木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。
東京芸術大学:1,956人
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。
木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 198… 木下 繁(きのした しげる、1908年4月25日 - 1988年8月4日)は、日本の彫刻家。日本芸術院会員。 和歌山県出身。1928年建畠大夢に師事。帝展に出品、1933年東京美術学校彫刻科卒、1935年同研究科修了、文展に出品、1938年特選、1939年自由学園講師、1947年日展特選、1953年日展審査員、1962年日展評議員、1969年日展文部大臣賞受賞、1970年日本彫塑会理事、1972年武蔵野美術大学教授。1973年和歌山県文化賞受賞、1974年日本芸術院賞受賞、1975年日展理事、1977年日本芸術院会員、1978年日展常務理事、1979年勲三等瑞宝章受章。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
若林 景光(わかばやし かげみつ、1908年2月15日 - … 若林 景光(わかばやし かげみつ、1908年2月15日 - 1994年9月30日)は画家。佐賀県佐賀市出身。長男は洋画家で国画会会員の若林茂熙。次男に洋画家若林夏生。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
笹村 草家人(ささむら そうかじん、1908年2月11日 -… 笹村 草家人(ささむら そうかじん、1908年2月11日 - 1975年9月26日)は、日本の彫刻家。碌山美術館の創建に尽力した。東京市芝区神明町(現・港区浜松町)出身。本名は良紀。歌人・絵師笹村銕熊(号は良水)の長男として生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科を1932年に卒業。同校助教授(1944年(昭和19年) - 1961年(昭和36年))。1959年までは院展に出品。 杉浦重剛の日本中学に学んでその高風に浴した。高村光太郎著「ロダン」(アルス叢書、1927年)に接して彫刻を志望し、東京美術学校彫刻科本科塑像部に進んだが、在学中は、教授の朝倉文夫・北村西望らの作風にはげしく反発した。
長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12… 長谷川 良夫(はせがわ よしお、1907年〈明治40年〉12月22日 - 1981年〈昭和56年〉5月6日)は、日本の作曲家。 作曲を信時潔、クラウス・プリングスハイムに師事。1931年東京音楽学校師範科卒業。1933年同研究科作曲聴講生修了、日本ビクターに所属。1937年、宝塚歌劇団作曲部に所属。1938年ドイツに渡り、ベルリン国立歌劇場でオペラを研究し、1940年帰国。1946年、東京音楽学校作曲科教授に就任。1949年、学制移行により東京芸術大学教授となる。1975年、同大学名誉教授となる。1979年、勲三等瑞宝章を受章。1981年、心不全のため死去。 音楽教育に力を注ぎ、著書に『作曲法教程』『大和声学教程』『対位法』などがある。
伊藤 悌三(いとうていぞう、1907年12月14日 - 19… 伊藤 悌三(いとうていぞう、1907年12月14日 - 1998年9月29日)は、日本の洋画家。 千住吾妻汽船会社(隅田川の一銭蒸気船)を経営の父幸太郎と、写真家江崎礼二の長女八重の三男として浅草山ノ宿町53番地で生まれる。独協中学校の時に画家を志し、1927年(昭和2年)岡田三郎助に師事。1929年(昭和4年)東京美術学校西洋画科に入学。 在学時の1933年(昭和8年)の第14回帝展に初入選し、以後毎年入選。1941年(昭和16年)の第4回新文展には「少憩」を出品し、この年から制定された岡田賞を受賞した。翌年無鑑査となる。1941年(昭和16年)、紀元二千六百年にあたり興亜院より中国各地を取材。
河野 太郎(かわの たろう、1907年(明治40年)11月2… 河野 太郎(かわの たろう、1907年(明治40年)11月27日 - 2000年(平成12年)8月19日)は、日本の美術家。元徳島大学学芸学部教授。東京美術学校図画師範科卒業。大分県出身。 弟に旧大日本帝国海軍将校で潜水艦機関長として真珠湾攻撃に参加した河野克次がおり、その三男で元自衛隊統合幕僚長の河野克俊は甥にあたる。 1929年に東京美術学校図画師範科を卒業後は、鹿児島県女子師範学校(現鹿児島大学)や徳島県女子師範学校で教諭となった。1950年からは徳島大学学芸学部助教授となり、1952年には同大学教授となった。 その後、東光会展に出品し、東光会委員や東光会徳島県支部長を歴任。1977年から1981年まで徳島県美術家協会会長に就任した。
