小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日… 小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1958年〈昭和33年〉5月29日)は、日本の紋様学者、美術史家、画家。東京美術学校および東京芸術大学で工芸史・紋様史を講じ、日本・中国・朝鮮の古美術に見られる紋様の比較研究と、高句麗古墳壁画や朝鮮古蹟の調査・模写に従事した。研究の一部をなす「日本紋様の研究」により、1950年(昭和25年)に恩賜賞を受賞した。 秋田藩主佐竹家の一族である小場家の分家にあたる小場新吾の長男として、秋田県秋田町亀ノ丁堀反町に生まれた。 13歳のとき、親戚の画人小室怡々斎(こむろ いいさい)に師事して狩野派の日本画を学んだ。上京後は、荒木寛畝に日本画を、岡本椿所に篆刻を学んだ。
赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月… 赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月20日または10月11日 - 1953年〈昭和28年〉11月24日)は、日本の洋画家、教育者。 赤松良子は3女である。 現在の岡山県津山市本町3丁目に、兄2人姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれる。1883年に大阪へ転居。父は亜鉛製造、酸化亜鉛製造、ペンキ製造と職を変えるがいずれも成功せず、ペンキで絵を描く看板屋を始める。 小学校卒業後、父の仕事を手伝っていると、大阪最初期の洋画家で大阪朝日新聞で挿絵画家をしていた山内愚僊と知り合う。この時、愚僊はペンキで巧みに油画を描き、麟作は画が非常に好きになってしまったという。1893年数え16歳でその内弟子となり、愚僊の同僚だった西村天囚から『日本外史』などの漢学を習う。
平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12… 平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12月28日 - 1933年(昭和8年)10月30日)は、日本画家、歌人。 画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県角館(仙北市)に生まれた。本名は貞蔵。 幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年(明治23年)から父から絵を学びはじめる。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始める。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号す。 1894年(明治27年)に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となる。
桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 193… 桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 1932年7月19日)は、明治時代の口絵画家、大正時代から昭和時代にかけての日本画家、版画家。仏画の権威として活躍したが、急逝した。 富岡永洗及び橋本雅邦の門人。新潟県三島郡宮本町(現・長岡市)に生まれる。本名は長之助。深見和久太の四男であったが桐谷姓を継いだ。20歳の時に上京、永洗に師事している。永洗が没した時、その夭折を惜しむ記事を投稿している。 その後、雅邦に就いて東京美術学校日本画家選科を卒業し、1907年に文展に入選。翌年から京都、奈良の寺院をめぐり、1909年、「訪古画帖」を作る。仏教画の方に進み始めた。この間、京都の「日出新聞」に挿絵を描く。
北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日… 北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日 - 昭和24年(1949年)12月21日)は、明治から昭和にかけて活動した洋画家。 岐阜県厚見郡北一色村(現在の岐阜市北一色)の香厳寺に、北淳心と房衛の次男として生まれる。幼少期には両親が読経を教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。1889年(明治22年)東京で女学校の教員をしていた姉を頼って上京、同郷の山本芳翠と合田清らによって設立された生巧館画塾に入る。蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り、蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者は単なる画塾の師弟にとどまらない深い関係にあったようだ。
小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 -… 小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 - 1956年4月26日)は、日本の洋画家。秋田県出身。 秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の素封家の家に生まれる。小西忠兵衛(5代。幼名は正治。号は交和)の長男。弟は六郷町郵便局長の宗吉。正太郎が生まれた当時の小西家の主な資産は、小作米500俵、町内に3,300平方メートルの敷地、山林5ヘクタールと記録され、六郷町下では第二の資産家であった。六郷小学校から秋田県立秋田中学校を経て1895年(明治28年)東京美術学校予科に進んだ。翌年日本画の本科に進んだが、このころ洋行を終えて帰国した黒田清輝が西洋画科の初代教授として美術学校に赴任するとたちまちその影響を受け、西洋画に転じて黒田に師事した。
