佐藤 勇二(さとう ゆうじ、1903年9月15日 - 197… 佐藤 勇二(さとう ゆうじ、1903年9月15日 - 1977年12月4日)は、日本の実業家。三菱自動車工業初代社長。 広島県福山市出身。山口高等商業学校を経て、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。 三菱造船勤務、水島航空機製作所業務部長、水島機器製作所営業部長、三菱重工業副社長などを経て、1970年三菱自動車工業初代社長に就任。クライスラーとの提携を実現。合弁事業を行い、アメリカへの進出を進め、1971年には北米のクライスラーチャンネルでコルトギャランの発売を開始。 1977年12月4日世田谷区の橋本病院で肝硬変のため死去。享年74。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 -… 石田 磊(いしだ らい、明治36年(1903年)9月8日 - 昭和62年(1987年))は、日本の商工官僚・実業家。通産省鉱山局長。 鳥取県米子市明治町出身。石田悦の長男。 大正14年(1925年)、文官高等試験行政科に合格。昭和2年(1927年)東京商科大学(現一橋大学)卒。商工省に入省。 昭和15年(1940年)博覧会主任官として渡米、昭和16年(1941年)より満州国政府招聘、昭和20年(1945年)商工省復帰、鉱山局長、大阪商工局長を歴任。 昭和24年(1949年)退官、同年平仙レース(株)顧問、大日実業(株)取締役、昭和28年(1953年)カナダ国トロント市国際見本市に参加、欧米各国を歴訪した。
古我 周二(こが しゅうじ、1903年 <明治36年> 7月… 古我 周二(こが しゅうじ、1903年 <明治36年> 7月25日 - 1983年 <昭和58年> 8月15日)は、日本の経営者。滋賀県出身。位階は従四位。 1929年に東京商科大学本科を卒業し、同年に横浜護謨製造に入社。取締役、常務、専務を経て、1959年に日本ゼオン副社長に就任し、1966年11月には社長に昇格。1972年5月に会長に就任。 1970年4月に藍綬褒章を受章し、1977年5月に勲三等旭日中綬章を受章。 1983年8月15日 脳梗塞のために死去。80歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
芦田 泰三(あしだ たいぞう、1903年7月10日 - 19… 芦田 泰三(あしだ たいぞう、1903年7月10日 - 1979年10月18日)は、日本の実業家。住友生命保険元社長・会長。 明治36年(1903年)、兵庫県生まれ。昭和2年(1927年)、東京商科大学(現一橋大学)を卒業、同年住友生命入社。京都、ソウル、福岡などの支店長、人事部長、営業部長を歴任し、昭和22年(1947年)財閥解体により名称変更された国民生命保険社長に就任。昭和27年(1952年)もとの社名に改称、昭和41年(1966年)には会長。 源氏鶏太から『三等車に乗る一等重役』と称賛されたという。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
内多 蔵人(うちた くらうと、1903年5月1日 - 198… 内多 蔵人(うちた くらうと、1903年5月1日 - 1980年10月6日)は、日本の経営者。富山県高岡市出身。 1927年に東京商科大学を卒業し、同年に大日本麦酒に入社。1949年に日本麦酒(のちのサッポロビール)に移り、東京支店長、理事、取締役を経て、1961年に常務に就任し、1967年2月に副社長に就任した。1971年2月に社長に昇格し、1973年2月には会長に就任した。 1980年10月6日台湾台北市で旅行中に脳溢血のために死去。77歳没。
岩田 蒼明(いわた そうめい、1903年(明治36年)3月1… 岩田 蒼明(いわた そうめい、1903年(明治36年)3月1日 - 1980年(昭和55年)5月31日)は、日本の実業家。日本陶器取締役社長や、同社取締役会長、中部生産性本部会長などを務めた。旧名:岩田莊一。 1926年に東京商科大学(現一橋大学)専門部卒業後、日本陶器に入社し、水品浩からハーマン・ホレリス式統計機第1号機の操作を学び、会計処理の機械化を行うなどした。1944年取締役に昇格。1945年常務取締役。1950年専務取締役。1956年取締役副社長。1961年から取締役社長を務め、アメリカ市場開拓を進めた。1965年日本特殊陶業取締役、日本碍子取締役、東洋陶器取締役。1973年中部生産性本部会長。
永井 大三(ながい だいぞう、1903年(明治36年)1月2… 永井 大三(ながい だいぞう、1903年(明治36年)1月20日 - 1988年(昭和63年)1月20日)は、日本の実業家。社長不在時の朝日新聞社で常務取締役業務局長としてトロイカ体制を敷いたが村山事件で解任された。 広島県出身。1927年旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、朝日新聞社に入社。 販売部門を歩み売上を伸ばし、1947年に販売及び広告を統括する業務局長に就任。業務局長のまま、1951年から取締役、1956年から常務を兼任し、社長不在の中で、信夫韓一郎専務、笠信太郎論説主幹とトロイカ体制を敷いた。 この間、1952年から東京放送取締役を兼務。1961年に復帰した村山長挙社長と対立し、1963年の村山事件で退任して朝日新聞社社友となる。
