藤山 恭輔(ふじやま きょうすけ、1999年4月21日 - … 藤山 恭輔(ふじやま きょうすけ、1999年4月21日 - )は、大阪府出身のサッカー選手。ポジションはDF。 興國高等学校から大阪商業大学に進学した。 卒業後はドルガ・ツルノゴルスカ・フドバルスカ・リーガ所属のFKベラネに加入し、卒業後すぐの2022年3月6日に行われたリーグ戦で選手初出場を記録した。同年夏に同リーグのOFKニクシッチに移籍した。 2023年2月12日に日本フットボールリーグの鈴鹿ポイントゲッターズに完全移籍した。
橋本 啓吾(はしもと けいご、1998年9月17日 - )は… 橋本 啓吾(はしもと けいご、1998年9月17日 - )は、大阪府出身のサッカー選手。Jリーグ・テゲバジャーロ宮崎所属。ポジションはFW。 公立高校の大阪府立阪南高等学校のサッカー部に入部。 大阪商業大学に進学。大学4年間で関西2部リーグ通算48ゴールを決めた。 2021年2月19日、テゲバジャーロ宮崎に加入することが発表された。2021年3月14日、J3第1節のいわてグルージャ盛岡戦でJリーグデビューを果たした。5月2日、J3第7節のFC今治戦でJリーグ初ゴールを決めた。 2024年8月31日、J3第26節・ヴァンラーレ八戸戦で通算100試合達成。翌9月7日、第27節・SC相模原戦ではキャリア初のシーズン2桁得点となるゴールを上げた。
下川 陽太(しもかわ ようた、1995年〈平成7年〉9月7日… 下川 陽太(しもかわ ようた、1995年〈平成7年〉9月7日 - )は、大阪府出身のプロサッカー選手。ポジションは、ミッドフィールダー(MF)。J2リーグ・テゲバジャーロ宮崎に所属。 国見高校を経て、大阪商業大学へ進学。大学3年次の2016年6月、関西学生選抜の一員としてプレーした関西ステップアップリーグ・ガンバ大阪戦で後半から途中出場し、決勝点をアシストして勝利に貢献した。それまで年代別代表など目立った実績はなかったが、もともとFW・岡佳樹の視察のために訪れていた松本山雅FCの強化担当者の目に留まり、その後夏に3週間に渡り松本の練習に参加。同年12月末には、2018年シーズン加入へ向けての仮契約を締結した。
赤塚 京介(あかつか きょうすけ、1991年6月9日 - )… 赤塚 京介(あかつか きょうすけ、1991年6月9日 - )は、岩手県出身の元サッカー選手。ポジションはFW。
鈴木 諒(すずき りょう、1990年8月7日 - )は、宮城… 鈴木 諒(すずき りょう、1990年8月7日 - )は、宮城県出身のプロサッカー選手。ポジションはフォワード。
桝田 雄太郎(ますだ ゆうたろう、1985年3月27日 - … 桝田 雄太郎(ますだ ゆうたろう、1985年3月27日 - )は、大阪府吹田市出身の元サッカー選手。ポジションはDF。
生口 明宏(いぐち あきひろ、1984年7月16日 - )は… 生口 明宏(いぐち あきひろ、1984年7月16日 - )は大分県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。 2007年に大分県リーグ1部・HOYO Atletico ELAN(現:ヴェルスパ大分)に入団。2010年からはゲームキャプテンを務めた。2014年をもって現役を引退し、V大分のコーチに就任。
嶋田 正吾(しまだ しょうご、1979年11月13日 - )… 嶋田 正吾(しまだ しょうご、1979年11月13日 - )は、兵庫県加古郡稲美町出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 2002年にアイン食品に入団。その後、日本フットボールリーグの佐川急便大阪SC/佐川急便SCを経て、2008年にJ2リーグのFC岐阜に移籍。2009年シーズンはリーグ戦の51試合、天皇杯4試合と公式戦全55試合に出場した。2013年から2017年までアイン食品サッカー部の監督を務めていた。
増川 隆洋(ますかわ たかひろ、1979年11月8日 - )… 増川 隆洋(ますかわ たかひろ、1979年11月8日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)。 小学校3年生時に津田SCでサッカーを始める。姫路市立飾磨西中学校、姫路市立琴丘高等学校から大阪商業大学へと進学し、卒業時に複数のクラブの入団テストを受けたが、右膝半月板損傷などの故障の影響から不合格。8月に大学OBである中村重和がアビスパ福岡の監督に就任した際に、同チームへ練習生として所属することとなった。なお、播戸竜二は高校時代の同級生、嶋田正吾は大学の同期である。 2003年にアビスパ福岡に正式に加入。3月15日、第1節水戸戦(博多の森球技場)で初出場した。