木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 … 木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 - 昭和17年(1942年)11月29日)は、明治から昭和初期の日本画家。横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉覚三(天心)のもとで日本画の近代化に努めた。 明治9年(1876年)7月、茨城県笠間市に木村信義の長男・信太郎として誕生。父は元笠間藩士で、廃藩後に笠間銀行(現・常陽銀行)を設立し頭取となり、明治45年(1912年)4月には笠間電気株式会社の設立と共に社長に就任している。2歳の頃から地元の南画家・桜井華陵に師事。12歳頃には「武山」の号を用いており、この号は笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名される。
大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月1… 大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月16日 - 明治44年(1911年)6月14日)は明治時代の日本画家。 尾形月耕及び川端玉章の門人。明治9年(1876年)1月16日、東京府京橋に生まれる。本名は新之助。幼少から絵を好み、始め京橋桶町の尾形月耕に絵の手ほどきを受け、後に玉章に師事する。同門の結城素明とともに東京美術学校日本画科に入学、師玉章の指導する第三教室において俊秀の誉れがあった。明治24年(1891年)の日本青年絵画協会臨時研究会に「楓亀」を出品すると五等褒状、明治27年(1894年)の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「朧月白鷺」を出品すると三等褒状を受ける。その後、明治29年(1896年)の日本絵画協会第1回絵画共進会に「錦魚」、「空濶」を出品、前者により二等褒状、明治30年(1897年)春の同第2回絵画共進会に「月」を出品して一等褒状、同年秋の同第3回絵画共進会に「夏の海」、「妙音」を出品、後者で一等褒状を受賞、明治31年(1898年)春の同第4回絵画共進会には「海岸」を出品している。
大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年… 大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年)は、日本の洋画家。大牟礼 南塘とも表記される。本名・時艾(ときはる)。鹿児島洋画壇の祖といわれている。 種子島の現西之表市出身。中学造士館卒業後、大阪を経て上京し、東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に師事し、1900年に卒業して鹿児島県に戻る。鹿児島市の西本願寺前にアトリエを開設。アトリエで公開制作をしたり、春田屋呉服店のショーウインドウに大きなロマン主義美人画を飾ったりと衆目を集め、また確認しうる鹿児島最古の洋画団体「青蛙会」を結成した。 1911年から1930年の約20年間にわたり鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)で美術教員を務め、多くの後進を育成した。
結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10… 結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10日 - 1957年(昭和32年)3月24日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員。 東京本所荒井町に、「池田屋」という酒屋を営んでいた森田周助の次男として生まれる。本名の貞松は勝海舟の命名といい、奇しくも後に素明は、「江戸開城談判」(聖徳記念絵画館蔵)において海舟の姿を描いている。10歳の頃、親類の結城彦太郎の養嗣子となる。明治24年(1891年)7月岡倉覚三(天心)の紹介で、川端玉章の画塾天真堂(天真社)に入門する。玉章に学びながら明治25年(1892年)東京美術学校日本画科に入学。常に墨斗と手帖を携帯し、目にとまったものは何でも写生したという。
武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月2… 武井 真澂(たけい しんちょう、1875年(明治8年)6月24日 - 1957年(昭和32年)6月3日)は、日本の山岳画家。本名は真澄。 長野県諏訪郡豊田村十川(現・諏訪市)に生まれる。1896年に東京美術学校本科を卒業。1900年(明治33年)から1914年(大正3年)まで旧制長野県立松本中学校で図画を教えた。退職後は東京に住みながら、長野県内を主体に山梨県・富山県・静岡県などの山に登り、山岳画を描いた。
