。1875年、東京に移り小学校教員、陸軍教導団入団、新聞社創設、政党設立などの活動を行う。1882年、鹿児島に移り法律学を研究して、1885年8月、代言人試験に合格し、鹿児島に事務所を開いた。 1888年、大阪に事務所を移転。大阪市会議員、大阪府会議員、同参事会員、大阪組合弁護士会長などを歴任。また、関西日報、大阪自由新聞を発刊した。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で大阪市選挙区から出馬し当選。
大池 忠助(おおいけ ちゅうすけ、1856年5月24日(安政… 大池 忠助(おおいけ ちゅうすけ、1856年5月24日(安政3年4月21日)- 1930年(昭和5年)2月2日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 対馬国下県郡、のちの長崎県下県郡厳原町(現対馬市厳原町)で生まれる。1875年(明治8年)朝鮮慶尚道釜山に永住目的で渡航した。 旅館業から始めて、回漕業、用達業、不動産業と事業を拡大して財産を築いた。釜山電燈社長、釜山軌道取締役、釜山商業会議所会頭、釜山水産社長、釜山海産物組合長、釜山産業取締役、釜山繁栄会会長、亀浦銀行取締役などを務めた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙で長崎県対馬選挙区から無所属で出馬し、早川鉄冶、浦瀬済之の有力候補と激しい選挙戦を戦い、浦瀬と2票差で当選した。
沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月… 沢山 精八郎(澤山、さわやま せいはちろう、1855年12月11日(安政2年11月3日) - 1934年(昭和9年)3月21日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 肥前大村藩士・沢山熊右衛門の長男として生まれる。長崎広運館にて英学を修める。1899年(明治32年)家督を相続した。島原水電、沢山汽船、沢山兄弟商会、遠洋漁業、九州汽船各社長、長崎銀行頭取、長崎製鉄所取締役などを歴任した。ほか、長崎市名誉参事会員、同市会議員、長崎商業会議所副会頭などを務めた。 1925年(大正14年)長崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1932年(昭和7年)9月28日まで在任した。
宮崎 栄治(みやざき えいじ、1855年7月4日(安政2年5… 宮崎 栄治(みやざき えいじ、1855年7月4日(安政2年5月21日)- 1915年(大正4年)1月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(8期)。 宮崎広茂の長男として、肥前福江藩領松浦郡福江村(長崎県南松浦郡福江村、福江町、福江市を経て現五島市)に生まれる。1882年(明治15年)12月、家督を相続する。福江藩校に入り和漢学を修めたのち上京し英学を学ぶ。本業は農業を営んだ。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では長崎県第5区から出馬し当選。第2回総選挙では候補を大坪利晋に譲り、つづく第3回総選挙で再び衆議院議員となる。その後、第4回、第5回、第6回、第7回、第8回、第9回総選挙でも当選し衆議院議員を通算8期務めた。
牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月… 牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月29日)- 1934年(昭和9年)4月29日)は、日本の官僚、政治家、実業家。県知事、衆議院議員。幼名・銑太郎。 肥前国南高来郡島原村新建(現:長崎県島原市)で、島原藩士・牧真成の長男として生まれる。 1875年1月、長崎県等外一等出仕となる。同年2月、福岡県に転じ十五等出仕・地租改正掛に就任。以後、史生、権少属、兼警部心得、少属などを歴任。 1880年4月、太政官に転じ四等属・内務部勤務となる。以後、審理局御用掛、参事院書記生、同議官補、法制局参事官、枢密院書記官などを歴任し、1889年3月に退官した。その後、総武鉄道株式会社の創立委員長となり、1890年1月、会社設立と共に社長に就任し1892年11月まで在任した。