大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - … 大橋 英吉(おおはし えいきち、1902年11月18日 - 1987年9月23日)は、日本の実業家。元いすゞ自動車社長。勲二等瑞宝章。 岐阜県出身。1920年旧制岐阜中学校(のちの岐阜県立岐阜高等学校)卒業。のちに第三代在京岐阜高校同窓会会長を務めた。 1928年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、東京石川島造船所自動車部(のちのいすゞ自動車)に入る。 1965年いすゞ自動車社長に就任。自動車業界再編の中、1966年に富士重工業と提携。同年藍綬褒章受章。1970年に日産自動車と提携。 1970年日産自動車との提携を機に社長を退任。この退任は、ワンマン社長として知られた大橋が、同じくワンマン社長として知られ、大学の1年後輩である、日産自動車の川又克二社長に主導権を握られるのを嫌ったことが理由との見方もされた。
小林 茂(こばやし しげる、1902年(明治35年)9月28… 小林 茂(こばやし しげる、1902年(明治35年)9月28日 - 1988年(昭和63年)10月23日)は、日本の実業家。東京創元社を設立し、同社社長や会長を務めた。 東京商科大学(現一橋大学)卒業。創元社東京支社長を経て、創元社東京支社が独立して設立された同名の創元社が倒産したため、これを再建し、1954年に東京創元社を設立。同社社長や、会長を務めた。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 -… 高橋 朝次郎(たかはし あさじろう、1902年9月24日 - 1976年8月5日)は、日本の実業家。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。広島県広島市出身。 広島市立本川小学校、旧制広島一中を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業、キリンビール入社。1942年営業部第一部長。1943年営業部第一部長兼東京支店長。1944年麦酒配給統制出向。1948年酒類配給公団理事。1949年酒類配給公団解散に伴い、キリンビールに復帰し、同社取締役営業部長に就任。1953年取締役営業部長兼宣伝部長。1958年常務取締役営業部長。1966年専務取締役。1969年から代表取締役社長を務め、史上最高の63.8パーセントの市場シェアを獲得。
片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明… 片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明治35年> 1月30日 - 1988年 <昭和63年> 10月11日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。京都府福知山市出身。位階は従五位。 1923年に東京商科大学を卒業。1946年に京都銀行の前身である丹和銀行頭取に就任。1972年に相談役を経て、1980年には顧問に就任。 1988年10月11日急性呼吸不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日… 2代目玉塚 栄次郎(たまつか えいじろう、1902年1月9日 - 1962年11月22日)は、日本の実業家。玉塚證券社長・会長、日本証券業協会会長、東京証券取引所理事長を歴任。 東京市日本橋生まれ。旧姓は山崎。初代玉塚栄次郎の養子となり、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業、玉塚證券入社。玉塚證券社長・会長、玉塚不動産社長、日本証券業協会会長などを歴任。1955年から1957年まで東京証券取引所理事長を務めた。 1962年日本医科大学付属第一病院で胃癌のため死去。享年60。酒が飲めず、地味な性格で、夜の付き合いが苦手なため、敵がいないと評された。 玉塚證券で役員を務めた玉塚和男は子息。ローソン社長などを務めた玉塚元一は孫。
土井 末夫(どい すえお、1902年〈明治35年〉1月6日 … 土井 末夫(どい すえお、1902年〈明治35年〉1月6日 - 1976年〈昭和51年〉6月5日)は、日本の実業家、銀行家。第2代佐賀銀行頭取。東邦海運(現:NSユナイテッド海運)元常務。小幡亜鉛鍍金工場元常務。佐賀商工会議所元会頭。佐賀県テニス協会元会長。従五位勲四等旭日小綬章受章者。 佐賀県佐賀郡川副町(現:佐賀市川副町)出身。佐賀市在籍。1927年(昭和2年)東京商科大学を卒業し、同年4月日本興業銀行に入行。 1937年(昭和12年)3月満洲興業銀行に出向。1941年(昭和16年)5月復帰。1946年(昭和21年)7月庶務部長となり、1948年(昭和23年)12月理事に選ばれ、後取締役と改称。