横山 博敏(よこやま ひろとし、1975年5月9日-)は、鹿… 横山 博敏(よこやま ひろとし、1975年5月9日-)は、鹿児島県姶良市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 長男の横山歩夢(ベルギー・チャレンジャープロリーグ・ヨング・ヘンク所属)、次男の横山夢樹(セレッソ大阪所属)、共にプロサッカー選手。 加治木町立加治木中学校、鹿児島実業高等学校、大阪商業大学を経て1998年にJリーグのジェフユナイテッド市原へ入団。2年間所属したのち2000年に日本フットボールリーグ(JFL)・横浜FCに移籍し、Jリーグ入りに貢献した。その後も横浜FCの主力として活躍したが、若手の台頭で出場機会が減少したため、活躍の場を求めて2004年にヴァンフォーレ甲府にレンタル移籍。
中口 雅史(なかぐち まさふみ、1972年4月10日 - )… 中口 雅史(なかぐち まさふみ、1972年4月10日 - )は、徳島県徳島市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 長崎県立国見高校時代は決定力の高いFWとして活躍。初の九州勢同士の決勝となった第69回全国高等学校サッカー選手権大会決勝の対鹿児島実業高校戦では、延長後半に決勝点を挙げ、国見高校を優勝へ導いた。 大阪商業大学を経て1995年に入団したガンバ大阪での公式戦の試合出場はなし。1997年からは佐川急便大阪SCに完全移籍。関西サッカーリーグ1部では1998年および1999年にベスト11に選出された。 引退後の2002年から佐川急便大阪SCでコーチを務め、2006年に監督に昇格。
杉山 弘一(すぎやま こういち、1971年10月27日 - … 杉山 弘一(すぎやま こういち、1971年10月27日 - )は、大阪府高槻市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード、ディフェンダー。 大阪府高槻市に生まれ、阿武野中学校→高槻南高校→大阪商業大学とサッカーを続ける。高校時代にセンターフォワードとして日本ユース代表に、大学時代にバルセロナ五輪代表候補に選ばれる。大学まではセンターフォワードやサイドアタッカーとして活動したが、浦和レッズに入ってからはサイドバックにコンバートされる。スピードがあるため、タイミングを見て攻め上がることを得意としていた。 中島豪、城定信次の台頭や、土橋正樹が左サイドバック起用されることもあり、徐々に出番を失い、1999年からは東京ヴェルディ、アルビレックス新潟へと移籍。
川口良輔(かわぐち りょうすけ、1971年5月8日 - )は… 川口良輔(かわぐち りょうすけ、1971年5月8日 - )は元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡学園高等学校に入学。高校卒業後、大阪商業大学に進学した。 1994年 Jリーグ・ジュビロ磐田に入団。1995年、チームを退団。 1996年、富士通(現 川崎フロンターレ)に入団。 現役引退後、川崎フロンターレでアカデミーコーチ、トップチームコーチ、スカウト担当などをしている。
埜下 荘司(ののした しょうじ、1970年5月24日 - )… 埜下 荘司(ののした しょうじ、1970年5月24日 - )は愛媛県出身の元プロサッカー選手。ポジションはDF。
中尾 幸太郎(なかお こうたろう、1969年6月8日 - )… 中尾 幸太郎(なかお こうたろう、1969年6月8日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはDF。 国見高校、大阪商業大学を経て、川崎製鉄サッカー部(後のヴィッセル神戸)に入部。1997年には川崎製鉄時代から3人目の生え抜き選手としてJリーグのピッチに立った(他の2人はGKの兼本正光とDFの梶山洋一である)。 ヴィッセルを退団後は佐川急便で働きながら佐川系のサッカークラブを転々。2005年に佐川急便京都サッカー部の選手兼任監督に就任するも、同年限りでサッカー部の廃部が決定。2006年からは佐川急便京都サッカー部を母体として滋賀県に移転したFC Mi-Oびわこ(現・レイラック滋賀FC)にて選手兼任監督を務めた。
高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は… 高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は、長崎県南島原市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはフォワード(FW)。元日本代表。大阪商業大学卒業。Jリーグ・V・ファーレン長崎の取締役兼CRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)および監督を務める。 家族は妻と一男一女。第一子の長男はサッカー選手の高木利弥。 現役時代は、184 cm・85 kg(選手時代は188cm・82kgとなっていた)という恵まれた体格を生かしたポストプレーやヘディングを武器に得点を重ねたセンターフォワード。「アジアの大砲」と呼ばれ、ハンス・オフト監督政権下の日本代表におけるキーマンであった。