大島 寛爾(おおしま かんじ、1854年1月27日(嘉永6年… 大島 寛爾(おおしま かんじ、1854年1月27日(嘉永6年12月29日)- 1933年(昭和8年)4月24日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員、埼玉県北足立郡浦和町長。 肥前国高来郡堂崎村(のち長崎県南高来郡有家町、現:南島原市)で、佐々木龍潭の三男として生まれ、大島命の養嗣子となる。長南梁、村上仏山から漢籍を学ぶ。その後、長崎の瓊林館で英書を学んだが、学費の工面のため長崎本獄吏員となり、入獄中の丸山作楽とよしみを通じた。1875年、丸山の密書を持参して上京し、職を転々としながら丸山の動きに備えていた。 丸山の陰謀が止むと、東京の茂松法学舎で法律学を学び、1880年、代言人試験に合格して、1882年、浦和町に事務所を開設した。
藤崎 可賛(ふじさき よしすけ、1854年(安政元年9月) … 藤崎 可賛(ふじさき よしすけ、1854年(安政元年9月) - 1906年(明治39年)12月1日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡(のち長崎県下県郡、現・対馬市)生まれ。対馬藩校で学ぶ。小学校教員を経て、雞知村(のち雞知町→美津島町、現・対馬市)長、厳原町(現・対馬市)長となる。また、士族授産所を開き、所長となった。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において長崎6区から国民協会から立候補して1票差で当選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補し34票を獲得、対立候補の島村成達と同数だったが、島村が年長者のため当選者となり、藤崎は落選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。
草刈 武八郎(くさかり たけはちろう、1853年8月12日(… 草刈 武八郎(くさかり たけはちろう、1853年8月12日(嘉永6年7月8日)- 1942年(昭和17年)11月1日)は、明治から大正期の地主・実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・川合。 肥前国松浦郡、のちの長崎県北松浦郡山口村(相浦町を経て現佐世保市)で川合小一右衛門の二男として生まれる。平戸藩校・維新館で学び、1869年(明治2年)から平戸藩砲兵塾で学んだ。1871年(明治4年6月)農業、回漕業・草刈太一左衛門の養子となり、1876年(明治9年)6月、家督を相続した。 実業界では、九十九銀行取締役、平戸貯蓄銀行取締役、長崎県農工銀行取締役、相浦銀行監査役などを務めた。 政界では、1879年(明治12年)山口村会議員に就任。
芦塚 省三(あしづか しょうぞう / せいぞう、1851年(… 芦塚 省三(あしづか しょうぞう / せいぞう、1851年(嘉永4年9月) - 1903年(明治36年)9月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国高来郡諫早村(のち長崎県北高来郡諫早町、現・諫早市)生まれ。漢籍、英語、政治、経済、法律学を学ぶ。養蚕紡績業を営む。1874年の佐賀の乱で長崎警備諫早募兵三番隊副司令として従軍、学区取締、中学校教員、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)助教諭、中学校教諭、小学校長、北高来郡教育会副会長、諫早村会議員、同村長、長崎県会議員、農談会理事となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において長崎2区から立憲革新党所属で立候補して当選した。
志波 三九郎(しば さんくろう、1850年4月16日〈嘉永3… 志波 三九郎(しば さんくろう、1850年4月16日〈嘉永3年3月5日〉 - 1903年〈明治36年〉6月29日)は、日本の政治家。衆議院議員、県知事、長崎県会議長。心形刀流免許皆伝。 肥前国高来郡神代村(現:長崎県雲仙市)で神代鍋島家家臣・中島如幼の三男として生まれ、志波丈之助の養子となる。佐賀藩校・弘道館などで学び、また剣術の修行にも精進した。 1879年、長崎県会議員に選出され、後に県会議長となる。1894年3月、第3回衆議院議員総選挙に長崎県第三区で自由党から出馬し当選。1898年3月の第5回総選挙まで連続3回の当選を果した。 1898年6月、第1次大隈内閣が成立し、翌月、石川県知事に登用された。