山下 清孟(やました きよはる、1907年9月25日 - 1… 山下 清孟(やました きよはる、1907年9月25日 - 1991年10月6日)は、日本の吹奏楽指導者である。世界的打楽器奏者、ツトム・ヤマシタの父。上京中学校吹奏楽部を創部。生徒には北村源三が所属。 京都府南丹市美山町鶴ヶ岡出身。東京音楽学校選科ピアノ研究科修了。京都市上京中学校教員を勤める。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、音楽関係者(バンド等)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 … 関 種子(せき たねこ、1907年(明治40年)9月18日 - 1990年(平成2年)6月6日)は、昭和期のソプラノ歌手。本名は秋山種子。 岡山県出身。小学生の頃から琴に親しみ、上京後、東京府立第二高等女学校から東京音楽学校に進学。ドイツリートをマルゲレーテ・ネトケ=レーヴェに師事。在学中に結婚し、本科を首席で卒業後、坪内逍遥原作・山田耕筰作曲の歌劇「堕ちたる天女」で楽壇デビュー。クラシックのソプラノ歌手として活躍を始めた。 「堕ちたる天女」の抜粋をコロムビアレコードに吹き込んだのが縁となり、1931年(昭和6年)同社からデビュー。「窓に凭(もた)れて」、「嘆きの夜曲」、「あけみの唄」、「日本橋から」など、主に初期の古賀メロディーをヒットさせている。
杉村 惇 (すぎむら じゅん、1907年9月7日 - 200… 杉村 惇 (すぎむら じゅん、1907年9月7日 - 2001年8月13日) は、東京都出身の日本の洋画家である。 東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科卒。岡田三郎助(帝国美術院会員・第1回文化勲章受章)に学ぶ。本郷洋画研究所に通い、在学中の1930年(昭和5年)に第11回帝展(帝国美術院展覧会)に初入選するなどのあと、1933年(昭和8年)に第1回東北美術展(現河北美術展)で最高賞の河北賞を受賞。その後、戦後の1946年(昭和21年) - 1964年(昭和39年)塩竈で暮らし、数多くの油彩画を描く。 兄は歌人の杉村顕道(宮城県芸術協会理事長・宮城県教育文化功労者・国見台病院理事長)、甥は杉村隆(国立がんセンター名誉総長・日本学士院長・東邦大学名誉学長・鶴岡市名誉市民・武蔵野市名誉市民)
山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13… 山口 薫(やまぐち かおる、1907年〈明治40年〉8月13日 - 1968年〈昭和43年〉5月19日)は、群馬県出身の洋画家。元東京芸術大学教授。 1907年(明治40年)8月13日、群馬県群馬郡箕輪村金敷平(現・高崎市箕郷町金敷平)の大地主山口家で、父彦太郎、母佐登の間に11人きょうだいの末子として生まれる。 箕輪尋常小学校卒業後、旧制高崎中学校(現・群馬県立高崎高等学校)に進む。中学時代の絵日記が、のちに『山口薫中学時代絵日記』として出版されている。絵日記には油絵を描いたり、帝展を見に東京に出かける等の逸話が現れる。4年次に旧制水戸高校理科を受験するも失敗し、5年の冬に上京し当時藤島武二が洋画を指導していた川端画学校で学ぶ。
川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月1… 川本 末雄(かわもと すえお、1907年(明治40年)3月16日 - 1982年(昭和57年))は、熊本県玉名村(現玉名市玉名)出身の日本画家。 現代的解釈による大和絵の世界を展開し、郷里の菊池川周辺の自然風景をモチーフに、現代日本画の新境地を開いた。 1907年(明治40年)、熊本県玉名村に生まれる。旧制玉名中学校(現熊本県立玉名高校)を経て1929年、東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学、1933年卒業。松岡映丘に師事する。1938年の松岡映丘の死去により翌1939年より山口蓬春に師事。 1948年、第4回日展(日本美術展覧会)にて「水辺薄日」が初入選、翌1949年第5回日展で「夕映」特選、1953年第9回日展で「朝の渓谷」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞。
伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 198… 伊勢 正義(いせ まさよし、1907年2月28日 - 1985年11月18日)は、日本の洋画家。 秋田県鹿角郡小坂町出身。1931年東京美術学校西洋画科卒。藤島武二に師事した。1933年の第20回光風会展でK夫人賞を受け、1934年に光風会会員となった。1934年の第15回帝展に出品した「カルトン」が初入選した。1935年の第22回光風会展で初の光風特賞を受賞した。同年、第二部会展で特選、文化賞を受賞した。 1936年に猪熊弦一郎などとともに新制作派協会(後の新制作協会)を結成した。その後は、同協会の中心会員として活躍した。 1936年ベルリンオリンピックの芸術競技の絵画種目に「フットボール」という作品を出品した。
呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月1… 呉 泰次郎(ごう たいじろう、1907年〈明治40年〉2月17日 - 1971年〈昭和46年〉7月1日)は、日本の作曲家である。叔父は小説家の村井弦斎。校歌等、学校歌の作曲なども多く手がけ、代表的なものに日本体育大学の校歌や北海道帝国大学桜星会の歌等がある。 大連で実業家の次男として生まれた。家は代々雅楽を行い、父は篳篥の名人で大連雅楽会長であった。母は箏を奏した。姉はピアノを弾き、チェリストの彭城昌平と結婚した関係で、泰次郎は8歳の頃から義兄にチェロを習った。また泰次郎の家は兄弟7人とも楽器を奏し、一家で合奏することもしばしばであった。 13歳より5年間、ピアノを大連音楽学校長の園山民平に、歌を東海林久子、チェロをスカルスキーに学ぶ一方で作曲を独学し、多くの習作を書いた。
平原 寿恵子(ひらはら すえこ、1907年(明治40年)1月… 平原 寿恵子(ひらはら すえこ、1907年(明治40年)1月24日 - 1993年(平成5年)2月20日)は日本の声楽家(ソプラノ。ただしアルト、メゾソプラノを歌った記録がある)。音楽教育者。名前は壽惠子、壽恵子と表記されることがある。 東京府(現:東京都)出身。童謡歌手として1924年(大正13年)『叱られて』を東京レコードに吹き込む。1931年(昭和6年)東京音楽学校卒。1933年(昭和8年)東京音楽学校研究科修了。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。1934年(昭和9年)東京音楽学校教授( - 1974年(昭和49年)東京芸術大学教授)。1935年(昭和10年)2月 日比谷公会堂におけるクラウス・プリングスハイム指揮、東京音楽学校オーケストラ第74回定期演奏会のマーラー交響曲第3番全曲日本初演のアルト独唱を務める。
嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日… 嘉納 愛子(かのう あいこ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 2016年〈平成28年〉3月29日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ)・音楽教育者。相愛大学名誉教授(2011年時点)。 大阪府大阪市出身。官吏の家に生まれた三人姉妹の末っ子。親和高等女学校卒。東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部声楽科)に入学。高木東六や四家文子と同級。卒業後、山田耕筰の数少ない弟子の一人となり、山田らが確立した「日本歌曲」の真髄を叩き込まれる。修業を終えて帰阪後も声楽家として活動し、大阪BK(NHK大阪放送局)のラジオ放送や公演に出演するが、1934年(昭和9年)に旧家として名高い(嘉納家は嘉納財閥として知られる)灘の酒造家の嘉納鉄夫と結婚して引退。
安福 春雄(やすふく はるお、1907年〈明治40年〉1月1… 安福 春雄(やすふく はるお、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1983年〈昭和58年〉8月3日)は、日本の能楽師(大鼓方)である。位階は従五位。 群馬県前橋市に生まれる。叔母の太鼓の師であった清水正徳に跡継ぎがいなかったことから、11歳の時に上京してその弟子となり高安流の大鼓方を学ぶ。1919年(大正8年)に『猩々』にて初舞台を踏む。1927年(昭和2年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)邦楽科を卒業。 1937年(昭和12年)から1977年(昭和52年)まで母校の東京芸術大学で講師として教鞭を執った。1927年(昭和2年)には兵隊検査により、第二次世界大戦が終戦するまで数回にわたり兵役となった。
野々村 一男(ののむら かずお、1906年11月15日 - … 野々村 一男(ののむら かずお、1906年11月15日 - 2008年2月11日)は、日本の彫刻家。愛知県立芸術大学名誉教授。日本芸術院会員。 愛知県名古屋市に生まれる。東京美術学校卒業。同校在学中の1929年、第10回帝展に「座女」にて初入選。1955年、中日文化賞受賞。1981年、「物との、はざま」にて日本芸術院賞受賞。1988年、日本芸術院会員。1989年、勲三等瑞宝章受章。2008年2月11日午前11時33分、老衰のため名古屋市の自宅にて死去。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月2… 加藤 栄三(かとう えいぞう、1906年(明治39年)8月20日 - 1972年(昭和47年)5月24日)は日本画家。岐阜県岐阜市出身。弟は日本画家加藤東一。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日… 兎束 龍夫(うづか たつお、1906年(明治39年)7月9日 - 1985年(昭和60年)3月7日)は、日本のヴァイオリニスト。 旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1930年東京音楽学校卒業。安藤幸子らに師事しヴァイオリンを習う。1937年母校助教授。1947年教授。弦楽科主任・管弦楽部長となる。室内楽の研究と演奏活動の傍ら、付属音楽高等学校校長も兼務。1974年退官して東京芸術大学名誉教授。後に昭和音楽大学副学長となる。 大谷康子、澤和樹、篠崎功子、島根恵、海野義雄、向島ゆり子など多くの門下生がいる。全日本学生音楽コンクールや日本音楽コンクールなど多くのコンクールでも審査員を務め、彼の死後の1989年には全日本学生音楽コンクールのヴァイオリン部門の一位におくられる賞が兎束賞と名付けられた。
