佐藤 宏志(さとう ひろし、1977年8月11日 - )は、… 佐藤 宏志(さとう ひろし、1977年8月11日 - )は、元プロ野球選手(投手)。
亜細亜大学:90人
佐藤 宏志(さとう ひろし、1977年8月11日 - )は、… 佐藤 宏志(さとう ひろし、1977年8月11日 - )は、元プロ野球選手(投手)。
中須賀 諭(なかすか さとし、1977年6月22日 - )は… 中須賀 諭(なかすか さとし、1977年6月22日 - )は、社会人野球選手(投手、右投げ右打ち)。JR東海所属。175cm、75kg。背番号11。
塩屋 大輔(しおや だいすけ、1976年9月6日 - )は、… 塩屋 大輔(しおや だいすけ、1976年9月6日 - )は、大阪府豊中市出身の元プロ野球選手(投手)。
金谷 則幸(かなや のりゆき、1976年7月7日 - )は愛… 金谷 則幸(かなや のりゆき、1976年7月7日 - )は愛知県出身の元社会人野球選手、野球指導者。 名古屋市立今池中学校時代には「東山クラブ」に所属。 豊田大谷高校では2年夏に1年上のエース平田洋を擁して県大会ベスト4まで進出。亜細亜大学に進学、1年秋から外野手としてもリーグ戦に出場。4年次に井端弘和の後を受けて二塁手に定着すると4年春秋でリーグ優勝、ベストナイン。 同期には同郷の赤星憲広がいた。その後はJTに入社、第75回都市対抗野球大会ではベスト4に進出して優秀選手。チームの休部で地元のJR東海に移籍、ここでは大学からJTを通じて1年後輩であった中須賀諭と再びチームメイトになった。引退後はコーチを務める。
豊田 浩之(とよた ひろゆき、1976年6月1日 - )は日… 豊田 浩之(とよた ひろゆき、1976年6月1日 - )は日本の高校野球指導者。 亜細亜大学では、4年時に正捕手として1年下の佐藤宏志、2年下の吉川昌宏とのバッテリーで春秋リーグ戦優勝に貢献。同期に赤星憲広、1年上に井端弘和、飯塚智広がいる。石川県の北陸大谷高校でコーチとして4年間指導。 その後は母校の岩倉高校に着任。コーチ、監督を務め、2010年からは部長、2014年からは再び監督を務めている。現在では同校の生徒指導部長も務めている。
赤星 憲広(あかほし のりひろ、1976年4月10日 - )… 赤星 憲広(あかほし のりひろ、1976年4月10日 - )は、愛知県刈谷市出身の元プロ野球選手(外野手、右投左打)、野球解説者、野球評論家、タレント。妻はタレントの徳原恵梨。マネジメント契約は株式会社オフィスS.I.Cである。 赤星曰く、幼少期から運動神経が良く、刈谷市立住吉小学校時代には野球以外のスポーツで誰かに負けたことがなかった。特に足の速さに関しては幼稚園に入園する頃にはすでに自覚があり、誰かに負けた記憶がないという。ただし努力をしなくてもあらゆるスポーツで負けることがないことで「何をやっても面白くない」、何をやってもうまくいくがゆえに「逆に自分は何をするべきなのか、何をやると一番楽しいのかということがわからない」心境に陥っていた。
飯塚 智広(いいづか ともひろ、1975年9月28日 - )… 飯塚 智広(いいづか ともひろ、1975年9月28日 - )は、千葉県鎌ケ谷市出身の社会人野球選手・コーチ・監督(外野手)。左投左打。 二松学舎沼南高校から亜細亜大学に進学。高校では主戦投手として2年春の県大会優勝、夏も県大会決勝に進出、のちに甲子園で準優勝する拓大紅陵に1-2で敗退した。3年春も県大会準優勝で2年連続で春季関東大会に出場。大学で外野手に転向し、井端弘和とともに1・2番を打った。東芝の安田真範とは高校でバッテリーを組み、大学でも同期生である。東都大学リーグ1部リーグ通算80試合出場、272打数79安打、打率.290、3本塁打、37打点。ベストナイン2回。2年春のみ2部リーグで12試合出場、47打数22安打、打率.468、0本塁打、8打点で首位打者。