中倉 万次郎(なかくら まんじろう、嘉永2年12月22日(1… 中倉 万次郎(なかくら まんじろう、嘉永2年12月22日(1850年2月3日) - 昭和11年(1936年)2月6日)は、明治時代から昭和時代初期にかけての日本の政治家・実業家。 現在の佐世保市吉井町の川崎家に生まれ、幼時に現在の同市世知原町の中倉家の養子となる。 1883年(明治16年)長崎県会議員に選出される。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、北松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦地域)の村長に選ばれた。 その後中央及び地元で長崎県農工銀行取締役頭取、衆議院議員、帝国農会議員、米価調節委員を歴任。 製茶練習所を世知原村内に開設して所長となり現在同地区の名産となっている茶作りの基礎を築いた他、北松浦郡内の道路整備や、当時栄えていた北松炭田からの石炭積み出しを目的とした佐世保軽便鉄道(のち佐世保鉄道、現松浦鉄道西九州線の一部)の設立、平戸島電燈会社の設立など、地域の発展に務めた。
小川 虎一(おがわ とらいち、1850年(嘉永3年9月) -… 小川 虎一(おがわ とらいち、1850年(嘉永3年9月) - 1916年(大正5年)5月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 肥前国彼杵郡長浦村(のち長崎県西彼杵郡長浦村、琴浦村、琴浦町を経て現長崎市)生まれ。大村藩校五教館で学ぶ。長浦村戸長、同村長、長崎県会議員となる。 1894年(明治27)12月、家永芳彦の辞職による第4回衆議院議員総選挙補欠選挙で長崎1区から立候補して初当選した。続く1898年(明治31年)3月の第5回総選挙では立憲自由党公認で立候補して再選した。衆議院議員を2期務め、同年8月の第6回総選挙は不出馬。1916年に死去した。
大坪 利晋(おおつぼ りしん、1848年(嘉永元年2月) -… 大坪 利晋(おおつぼ りしん、1848年(嘉永元年2月) - 1901年(明治34年)2月4日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国松浦郡福江村(のち長崎県南松浦郡福江村→福江町→福江市、現・五島市)生まれ。福江藩育英館で学ぶ。福江藩御秘筆下書役、同側小姓となる。のち、佐賀県神埼郡長、佐賀典獄、会計検査院属を務めた。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎5区から中央交渉会で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して落選した。1901年に死去した。
古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘… 古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘化4年7月11日)- 1914年(大正3年)11月3日)は、幕末の平戸藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国松浦郡平戸村(長崎県北松浦郡平戸村、平戸町を経て現平戸市)で、平戸藩士・吉川右衛門兵衛の長男として生まれる。藩儒の平田貞次郎、楠本瑞山らから漢学を学んだ。慶応2年(1866年)藩校維新館学員に就任。王政復古の際には藩主松浦詮に従って京都に滞在し、明治2年(1869年)藩主の近侍職となった。 廃藩置県後は実業界に転じた。1885年(明治18年)平戸士族授産生産社副社長に就任し、その後同社長に就任。1887年(明治20年)第九十九銀行(現十八親和銀行)取締役頭取に就任し、1902年(明治35年)7月、同頭取を退任。
松尾 巳代治(まつお みよじ、1847年(弘化4年11月) … 松尾 巳代治(まつお みよじ、1847年(弘化4年11月) - 1904年(明治37年)7月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国長崎に生まれる。貿易商と綿花、肥料取引、穀物商を営む。長崎土木(株)社長兼専務取締役、(資)松尾精米所社員、長崎委託、長崎新報、東洋浚渫、長崎米穀株式石油取引所各(株)監査役、長崎商業会議所副会頭を務め、長崎市会議員、長崎県会議員に就任。また、1876年のフィラデルフィア万国博覧会特別会員、長崎港荷受問屋総代を務めた。 1899年、浅田次郎の死去による長崎1区の補欠選挙に立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。