細川 碧(ほそかわ みどり、1906年〈明治39年〉5月15… 細川 碧(ほそかわ みどり、1906年〈明治39年〉5月15日 - 1950年〈昭和25年〉8月21日)は、日本の作曲家。東京府出身。男性。 東京牛込に生まれる。「さるやんごとない方の落とし子」「さる帝(明治天皇ではない)のご落胤」(ごらくいん)であったとされる。 東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)在学中、梁田貞に作曲を学んだ。1922年4月、東京音楽学校予科に入学。同校本科声楽部(バリトン)に進学し、ハンカ・ペツォールト、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェに声楽を、信時潔に作曲を師事し、1926年3月に卒業。進んで同校研究科作曲部で引き続き信時に師事し、1929年3月に修了した。 1929年、同校研究科卒業と同時に文部省在外研究員としてウィーン市国立音楽芸術単科大学に5年間留学する。
刑部 人(おさかべ じん、1906年5月5日 - 1978年… 刑部 人(おさかべ じん、1906年5月5日 - 1978年3月8日)は、日本の洋画家。 栃木県下都賀郡家中村(現在の栃木市都賀町家中)に生まれる。東京府立一中時代には、同期に高見順や長沼弘毅がいた。同校在学中、高見順らと廻覧雑誌を創刊する。 1922年(大正11年)から川端画学校に通い、1924年(大正13年)に東京美術学校西洋学科に入学。東京美術学校在学中に和田英作に師事し、帝展に初入選した。 1929年(昭和4年)に東京美術学校西洋学科卒業。1943年に新文展で無鑑査となる。さらに1946年、1947年には出品作品が日展特選となった。 画家として順調なスタートを切ったが、ヨーロッパ各地で起こっていたフォーヴィズム、キュビズムをはじめとする新しい芸術運動の波のなかで、他の多くの画家たち同様に一時的なスランプに陥る。
大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 20… 大須賀 力(おおすか つとむ、1906年3月26日 - 2009年7月24日)は、日本の彫刻家。1979年、勲四等瑞宝章受章。1994年、千葉県市川市名誉市民。多くの彫刻作品が市川市内施設、千葉県内各地に設置されている 。 1906年、東京都千代田区生まれ。 1923年、東京高等工芸学校彫刻部に入学。1926年、東京美術学校(現:東京芸術大学)彫刻科塑像部に入学。学科は異なるものの、同期には加藤栄三、東山魁夷らがいる。1928年、千葉県市川市に移住。 1930年、東京美術学校に在学中の第11回帝展に初入選し、その後毎回出品する。1931年東京美術学校卒業。建畠大夢に師事。1932年の『首飾りの女』が第13回帝展の特選を受賞。
四家 文子(よつや ふみこ、1906年(明治39年)1月20… 四家 文子(よつや ふみこ、1906年(明治39年)1月20日 - 1981年(昭和56年)7月16日)は、昭和期の歌手、声楽家。息子は元日本テレビプロデューサーの横田岳夫。 東京府出身。東京府立第三高等女学校の1学年上には女優の高島愛子がいた。東京音楽学校でネトケ=レーヴェに師事。首席で卒業後、「不壊の白珠」で歌手デビューする。とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。それに四家自身は「音楽学校卒業者があまり低俗にはしるのもよくない」として藤野豊子という変名で吹き込みも行っていた。
水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 197… 水谷 浩(みずたに ひろし、1906年1月17日 - 1971年5月16日)は、日本の映画美術家・美術監督。 1906年(明治39年)1月17日、岐阜県に生まれる。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。同校在学中である1927年(昭和2年)、松竹蒲田撮影所に入社、大道具課装置係に配属される。同校はのちに卒業した。同撮影所では、1929年(昭和4年)、清水宏監督の『不壊の白珠』、1930年(昭和5年)、小津安二郎監督の『朗かに歩め』にいずれも「舞台設計」としてクレジットされたほか、作品名は定かではないが牛原虚彦、豊田四郎、斎藤寅次郎らの作品も手がけた。 その後、関西の映画会社・帝国キネマ演芸に移籍し、再びクレジットが見られるのは同社が新興キネマに改組されたのちの1933年(昭和8年)、溝口健二監督の『祇園祭』であり、「美術」とクレジットされている。