安田 真範(やすだ まさのり、1975年9月17日 - )は… 安田 真範(やすだ まさのり、1975年9月17日 - )は、日本の社会人野球選手(捕手、指名打者)である。現役時代は東芝に所属していた。 常盤松中で工藤友也とバッテリーを組んだ。二松學舍附属沼南高校に進むと飯塚智広が同級生にいて、高校2年次の夏に県大会で準優勝する。亜大 では4年春に好リードで東都リーグ優勝に貢献し、全日本大学選手権では準優勝している。同年の日米大学野球代表に飯塚らとともに選ばれ、秋季リーグ戦では初のベストナインを受賞した。1部リーグ通算25試合出場、75打数20安打、打率.267、2本塁打、8打点。 大学卒業後は平馬淳らと東芝府中に入社。1年目の1998年からリード面などを評価されてスタメンで起用され、都市対抗では新日鐵名古屋との1回戦で2ランホームランを放っている。
工藤 友也(くどう ともや、1975年5月1日 - )は、千… 工藤 友也(くどう ともや、1975年5月1日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 千葉県流山市立常盤松中では後にアジア大会の主将を務めるなどアマチュアで活躍する安田真範(亜細亜大学 - 東芝)とバッテリーを組む。 湖北高3年夏の県大会は市立船橋にコールド負けするも、1993年ドラフト5位で中日ドラゴンズに入団。187cmもの巨体から繰り出される140km/hを超える速球を武器に期待されていた。 しかし、1年目の1994年は肘の故障により、一軍はおろか二軍の試合にさえも1試合も登板出来ず、ようやく肘が完治した2年目の1995年も結果を残す事が出来ず、一度も一軍に上がる事がないまま同年限りで戦力外通告を受け、引退した。
中野 栄一(なかの えいいち、1974年10月16日 - )… 中野 栄一(なかの えいいち、1974年10月16日 - )は、神奈川県横浜市旭区出身の元プロ野球選手(捕手)。 横浜高校では2年から一塁手のレギュラーとなり、秋から正捕手。3年春に第64回選抜高等学校野球大会に出場したが、1回戦敗退した。卒業後、亜細亜大学に進学。元阪神タイガースの部坂俊之とは、高校-大学とバッテリーを組んだ。横浜高校・亜細亜大学ともに主将を務める。 大学4年秋、井口忠仁(現・資仁)、澤崎俊和、清水将海らを擁するその年大学選手権優勝校の青山学院大学に勝利し、明治神宮大会に出場。東都大学1部リーグ通算60試合出場、203打数49安打、打率.241、4本塁打、28打点。ベストナイン1回。
部坂 俊之(へさか としゆき、1974年7月15日 - )は… 部坂 俊之(へさか としゆき、1974年7月15日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(投手)。 現役時代の在籍はなかったが、引退後は東北楽天ゴールデンイーグルスで打撃投手やスカウトを務めている。愛称は「ヘサ」。 横浜高校時代の2年次、1992年春にエースとして第64回選抜高等学校野球大会に出場したが初戦敗退を喫した。高校では2学年先輩に鈴木尚典が、同学年に丹波幹雄(途中退部)、中野栄一が、1学年後輩に高橋光信、白坂勝史(ともに中日でも同僚)が、2学年後輩に多村仁志・斉藤宜之・矢野英司・紀田彰一がいた。 1993年に亜細亜大学への進学後は、高校でも同期であった中野とバッテリーを組んだ。
養父 鐵(養父 鉄、ようふ てつ、1973年6月26日 - … 養父 鐵(養父 鉄、ようふ てつ、1973年6月26日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。ルーツ・ベースボールアカデミー代表。 鎌倉市立第二中学校を卒業。帝京第三高等学校時代に山梨選抜アメリカ遠征で7イニング14奪三振を記録。プロの誘いを断り亜細亜大学へ進学。1年上に入来祐作、1年下に部坂俊之らがいてリーグ戦は2試合登板のみ。大学卒業後は、社会人野球・日産自動車で野球を続けたが同期に川越英隆もいて、日本プロ野球から声がかかることはなく、2001年に台湾プロ野球界の誘いを受けて兄弟エレファンツに入団。 27歳にしてプロ野球選手としてデビューする。台湾プロ野球での登録名は養父 鐵。