田中 百畝(たなか ひゃっぽ、1901年12月1日 - 19… 田中 百畝(たなか ひゃっぽ、1901年12月1日 - 1964年2月11日)は、日本の実業家。京浜急行電鉄社長、京浜百貨店社長。広島県世羅郡津名村下津田(現:世羅町下津田)出身。 教育者を志し1927年、東京商科大学(現:一橋大学)教員養成所を卒業。 教職にあったが1932年、京浜電気鉄道(現:京浜急行電鉄)に入社。1939年同社常務、東京地下鉄道専務、東京急行電鉄専務を経て、1946年京浜百貨店(現:京急ストア)社長に就任。 戦後、京急の大東急からの分離独立運動に尽力。1948年京浜急行電鉄発足後の1950年、同社社長に就任。川崎鶴見臨港バスの買収、都営地下鉄との提携による都心乗り入れ、平和島温泉の建設、三浦半島の開発など沿線地域の開発に敏腕を振るい京急発展の礎を築いた。
田中 外次(たなか そとじ、1901年(明治34年)11月7… 田中 外次(たなか そとじ、1901年(明治34年)11月7日 - 1992年(平成4年)10月27日)は、日本の実業家。初代住友金属鉱山社長。元日本鉱業協会会長。旧姓は水谷。 長崎県長崎市に生まれる。旧制長崎県立長崎中学校(1919年卒業)を経て、1926年に東京商科大学(現・一橋大学)本科を卒業した。印南博吉(明治大学名誉教授)は志田鉀太郎ゼミの同期である。 また、坐禅クラブの「一橋如意団」に所属し、古川尭道門下で、円覚寺での禅の修行で知り合った草鹿任一の勧めで、大学卒業後は住友合資会社に入社した。 1927年に住友合資会社別子鉱業所が独立して設立された住友別子鉱山に入社。住友別子鉱山が住友炭砿と合併して改組された住友鉱業の総務部長や、同社が商号変更した井華鉱業取締役を経て、1947年井華鉱業の専務取締役となる。
5代 上野 喜左衛門(うえの きざえもん、1901年(明治3… 5代 上野 喜左衛門(うえの きざえもん、1901年(明治34年)8月6日 - 1971年(昭和46年)8月9日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員、参議院議員。南国殖産、南国交通、長崎自動車などの創業者。 豪商・先代上野喜左衛門の長男として鹿児島県薩摩郡隈之城村大字東手の向田(のちの川内市(現薩摩川内市)向田町)に生まれ、父の死去に伴い1921年(大正10年)家督を相続し、前名次郎七を改め襲名する。 1920年(大正9年)東京商科大学(現一橋大学)予科に入学し、1927年(昭和2年)に同大学を卒業する。キッコーマンの茂木啓三郎とは大学時代からの親友。 1925年(大正14年)川内電気社長となる。
福井 道二(ふくい みちじ、1901年(明治34年)5月22… 福井 道二(ふくい みちじ、1901年(明治34年)5月22日 - 1991年(平成3年)4月4日)は、昭和期の実業家。南満州鉄道株式会社の社員(参事)。 愛知県渥美郡高松村(現在の田原市)において、父作蔵と母とも(旧姓:中藪)の十三人兄弟姉妹の四男として生をうける。作蔵は福井作蔵商店を興し明治42年(1909年)、渥美半島の片浜(太平洋岸)十三里(約50km)の地引き網100ヵ統への資材の供給する網元であった。 高松尋常高等小学校を卒業し、田原にあった成章中学校(旧藩校:成章館)に進んだ。その後、両親は親戚が東京神田で鉄鋼の商いをしているので一橋商大(東京商科大学、現:一橋大学)を勧め、兄からは名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)の紡織科を勧められている。
鈴木 三千代(すずき みちよ、1901年1月5日 - 199… 鈴木 三千代(すずき みちよ、1901年1月5日 - 1997年11月10日)は、日本の実業家。三楽(のちのメルシャン)社長を務めた。食品産業功労賞者。 旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業後、1924年味の素本舗鈴木商店(のちの味の素)入社。大阪支店長、常務、専務等を経て、三楽(のちのメルシャン)社長に就任、ワイン事業などをすすめた。1952年に同社会長就任。また味の素の監査役や顧問も務めた。 1997年11月10日、東京都目黒区の病院で死去、享年96。築地本願寺で社葬が行われた。 鈴木忠治(鈴木商店(のちの味の素)第2代社長)の長男。2代目鈴木三郎助(鈴木商店創業者)は伯父、鈴木忠雄(元メルシャン社長、元味の素副会長)は長男。
中崎 敏(なかざき / なかさき とし、1900年(明治33… 中崎 敏(なかざき / なかさき とし、1900年(明治33年)11月27日 - 1963年(昭和38年)5月17日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 島根県那賀郡都野津村(現江津市都野津町)で、中崎熊太郎の長男として生まれる。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京商科大学を卒業。 卒業後、三井銀行本店に勤務。以後、東邦化学工業代表取締役、日本切削油製造社長、日本防火資材 (有) 社長、新理研映画社社長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に島根県選挙区から日本社会党公認で立候補し当選。以後、第28回総選挙まで連続7回の当選を果たした。この間、日本社会党中央執行委員、同日中国交回復特別委員長、同財務委員会事業部長、中小企業国会議員協議会長を歴任。