村田 政真(むらた まさちか、1906年 - 1987年)は… 村田 政真(むらた まさちか、1906年 - 1987年)は、日本の建築家。駒沢オリンピック公園総合運動場陸上競技場が代表作。 三重県に生まれる。1929年に東京美術学校(現・東京芸術大学)建築科を卒業した。同年より岡田信一郎の岡田建築事務所に勤務する。 1931年(昭和6年)より宮内省内匠寮臨時帝室博物館造営課に配属になる。1934年、国立公園ニ建ツ山小屋建築設計コンペ(国立公園協会・建築学会主催)で、佳作二席となる。 退官後の1937年からヨーロッパ、アメリカに出張した。その後1940年から土浦亀城建築事務所に勤務する。 1946年(昭和21年)に村田政真建築設計事務所を開設した。 妻は園芸家の村田ユリ(旧姓:鍵富)。
金井 喜久子(かない きくこ、1906年〈明治39年〉/19… 金井 喜久子(かない きくこ、1906年〈明治39年〉/1911年〈明治44年〉3月13日 - 1986年〈昭和61年〉2月17日)は、日本の作曲家。旧姓は川平(かびら)。 沖縄県宮古郡(平良市を経て現・宮古島市)で生まれた。父の川平朝儀は沖縄県議。8歳の時には琴を、10歳の時には琵琶を学んだ。沖縄県立第一高等女学校在学中の13歳のときにヴァイオリンを学び、卒業後、1927年日本音楽学校に声楽を学び、卒業後、沖縄音楽を広く知らしめるという志を抱いて1933年に東京音楽学校の作曲科に女性として初めて入学。下総皖一および呉泰次郎に師事した。1936年に同校を卒業後、研究科に進み、1938年に修了した。
山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 199… 山本 勝巳(やまもとかつみ、1905年12月9日 - 1991年9月23日)は、日本の建築家。 東京府出身。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業。1930年に東京美術学校を卒業後、岡田建築事務所(岡田信一郎の事務所)、大林組を経て1940年に独立し、山本建築事務所を開設。1949年、海老原一郎と共同で、信建築設計事務所を設立(海老原は間もなく独立)。 映画監督の山本薩夫は実弟。子息の山本學、山本圭、山本亘はいずれも俳優である。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。
矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1… 矢橋 六郎(やばし ろくろう、1905年11月16日 - 1988年7月4日)は、日本の洋画家・実業家。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・本家の出身。矢橋大理石商店代表取締役副社長。モザイクによる壁画、作品を制作。代表作にJR・名古屋駅新幹線口の「日月と東海の四季」。岐阜県・教育委員長をつとめ郷里の振興に寄与。 1905年11月16日、岐阜県不破郡美濃赤坂に生まれる。県立岐阜中学校を経て、1924年、川端画学校に通いはじめる。1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科に入学し、1930年に同校を卒業。
海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 19… 海鋒 義美(かいほこ よしみ、1905年11月4日 - 1997年6月18日)は日本の作曲家、教育者である。宮城県において音楽教育に尽力した。また、東北地方の多くの学校の校歌や、戦後のラジオ番組において多数の童謡の作曲を手掛けた。三男の海鋒正毅はクラリネット奏者である。 海鋒は山形県北村山郡山口村(現在の天童市)で生まれた。東京音楽学校(後の東京芸術大学)臨時教員養成所を卒業し、熊本県立山鹿高等女学校勤務を経て、1933年(昭和8年)から宮城県仙台市の音楽指導員となった。この時、尋常小学校、高等小学校、計22校で月に最低一回は指導する決まりだった。この頃、児童唱歌コンクール(後のNHK全国学校音楽コンクール)において市内の東二番丁尋常小学校や南材木町尋常小学校が優勝しており、仙台で合唱の流行があった。
井口 秋子(いぐち あきこ、1905年11月1日 - 198… 井口 秋子(いぐち あきこ、1905年11月1日 - 1984年10月2日)は、日本のピアニスト、ピアノ教育家。東京芸術大学名誉教授。夫は同じくピアニスト・ピアノ教育家の井口基成。結婚前の姓は澤嵜(さわざき)。 訳書に「現代ピアノ演奏法」(ライマー・ギーゼキング著)がある。 息子の井口家成は物理学者で東京工業大学教授。
寺井 政数(てらい まさかず、1905年(明治38年)10月… 寺井 政数(てらい まさかず、1905年(明治38年)10月12日 - 1983年(昭和58年)10月10日)とは、能楽囃子方、笛方森田流能楽師(職分)。 愛知県名古屋市に生まれ、父の寺井三四郎、森田操に師事。12歳で初舞台。1927年(昭和2年)東京音楽学校選科卒業。1954年(昭和29年)第一回渡欧能楽団の一員としてヴェニス音楽祭に参加。1957年(昭和32年)日本能楽会(重要無形文化財保持者に総合認定された者の団体)が結成され、同年から日本能楽会会員。能楽協会理事・日本能楽会監事などを歴任し、能楽養成会の講師としても活躍した。1975年(昭和50年)勲四等瑞宝章。1983年(昭和58年)没、法名は「誠温院法壽日政居士」。
薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月… 薗田 誠一(そのだ せいいち、1905年〈明治38年〉10月5日 - 1986年〈昭和61年〉8月3日)は、日本の声楽家(テノール)、オペラ歌手、音楽教育者、音楽評論家、音楽学者、合唱指揮者。お茶の水女子大学名誉教授。 千葉県出身。1930年(昭和5年)東京音楽学校(現: 東京藝術大学音楽学部)卒業。マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 卒業後、戦前からリサイタル、コンサートで活動し、特にドイツ歌曲を得意とした。 戦後まもなく演奏活動に復帰。門下生の柴田睦陸が結成し、二期会の母体となった東京藝術大学歌劇研究部 ベルリオーズ『ファウストの劫罰』の主役ファウストを務めている。
岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1… 岩﨑 勝平(いわさき かつひら、1905年8月15日 - 1964年9月10日)は、日本の洋画家。「孤独と貧困の鬼才」などと呼ばれる。 1905年(明治38年)8月15日、埼玉県川越町(現川越市)に生まれた。本名は「かつへい」と読む。父は育太郎、母は育太郎の後妻の満つ。育太郎は川越商業会議所副会頭を勤めるなど川越の有力者で、勝平の叔父には福澤諭吉の娘婿で「日本の電力王」と呼ばれた実業家の福澤桃介、伯母には「激情の歌人」として知られる女流歌人の杉浦翠子がいる。翠子の夫は洋画家の杉浦非水。 川越中学校(現埼玉県立川越高等学校)在学時から絵画の世界に惹かれ杉浦非水の紹介で岡田三郎助の本郷洋画研究所へ通う。
海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1… 海老原 一郎(えびはら いちろう、1905年8月4日 - 1990年5月7日)は日本の建築家、日本芸術院会員。 東京府生まれ。本所区の府立第三中学校卒業。1924年、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)建築科に入学。 在学中に山口文象と知り合い、近代建築運動団体・創宇社建築会(1923年結成)に参加。1929年の創宇社第6回展・第7回展、1930年の第8回展に、労働診療所、労働者アパートメント、消費組合食堂などの作品を出品した。 1930年3月に東京美術学校を卒業後、石本建築事務所に勤める。1938年に独立し、海老原建築事務所を設立する。 1950年代に尾崎記念館(現在の憲政記念館)、1960年代に日本最初の超高層ビル「ディックビル」(18階建)を設計。
伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日… 伊藤 武雄(いとう たけお、1905年(明治38年)8月2日 - 1987年(昭和62年)12月2日)は、日本の声楽家(バリトン)、教育者。広島県広島市出身。 1930年東京音楽学校(東京芸術大学)卒業。研究科に残りヘルマン・ヴーハーペニッヒ、ネトケ=レーヴェに師事。1935年デビューリサイタル。戦前から歌曲とオペラに活躍。1937年日中戦争に召集され従軍、上海の戦闘で右手を失うが、帰国後は母校の助教授として後進の育成に尽力した。またコロムビア・レコード専属となり、ドイツ歌曲の吹き込みを行う。1940年山田耕筰に請われオペラ『夜明け』で初舞台。しかし助教授がオペラに出るのは学校も文部省も当時許さず、学校は退職した。
鈴木 草牛(すずき そうぎゅう、1905年〈明治38年〉7月… 鈴木 草牛(すずき そうぎゅう、1905年〈明治38年〉7月15日 - 1988年〈昭和63年〉1月8日)は、20世紀に活動した日本画家。1948年から20年間は教師としても活動。 茨城県稲敷郡牛久村(現在の牛久市)に生まれる。1926年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科に入学した。1929年、第4回茨城美術展で初入選を果たす。みやこ新聞社、茨城新聞社で記者として働く。1948年から母校である茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の竜ヶ崎第一高等学校)に美術教師として20年間奉職した。1962年、65年は茨城県美術展運営委員を務める。1968年には新興美術院理事を務める。1972年から数度に渡り外遊した。
海野 建夫(うんの たてお、1905年6月15日 - 198… 海野 建夫(うんの たてお、1905年6月15日 - 1982年11月17日)は、日本の彫金家。東京学芸大学名誉教授。日展参事。改組日展出品作「雨もよい」により日本芸術院賞を受賞した。 東京上野に生まれる。1921年に吉川霊華に師事し、のち東京美術学校で彫金を学び、1928年に金工科彫金部を卒業、1931年に研究科を修了した。在学中の1929年第10回帝展で「彫金花盛器」が初入選し、1932年第13回帝展で「鉄製ファイヤースクリン」が特選となった。1937年のパリ万国博覧会では「秋手鏡」が銀賞を受賞した。 戦後は日展で1949年以後たびたび審査員を務め、1950年から依嘱出品、1958年会員、1961年評議員となった。