養父 鉄(ようふ てつ、1973年6月26日 - )は、神奈… 養父 鉄(ようふ てつ、1973年6月26日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球監督。
太田 弘昭(おおた ひろあき、1972年7月28日 - )は… 太田 弘昭(おおた ひろあき、1972年7月28日 - )は、大阪府富田林市出身の高校野球指導者。社会科教諭。 愛媛県立松山商業高等学校では3年生だった1990年に正捕手かつ主将として、夏の愛媛大会決勝で同年春に行われた第62回選抜高等学校野球大会準優勝の新田を延長11回の末に9-8で破って第72回全国高等学校野球選手権大会への出場を果たし、海星(三重)と竜ヶ崎一に勝って3回戦に進出した。大学時代は亜細亜大学硬式野球部でプレーし、同期に入来祐作や沖原佳典がいた。 大学卒業後は母校の松山商、柏原、名古屋産大でコーチを歴任し、2006年8月に京都翔英の監督に就任。それまで夏の京都大会は4回戦が最高成績だった同校を、就任4年目の2010年夏の大会で龍谷大平安や京都学園など初戦から準決勝までの5試合全て甲子園出場経験がある相手を破り決勝に進出した。
沖原 佳典(おきはら よしのり、1972年7月27日 - )… 沖原 佳典(おきはら よしのり、1972年7月27日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・コーチ。
永井 浩二(ながい こうじ、1971年6月2日 - )は、広… 永井 浩二(ながい こうじ、1971年6月2日 - )は、広島県出身の学生野球指導者。 現役時代は捕手としてプレー。広島県立広島商業高等学校時代に甲子園大会出場を経験。亜細亜大学に進学し、高津臣吾の球を受けた。1年下に入来祐作、沖原佳典がいた。 大学卒業後は地元の広島県福山市のNKK(現在のJFE西日本)に入社。ドラフト候補にあがることもあったが、プロ入りは叶わなかった。 1998年から知人の紹介で渡米し、2年間メジャーリーグのニューヨーク・メッツにブルペン捕手兼打撃投手を務めた。 帰国後、クラブチームの浜松ケイ・スポーツBCに入団し、のちに現役引退。 2006年から浜松大学(2013年より常葉大学浜松キャンパス)のコーチに就任。
小池 秀郎(こいけ ひでお、1969年3月18日 - )は、… 小池 秀郎(こいけ ひでお、1969年3月18日 - )は、愛知県尾西市(現:一宮市)生まれの元プロ野球選手(投手)。左投左打。 1990年のドラフト会議における「小池騒動」で知られる人物である。プロ野球選手時代は1993年から1999年、2002年から2004年と、通算10年間にわたってパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の近鉄バファローズ(1999年以降の球団名は「大阪近鉄バファローズ」)に在籍し、1997年シーズンには15勝を挙げてパ・リーグ最多勝投手のタイトルを獲得した。 中学校時代までは愛知県尾西市(現:一宮市)で育った。プロ入り前の『週刊ベースボール』、およびプロ入り前後の『中日スポーツ』では尾西市出身とされているが、後述のドラフト会議で8球団から1位指名を受けた1990年時点では実家は岐阜県羽島市にあり、プロ入り後の選手名鑑に掲載されているプロフィールでは羽島市出身とされている。
川尻 哲郎(かわじり てつろう、1969年1月5日 - )は… 川尻 哲郎(かわじり てつろう、1969年1月5日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督・コーチ・野球解説者。 実家は酒屋を営む。中学から内部進学した日大二高では、1986年夏の西東京大会で準決勝に先発するが、野林大樹のいた日大三高に延長13回サヨナラ負けを喫し、甲子園出場はならなかった。その年の秋に東都大学野球リーグ戦を観て知った亜細亜大学へ進学を希望、既にセレクションが終わっている時期であったが知人の伝手で矢野祐弘総監督に特別に投球を見てもらい、コントロールの良さを買われて入学が決まった。1年から登板の機会があったが同期に小池秀郎、高津臣吾両投手がおり、あまり登板機会には恵まれなかった。
