加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治… 加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治37年)12月8日 - 1976年(昭和51年)11月21日)は、日本の洋画家、華族。光風会会員。旧名・島津 久幹。 鹿児島県出身。重富島津家(薩摩島津氏の主要分家)の男爵・島津壮之助の二男として生まれる。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)で大牟礼南島に、東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科で藤島武二に師事。1928年に東京美術学校を卒業。加藤子爵家(元近江水口藩主家、加藤嘉明系)の加藤克明の婿養子となる。 1957年、光風会会員となる。橋口康雄(橋口五葉の甥)や山口長男の上杜会に加わったことや、猪熊弦一郎と三春会をつくったこともある。
島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月3… 島津 忠彦(しまづ ただひこ、1899年(明治32年)8月30日 - 1980年(昭和55年)5月12日)は、昭和期の日本の実業家、政治家、華族(男爵)。貴族院男爵議員、参議院議員(2期)。重富島津家第8代当主(越前島津家第23代当主)。 鹿児島県鹿児島市清水町出身。男爵・島津壮之助の長男として生まれる。父の死去に伴い、1925年(大正14年)4月15日、男爵を襲爵した。 鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制) を経て、1923年(大正12年)成蹊実業専門学校本科を卒業。三菱銀行に勤務(約10年間)。以後、三和電機社長、鈴木商店代表者、鹿児島製紙興業社長などを務めた。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。
島津 長丸(しまづ ながまる、1871年10月31日〈明治4… 島津 長丸(しまづ ながまる、1871年10月31日〈明治4年9月18日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月1日)は、明治から大正にかけての華族(男爵)。島津氏一門・宮之城家16代当主。島津久治の長男。貴族院議員を務めた。 1871年(明治4年)、宮之城家第15代当主島津久治(島津図書)の長男として鹿児島に生まれる。生後間もない1872年(明治5年)1月に父が急逝したため、同年1月10日に家督を継ぐ。大龍小学校を経て、1895年(明治28年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業。1896年(明治29年)鹿児島高等中学造士館廃止のため高等中学造士館本科から学習院へ転学。 1896年(明治29年)、鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校を創立した。
千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年… 千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年8月28日)- 1943年(昭和18年)2月18日)は、日本の陸軍軍人、政治家、華族。陸軍少将、貴族院男爵議員。
川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年… 川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年8月8日)- 1926年(大正15年)9月4日)は、明治時代から大正時代の華族(男爵)、実業家、発明家。現在の株式会社KTKの創業者。 薩摩国鹿児島郡塩屋町(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて、後に男爵となる薩摩藩士の川崎祐名の長男として生まれる。 1875年、横浜に住んでいた英国人のワッソン女史方に寄留して英語を習得した。16歳の頃に寛美と改名する。19歳で大学予備門の1級生から外務省御用掛となった。この頃激務の余暇に、のちに子爵となる曽根荒助からフランス語を学んだ。22歳でロンドンの日本公使館の会計主任となる。1886年、官制改革で交際官試補となり、1887年にはパリの日本公使館会計主任に転じた。
大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6… 大久保 利和(おおくぼ としなか、1859年8月5日〈安政6年7月7日〉- 1945年〈昭和20年〉1月20日)は、日本の実業家、政治家、華族。貴族院侯爵議員。位階・勲等・爵位は正二位勲三等侯爵。通称は彦熊、彦之進。 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で、大久保正助(利通)と満寿子夫妻の長男として生まれる。1871年(明治4年)、岩倉使節団に随行して渡米し、普通学研修のためフィラデルフィアの中学校に入学。1874年(明治7年)に帰国して開成学校に入学した。 1878年(明治11年)、19歳の時に父・利通が紀尾井坂の変で暗殺される。同年、父の勲功により華族に列し、1884年(明治17年)7月7日に侯爵を叙爵。
有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年… 有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年1月26日〉- 1909年〈明治42年〉12月6日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。幼名は新之丞。 薩摩藩士、簗瀬新八の二男として生まれ、有馬純晴の養嗣子となる。戊辰戦争に従軍し、1869年(明治2年)、賞典禄6石を受ける。 1874年(明治7年)11月、海軍兵学校(海軍兵学寮、2期)を首席で卒業し、少尉補任官。1884年(明治17年)12月、「筑波艦」砲術長となり、以後、「天龍艦」副長、「摂津艦」副長、「扶桑艦」副長、「天城」艦長、「武蔵」艦長、「天龍」艦長心得兼海兵教官、海軍参謀部第2課長、佐世保鎮守府海兵団長を歴任。
川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年… 川村 景明(かわむら かげあき、1850年4月8日〈嘉永3年2月26日〉- 1926年〈大正15年〉4月28日)は、日本の陸軍軍人、華族。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官等を歴任した。官位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級子爵。 薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男として薩摩に生まれ、後に川村新左衛門景尚の養子となり川村家を継ぎ、川村源十郎と名乗る。薩英戦争・戊辰戦争に従軍、1869年(明治2年)4月、薩摩藩歩兵第1大隊第1小隊小頭に就任。 1871年(明治4年)4月に上京し同7月から御親兵付・陸軍軍曹として明治新政府に仕える。1872年(明治5年)7月、陸軍少尉・近衛歩兵第2大隊付となり、翌年、陸軍中尉に進む。
伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士… 伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、華族。諱は季靖。通称は龍右衛門、後に正治。正三位勲一等伯爵。家紋は宝結び。 戊辰戦争の白河口の戦いでは、わずか700の兵で、4倍弱にあたる2500名の幕府軍を撃破したことなどにより、「類いまれな軍略家」などという異名がある。また、片眼と片脚が不自由がなのにも関わらず新政府軍参謀として活躍したことにより、「薩摩の山本勘助 」などという異名もある。 薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。幼名は竜駒。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。