古俣 健次(こまた けんじ、1964年7月15日 - )は新… 古俣 健次(こまた けんじ、1964年7月15日 - )は新潟県新潟市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。サッカー解説者。 新潟工業高校から大阪商業大学を経て、1987年に日本サッカーリーグ(JSL)のヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)に入団。1987/88年シーズンで全試合に出場し、新人王を受賞。日本代表合宿に招集され、松永成立、武田修宏、黒崎久志、菊原志郎らと共にマラハリムカップに出場し、優勝に貢献した。ジャパンフットボールリーグを経て、ジュビロがJリーグ昇格後の1994年まで主力の一角としてプレーしたが、1995年は頸椎の骨折や、同じポジションのドゥンガ加入などが原因でわずか1試合の出場に留まり、オフに戦力外通告を受けて退団した。
本並 健治(ほんなみ けんじ、1964年〈昭和39年〉6月2… 本並 健治(ほんなみ けんじ、1964年〈昭和39年〉6月23日 - )は、大阪府枚方市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者、解説者。現役時代のポジションはゴールキーパー(GK)。元日本代表 妻は元女子日本代表の丸山桂里奈。 大阪市立依羅小学校、大阪市立我孫子中学校、清風高等学校、大阪商業大学を経て1987年、ガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に入団。松下時代は1学年上の慶越雄二の控えであったが、慶越の移籍もあって正GKの座に就く。 1993年のJリーグ発足後より、度々見せる鋭い反応や、自陣のぎりぎりまでも飛び出す攻撃的な姿勢が注目を浴び、人気選手の1人となる。当時のG大阪は弱小チームであり、守備の弱さから本並の出番は多かった。
望月 聡(もちづき さとる、1964年5月18日 - )は、… 望月 聡(もちづき さとる、1964年5月18日 - )は、滋賀県大津市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF(攻撃的MF、守備的MF)、FW(センターフォワード)。2007年、びわこ成蹊スポーツ大学准教授に就任。
梶居 勝志(かじい かつし、1963年7月11日 - )は… 梶居 勝志(かじい かつし、1963年7月11日 - )は、鹿児島県出身の元サッカー選手、サッカークラブのフロントスタッフ。ガンバ大阪強化部長。 小学6年の時にサッカーを始める。フォワードや攻撃的ミッドフィールダーとしてプレーし、ドリブルでチャンスを広げ多くのアシストを記録した。自身ではプレーの特長を「スピードで相手をぶっちぎること」と述べている。鹿児島実業高等学校、大阪商業大学を経て、1986年にガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に加入。JSL1部での通算成績は102試合出場12得点24アシスト。これは松下において永島昭浩(107試合出場)に次ぐ試合出場数であり、アシスト数では通算1位である。
柳生 斉(やぎゅう ひとし、1963年7月8日 - )は、岡… 柳生 斉(やぎゅう ひとし、1963年7月8日 - )は、岡山県出身の元サッカー選手。 ポジションは、DF。 岡山県作陽高校在学時、FWで、年代別の日本代表に選出される。1981年の第60回全国高校サッカー選手権では、市立清水商業に準々決勝で敗れたものの、ベスト8と健闘した。大学は、大阪商業大学に進み、1986年、JSL2部・田辺製薬サッカー部へ入部し、活躍した。
松永 英機(まつなが ひでき、1963年2月8日 - )は、… 松永 英機(まつなが ひでき、1963年2月8日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 大阪商業大学サッカー部時代は全日本大学選手権2連覇を果たした。卒業後は[要出典]松下電器産業サッカー部(現:ガンバ大阪)でプレー。 引退後は松下電器およびプロ化したG大阪や、ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)で指導者経験を積む。またこの間、日本サッカー協会の強化委員スタッフに加わり、アトランタ五輪ではスカウティングスタッフとして対戦相手チームを分析。マイアミの奇跡と呼ばれるブラジル戦での勝利に貢献した。 1999年にはV川崎で初めてJリーグチームの監督を務める(ただし実質的な指揮は総監督の李国秀が執っていた。