平松 義彦(ひらまつ よしひこ、1905年(明治38年)- … 平松 義彦(ひらまつ よしひこ、1905年(明治38年)- 1980年(昭和55年)1月22日)は、日本の建築家。昭和戦前期から戦後にかけて活動していた。 以下 <まちもり通信:二人の建築家の戦中戦後 建築家・小町和義氏インタビュー>や『追悼 平松義彦』(1980年、株式会社平松建築設計事務所 及 新建築家技術者集団 著)によると、東京市芝区下高輪町出身。1928年に東京美術学校卒業後、兄の英彦が勤めていた大林組に入社。また分離派建築会にも関わり、その後創宇社建築会メンバーとなる。 戦中期は劇團前進座の集合住宅などを手掛けるほか、大正期新興美術運動にも携わる。 戦後、創宇社建築会メンバーの仲間であった今泉善一、道明栄次らと共同経営で東京建築設計事務所を開設。
泉二 勝磨(もとじ かつま、1905年-1944年10月3日… 泉二 勝磨(もとじ かつま、1905年-1944年10月3日)は、昭和初期に活動した日本の彫刻家。 後に大審院院長となる泉二新熊の子として東京市に生まれる。東京美術学校を卒業後、1931年(昭和6年)にフランスにわたり、ジャン・デュナンに師事。1939年(昭和14年)に帰国後、二科展に彫塑を10点出品した。 続く1940年(昭和15年)の二科展に「朔雲童児」出品、さらに翌1941年(昭和16年)に「東郷大将バルチック艦隊を睨む」を出品して二科会員に推された。その後、多摩帝国美術学校にて講師を務め、1944年10月3日に死去。多磨霊園に墓所が存在する。
加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治… 加藤 久幹(かとう ひさもと / ひさとし、1904年(明治37年)12月8日 - 1976年(昭和51年)11月21日)は、日本の洋画家、華族。光風会会員。旧名・島津 久幹。 鹿児島県出身。重富島津家(薩摩島津氏の主要分家)の男爵・島津壮之助の二男として生まれる。旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現:鹿児島県立甲南高等学校)で大牟礼南島に、東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科で藤島武二に師事。1928年に東京美術学校を卒業。加藤子爵家(元近江水口藩主家、加藤嘉明系)の加藤克明の婿養子となる。 1957年、光風会会員となる。橋口康雄(橋口五葉の甥)や山口長男の上杜会に加わったことや、猪熊弦一郎と三春会をつくったこともある。
深海 善次(ふかみ ぜんじ、1904年10月 - 1997年… 深海 善次(ふかみ ぜんじ、1904年10月 - 1997年)は、昭和時代日本の作曲家。新潟県出身。 1904年(明治37年)10月、新潟県に生まれる。1924年(大正13年)6月に海軍へ入隊、横須賀鎮守府海兵団軍楽隊へ配属されブラス奏法を修学、首席で卒業した。その後、軍楽隊東京派遣所へ出向し海軍省委託生として東京音楽学校でコントラバス、ピアノ、音楽理論を学び首席で修了する。軍楽隊在籍中は「日本海々戦の想ひ出」「海軍記念日の歌」「精鋭なる我が海軍」他多数の軍歌を作曲・編曲し、1936年(昭和11年)に除隊。 東京音楽学校嘱託を経て1937年(昭和12年)にビクターレコード専属作曲家となり「還らぬ戦友」、描写曲「神風」などを手掛ける。
橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashi… 橋本 國彦(はしもと くにひこ、Qunihico Hashimoto、1904年9月14日 - 1949年5月6日)は、日本の作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者、音楽教育者。 東京都本郷生まれ。ヴァイオリンを辻吉之助に師事。北野中学校(現:大阪府立北野高等学校)を経て、1923年(大正12年)東京音楽学校(現:東京芸術大学)入学。安藤幸とヨゼフ・ケーニヒにヴァイオリンを、チャーレス・ラウトロプに指揮法を学ぶ。作曲は信時潔に指導を受けるもほとんど独学であったが、同校研究科で作曲を学ぶ。歌曲『お菓子と娘』『黴』などで作曲家としての名声を獲得。斬新な曲を作る一方ではポピュラーなCM曲や歌謡曲にも手を染めた。
森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988… 森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988年3月16日)は、洋画家、美術教育者。 岐阜県恵那市生まれ。号・林人子。1928年東京美術学校卒。同年帝展初入選。1952年千葉大学教育学部教授、1970年定年退官、名誉教授。1975年千葉明徳短期大学学長、81年退任、名誉学長。1974年勲三等旭日中綬章受勲。