中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月2… 中原 芳煙(なかはら ほうえん、1875年(明治8年)6月24日 - 1915年(大正4年)6月20日)は明治・大正時代の日本画家。 島根県邑智郡都賀行村大字潮村(現・美郷町)に、農業と鉄山経営をしていた旧家の当主・源吉郎の次男として生まれた。本名は佐次郎、画号を芳煙という。 幼い頃から絵を好み、那賀郡町村組合立石見学校(現・島根県立浜田高等学校)を卒業後、1896年(明治29年)9月、画家を志して東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学、川端玉章に師事した。 日本画本科2学年の時に美術学校生徒成績品展覧会で「秋野鹿図」が一等褒状を受賞した。 師の玉章は芳煙の画風を推賞して惜しまなかったといわれる。
渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月… 渡辺 香涯(わたなべ こうがい、1874年(明治7年)11月24日‐1961年(昭和36年)9月29日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 1874年11月24日に東京府四谷区荒木町に生まれる。名は啓三。1892年(明治25年)に高橋玉淵に入門、また川端玉章にも師事した。1896年(明治29年)の日本絵画協会第1回絵画共進会、1897年(明治30年)春季の日本絵画協会第2回絵画共進会二作品を出品、同年7月に東京美術学校を卒業。同年秋季の日本絵画協会第3回絵画共進会に「木枯」を出品し、二等褒状を得る。1898年(明治31年)春季の日本絵画協会第4回絵画共進会に「秋致」を出品した後、2、3年山形県、群馬県の中学校教員を務めて1900年(明治33年)に帰京する。
菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月2… 菱田 春草(ひしだ しゅんそう、1874年(明治7年)9月21日 - 1911年(明治44年)9月16日)は、明治期の日本画家。横山大観、下村観山とともに岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。 1874年(明治7年)、長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)に旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれた。飯田学校(現追手町小学校)で学んだ後に上京し、狩野派の結城正明の画塾で学ぶ。1890年(明治23年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学。春草は美校では大観、観山の1学年後輩にあたる。美校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦であった。春草は大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。
中沢 弘光(中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年〈明治… 中沢 弘光(中澤弘光, なかざわ ひろみつ、1874年〈明治7年〉8月4日 - 1964年〈昭和39年〉9月8日)は、洋画家、版画家、油彩画家、挿絵画家。日本芸術院元会員。 東京・芝で、旧佐土原藩士の子として生まれる。1887年、曽山幸彦に入門、洋画を学んだ。曽山の没後、堀江正章にも師事する。1900年、東京美術学校西洋画選科修了。黒田清輝に師事。白馬会創立に参加、同展覧会に出品を続けた。1912年、光風会創立に参加。1922年、ヨーロッパに渡り翌年帰国、金尾文淵堂や兵庫の西宮書院から新版画の作品を発表している。1924年(大正13年)1月、白日会を創設した。1930年(昭和5年)、帝国美術院会員、1937年(昭和12年)、帝国芸術院会員、1944年(昭和19年)7月1日、帝室技芸員。
下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月1… 下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。 1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市小松原通5丁目に、代々紀州藩に仕える小鼓方幸流の能楽師の3男として生まれる。1881年(明治14年)8歳のとき、一家で東京へ移住。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けたとされ、1883年(明治16年)観山10歳の頃にはもう使用していたとされる。
白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3… 白滝 幾之助(しらたき いくのすけ、1873年〈明治6年〉3月17日 - 1960年〈昭和35年〉11月25日)は、兵庫県出身の日本の洋画家。作風は写実的作品を発表し続けた。 1873年(明治6年)3月17日、但馬国豊岡県朝来郡(現・兵庫県朝来市)生野奥銀谷町に生まれる。幼少時に父を亡くし、女手一つで育てられた。 1890年(明治23年)、17歳時に鉱山技師を目指して上京、築地の工手学校に入学。1894年(明治27年)、第4回内国勧業博覧会にて「待ち遠し」が入選。褒状を受け有栖川官家に買い上げ。1896年(明治29年)、下宿先で同居していた同郷の和田三造に誘われて山本芳翠の生巧館画塾に入る。後に生巧館画塾が黒田清輝に譲られ、天心道場となった後、黒田清輝に師事。
桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月1… 桃澤 如水(ももざわ にょすい、1873年(明治6年)1月14日 - 1906年(明治39年)8月29日)は、歌人で日本画家。本名は桃澤 重治(ももざわ しげはる)、画名は如水(にょすい)または桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)といい、筆名を三六、三六軒、子脩(ししゅう)などと称した。その祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる。 長野県伊那郡本郷村で、桃澤匡尊の次男として生まれる。桃澤家は古くから代々庄屋(名主)を務めており、何人も歌人を産んだ名家であった。1888年(明治21年)15歳で飯田の岡庭塾で、英語や漢籍、数学などを学んだ。ここで菱田春草と出会い、自分も画家になろうとするも、経済的な理由で上京の許しが出なかった。
鈴木 空如(すずき くうにょ、1873年 - 1946年)は… 鈴木 空如(すずき くうにょ、1873年 - 1946年)は、日本の仏画師、日本画家。世界文化遺産である法隆寺の金堂壁画を模写したことで世に知られる。 明治6年(1873年)、鈴木虎之助・フミの三男として、秋田県仙北郡小神成村13番地(現・大仙市太田町小神成)に生まれる。 明治25年(1892年)に上京して、画工・長山蘭林に師事し日本画を習う。日清戦争に従軍後の明治31年(1898年)、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)に入学。山名貫義に師事した。 卒業後、画壇には属さず、法隆寺金堂壁画の模写と仏教美術の研究に打ち込んだ。 大正7年(1918年)ナヲと結婚。2年後に長女豊子をもうける。 大正14年(1925年)豊子が喘息を悪化させ、死去。
矢崎 千代二(やざき ちよじ、1872年3月20日(明治5年… 矢崎 千代二(やざき ちよじ、1872年3月20日(明治5年2月12日) - 1947年(昭和22年)12月28日又は12月29日)は、日本の洋画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
林 竹治郎(はやし たけじろう、1871年(明治3年) - … 林 竹治郎(はやし たけじろう、1871年(明治3年) - 1941年(昭和16年))は、日本の画家である。「朝の祈り」という名画を描き、北海道美術界の基礎を築いた。ハンセン病患者のために生涯を尽くした医師林文雄の父。 1871年に宮城県に生まれ、仙台師範学校(現宮城教育大学)へ入学した。師範学校在学中の1889年(明治22年)にキリスト教の洗礼を受けた。同年上京して東京美術学校(現東京芸術大学)へ入学し、3年後の1892年(明治25年)東京美術学校の特別課程を卒業すると、1898年(明治31年)9月北海道師範学校の教諭になった。2年後に退職し、札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)の教諭として28年間美術を教えた。
乾 南陽(いぬい なんよう、明治3年8月13日(1870年9… 乾 南陽(いぬい なんよう、明治3年8月13日(1870年9月8日) - 昭和15年(1940年)6月29日)は日本画家。本名、乾 長光(ながみつ)。 土佐国土佐郡(現:高知県高知市)に土佐藩士の子として生まれ、 東京美術学校日本画科卒業、東台邦画会、日本画官員組乾南陽美術頑張ろうん会会員。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869… 湯浅 一郎(ゆあさ いちろう、明治元年12月18日〈1869年1月30日〉 - 昭和6年〈1931年〉2月23日)は、明治・大正・昭和戦前期の日本の洋画家。政治家・湯浅治郎の長男。湯浅八郎は弟。上野国(現・群馬県安中市)出身。 明治元年12月18日(1869年1月30日)、安中で醤油味噌の醸造販売を行う「有田屋」の長男として生まれる。 同郷の新島襄が開校した同志社英学校(現・同志社大学)を明治20年(1887年)に卒業した後、山本芳翠の生巧館画塾で学び、山本芳翠が画塾の経営から身を引くと、それを譲り受けた黒田清輝の天真道場に学んだ。明治29年(1896年)東京美術学校(現・東京藝術大学)に西洋画科が設置されると黒田清輝の推薦を受け3年生に編入し明治31年(1898年)7月卒業。
横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4… 横山 大観(よこやま たいかん、旧字体: 橫山 大觀、慶応4年/明治元年〈1868年〉9月18日 - 1958年〈昭和33年〉2月26日)は、日本の美術家、日本画家。本名は横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。旧姓は酒井(さかい)、幼名は秀蔵、のちに秀松。 常陸国水戸本町(現:茨城県水戸市本町)出身。東京美術学校第1期生として岡倉天心に師事し、日本美術院設立に参加した。日本画の新たな表現を模索し、菱田春草とともに「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を生み出した。天心・春草の死後は下村観山とともに日本美術院を再興。彩色画においては朦朧体からさらに琳派の影響を受けた装飾表現へと飛躍を遂げ、水墨画においても独自の表現を確立した。
本多 天城(ほんだ てんじょう、慶応3年7月29日(1867… 本多 天城(ほんだ てんじょう、慶応3年7月29日(1867年8月28日) - 昭和21年(1946年)5月11日)は明治時代から昭和時代にかけての日本画家。 慶応3年(1867年)、深川区山吹町の久世屋敷に生まれる。本名は佑輔。明治13年(1880年)3月から明治18年(1885年)11月までの5年間は近藤勝美に師事して西洋画を学んでおり、明治18年(1885年)3月からは狩野芳崖にも就いて日本画を習得、岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲とともに芳崖門下四天王といわれるまでに研鑽を積んだ。天城はアーネスト・フェノロサ、河瀬秀治らが日本画の発展を考えた鑑画会で学び、特に若年であった秋水、山本松渓とは岡倉天心の住まいに書生として同居、鑑画会グループ一員である剣客榊原鍵吉の道場に通い剣術を学んだりした。