高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 - )は… 高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 - )は、元プロ野球選手(投手)・監督・野球解説者・評論家。広島県広島市南区出身。現在は東京ヤクルトスワローズ二軍監督を務める。
弓長 起浩(ゆみなが たつひろ、1967年7月5日 - )は… 弓長 起浩(ゆみなが たつひろ、1967年7月5日 - )は、大分県東国東郡国東町(現:国東市)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 国東高から亜細亜大学へ進学し同大学硬式野球部所属。大学ではプロでも同僚となる川尻哲郎や小池秀郎、高津臣吾が1年下、2年上に与田剛、同期に黒子孝善らが投手陣にいた。東都大学リーグで通算17試合に登板し3勝3敗。1990年に大学卒業後、社会人野球の熊谷組に入社。入れ替わりでプロ入りしたパンチ佐藤とは大学・社会人で同じ経歴を辿った。1年目の東京スポニチ大会で優勝に貢献し、新人賞。都市対抗野球は1年目に東芝府中の補強選手として登板、2年目は初戦で先発するも敗退。 1991年のプロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから3位指名を受けて入団。
与田 剛(よだ つよし、1965年〈昭和40年〉12月4日 … 与田 剛(よだ つよし、1965年〈昭和40年〉12月4日 - )は、福岡県北九州市八幡東区生まれ、千葉県君津市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・監督、解説者・評論家。東京農業大学硬式野球部アドバイザー。1999年シーズン途中から2000年までの登録名は与田 剛士(読み同じ)。 現役時代は中日ドラゴンズで新人年(1990年)に最高球速157 km/hを記録するなど、抑え投手として活躍。その剛速球は「名前通りの剛球」と呼ばれた。 妻は元TBSアナウンサーの木場弘子。 福岡県北九州市八幡東区で生まれたが、3歳ないし5歳の時に千葉県へ転居した。姉が2人いる。剛の父親は福岡県嘉穂郡桂川町、母親は同県飯塚市の出身であり、父親は剛が出生した当時、八幡製鉄所に勤めていた。
森 昌彦(もり まさひこ、1965年8月25日 - )は、日… 森 昌彦(もり まさひこ、1965年8月25日 - )は、日本の元社会人野球選手(投手)、野球指導者である。アトランタオリンピック野球日本代表ではリリーフを務めた。
パンチ佐藤(パンチさとう、本名:佐藤 和弘(さとう かずひろ… パンチ佐藤(パンチさとう、本名:佐藤 和弘(さとう かずひろ)、1964年〈昭和39年〉12月3日 - )は、神奈川県出身のタレント、元プロ野球選手(外野手・内野手、右投左打)、野球解説者。愛称は「パンチ」。 川崎市立西中原中学校から武相高校へ進学。1982年春季関東大会準々決勝に進むが、関東学園大附高に延長14回敗退。同年夏の甲子園県予選の準々決勝にて、のちにプロで同僚となる高田誠を擁した法政二高に延長10回サヨナラ負けを喫する。 亜細亜大学に進み、同野球部に入部、最終年にはキャプテンを務めた。東都大学野球リーグでは、1年上の3年生エース三原昇の好投もあり1984年春季リーグにて優勝を経験。直後の全日本大学野球選手権大会決勝では、3年生エース西川佳明や秦真司捕手、島田茂、伊吹淳一(のち熊谷組)、若井基安ら強力打線の法大に延長11回惜敗、準優勝にとどまる。
阿波野 秀幸(あわの ひでゆき、1964年7月28日 - )… 阿波野 秀幸(あわの ひでゆき、1964年7月28日 - )は、神奈川県横浜市保土ケ谷区(現:旭区)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、野球解説者・野球評論家。マネジメント契約先はスポーツビズ。 父親が地元の少年野球チームでコーチをしていたその影響から、小学4年生の時から野球を始める。横浜市立鶴ケ峯中学校時代、強豪東海大相模高校からの誘いを受けていたにもかかわらず、相模でやっていく自信が無かったこともあり、あえて公立の横浜市立桜丘高等学校を志望し、塾通いをして文武両道を目指した。桜丘高校では3年夏の神奈川大会4回戦で日大高校(決勝で法政二高に敗れた)に1-2で敗退し、甲子園出場経験はなかった。