矢崎 虎夫(やざき とらお、1904年(明治37年)7月25… 矢崎 虎夫(やざき とらお、1904年(明治37年)7月25日 - 1988年(昭和63年)9月24日)は、日本の彫刻家である。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)生まれ。平櫛田中に師事。 1929年(昭和4年)院展に初入選、以降院展白寿賞を3回受賞する。1964年(昭和39年)に渡欧し、オーストリアのウィーン大学で仏教芸術を講義した後、フランス・パリでオシップ・ザッキンに師事。 1959年(昭和34年)結成された茅野市美術協会で顧問を勤めた(会長小川由加里)。 1966年(昭和41年)日本画府展で文部大臣賞を、1973年(昭和46年)には長野市野外彫刻賞を受賞。 晩年は仏教を主題に木彫像を制作していた。
栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976… 栄 米治(さかえ よねじ、1904年6月10日 - 1976年3月3日)は、北海道出身の建築家。 1904年に北海道広尾郡茂寄村(現・広尾町)で味噌製造を営む栄米蔵・ふゆ夫妻の四男として生まれ、広尾小学校を経て将来に期待を込め遊学させることとなり1916年に東京・浅草の松葉小学校に転校。 1922年に京華中学校卒業、1年浪人し1923年に東京美術学校に入学、1927年には小石川区の日本基督教団上富坂教会で結婚に向けてキリスト教の洗礼を受け、1928年に東京美術学校建築科を卒業。その後寄寓先の姪の加納春江と結婚。 東京美術学校卒業後は樺太庁に入庁し内務部土木科嘱託として建築技術者の道を歩み出す。1929年には技手に任官、大泊警察署を皮切りに10件の建築に携わる。
栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 19… 栗田 国彦(くりた くにひこ、1904年3月25日 - 1981年)は昭和時代日本の作曲家、教育者。静岡大学教育学部教授。 1904年(明治37年)、静岡県磐田郡山香村(現在の浜松市天竜区)に生まれる。静岡師範学校を経て東京音楽学校第四臨時教員養成所で沢崎定之、下総皖一、貫名美名彦らの師事を仰ぐ。愛知県の知多郡立高等女学校教諭を経て愛媛師範学校教諭となり、1938年(昭和13年)11月に愛媛県庁が提唱した「国民精神作興週間」の一環として初代「愛媛県民歌」を作曲する。1944年(昭和19年)、静岡第一師範学校教諭兼教授。1949年(昭和24年)の新制静岡大学発足に伴い助教授となり、附属幼稚園長を経て1960年(昭和35年)より教授に至る。
浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、19… 浅野 千鶴子(あさの ちづこ、旧字体: 淺野 千鶴子 、1904年(明治37年)3月22日 - 1991年(平成3年)3月3日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。東京藝術大学名誉教授。民謡歌手で秋田県出身の浅野千鶴子は同姓同名の別人。 高知県高知市出身。1927年(昭和2年)東京音楽学校研究科修了。永井郁子に師事し、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ、長坂好子の指導も受けた。1920年代から文化学院の教壇に立つ。1929年(昭和4年)4月 京城で「山田耕筰作品発表会」に出演(ピアノ:山田耕筰、ヴァイオリン:黒柳守綱、ソプラノ:浅野千鶴子)。1930年(昭和5年)東京でリサイタル・デビュー。1935年(昭和10年)東京音楽学校第75回定期演奏会(於:日比谷公会堂)でバッハ『聖母讃歌』ソリスト(指揮:クラウス・プリングスハイム、ソプラノ:浅野千鶴子、メゾソプラノ:田中伸枝、アルト:齋藤英子、テノール:木下保、バス:伊藤武雄)。
大月 源二(おおつき げんじ、1904年2月19日 – 19… 大月 源二(おおつき げんじ、1904年2月19日 – 1971年3月18日)は、日本の画家。主にプロレタリア美術の画家として知られる。 東京美術学校を卒業した後、プロレタリア美術運動に参加。プロレタリア文学の代表的作家、小林多喜二は盟友であり、『一九二八年三月十五日』や『蟹工船』等の代表作の装幀を手がけている。後年は故郷北海道の自然を題材にした作品も多い。 1904年(明治37年)函館で生まれ、その後小樽へ移住。小樽区立稲穂小学校に入学する。小学校六年間の成績が、すべて「甲」である優秀な生徒だった。1916年(大正5年)庁立小樽中学校に入学すると、中学三年の頃から小樽洋画研究所に通い、本格的なデッサンや油絵等を学んだ。
福井 直俊(ふくい なおとし、1904年2月15日 - 20… 福井 直俊(ふくい なおとし、1904年2月15日 - 2001年4月2日)は、日本のピアニスト。富山県上市町出身。学校法人武蔵野音楽学園名誉学園長、元東京芸術大学学長。勲二等旭日重光章(1974年に受章)。 武蔵野音楽大学創立者・福井直秋の長男として生まれる。弟に武蔵野音楽大学学長を務めた福井直弘、妹にピアニストの若尾輝子がいる。 東京音楽学校研究科を卒業。萩原英一、レオニード・コハンスキに師事。1930年、ベルリンに渡りアルトゥル・シュナーベルに師事。帰国後、新交響楽団(現:NHK交響楽団)との共演や、「ベートーベン:ソナタ・アルバム」などの校訂に携わる。 武蔵野音楽大学教授を経て、東京芸術大学音楽学部の教授に就任。