真喜志 康永(まきし やすなが、1960年5月3日 - )は… 真喜志 康永(まきし やすなが、1960年5月3日 - )は、元プロ野球選手(内野手)・野球指導者(コーチ)である。選手としては近鉄バファローズに所属した。
沖縄県:112人
真喜志 康永(まきし やすなが、1960年5月3日 - )は… 真喜志 康永(まきし やすなが、1960年5月3日 - )は、元プロ野球選手(内野手)・野球指導者(コーチ)である。選手としては近鉄バファローズに所属した。
赤嶺 賢勇(あかみね けんゆう、1958年5月20日 - )… 赤嶺 賢勇(あかみね けんゆう、1958年5月20日 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手(投手)。 沖縄・豊見城高時代には、栽弘義監督の指導を受けて1年秋に県大会優勝、九州大会は準決勝で門司工に延長11回完投するもサヨナラ負け。1975年の選抜大会に出場し、初戦でその夏に甲子園優勝をとげた習志野高校を完封、準々決勝では、結果的に準優勝だった東海大相模高校に対して9回裏2死無走者(2死目は原辰徳から見逃し三振を奪った)までリードを保ち、そのあと津末英明からの被安打をきっかけに敗北したが、この大会の活躍で全国的に注目を浴びる投手となった。夏は県大会ベスト4、秋も県大会連覇すると九州大会では柳川商の久保康生に投げ勝つなど準優勝。
糸数 勝彦(いとかず かつひこ、1958年3月22日 - )… 糸数 勝彦(いとかず かつひこ、1958年3月22日 - )は、沖縄県国頭郡恩納村出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 石川高校ではエースとして、1年秋は県大会決勝で興南高の前泊哲明と投げ合うが敗れ、2年夏は南九州大会決勝まで進むが敗れた。秋は県大会決勝で下地勝治(広島)を擁する豊見城高に敗れる。1975年夏の甲子園に出場。1回戦で新潟商を降すが、2回戦で浜松商の高林基久に9回裏、大会初の逆転サヨナラ本塁打を喫し敗退。 1975年のドラフト2位で太平洋クラブライオンズに入団。オープン戦は出場したが、5年間で一度も一軍で登板することができず、1980年限りで引退した。速球、カーブを武器とした。
友寄 正人(ともよせ まさと、1958年1月26日 - )は… 友寄 正人(ともよせ まさと、1958年1月26日 - )は、元セントラル・リーグのプロ野球審判員。沖縄県出身であり、同県出身のセ・リーグ審判員第1号である。(同県出身者では、パ・リーグの砂川恵玄審判が第1号である。)現役を引退した2013年シーズンまでの審判員袖番号は22。 小禄高校、沖縄国際大学を経てビル・キナモン審判学校卒業。 自身には野球のプレイ経験は中学の1年足らずだが、小5の頃から審判に興味を持っており、小禄高校時代に沖縄県野球連盟に審判志願した。大学2年生の時には既に、高校野球沖縄県大会の審判員を任されるほどであった。大学時代に神原中で2年間監督を務めていた。本人曰く、少年時代は指揮者になりたかったという。
前泊 哲明(まえどまり てつあき、1957年10月17日 -… 前泊 哲明(まえどまり てつあき、1957年10月17日 - )は、沖縄県西表島出身の元プロ野球選手(投手)。
伊志嶺 吉盛(いしみね よしもり、1953年11月23日 -… 伊志嶺 吉盛(いしみね よしもり、1953年11月23日 - )は、沖縄県石垣市出身の高校野球指導者である。 石垣島の沖縄県立八重山農林高等学校から本島の沖縄大学に進み、準硬式野球部に所属し全国制覇。 帰島して1978年に沖縄県立八重山商工高等学校の監督に就任した。一度引退したが、石垣市の野球部監督派遣事業に伴い、2003年春に同校監督に復帰。 2006年春のセンバツに初出場し、同年夏の甲子園にも初出場。春夏連続出場を果たし全国最南端高校の偉業と注目された。主力であった大嶺祐太らを小学生時代から指導していた。そのため入学時から期待されていた世代だったが、選手のほとんどが同じ石垣島育ちの幼馴染で競争意識が無く、朝練を休んだりサボったりとのんびりした性格が災いし当初は勝ちきれずにいた。
上田 正則(うえだ まさのり、1952年8月26日 - )は… 上田 正則(うえだ まさのり、1952年8月26日 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手(投手)。 那覇商業高では、2年生からエースを任された。 沖縄大学では、1972年と1973年に全国大学準硬式野球選手権大会で全国制覇を達成。1974年にドラフト外にてロッテオリオンズに入団した。翌1975年に上田と同じくロッテに入団した池畑満也と共に準硬式野球の中心選手だった。 変則的なフォームから速球とカーブを投げ分ける投球が持ち味だったが、一軍公式戦の出場がないまま1976年に退団した。 その後、沖縄県唯一の女子硬式野球クラブ、沖縄ティーダバルの監督を務めた。 2015年からは、沖縄県還暦野球連盟の「琉球ベースボールクラブ」で投手として活躍中。
池畑 満也(いけはた みつや、1952年4月11日 - )は… 池畑 満也(いけはた みつや、1952年4月11日 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手(外野手)。 浦添高から沖縄大学に進学。大学時代は、1972年と1973年に全国大学準硬式野球選手権大会で全国制覇を達成。1975年オフに、ドラフト外でロッテオリオンズに入団。 1974年に池畑と同じくロッテに入団した上田正則と共に準硬式野球の中心選手で、自身は4番打者を務めていた。 粗けずりながら将来の大物と期待されたが、一軍公式戦の出場がないまま在籍1年で退団した。
我喜屋 優(がきや まさる、1950年6月23日 - )は日… 我喜屋 優(がきや まさる、1950年6月23日 - )は日本の野球選手(外野手)、野球監督、教育者。沖縄県島尻郡玉城村出身で、2007年より興南高等学校野球部監督を務める。
安仁屋 宗八(あにや そうはち、1944年8月17日 - )… 安仁屋 宗八(あにや そうはち、1944年8月17日 - )は、沖縄県那覇市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家・ラジオパーソナリティ。
栽 弘義(さい ひろよし、1941年5月11日 - 2007… 栽 弘義(さい ひろよし、1941年5月11日 - 2007年5月8日)は、沖縄県糸満市出身の高校野球指導者。長男は自由ケ丘高等学校監督の赤嶺琢。 1941年、沖縄県糸満市に生まれる。4歳のときに沖縄戦に遭遇し、3人の姉を失い、自らも背中に重傷を負った。高校時代は糸満高校野球部に所属。 当時、夏の甲子園は現在のような一県一代表制は採用されておらず、夏の沖縄大会で優勝しても、九州の学校との決定戦に勝たないと甲子園に出場できなかったため、沖縄勢にとって、甲子園出場は至難であった。しかし、栽が2年生だった1958年夏は、夏の甲子園が第40回の記念大会を迎え、特別に一県一代表制を採用したことから、沖縄大会優勝校が甲子園に出場できることとなった。
山川 穂高 は、沖縄県那覇市出身のプロ野球選手(内野手)。右… 山川 穂高 は、沖縄県那覇市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。