阿藤 傳治(あとう でんじ、1900年(明治33年)10月2… 阿藤 傳治(あとう でんじ、1900年(明治33年)10月23日 - 1981年(昭和56年)12月14日)は、日本の実業家。朝日放送元会長。 福岡県豊前市出身。東京商科大学を卒業し、同年に住友銀行に入行。1955年1月に大阪テレビ放送常務に就任し、1959年に合併により、朝日放送常務に就任し、1964年から1968年までに専務を、1968年から1971年までに副社長を、1971年5月から1974年までに会長をそれぞれ務めた。その後は1975年5月までに取締役を務めた。 1981年12月14日急性心不全のために兵庫県宝塚市の自宅で死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
竹村 吉右衛門(たけむら きちえもん、1900年10月11日… 竹村 吉右衛門(たけむら きちえもん、1900年10月11日 - 1984年6月7日)は、日本の実業家。安田生命保険取締役会長や、同社取締役社長を務め、中興の祖とされた。 秋田県北秋田郡大館町(現・大館市)出身。大館尋常小学校を経て、1918年秋田県立大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)卒業。1921年小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業。1924年東京商科大学(現・一橋大学)商学部卒業(井浦仙太郎ゼミ)。 大学卒業後、安田銀行に入行。安田銀行金融課長、安田銀行小舟町支店長、安田銀行取締役本店営業部長、日本貯蓄銀行専務取締役などを歴任したが、日本の降伏後、公職追放となる。 1950年安田生命保険取締役会長に復帰。
成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 19… 成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 1975年4月4日)は日本の実業家、教育者。 名古屋市出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業する。同年に愛知銀行へ入行する。1941年に東海銀行へ勤務する。1946年に東海銀行監査役となる。その後、1956年王子製鉄取締役会長、東京化工取締役、東海製線代表取締役、東京溶接棒取締役、大同不動産取締役、名古屋臨海鉄道取締役、大同製鋼取締役副社長などを歴任する。1969年-1971年には、大同工業大学(現大同大学)学長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
細井 徳次郎(ほそい とくじろう、1900年 <明治33年>… 細井 徳次郎(ほそい とくじろう、1900年 <明治33年> 8月1日 - 1975年 <昭和50年> 6月5日)は、日本の経営者。明治製菓社長を務めた。位階は従四位。 埼玉県出身。1925年に東京商科大学本科を卒業し、同年に明糖産業に入社。1929年に明治製菓に転じ、取締役、常務、専務、副社長を経て、1964年11月に社長に就任。1970年11月に相談役に就任。 1966年5月に藍綬褒章を受章し、1972年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月5日心臓衰弱のために死去。74歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
出光 計助(いでみつ けいすけ、1900年6月24日 - 1… 出光 計助(いでみつ けいすけ、1900年6月24日 - 1994年1月8日)は、日本の実業家。出光興産第2代社長。石油連盟会長も務め、勲二等旭日重光章を受章した。 出光興産の創業者である出光佐三の末弟。出光謙介元出光興産厚生年金基金理事長は長男。株式公開や脱創業家を行い、出光家出身の最後の社長となった出光昭第7代出光興産社長は二男。 福岡県の生まれ。旧制東筑中学(のちの福岡県立東筑高等学校)、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身。卒業後南満洲鉄道に入社。系列の鉄鋼会社や商社を経て、戦後、兄である出光佐三社長に勧められ出光興産入社。 1952年に専務を務めていた際、石油メジャーから原油購入を拒否されていたモハンマド・モサッデク政権下のイランに渡航、原油購入契約を締結、自社タンカーの日章丸でイギリス海軍の海上封鎖を突破してイラン原油を日本に持ち帰り、世界の注目を集めた(日章丸事件)。
竹中 治(たけなか おさむ、1900年4月10日 - 196… 竹中 治(たけなか おさむ、1900年4月10日 - 1967年4月15日)は、日本の実業家。ジャパンライン(現商船三井)創業者・初代社長。 和歌山県和歌山市出身。東京商科大学(現一橋大学)卒業後、商工省入省。小学校で両親を失い、家庭教師をしながら大学に通った。 その後退官し、1937年日東鉱業汽船設立。海運業のほか証券業、新聞業、石油、ガス、石炭、金属、不動産、化学などを幅広い事業を手がける。 戦後1947年に日東商船創立。1964年大阪商船との合併交渉が決裂し、大同海運と合併し、ジャパンライン設立、同社社長に就任。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選した。