勝矢 寿延(かつや としのぶ、1961年9月2日 - )は、… 勝矢 寿延(かつや としのぶ、1961年9月2日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF。元サッカー日本代表。元フットサル日本代表。 島原商業高校時代は全国高等学校サッカー選手権大会に出場している。大阪商業大学を経て、本田技研工業に入社。センターバックとして活躍すると、1985年に開催された1986 FIFAワールドカップ・アジア予選、香港戦でAマッチ初出場。アジア地区最終予選の韓国戦の第2戦にも出場したが、0-1と破れワールドカップ出場はならなかった。1987年にはソウル五輪のアジア地区最終予選まで進出したが、最終戦で中国に敗れ敗退。以降は代表を遠ざかったが、1991年に日産自動車へ移籍し存在感を発揮すると、新たに代表監督に就任したハンス・オフトによって代表に復帰。
小林 伸二(こばやし しんじ、1960年8月24日 - )は… 小林 伸二(こばやし しんじ、1960年8月24日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手(FW)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。現AC長野パルセイロ監督。 中学3年の時に島原商業高の小嶺忠敏監督が自宅に直々に勧誘に来たことがきっかけで同校に入学し、雨や台風でも休みなしで練習、練習後に12kmのコースを走らされることもあった。1年次の1976年からFWとして頭角を現し、2年次の1977年にはインターハイを優勝。ちなみに長崎北高出身の松田浩は同県出身で同い年である。元々はサッカーは高校までで終え、卒業後は両親が国見町(現・雲仙市)で営む家業の菓子店を継ぐための修行に入るつもりであったが、小嶺の影響により指導者を志し、1979年に大阪商業大学へ入学。
有田 一矢(ありた かずや、1960年4月2日 - )は、新… 有田 一矢(ありた かずや、1960年4月2日 - )は、新潟県出身の元サッカー選手、ポジションはセンターバック。サッカー指導者。日本サッカー協会公認S級コーチ。 新潟工業高等学校が1978年度の全国高等学校サッカー選手権大会に初出場した時にはフォワードのポジションでプレー。その後、ヤマハ発動機に入ってからディフェンダーに転向。 ヤマハでは森下申一(後にサッカー日本代表GK)と同期入社。石神良訓、内山篤、柳下正明、吉田光範などと共にプレーし、1988年の日本サッカーリーグ1部優勝に貢献した。 1990-91年シーズンを最後に現役を引退。その後はサッカー指導者の道に入り、現在に至る。
中村 重和(なかむら しげかず、1958年7月30日 - )… 中村 重和(なかむら しげかず、1958年7月30日 - )は、長崎県島原市出身の元サッカー選手(DF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。 現周南公立大学サッカー部監督。 島原商業高校では小嶺忠敏から指導を受け、大阪商業大学では上田亮三郎から指導を受けた。どちらもミッドフィルダーとしてプレーした。 1981年大学卒業後、マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部(マツダSC、現在のサンフレッチェ広島)に入団した。ディフェンダー(サイドバック)として信藤克義(信藤健仁)や松田浩らとDFラインを形成、高校・大学の後輩にあたる小林伸二や、高橋真一郎・猿沢茂・木村孝洋ら地元広島出身者、ディド・ハーフナーら外国人らとプレーした。
田口 貴寛(たぐち たかひろ、1957年12月8日 - )は… 田口 貴寛(たぐち たかひろ、1957年12月8日 - )は、東京都北区出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
加藤 好男(かとう よしお、1957年8月1日 - )は埼玉… 加藤 好男(かとう よしお、1957年8月1日 - )は埼玉県浦和市(現、さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
長谷川 治久(はせがわ はるひさ、1957年4月14日 - … 長谷川 治久(はせがわ はるひさ、1957年4月14日 - )は、兵庫県出身の元サッカー選手。 北陽高等学校、大阪商業大学を経て、JSLのヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)でFWとして活躍した。 大学在籍中より日本代表に選出され、モスクワオリンピック予選、ワールドカップ・スペイン大会予選に出場した。 ゴール前での得点感覚に優れ「釜本2世」と称された時期もあったが、1984年以降は極度の不振に苦しんだ。1987年に引退後はヤンマーの関連会社に出向していたが、1994年以降はサッカー界に戻り、Jリーグクラブのフロントスタッフを歴任している。 2007年からはスカパー!でセレッソ大阪のホームゲーム、近年はヴィッセル神戸のホームゲーム解説などを担当。