古川 慎一(ふるかわ しんいち、1963年7月26日 - )… 古川 慎一(ふるかわ しんいち、1963年7月26日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。 春日部工業高校では投手として2年秋に県大会優勝で関東大会へ進むが準々決勝で印旛高校に敗退。1981年の全国高等学校野球選手権埼玉大会準決勝に進出するが、上尾高校に敗れる。卒業後は亜細亜大学に進学。大学3年から本格的に野手転向。東都大学野球リーグでは1984年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会決勝に進むが、法大に延長11回惜敗、準優勝にとどまる。同年の日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、またロサンゼルスオリンピック日本代表となり、金メダル獲得に貢献した。
鈴木 慶裕(すずき よしひろ、1963年5月21日 - )は… 鈴木 慶裕(すずき よしひろ、1963年5月21日 - )は、東京都大田区出身の元プロ野球選手(外野手)。 武相高では1981年の夏の甲子園神奈川大会で準々決勝に進出するが、日大高に敗退。武相高校では遊撃手だった。高校卒業後の1982年、亜細亜大学へ進学し、外野手に転向する。東都大学野球リーグでは同期三原昇(東芝)、1年下の阿波野秀幸の両エースを擁し、3年時の1984年春季リーグの優勝に貢献。同年の全日本大学野球選手権大会では決勝に進むが、3年西川佳明投手擁する法政大に延長11回法政2年山本貴のサヨナラ本塁打により3-×6で惜敗、準優勝にとどまる。リーグ通算85試合に出場し316打数76安打、打率.241、1本塁打、19打点。
宮本 賢治(みやもと けんじ、1959年9月9日 - )は、… 宮本 賢治(みやもと けんじ、1959年9月9日 - )は、兵庫県神崎郡市川町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。
中田 良弘(なかだ よしひろ、1959年4月8日 - )は、… 中田 良弘(なかだ よしひろ、1959年4月8日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督、野球解説者。 横浜市立平楽中学校から横浜高校に進学し同級生に副島保彦。1年秋は2番手投手ながら県大会準優勝で関東大会でも救援登板したが1回戦で敗退。その後はエースとして同期の佐野クリストとバッテリーを組み、1976年秋季県大会準決勝に進むが、東海大相模高に敗退。翌1977年夏の県大会でも、準々決勝で法政二高に敗れ、甲子園には出場できなかった。1年下のチームメートに遊撃手の吉田博之がいた。 卒業後は亜細亜大学に進んだが1年で中退。日産自動車に在籍していた先輩から誘われて入社。高卒時にも日産から誘いがあったが、亜大のセレクションに参加したところ矢野祐弘総監督が惚れ込んで進学することとなるも部の体質に馴染めずに中退したという。
大石 大二郎(おおいし だいじろう、 1958年10月20日… 大石 大二郎(おおいし だいじろう、 1958年10月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(内野手)、監督、野球指導者、解説者、評論家。1987年から1990年までの登録名は、大石 第二朗(読みは同じ)。