美野 順二郎(みの じゅんじろう、1900年 <明治33年>… 美野 順二郎(みの じゅんじろう、1900年 <明治33年> 2月17日 - 1981年 <昭和56年> 6月23日)は、日本の経営者。住友倉庫社長を務めた。位階は従四位。 石川県松任市出身。1925年に東京商科大学を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1947年2月に取締役、1949年8月に常務、1954年5月に専務を経て、1956年1月には社長に就任。1965年5月に会長に就任し、1969年11月に相談役に退いた。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年6月23日老衰のために死去。81歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
浦島 秀雄(うらしま ひでお、1900年(明治33年)1月1… 浦島 秀雄(うらしま ひでお、1900年(明治33年)1月14日 - 没年不明)は、日本の実業家。東洋商事元社長。三菱商事元神戸支店次長。楽天グループ創業者で実業家の三木谷浩史の外祖父。 浦島茂十郎の次男として和歌山県に生まれる。1925年(大正14年)東京商科大学を卒業し、日本生糸に入社。のち三菱商事に転じ生糸部勤務を経て同社業務部調査課長に就任。その後神戸支店次長を経て、東洋商事社長に就任。 趣味は碁、将棋、スポーツ。
安居 喜造(やすい きぞう、1899年12月2日 - 198… 安居 喜造(やすい きぞう、1899年12月2日 - 1983年9月30日)は、日本の実業家。東レ会長、経団連副会長、日本化学繊維協会会長等を務めた。また日本国有鉄道監査委員会委員長を務め、国鉄再建のため尽力した。1979年勲一等瑞宝章受章。 近江国彦根・龍潭寺を菩提寺とする安居家(彦根藩)の出身。父の喜造は、犬上郡選出県会議員であったが、大正デモクラシー時代、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部の前身)設立委員長に就任、同校設置運動のため東上不在中に無理矢理に、彦根町長に選挙され、在任中は彦根高商設置のため始終奔走し、翌年に彦根高商新築の着工を見て辞任したことで、「高商町長」(彦根町) の愛称でよばれた。
三浦 懋(みうら つとむ、1899年11月26日 - 199… 三浦 懋(みうら つとむ、1899年11月26日 - 1993年5月1日)は、日本の経営者。島津製作所社長、会長を務めた。奈良県出身。 1923年に東京商科大学を卒業し、三菱銀行に入行。京都支店長、大阪支店長、取締役を経て、1956年5月に常務に就任した。 1959年11月に島津製作所に移り、専務に就任。副社長を経て、1965年5月から1971年5月までに社長を務め、1971年5月から会長に就任し、1981年6月から相談役に就任した。 京都商工会議所顧問も務めた。 1970年に勲三等旭日中綬章を受章し、1976年に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年5月1日肺炎のために死去。93歳没。
二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8… 二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8月5日 - 1993年8月16日)は、日本の実業家。キッコーマン中興の祖。同社社長として、個人醸造家の集合体を近代経営化し業界トップ化した。旧名は飯田勝次。 千葉県海上郡富浦村(現旭市)で農業を営む飯田家に生まれた。飯田庄作の弟である。 成東中学(現千葉県立成東高等学校)を経て、1926年に東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、野田醤油(現キッコーマン)に入社。大学では上田貞次郎ゼミに参加。上野喜左衛門(南国殖産創業者、元参議院議員)とは大学時代からの親友。入社後まもなく、労働争議を解決し、親友上野が橋渡し役となり、先代茂木啓三郎の養子となり1935年に家督を相続した。
小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3… 小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3月31日 - 1984年〈昭和59年〉10月9日)は、昭和時代の日本の実業家である。信越化学工業の第5代社長を務めた。現在の長野市出身。 1899年(明治32年)3月31日、小林太一郎の三男として生まれる。出身地は長野県上水内郡朝陽村(現・長野市)。長野中学校を卒業したのち、東京商科大学(現一橋大学)大学予科を経て1924年(大正13年)3月同大学本科を卒業した。 大学卒業後は前年に設立されたばかりの電機メーカー富士電機製造(現・富士電機)へと志願入社し、川崎工場に配属された。1931年(昭和6年)秋、富士電機製造から退社し、郷里長野県の電力会社信濃電気に入社する。
