河野 隆(かわの たかし、1948年3月23日 - 2017… 河野 隆(かわの たかし、1948年3月23日 - 2017年11月3日)は、日本の篆刻家・書家・教育者。大東文化大学文学部書道学科名誉教授。号・鷹之。室号は晨風廬。 大分県臼杵市生まれ。生井子華に師事。日展会員、読売書法会常任理事、全日本篆刻連盟会長、大東文化大学書道科教授、国立台湾芸術大学客員教授、西泠印社名誉社員、中国芸術研究院中国篆刻芸術院研究員を歴任。 2017年11月3日、肺癌のため死去。
井脇 ノブ子(いわき ノブこ、1946年2月11日 ‐ )は… 井脇 ノブ子(いわき ノブこ、1946年2月11日 ‐ )は、日本の教育者、政治家。 衆議院議員(1期)、自由民主党女性局次長、学校法人理事長、国民の祝日を祝う会理事、志帥会参与などを歴任。 愛称はノブ姉。著名な親族として政治家の大江康弘(井脇の甥の嫁が大江の親戚)、競泳選手の谷川禎次郎、ダイノジの大谷ノブ彦がいる。 漁師の9人兄妹の末っ子として、大分県南海部郡東中浦村梶寄(現佐伯市鶴見梶寄浦)で誕生。男勝りな性格から金太郎というあだ名が付けられた。 家は決して裕福ではなく、毎日朝4時から海に潜り、アワビやサザエを採取して市場で売り家計を助けていた。水泳の上達はその賜物である。小学校のときには厚生大臣になるという夢を持つ。
本郷 公威(ほんごう こうい、 1926年(大正15年)11… 本郷 公威(ほんごう こうい、 1926年(大正15年)11月26日 - 1991年(平成3年)3月31日)は、昭和期の教育者、政治家。日本社会党衆議院議員(1期)。 大分県直入郡白丹村(久住町を経て現竹田市)出身。1947年(昭和22年)大分師範学校卒。大分県内で小中学校の教員を務め、1972年(昭和47年)大分県教職員組合委員長となる。教職員の待遇改善、教育問題の解決に努め、日の丸・君が代反対運動などを推進した。 1979年の第35回衆議院議員総選挙で大分1区から日本社会党公認で立候補して当選。この選挙で大分1区では同じ社会党から村山富市も当選し、2名当選した。翌年の第36回衆議院議員総選挙で落選した(同選挙では村山も落選した)。
二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月… 二宮 武夫(にのみや たけお、1911年(明治44年)12月18日 – 1983年(昭和58年)1月20日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。衆議院議員。旧姓・松田。位階は正五位。 大分県大分郡石城川村高崎(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町高崎)で、松田克馬の三男として生まれる。1932年(昭和7年)大分県師範学校専攻科を卒業。大分県下の小中学校教員を務めた。この間に二宮家の養子となる。 戦後、組合運動に加わり、1948年(昭和23年)大分県教職員組合書記長、1949年(昭和24年)同教組執行委員長に就任。その他、憲法擁護大分県会長、バレーボール大分県協会会長などを務め、1951年(昭和26年)大分県議会議員に当選して3期在任し、大分県地方労働委員にも就任した。
佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 199… 佐藤 初重(さとう はつえ、1902年2月19日 - 1997年2月25日)は日本の幼児教育者。 1902年(明治35年)大分県直入郡(現・竹田市)の漢学者の家に一人娘として生まれる。17歳のときに医師を志して上京し、高等女学校を経て東京女子医学専門学校に入学するが、体をこわして中退する。青山女学院家政科に移り、そこで幼児教育を生涯の仕事と定め、夜間には東京府教育会附属幼稚園保姆傳習所に通って1923年(大正12年)に卒業する。千駄ヶ谷の幼稚園、ついで阿佐ヶ谷幼稚園に勤めたのち、1936年(昭和11年)に柿ノ木坂幼稚園を設立、1942年(昭和17年)には園長に就任した。幼稚園の運営のかたわら後進の育成にも力をそそぎ、1954年(昭和29年)には原宿高等保育学校(現・草苑保育専門学校)を設立して校長に就任、東洋英和女学院短期大学と青山学院大学の講師も長年にわたって務めた。
北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月1… 北村 清士(きたむら せいし、1887年〈明治20年〉7月17日 - 1980年〈昭和55年〉4月4日)は、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)出身の教育者・郷土史家。竹田市立図書館館長、別府大学文学部講師。竹田市名誉市民。 1887年(明治20年)7月17日、大分県直入郡竹田町(現・竹田市)の旧士族の家に生まれ、1908年(明治41年)に大分師範学校(大分大学学芸学部の前身)を卒業した。1916年(大正5年)に文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験に合格し、鹿児島県、大分県、東京府で中等学校の教諭や校長を務めた。 第二次世界大戦後に竹田町に帰郷し、1953年(昭和28年)に竹田市立図書館の館長に就任した。