古屋 英夫(ふるや ひでお、1955年8月1日 - )は、千… 古屋 英夫(ふるや ひでお、1955年8月1日 - )は、千葉県富津市出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ。 現役時代は日本ハムファイターズの主力選手として活躍。小柄ながらがっしりした体格で、長打力を持ち合わせていたことからボンバーという愛称で知られた。 富津市で漁師の家庭に生まれる。小学校3年生の時に肋骨にカリエスが見つかって摘出手術を行ない、回復のため父親の勧めで野球を始めた。優れた野球の才能を見せて6年生の頃から中学の練習にも参加し、天羽中学に進むと投手で四番打者を務めている。 複数の高校野球部から誘いを受け、木更津中央高校に進学。高校でも1年生の秋からエース、四番打者となる。1972年夏の甲子園県予選では2回戦で成東高の鈴木孝政と投げ合い、4-5で惜敗。
芦岡 俊明(よしおか としあき、1952年4月11日 - )… 芦岡 俊明(よしおか としあき、1952年4月11日 - )は、山口県岩国市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。右投右打。 岩国工高在学時は強打の内野手として知られたが、甲子園には出場できなかった。1970年のドラフトで大洋から7位指名されるも拒否し、亜細亜大に進学。東都大学野球リーグでは1971年の春季リーグで優勝を経験するが、自身の活躍の場はなく、その後は優勝に届かなかった。リーグ通算50試合出場、135打数18安打、打率.133、1本塁打、7打点。大学同期に林龍郎がいる。 1974年のドラフトでロッテより3位指名を受け入団。入団当初は主に遊撃手として起用されたが、飯塚佳寛の壁を破れず、あまり出場機会はなかった。
長谷川 勉(はせがわ つとむ、1950年9月8日 - )は、… 長谷川 勉(はせがわ つとむ、1950年9月8日 - )は、千葉県富津市出身の元プロ野球選手(投手)。 父は漁師。小学2年生の時から船を漕いで沖へ出ていた。木更津中央高等学校では、1968年の夏の甲子園千葉予選を、高校同期の宇佐美和雄投手との二本柱で勝ち進み、準決勝に進出。千葉商と対戦し、宇佐美が登板したが0-2で惜敗、甲子園への出場を逃した。 亜細亜大学へ進学。東都大学リーグでは1971年春季リーグで優勝を経験するが、1年上に山本和行投手がおり、登板機会には恵まれなかった。4年生の1972年春季リーグで初勝利。リーグ通算10試合に登板し5勝3敗を記録した。 卒業後は日産自動車に入社。1973年の都市対抗にはリリーフエースとして出場、先発の藤田康夫投手とのコンビで勝ち進む。
加藤 初(かとう はじめ、1949年12月20日 - 201… 加藤 初(かとう はじめ、1949年12月20日 - 2016年12月11日)は、静岡県富士市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、野球指導者。 吉原商業高校(1年次は吉原市立、2年次より富士市立)から亜細亜大学に進む。入学早々に膝を悪くし、実家近くの信頼ある鍼灸医の治療をうけ回復した。その帰京の際、亜細亜大学を中退した友人宅へ途中下車して寄り、一泊の予定だったが大学でのシゴキがあったことから三週間も滞在してしまい、復学しづらくなって入学後3ヶ月あまりで中退した。 社会人野球の大昭和製紙へ入社し、4年目にエースとして第42回都市対抗野球大会へ出場。秋の日本産業対抗野球大会では優勝候補の熊谷組を1安打完封して優勝に貢献した。
山本 和行(やまもと かずゆき、1949年6月30日 - )… 山本 和行(やまもと かずゆき、1949年6月30日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者、プロ野球コーチ。
渡辺 弘基(渡邊 弘基、わたなべ ひろき、1947年10月2… 渡辺 弘基(渡邊 弘基、わたなべ ひろき、1947年10月26日 - )は阪急ブレーブス・広島東洋カープに所属したプロ野球選手(投手)。福岡県出身。 日立一高では、1965年にエースとして夏の甲子園東関東予選決勝に進出。銚子商の木樽正明と投げ合うが0-9で大敗し、甲子園には出場できなかった。 亜細亜大学へ進学。東都大学リーグでは在学中に2度の優勝を経験。1年上に森永悦弘、西尾敏征(電電中国)の両投手がおり、4年生時には山本和行が台頭したため、あまり登板機会には恵まれなかった。リーグ通算22試合に登板し3勝6敗。 1969年のドラフトで東映が3位指名するも拒否し、社会人の日産自動車に入社。1970年の都市対抗に本田技研の補強選手として出場する。