河内 勝幸(かわち かつゆき、1955年4月27日 - )は… 河内 勝幸(かわち かつゆき、1955年4月27日 - )は、広島県出身の元サッカー日本代表選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 県立広島工業(通称・県工)時代は一年からレギュラーとなり1971年、徳島高校総体準優勝(0-3藤枝東)。第14回アジアユース選手権(AFCユース選手権)日本代表にも選ばれた。高校選手権には三年連続出場。二年連続で大会優秀選手に選ばれ、三年時には再びユース日本代表に選ばれた。楚輪博は1学年、金田喜稔と石崎信弘は2学年下となる。木村和司は3学年下。 その後、大阪商業大学へ入学し、上田亮三郎から指導を受け、西村昭宏、加藤好男、中村重和らとプレー。 大学卒業後、東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ。
山野 孝義(やまの たかよし、1955年4月5日 - )は、… 山野 孝義(やまの たかよし、1955年4月5日 - )は、大阪府出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。 北陽高等学校では1973年度に全国高校サッカー優勝。大阪商業大学卒業後、1978年ヤンマー入社。この年サッカー日本代表に選出(代表Aマッチ出場2試合)。1980年には日本サッカーリーグ(JSL)優勝。JSL1部通算成績は125試合4得点3アシスト。 1984年ヤンマーを退社、大阪ガスサッカー部で選手としてプレーするかたわら同部コーチにも就任。その後出身校である大商大のコーチなどを務め、1999年にはS級ライセンスを取得、長崎県立国見高等学校サッカー部コーチに就任。 2001年には東京ヴェルディ1969のコーチに就任するが、成績不振の責任を取ってシーズン途中でサテライト監督に降格、1年限りで退任。
古前田 充(こまえだ みつる、1950年4月14日 - )は… 古前田 充(こまえだ みつる、1950年4月14日 - )は、岩手県盛岡市出身の元サッカー選手(MF)・サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 遠野高校、大阪商業大学を経て、1973年にJSLの藤和不動産へ入部。今井敬三と共にフジタの守備の中心選手で、JSLベストイレブンに5度(1976年-1977年, 1979年-1981年)も選出され、1977年にはセイハン比嘉と共に7アシストでJSLアシスト王を獲得。3度のJSL1部優勝(1977年, 1979年, 1981年)と2度の天皇杯制覇(1977年, 1979年)に貢献したほか、日本代表にも選出。ムルデカ大会・キリンカップ・ヨーロッパ遠征に出場し、国際Aマッチでは2試合2得点を記録。
小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日 - 20… 小嶺 忠敏(こみね ただとし、1945年6月24日 - 2022年1月7日)は、日本の元高校教員、サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。一般社団法人長崎県サッカー協会会長、長崎総合科学大学特任教授。 長崎県南高来郡堂崎村(後の有家町、現在の南島原市)出身。父親は生前に太平洋戦争で戦死したため母子家庭(7人兄弟)で育ち、一家は農業で生計を立てていた。中学(堂崎中学)時代はバレーボール部に所属。長崎県立島原商業高校入学後よりサッカー部に所属し、3年時には主将を務め、九州選抜チームにも選出された。 高校卒業後は家庭事情から就職する予定であったが大阪商業大学からのスカウトもあり同大学に進学してサッカー部に所属。
上田 亮三郎(うえだ りょうざぶろう、1936年7月26日 … 上田 亮三郎(うえだ りょうざぶろう、1936年7月26日 - )は、愛媛県出身のサッカー指導者。現大阪商業大学サッカー部総監督。 1936年、愛媛県に生まれる。父の影響で松山南高でサッカーを始め、愛媛大学から東京教育大学に編入した。2学年後輩に勝澤要、3学年後輩に今西和男・坂田信久がいる。 1961年に、当時3部だった大阪商業大学サッカー部の監督となり、1965年には1部へ昇格させた。以降、同部を関西学生選手権優勝11回、同リーグ戦優勝18回、全日本大学選手権優勝4回、総理大臣杯優勝2回の強豪に育て上げた。 1969年、加茂周・大橋謙三・清水泰男・中村義喜らとともに、千葉県で行われた第1回FIFAコーチング・スクールに参加(サッカーに関するすべての理論と実技の教官はデットマール・クラマー)。