阿藤 傳治(あとう でんじ、1900年(明治33年)10月2… 阿藤 傳治(あとう でんじ、1900年(明治33年)10月23日 - 1981年(昭和56年)12月14日)は、日本の実業家。朝日放送元会長。 福岡県豊前市出身。東京商科大学を卒業し、同年に住友銀行に入行。1955年1月に大阪テレビ放送常務に就任し、1959年に合併により、朝日放送常務に就任し、1964年から1968年までに専務を、1968年から1971年までに副社長を、1971年5月から1974年までに会長をそれぞれ務めた。その後は1975年5月までに取締役を務めた。 1981年12月14日急性心不全のために兵庫県宝塚市の自宅で死去。81歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
寺田 弥吉(てらだ やきち、明治33年(1900年)10月2… 寺田 弥吉(てらだ やきち、明治33年(1900年)10月20日 - 昭和46年(1971年)9月12日)は、日本の思想史家。 兵庫県揖保郡新宮村(のち新宮町、現在のたつの市)生まれ。旧制龍野中学校(現・兵庫県立龍野高等学校)を経て、1922年東京商科大学(現・一橋大学)予科修了。1936年第一書房教育部主任。1938年大日本帝国陸軍参謀本部主任研究員。1940年日本学研究所副所長兼任。1942年総力戦学会常務理事。第二次世界大戦後公職追放され、1951年に解除。親鸞などの日本思想史を研究し、孤高の哲学者と称された。たつの市の東山公園に寺田弥吉記念碑が建つ。
竹村 吉右衛門(たけむら きちえもん、1900年10月11日… 竹村 吉右衛門(たけむら きちえもん、1900年10月11日 - 1984年6月7日)は、日本の実業家。安田生命保険取締役会長や、同社取締役社長を務め、中興の祖とされた。 秋田県北秋田郡大館町(現・大館市)出身。大館尋常小学校を経て、1918年秋田県立大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)卒業。1921年小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業。1924年東京商科大学(現・一橋大学)商学部卒業(井浦仙太郎ゼミ)。 大学卒業後、安田銀行に入行。安田銀行金融課長、安田銀行小舟町支店長、安田銀行取締役本店営業部長、日本貯蓄銀行専務取締役などを歴任したが、日本の降伏後、公職追放となる。 1950年安田生命保険取締役会長に復帰。
成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 19… 成田 米蔵(なりた よねぞう、1900年8月29日 - 1975年4月4日)は日本の実業家、教育者。 名古屋市出身。1923年東京商科大学(現一橋大学)卒業する。同年に愛知銀行へ入行する。1941年に東海銀行へ勤務する。1946年に東海銀行監査役となる。その後、1956年王子製鉄取締役会長、東京化工取締役、東海製線代表取締役、東京溶接棒取締役、大同不動産取締役、名古屋臨海鉄道取締役、大同製鋼取締役副社長などを歴任する。1969年-1971年には、大同工業大学(現大同大学)学長を務めた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
細井 徳次郎(ほそい とくじろう、1900年 <明治33年>… 細井 徳次郎(ほそい とくじろう、1900年 <明治33年> 8月1日 - 1975年 <昭和50年> 6月5日)は、日本の経営者。明治製菓社長を務めた。位階は従四位。 埼玉県出身。1925年に東京商科大学本科を卒業し、同年に明糖産業に入社。1929年に明治製菓に転じ、取締役、常務、専務、副社長を経て、1964年11月に社長に就任。1970年11月に相談役に就任。 1966年5月に藍綬褒章を受章し、1972年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月5日心臓衰弱のために死去。74歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
田中 慎次郎(たなか しんじろう、1900年7月28日 - … 田中 慎次郎(たなか しんじろう、1900年7月28日 - 1993年7月2日)は、日本のジャーナリスト。朝日新聞社取締役出版局長、総理府原子力委員会参与、社団法人日本原子力産業会議参与などを務めた。 埼玉県出身。旧制東京商科大学(現一橋大学)卒業後、1926年朝日新聞社入社。朝日新聞大阪本社経済部次長、朝日新聞社経済部次長兼論説委員等を経て、1940年から政治経済部長を務め、第二次世界大戦、太平洋戦争下の政治経済の報道を行っていたが、1942年3月15日にゾルゲ事件に関し、入社同期の尾崎秀実に対し大日本帝国陸軍の南部仏印進駐作戦を事前に漏らしたとする軍機保護法違反容疑で逮捕された。同年4月15日から休職となり、6月5日には釈放されたものの、6月15日に退社させられた。