大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月1… 大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月10日 - 1992年(平成4年)4月5日)は、日本の実業家。月桂冠株式会社元代表取締役会長。12代目当主。 1899年(明治32年)1月、京都府京都市伏見区で大倉恒吉の長男として生まれる。1923年(大正12年)、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業と同時に第一銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に入行。その後、月桂冠株式会社の前身である大倉恒吉商店に入社し、大倉恒吉商店、共同酒造株式会社各常務、東京菱油商会、江田醸造研究所株式会社各監査を歴任後、1945年(昭和20年)に大倉酒造(現・月桂冠)株式会社代表取締役社長(のち会長)に就任した。
金子 嘉徳(かねこ よしのり、1898年11月27日 - 1… 金子 嘉徳(かねこ よしのり、1898年11月27日 - 1991年2月10日)は、日本の実業家。元東海銀行(現三菱UFJ銀行)頭取。元中京テレビ放送会長。初代中部経済同友会代表幹事。 山口県佐波郡徳地町出身。1924年に東京商科大学(現一橋大学)卒業、日本銀行入行。1943年日本銀行松本支店長。1945年東海銀行副頭取に就任。 1955年に中部経済同友会が設立されると、佐伯卯四郎とともに初代代表幹事に就任。 1959年から東海銀行頭取。1961年半田市庁舎建設資金を寄付し紺綬褒章を受章するとともに、私財を寄付した功績が顕著だとして併せて木杯一組台付を受けた。 1965年トヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)監査役。
榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月1… 榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月17日 - 1994年〈平成6年〉11月30日)は、日本の経済学者、キリスト教(アナバプティズム)研究家、政治家、実業家。青山学院大学名誉教授。筆名は、吾妻 東一、福田 逸史。 妻は衆議院議員の榊原千代。息子はヒッポファミリークラブ創設者の榊原陽。 愛知県碧南市生まれ。1921年(大正10年)3月、官立神戸高等商業学校を中途退学する。同年4月に東京商科大学(現・一橋大学)本科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業する。同年4月に横浜社会問題研究所の研究員に就任する。 1926年(大正15年)6月から福島高等商業学校(現・福島大学)講師、1927年(昭和2年)7月から同校教授に就任する。
稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 19… 稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 1988年4月3日)は、昭和時代の日本の実業家。 京都出身。稲畑勝太郎の長男。 1921年(大正10年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。1937年(昭和12年)稲畑商店(のちの稲畑産業)取締役社長となる。 1944年(昭和19年)から1946年(昭和21年)まで住友化学工業監査役を務めた。1948年(昭和23年)関西経済同友会代表幹事。1953年(昭和28年)再び住友化学工業監査役に就任。1958年(昭和33年)久保田鉄工監査役に就任。 1959年(昭和34年)再び関西経済同友会代表幹事に就任。1960年(昭和35年)日本国際貿易促進協会関西本部副理事長。
酒井 忠英(さかい ただひで、1898年(明治31年)9月2… 酒井 忠英(さかい ただひで、1898年(明治31年)9月28日 - 1942年(昭和17年)1月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・正夫。 子爵・酒井忠亮の二男として生まれる。 1923年(大正12年)東京商科大学を卒業。1924年(大正13年)横浜正金銀行に入行。その後、内外食品取締役、同監査役などを務めた。 父の死去に伴い、1928年(昭和3年)10月15日、子爵を襲爵した。 1940年(昭和15年)4月27日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、死去するまで1期在任した。
本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 19… 本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 1981年10月18日)は、日本の実業家。東京ガスの社長や会長、日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長等を務めた。勲二等旭日重光章受章。 1921年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、東京ガス入社。取締役供給部長、副社長等を経て、1953年社長就任。戦後の首都圏の都市ガス整備を行った 日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長、社団法人如水会理事長等も務め、1968年に勲二等旭日重光章受章。 1981年10月18日、肝不全のため東京女子医科大学病院で死去、享年83。