山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(… 山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(弘化3年11月3日)- 1899年(明治32年)12月22日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡、のちの長崎県北高来郡諫早町(現諫早市)で生まれた。郷校で学び、その後、熊本に遊学し漢学、武術を修めた。16歳で帰郷し、佐賀藩の選抜生となり長崎の江戸町英学校で学び、さらに何礼之に師事し英学を修めた。 1868年(慶応4年)戊辰戦争が開戦すると、副島種臣らと長崎に赴き、振遠隊として長崎、島原、大村から隊員を募り、その後、秋田に向かい新政府軍に加わった。 その後、官途には就かず天草、肥前松島、平戸などで採炭事業を営む。
岩崎 小二郎(いわさき こじろう、弘化3年1月10日(184… 岩崎 小二郎(いわさき こじろう、弘化3年1月10日(1846年2月5日) - 1895年(明治28年)6月22日)は、幕末の大村藩士、明治期の大蔵・内務官僚、政治家。県知事、元老院議官、貴族院議員。旧姓・朝山。 大村藩士・朝山松台の二男として彼杵郡下嶽村(現西海市)に生まれる。藩校・五教館に入り松林廉之助に学び、藩内の尊皇攘夷派に加わり活動した。 明治2年6月(1869年7-8月)、民部官に出仕し、大主典兼監督大祐、兼庶務大祐、権少史などを務める。明治4年1月(1871年)から黒田清隆開拓次官に随行しアメリカ合衆国、ヨーロッパを訪問。同年7月から大蔵省留学生としてロンドンで学び、1874年(明治7年)7月に帰国。
山口 新一(やまぐち しんいち、1846年(弘化2年12月)… 山口 新一(やまぐち しんいち、1846年(弘化2年12月) - 1909年(明治42年)11月28日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国高来郡諫早村(のち長崎県北高来郡諫早町、現・諫早市)生まれ。漢学を学ぶ。製糸業を営む。諫早好古館教諭、諫早校校長、長崎県立諫早中学、佐賀県立神埼中学校各校長、長崎県会議員を務めた。また、諫早銀行を創立し、頭取となった。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において長崎2区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1909年に死去した。
松田 源五郎(まつだ げんごろう、1840年5月9日(天保1… 松田 源五郎(まつだ げんごろう、1840年5月9日(天保11年4月8日)- 1901年(明治34年)3月1日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、長崎市会議長。 肥前国彼杵郡、のちの長崎県長崎区(現長崎市)酒屋町の鶴野家で生まれ、貿易業の叔父・松田勝五郎の養子となる。私塾で学び、家業を継承した。 1872年(明治5年)永見伝三郎と共同で金融業・永見松田商会(立誠会社に改称)を設立し、のちに十八銀行に発展させ頭取に就任。その他、小野組長崎支店支配人、東京築地活版製造所取締役、長崎商法会議所会頭、九州鉄道取締役、長崎電灯(のち長崎電気瓦斯)取締役、長崎製氷取締役、九州倉庫取締役、香港ローラ麦粉取締役、長崎貯蓄銀行頭取、石川島造船所(現IHI)監査役、東洋浚渫社長などを務めた。
籠手田 安定(こてだ やすさだ、1840年4月23日(天保1… 籠手田 安定(こてだ やすさだ、1840年4月23日(天保11年3月21日) - 1899年(明治32年)3月30日)は、平戸藩士、剣術家、政治家。旧名は桑田源之丞。 滋賀県知事、元老院議官、島根県知事、新潟県知事、貴族院議員を歴任した。心形刀流と一刀正伝無刀流の免許皆伝の腕前を持ち、山岡鉄舟から一刀流正統の証の朱引太刀を授けられた。 平戸藩家臣桑田安親の長男として肥前国松浦郡平戸村(現・長崎県平戸市)に生まれる。先祖に戦国武将の籠手田安昌、籠手田安経、籠手田安一がいる。 平戸藩(松浦静山)伝の心形刀流剣術を学び、免許皆伝を得る。幕末には藩探索方に任じられ京都で情報収集を行う。その傍ら直心影流戸田一心斎(栄之助)の道場に通い、師範代高山峰三郎と面識を持つ。
渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5… 渡辺 昇(わたなべ のぼり 、天保9年4月8日〈1838年5月1日〉 - 大正2年〈1913年〉11月10日)は、日本の官僚・政治家、また剣術家。元は諱を武常と名乗った。号は東民、其鳳。位階勲等は正三位勲一等。兄とともにほぼ同時期に華族に列したが、兄が男爵どまりであったのに対し子爵に叙された。剣道の称号は範士。 肥前国大村に生まれる。江戸の神道無念流剣術道場・練兵館に入門し、桂小五郎の後を受けて塾頭を務める。尊王攘夷、倒幕運動の志士として活動し、坂本龍馬の依頼で薩長同盟を周旋した。明治政府では、大阪府知事、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員を歴任した。また、大日本武徳会商議員を務め近代剣道の発展に尽力し、最初の剣道範士号を授与された。
楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9… 楠本 正隆(くすもと まさたか、1838年4月14日〈天保9年3月20日〉- 1902年〈明治35年〉2月7日)は、肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。 肥前大村藩士・楠本直右衛門正式(60石)の長男として玖島城下の岩船に生まれる。藩校・五教館の監察、頭取を務めた。中老として尊攘倒幕運動で活躍し、渡辺昇ら「大村藩勤王三十七士」の一人として知られる。 1868年(明治元年)、徴士として新政府に出仕。長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役をつとめ、1870年(明治3年)8月)に外務権大丞、1872年(明治5年)5月に外務大丞を経て、同年5月24日に新潟県令として就任する。
渡辺 清(わたなべ きよし、天保6年3月15日(1835年4… 渡辺 清(わたなべ きよし、天保6年3月15日(1835年4月12日) - 明治37年(1904年)12月30日)は、日本の官僚、政治家。元は諱を武勝、通称を清左衛門と名乗った。号は東山。 福岡県令、元老院議官、貴族院議員、福島県知事を歴任した。また華族に列し、男爵に叙された。 肥前国大村に大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。早くから尊王倒幕を提唱。慶応3年には藩内の佐幕派の粛清を藩主に進めるなど弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として活動した。 鳥羽・伏見の戦いの直前、大津から京都に侵攻する旧幕府軍を阻止するために大村藩兵50名を率いて大津に入るが、他藩は出兵を躊躇したために孤立してしまう。しかし、渡辺ら大村藩兵を大軍と誤認した旧幕府軍が大津への進撃を断念したため、京都を挟み撃ちにする旧幕府軍の戦略は挫折し、その事を知った新政府から大村藩は戦後に厚遇を受けることになった。
稲田 又左衛門(稻田 又左衞門、いなだ またざえもん、183… 稲田 又左衛門(稻田 又左衞門、いなだ またざえもん、1834年3月1日(天保5年1月21日)- 1910年(明治43年)3月3日)は、幕末の大村藩家老、明治期の政治家・銀行家。衆議院議員、長崎区長。諱・凞孚。通称・才八郎、東馬、又左衛門。 肥前国彼杵郡大村(現長崎県大村市)で、大村藩士の家に生まれ、19歳で同藩士・稲田中衛の養子となる。藩校五教館で学んだ。1854年(安政元年)中小姓に任じられた。以後、諸稽頭取、近習番頭、御用人、長崎御用懸、家老兼烈山隊参謀、吾往隊大隊長、大村藩権大参事などを歴任。藩主大村純熈を補佐した。 廃藩置県後、西彼杵郡大串村に転居した。第二中学大区取締、第十一大区区長、兼第十三大区区長を歴任。
山田 勝彦 は、日本の政治家。
大石 賢吾 は、日本の政治家、医師、医学者。前長崎県知事(公… 大石 賢吾 は、日本の政治家、医師、医学者。前長崎県知事(公選第20代)。学位は博士(医学)(千葉大学・2018年)。厚生労働省医政局 地域医療計画課 救急・周産期医療等対策室長補佐。無所属。内閣府所管 日本医療研究開発機構 革新基盤創成事業部 事業推進課長などを歴任した。専門は精神医学(発達障害、認知症他)。