出光 計助(いでみつ けいすけ、1900年6月24日 - 1… 出光 計助(いでみつ けいすけ、1900年6月24日 - 1994年1月8日)は、日本の実業家。出光興産第2代社長。石油連盟会長も務め、勲二等旭日重光章を受章した。 出光興産の創業者である出光佐三の末弟。出光謙介元出光興産厚生年金基金理事長は長男。株式公開や脱創業家を行い、出光家出身の最後の社長となった出光昭第7代出光興産社長は二男。 福岡県の生まれ。旧制東筑中学(のちの福岡県立東筑高等学校)、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身。卒業後南満洲鉄道に入社。系列の鉄鋼会社や商社を経て、戦後、兄である出光佐三社長に勧められ出光興産入社。 1952年に専務を務めていた際、石油メジャーから原油購入を拒否されていたモハンマド・モサッデク政権下のイランに渡航、原油購入契約を締結、自社タンカーの日章丸でイギリス海軍の海上封鎖を突破してイラン原油を日本に持ち帰り、世界の注目を集めた(日章丸事件)。
竹中 治(たけなか おさむ、1900年4月10日 - 196… 竹中 治(たけなか おさむ、1900年4月10日 - 1967年4月15日)は、日本の実業家。ジャパンライン(現商船三井)創業者・初代社長。 和歌山県和歌山市出身。東京商科大学(現一橋大学)卒業後、商工省入省。小学校で両親を失い、家庭教師をしながら大学に通った。 その後退官し、1937年日東鉱業汽船設立。海運業のほか証券業、新聞業、石油、ガス、石炭、金属、不動産、化学などを幅広い事業を手がける。 戦後1947年に日東商船創立。1964年大阪商船との合併交渉が決裂し、大同海運と合併し、ジャパンライン設立、同社社長に就任。 1956年の第4回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選した。
小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 19… 小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 1975年10月7日)は、日本の陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家。
室谷 賢治郎(むろや けんじろう、1900年2月25日 - … 室谷 賢治郎(むろや けんじろう、1900年2月25日 - 1975年)、日本の経営学者。専門は商学、中小企業の経営について研究。小樽商科大学名誉教授。札幌短期大学学長、札幌商科大学初代学長、亜細亜大学教授などを務めた。
美野 順二郎(みの じゅんじろう、1900年 <明治33年>… 美野 順二郎(みの じゅんじろう、1900年 <明治33年> 2月17日 - 1981年 <昭和56年> 6月23日)は、日本の経営者。住友倉庫社長を務めた。位階は従四位。 石川県松任市出身。1925年に東京商科大学を卒業し、同年に住友倉庫に入社。1947年2月に取締役、1949年8月に常務、1954年5月に専務を経て、1956年1月には社長に就任。1965年5月に会長に就任し、1969年11月に相談役に退いた。 1964年11月に藍綬褒章を受章し、1970年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1981年6月23日老衰のために死去。81歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
浦島 秀雄(うらしま ひでお、1900年(明治33年)1月1… 浦島 秀雄(うらしま ひでお、1900年(明治33年)1月14日 - 没年不明)は、日本の実業家。東洋商事元社長。三菱商事元神戸支店次長。楽天グループ創業者で実業家の三木谷浩史の外祖父。 浦島茂十郎の次男として和歌山県に生まれる。1925年(大正14年)東京商科大学を卒業し、日本生糸に入社。のち三菱商事に転じ生糸部勤務を経て同社業務部調査課長に就任。その後神戸支店次長を経て、東洋商事社長に就任。 趣味は碁、将棋、スポーツ。
渡辺 輝一(わたなべ きいち、1900年 - 1988年)は… 渡辺 輝一(わたなべ きいち、1900年 - 1988年)は、日本の経済学者。専門は経済政策。太平洋戦争中南洋学院教授を務め、日本の降伏後、横浜国立大学経済学部学部長などを経て、横浜国立大学名誉教授。 愛媛県出身。1923年に東京商科大学(現一橋大学)卒業。町田實秀(のちに法制史学者、一橋大学名誉教授)とは三浦新七ゼミの同期。1924年に横浜高等商業学校が開校されると同校教授に着任し、商業政策、交通論、商業英語を担当した。また、同校と横浜市立横浜商業専門学校の教授の懇談会をイスペ会と命名した。ゼミの指導学生に上野豊(のちに横浜商工会議所会頭等)などがいた。 1941年に太平洋戦争が始まると、横浜高等商業学校内に、田尻常雄校長が自らが所長となり設立された太平洋貿易研究所において、各務財団から助成を受けて調査研究に従事し、さらに仏印進駐後には、1942年に新設された南洋学院の教授に就任し、フランス領インドシナでの現地調査も行った。