岡島 美行(おかじま よしゆき、1898年4月25日 - 1… 岡島 美行(おかじま よしゆき、1898年4月25日 - 1967年9月19日)は、日本の経営者。奈良県出身。 1921年に東京商科大学専攻科を卒業し、同年に日本綿花に入社。1945年6月に取締役に就任し、1947年に専務を経て、1951年11月には社長に昇格した。1960年11月から1965年5月までに会長を務めた。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1967年9月19日肝硬変のために死去。69歳没。
植竹 春彦(うえたけ はるひこ、1898年〈明治31年〉2月… 植竹 春彦(うえたけ はるひこ、1898年〈明治31年〉2月27日 - 1988年〈昭和63年〉5月20日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員。帝国造林社長。位階は正三位。 東京都出身。藤井鼎・貞子の七男に生まれ、植竹三右衛門の養子となる。1924年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。 日本大学講師、東邦電力勤務を経て1935年に東野鉄道(現・東野交通)支配人となり、以来専務社長を歴任して1948年に会長となる。1947年以来5回参議院議員に当選。民主党自由党各総務、党政調会副会長、副幹事長、党紀委員長を歴任。 1951年、参議院運輸委員長として運輸事情調査のため渡米。1959年6月、第2次岸内閣改造内閣の郵政大臣に任命され、同年9月万国電気通信会議政府首席全権として渡欧。
青木 均一(あおき きんいち、1898年〈明治31年〉2月1… 青木 均一(あおき きんいち、1898年〈明治31年〉2月14日 - 1976年〈昭和51年〉8月27日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の実業家、財界人。品川白煉瓦社長、東京電力社長・会長として会社経営に当たり、公職では日本経営者団体連盟(日経連)理事、国家公安委員会委員長などを務めた。著書も残している。 父母は東京で世帯をもっていたが、母だけが父の実家に帰ってお産したため静岡県静岡市で生まれた。青木儀助の長男。仔細あって母は父と別れた。父は日本統治時代の朝鮮に行ってしまい、祖母と一番末の叔母との三人暮らしだった。小石川の富坂の近くで育つ。父と別れたのは四ツのときで、おぼろげに印象が残っているだけである。
青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日… 青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日 - 1985年〈昭和60年〉8月6日)は、日本の政治家(衆議院議員、山口県会議員、下関市会議員)、家主、山口県多額納税者、会社役員。山陽ビルディング取締役。 山口県下関市出身。青木平七の長男。1920年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。広島高等工業学校に学んだ。 古河合名調査課、百十銀行貸付係等歴勤。1923年、家督を相続した。1927年、家業を継いだ。貸家業を営んだ。陸軍三等主計に任ぜられた。 下関市会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員等となる。1937年、衆議院議員に選ばれ、1期務めた。興亜議員同盟、東方会に所属した。
熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 198… 熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 1986年1月8日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1920年に東京高等商業学校本科を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1946年11月に取締役に就任し、1950年1月に常務、1952年11月に専務、1958年2月に副社長を経て、1967年4月に社長に就任した。1968年11月から相談役を務めた。 1986年1月8日心不全のために死去。88歳没。
手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年… 手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年> 12月29日 - 1988年 <昭和63年> 11月16日)は、日本の経営者、銀行家。佐賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 佐賀県西松浦郡有田町出身。1920年に東京高等商業学校を卒業。1954年4月に佐賀興業銀行頭取に就任し、1955年7月から1960年5月までに佐賀銀行頭取を務めた。 1969年に勲四等瑞宝章を受章。 1988年11月16日急性心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