松原 一彦(まつばら かずひこ、1881年〈明治14年〉4月… 松原 一彦(まつばら かずひこ、1881年〈明治14年〉4月3日 - 1966年〈昭和41年〉2月18日)は、明治末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 大分県速見郡、のちの北由布村(由布院村、由布院町、大分郡由布院町、湯布院町を経て現由布市)で、北由布村長を務めた松原達の長男として生まれ、親類で漢学塾を営む松原孫作の養子となる。1902年(明治35年)大分県師範学校を卒業した。 玖珠郡戸畑小学校勤務、同郡野上尋常高等小学校長を務め、1907年(明治40年)旅順尋常高等小学校訓導、同第二尋常高等小学校長を歴任。南満州教育会の創立に参画し常任理事に就任。1915年(大正4年)広島高等師範学校教育学科研修生となる。
吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月1… 吉丸 一昌(よしまる かずまさ、1873年(明治6年)9月15日 - 1916年(大正5年)3月7日)は、日本の作詞家、文学者、教育者。代表作は「早春賦」など。東京府立第三中学校教諭、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。大分県北海部郡海添村(現・臼杵市海添)出身。 日本基督教団の牧師で讃美歌第二編の委員長の藤田昌直の実父。 大分県の旧臼杵藩下級武士・吉丸角内の長男として生まれる。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年、大分県立大分中学校(のち大分県立大分上野丘高等学校)を経て1894年、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)に進学する。
廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5… 廣池 千九郎(広池 千九郎、ひろいけ ちくろう、1866年5月13日〈慶応2年3月29日〉 - 1938年〈昭和13年〉6月4日)は、日本の法学者、歴史学者、教育者、宗教家。法学博士。モラロジーの提唱者。道徳科学研究所、学校法人廣池学園の創立者。早稲田大学講師、神宮皇學館教授、天理教教育顧問を歴任。号は鵬南、扇城、西海、蘇哲、幹堂など。 慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校の中津市学校に学ぶ。歴史家として論文と書物を著したのちに法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館教授となる。当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日に東京帝国大学から法学博士号を取得する。
吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年… 吉田 嘉三郎(よしだ かさぶろう、1861年 - 1894年9月6日)は、日本の洋画家、教育者。 豊前国下毛郡(現・大分県中津市)で、代々中津藩の御用絵師を務めた晴野家に生まれる。幼少の頃より日本画を学び、中津市学校卒業後、1877年に京都の田村宗立が主宰する明治画学館に入門。 1881年第2回内国勧業博覧会に大分県を代表する洋画家として出品し、同年帰郷して母校中津市学校の助教諭となる。これと時期を前後して吉田家の養子となる。1882年第1回内国絵画共進会、1884年第2回内国絵画共進会に出品。 中津市学校廃止により、1886年上京し、本多錦吉郎の西洋画塾彰技堂に入門するが、同年9月福岡県尋常師範学校の助教諭に着任。
宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年1… 宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年12月6日)- 1908年(明治41年)2月2日)は、明治期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡中津町(現中津市)で生まれる。藩儒・橋本塩巌に師事し漢籍を修めた。さらに中津市学校で英学、数学、法学、経済学を学んだ。千葉県中学校(現千葉県立千葉中学校・高等学校)助教諭を経て、同県成田英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)長に就任した。 帰郷して1877年(明治10年)亦一社を設立して自由民権運動に加わり、1879年(明治12年)国会開設請願運動を展開し、翌年元老院に提出した。亦一社の解散後、大分県下毛郡視学に就任。
須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6… 須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6年1月6日) - 1928年(昭和3年)6月23日)は、明治期の教育者。師範学校校長を歴任。 豊前国中津生まれ。藩校進脩館で学び塾長になり、慶應義塾に入り五等に進級する。1876年(明治9年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中学師範学科の嘱託教授、1879年(明治12年)より1881年(明治14年)まで同校訓導を嘱された。1882年(明治15年)時事新報に入社。1884年(明治17年)より福岡県の中学校一等教諭として豊津中学校在勤、1885年(明治18年)に福岡師範学校校長兼教諭に任じられた。翌年の学制改革に伴い、1887年(明治20年)に師範学校教育科の教員免許を正式に授与され、一時的に文部省雇として学務局兼編輯局詰を経て、1888年(明治21年)に神奈川県尋常師範学校教諭に任じられた。
荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘… 荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘化4年10月1日) - 1922年(大正11年)4月30日)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。 長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任して大番頭といわれた。海員掖済会や日本勧業銀行、満鉄等の創立にも携わり、三菱商業学校(明治義塾)校長、三菱工業予備学校所長として三菱社員の教育にあたった。勲四等旭日小綬章、賜・銀杯一組。 弘化4年(1847年)、豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に、百石の世禄を食む臼杵藩士の儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれる。
福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1… 福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1847年 - 1900年)は、日本の教育者、実業家。中津藩士で、旧名は和田慎二郎(慎次郎)。江戸幕府によるイギリス留学(慶応二年幕府イギリス留学生)の際に福澤諭吉により福澤姓に改められて名を英之助とし、諭吉の実弟ではないが対外的に弟となった。東京・築地に童蒙学舎を設けたほか、横浜で貿易商を営んだ。 豊前国中津藩(現在の大分県中津市)出身。旧名は和田慎二郎(慎次郎)で、兄の和田克太郎と2人兄弟。 1863年(文久3年)初夏に慶應義塾(鉄砲洲時代)に入塾。また、文久2年4月から慶應2年10月まで福澤諭吉に従い、地理書究理書などを研究したとある。
浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) -… 浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) - 1909年(明治42年)11月14日)は、日本の教育者・英語学者・翻訳家。「慶應義塾仮憲法」制定後の初代慶應義塾長をつとめた。 1845年(弘化2年)、豊前中津藩士浜野覚三の子に生まれ、はじめは丑之助と称す。1864年(元治元年)、福澤諭吉帰郷の際、小幡篤次郎ら同藩の子弟五人とともに福澤に伴われて出府、同年6月に慶應義塾に入塾した。卒業後は教員となり、1874年(明治7年)から1878年(明治11年)までの間、中津市学校の校長として赴任した以外は一貫して慶應義塾に教鞭をとった。中津市学校の校長を辞してのち、再び義塾に戻って、1878年(明治11年)ごろから塾長の任についていたが、1881年(明治14年)1月「慶應義塾仮憲法」の制定により改めてそれにもとづいて初代慶應義塾長に選ばれた。
麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明… 麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明治40年(1907年)4月27日)は、明治時代の日本の教育者、海軍軍人。最終階級は海軍機関大佐。旧名弼吉。 明治前半期に海軍操練所、海軍兵学寮、海軍兵学校、海軍機関学校で機関官養成にたずさわり、10年にわたり機関学校の事実上の校務責任者である校長心得および次長を務めた。 豊前国宇佐神宮社司に生まれる。 元治2年(1865年)4月に慶應義塾に入塾。1869年(明治2年)に出版された『奇機新話』(西洋の機械の紹介)など科学技術の啓蒙書や理科教科書を福沢・小幡などと共に数多く執筆。同年、海軍操練所に出仕し、海軍兵学中教授を経て海軍省六等出仕となり、海軍始に明治天皇が行幸した時に「ピョートル大帝海軍創立ノ事」と題する御前講演を行った。
元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月… 元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月5日) - 1916年(大正5年)3月4日)は、日本の儒学者・法学者・法律家・教育者。東京代言人組合(現・東京弁護士会)会長、東京府尋常師範学校校長、東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人。 1834年(天保5年)、豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)に儒学者元田竹渓の長子として生まれる。維新の際に、藩主の嫡子松平親貴に従って京都に上り、参与広沢真臣に知遇を得て内国事務局書記に任ぜられる。度会府判事に就任し、度会府廃止後に太政官に入り、太政官記録取調掛に任ぜられ、箕作麟祥とともにフランス民法を審議する。 1874年(明治7年)に東京神田に法学塾の「法律学舎」を開設し、フランス法を講授する。