内田 俊雄(うちだ としお、1946年11月24日 - )は… 内田 俊雄(うちだ としお、1946年11月24日 - )は、アマチュア野球指導者。元亜細亜大学硬式野球部監督、現・拓殖大学野球部監督。広島県広島市出身。
大橋 穣(おおはし ゆたか、1946年5月29日 - 202… 大橋 穣(おおはし ゆたか、1946年5月29日 - 2025年7月18日)は、東京都新宿区出身(富山県氷見市生まれ)のプロ野球選手(遊撃手)・コーチ・監督。 愛称は「ペロ」(現役時代、打つ時、捕球の時、舌を出す癖があることから)。台湾における表記は大橋 穰(正体字)。 パ・リーグ初の遊撃手部門のダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞している。 中学時代に野球を始めると同時に遊撃手となり、以後ずっと遊撃でプレーする。日大三高では、1年次の1962年に控え内野手として夏の甲子園に出場するが、準々決勝で村上公康のいた西条高に敗れる。2年次の1963年には同期のエース若宮秀雄を擁し秋季東京大会に優勝し、3年次の1964年に行われる春の選抜出場を決める。
岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - … 岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - )は、日本の元アマチュア野球選手(主に内野手)、監督。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之監督の指揮の下、2年生の時、1961年の春の選抜に一塁手として出場。エース矢滝伸高(関大-米子東監督)が準々決勝で敦賀高を相手に延長16回23奪三振の1試合最多記録を達成、準決勝に進むが高松商に敗退した。1962年夏も東中国大会準決勝に進出するが、槌田誠のいた倉敷工に惜敗、甲子園出場を逸する。高校の2期先輩に1960年春の選抜準優勝メンバーの宮本洋二郎、清水賢がいる。 1963年に亜細亜大学に進学、野球部に入部すると同時に中心選手として活躍し、三塁手として出場した。
山田 勝晴(やまだ かつはる)は、静岡県出身の日本の元アマチ… 山田 勝晴(やまだ かつはる)は、静岡県出身の日本の元アマチュア野球選手(内野手)。 藤枝東高等学校を卒業した後に亜細亜大学に進学。東都大学野球リーグでは遊撃手として活躍し、1964年春季リーグで入れ替え戦で国学大を破り、一部リーグへの昇格を果たす。また、翌年の春季リーグにおいて、ベストナインに選ばれた。 大学卒業後は日本楽器に入社。1966年には大昭和製紙に補強され都市対抗への出場を果たした。また、第二十一回選抜社会人野球東京大会では大会優秀選手に選ばれた。同年のドラフト会議でサンケイアトムズに5位指名されたが、入団には至らなかった。翌年に開催された都市対抗に左翼手として出場した。
坂田 松一(さかた しょういち)は、日本の元アマチュア野球選… 坂田 松一(さかた しょういち)は、日本の元アマチュア野球選手(内野手、ポジションは遊撃手)。 筑紫工業高等学校では2年生の時に、1971年夏の選手権で当校において、初の甲子園への出場を果たした。二塁手として出場し、活躍するが、根本隆らがいた銚子商業高校に敗れた。翌年の夏の甲子園県予選の1回戦において、小川一夫らがいた戸畑商業高校に敗れ、甲子園出場を逸する。 高校卒業後は、亜細亜大学に進学。1975年のアジア野球選手権日本代表に選出された。1976年に開催された明治神宮外苑創建・神宮球場竣功50年記念奉納野球試合における東都大学選抜のメンバーにも選ばれた。大学同期に黒紙義弘、竹桝和也らがいる。 1976年のドラフト会議でクラウンライターライオンズに4位指名されたが、入団を拒否し、三協精機に入社した。