百瀬 結(ももせ ひとし、1897年11月1日 - 1982… 百瀬 結(ももせ ひとし、1897年11月1日 - 1982年12月24日)は日本の実業家。元日本ビクター社長・会長。ビクター中興の祖。
新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年… 新関 八洲太郎(にいぜき やすたろう、1897年(明治30年)4月2日 - 1978年5月30日)は、埼玉県浦和市出身の実業家で、元三井物産社長・会長。
山根 春衛(やまね はるえ、1897年4月 - 1981年2… 山根 春衛(やまね はるえ、1897年4月 - 1981年2月25日)は、日本の実業家。栃木県下都賀郡瑞穂村大字土与(現・栃木市大平町土与)出身。大正海上火災保険(現在の三井住友海上火災保険)の社長を務めた。 1917年3月に栃木中学校を卒業し、東京商科大学に入学。在学中は中国・南洋各地を旅行視察し、1921年7月卒業、大正海上火災保険に入社して東京本店勤務。1927年2月、社命を受けて欧米各国の保険事業を研究するため出張、1929年5月に帰国して大阪支店長代理を務める。1945年4月に取締役、翌1946年6月に常務取締役、さらに翌1947年5月に社長に就任する。 1957年5月に藍綬褒章を受章した。
田中 英篤(たなか ひであつ、1897年 <明治30年> 3… 田中 英篤(たなか ひであつ、1897年 <明治30年> 3月16日 - 1984年 <昭和59年> 4月2日)は、日本の経営者。北越銀行頭取を務めた。新潟県出身。位階は従五位。 1922年に東京高等商業学校専攻科を卒業し、1927年4月に長岡銀行(のちの北越銀行)に入行。 1948年6月に常務に就任し、1962年1月に専務を経て、1965年11月から1970年11月までに頭取を務めた。 1972年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1984年4月2日老衰のために死去。87歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月… 野田 岩次郎(のだ いわじろう、1897年(明治30年)2月15日 - 1988年(昭和63年)12月15日)は長崎県長崎市出身の実業家。第二次世界大戦後、連合国占領統治下の日本に於いて、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たり、HCLC解散後はホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた。 生家は三菱長崎造船所御用達の洋服商。外交官を目指し東京高等商業学校(現一橋大学)に入学したが、当時活況にあった貿易業に興味を持ち進路を転換。1918年の卒業とともに三井物産に入社。英語が得意だったことから、すぐシアトル出張所に配属された。 1922年、現地の弁護士の娘で米国の三井物産でタイピストをしていたアリス・カリタ・コーストン(愛称はカリタ)と結婚するが、人種偏見が強い当時の国際結婚は双方の家族や社内の抵抗を受け、これが原因となって翌年三井物産を退社する。
竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - … 竹内 俊一(たけうち しゅんいち、1896年1月17日 - 1976年10月26日)は日本の実業家。三菱石油(現ENEOSホールディングス)社長・会長や、石油連盟会長を務めた。 大阪府出身。津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を経て、1917年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後、三菱合資会社入社。三菱商事を経て、1941年から三菱石油。 1946年三菱石油社長、1936年同会長。社長就任後、各ポストの職名を変え、責任を明確化。方針決定は、合議制で行われるように組織改編を行った。 石油連盟会長や、日経連常任理事、東京ロータリークラブ会長等も歴任。 趣味はゴルフと歌舞伎鑑賞。
菅谷 重平(すがや じゅうへい、1896年 - 1981年6… 菅谷 重平(すがや じゅうへい、1896年 - 1981年6月18日)は、日本の実業家、経営学者。 千葉県香取郡出身。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒、1923年東京商科大学(現一橋大学)卒。住友金属工業に入り、査業部長、製鋼品部長、調査部長、企画部長、経理部長。1947年取締役支配人。1948年経済安定本部生産局長。1949年住友に復帰。1951年常任監査役。1952年関東特殊製鋼会長、関西経済同友会代表幹事。1960年「日本鉄鋼業論」で早稲田大学経済学博士。1964年同相談役。近畿大学教授、同名誉教授、東海大学教授。宇部化学工業取締役、大阪第一信用金庫理事。1969年勲四等瑞宝章受勲。