北村 治(きたむら おさむ)は、日本のイラストレーター、芸術… 北村 治(きたむら おさむ)は、日本のイラストレーター、芸術家、画家。横浜美術大学教授。東京イラストレーターズソサエティ会員。
山口 聡一(やまぐち そういち)は、日本の画家。 この項目は… 山口 聡一(やまぐち そういち)は、日本の画家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
高橋 由一 は、江戸生まれの日本の洋画家。狩野派を学んだ後に… 高橋 由一 は、江戸生まれの日本の洋画家。狩野派を学んだ後に洋画の道へと邁進し、川上冬崖、チャールズ・ワーグマン、アントニオ・フォンタネージらに師事する。1873年には画塾天絵社を創設し、淡島椿岳や川端玉章といった洋画家を輩出した。代表作には重要文化財に指定されている『鮭』や『花魁』などがあり、近代日本洋画における開拓者と位置付けられている。
薄久保 香(うすくぼ かおる、女性 )は、日本の画家、現代ア… 薄久保 香(うすくぼ かおる、女性 )は、日本の画家、現代アーティスト。 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻教授 栃木県生まれ。2004年東京造形大学造形学部絵画専攻卒業。2010年東京藝術大学院博士課程修了。
大藪 雅孝 (おおやぶ まさたか、1937年 − 2016年… 大藪 雅孝 (おおやぶ まさたか、1937年 − 2016年)は、日本の画家。元・東京芸術大学美術学部教授。 1937年、京城(現在のソウル)に生まれる。東京藝術大学美術学部に学び、のち、同学に奉職。後進の育成につとめる。
柏木 正賢(かしわぎ まさかた)は、昭和時期、神奈川県出身の… 柏木 正賢(かしわぎ まさかた)は、昭和時期、神奈川県出身の日本画家。1911年東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。 昭和時期、神奈川県出身の日本画家である。1911年(昭和44年)東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業した。在学中、中国からの同級生李叔同(弘一)が設立した芸術団体「春柳社」に入社し、交情の清らかな友になった。李叔同が帰国して後、書簡でお互いに画作の研究を行う。1911年卒業作品の『淀の憩ひ』を創作した。現東京藝術大学大学美術館に収蔵されている。 特有な日本画風とし活躍する日本画家である。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
為井 英貴(ためい ひでき)は、日本の画家、イラストレーター… 為井 英貴(ためい ひでき)は、日本の画家、イラストレーター、デザイナー。 2011年(平成21年)から小学館ビッグコミックの増刊号の表紙画を担当し、2021年(令和3年)12月からは本誌の表紙画家も担当。 東京藝術大学美術学部デザイン科卒業。 広告デザイナーとして多岐に渡るデザインやイラストを手掛けた後、2000年(平成12年)に独立。TAMEI DESIGN STUDIO 住友林業、三菱電機、NTT Communications、TOYOTA LEXUS、スター・チャンネル、自動車雑誌、など数多くの大手企業の広告、イラストレーション、カレンダーを制作。 2011年(平成23年)日本イラストレーター協会 年間最優秀エディトリアル賞 受賞。
野田修一郎(のだ しゅういちろう、1931年(昭和6年)- … 野田修一郎(のだ しゅういちろう、1931年(昭和6年)- 1993年(平成5年)は、日本の画家。日本画家。 山梨県甲府市鍛冶屋町(甲府市中央)に生まれる。戦後に上京し、私立麻布中学校で日本画家の山田申吾に学ぶ。1951年(昭和26年)に東京藝術大学日本画科へ入学する。同期には日本画家の鈴木美江がいる。1974年(昭和49年)の第六回日展で特選となる。以来出展を続け、1984年(昭和59年)には日展で再び特選を受賞し、日展を中心として活躍する。ほか、日春展日春賞・奨励賞を受賞する。 野田は生涯にわたって馬を得意なモチーフとして描いており、代表作に《雪原》(1982年)がある。作品の一部は山梨県立美術館に収蔵され、1989年(平成元年)には同館で「郷土作家シリーズⅠ 野田修一郎展」が開催された。
深海 武範(ふかうみ たけのり)は、日本の画家・現代美術家。… 深海 武範(ふかうみ たけのり)は、日本の画家・現代美術家。 1975年、山梨県生まれ。2001年、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
水戸部 七絵(みとべ ななえ)は、日本の画家。ウィーンと日本… 水戸部 七絵(みとべ ななえ)は、日本の画家。ウィーンと日本を拠点に作家活動をおこなっている。水戸部七絵は、一貫して油絵で顔を描いている。 ※以下の出典は、公式サイトによる。 神奈川県に生まれる。2011年に名古屋造形大学を卒業、画家の長谷川繁に師事する。2016 年愛知県美術館での個展にて発表、2020 年に愛知県美術館に「I am a yellow」が収蔵される。2019年にホルベインスカラシップ奨学生となる。2021年から東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻油画に在籍し、画家の小林正人に師事する。同年には「VOCA展2021」で鎮西芳美(東京都現代美術館)の推薦を受け、VOCA奨励賞を受賞した。