額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 198… 額田 長(ぬかた ひさし、1900年(明治33年)- 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の著名な剣道家および居合道家である。その段位称号は剣道範士八段、居合道範士九段に達している。 額田長は1900年、香川県高松市の銀行家の家庭に生まれた。1914年(大正3年)、県立高松中学校に入学し、体育祭の剣道行事で突如10人を勝ち抜き、これが剣道を始めるきっかけとなる。同校剣道部の師範であった植田平太郎(天真正伝神道流)に師事し、その才能を開花させた。 1918年(大正7年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)への入学を目指し上京するが、受験には失敗した。この時、九段坂で高野佐三郎(中西派一刀流)が主宰する道場「明信館」を見つけ、そこに入門した。
近藤 貢(こんどう みつぐ、1899年(明治32年)12月1… 近藤 貢(こんどう みつぐ、1899年(明治32年)12月13日 - 1974年(昭和49年)11月10日)は、日本の新聞学者。 神奈川県三浦郡初声村出身。1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業、朝日新聞社入社。1955年日本新聞協会嘱託。新聞経営を研究し、東京大学、早稲田大学、上智大学などで教鞭を執った。旧姓前田。
安居 喜造(やすい きぞう、1899年12月2日 - 198… 安居 喜造(やすい きぞう、1899年12月2日 - 1983年9月30日)は、日本の実業家。東レ会長、経団連副会長、日本化学繊維協会会長等を務めた。また日本国有鉄道監査委員会委員長を務め、国鉄再建のため尽力した。1979年勲一等瑞宝章受章。 近江国彦根・龍潭寺を菩提寺とする安居家(彦根藩)の出身。父の喜造は、犬上郡選出県会議員であったが、大正デモクラシー時代、彦根高等商業学校(滋賀大学経済学部の前身)設立委員長に就任、同校設置運動のため東上不在中に無理矢理に、彦根町長に選挙され、在任中は彦根高商設置のため始終奔走し、翌年に彦根高商新築の着工を見て辞任したことで、「高商町長」(彦根町) の愛称でよばれた。
三浦 懋(みうら つとむ、1899年11月26日 - 199… 三浦 懋(みうら つとむ、1899年11月26日 - 1993年5月1日)は、日本の経営者。島津製作所社長、会長を務めた。奈良県出身。 1923年に東京商科大学を卒業し、三菱銀行に入行。京都支店長、大阪支店長、取締役を経て、1956年5月に常務に就任した。 1959年11月に島津製作所に移り、専務に就任。副社長を経て、1965年5月から1971年5月までに社長を務め、1971年5月から会長に就任し、1981年6月から相談役に就任した。 京都商工会議所顧問も務めた。 1970年に勲三等旭日中綬章を受章し、1976年に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年5月1日肺炎のために死去。93歳没。
大林 良一(おおばやし りょういち、1899年11月17日 … 大林 良一(おおばやし りょういち、1899年11月17日 -1988年10月18日 )は、日本の経済学者である。専門は、社会保障学、保険学。一橋大学名誉教授、第9代成城大学学長。
呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988… 呉 三連(ご さんれん、1899年11月15日 - 1988年12月29日)は、中華民国の政治家、日本のジャーナリスト。初代民選台北市長。 日本統治時代の台湾の嘉義県の寒村頭港仔出身。1919年台湾総督府国語学校国語部を卒業し、東京高等商業学校(現一橋大学)予科に進学。留学中日本統治下の台湾における台湾人政治運動に加わり、1920年新民会、東京台湾青年会に参加。同年下村宏台湾総督府総務長官と面会し日本の植民地政策を批判し、その後台湾議会設置運動に参加した。 1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業。陸上競技部出身。卒業後大阪毎日新聞記者となる。1932年台湾新民報が創刊されると編集者として台湾に戻り、論説委員、整理部長、政治部長を兼任した。
具 鎔書(ク・ヨンソ、朝鮮語: 구용서、1899年10月21… 具 鎔書(ク・ヨンソ、朝鮮語: 구용서、1899年10月21日 - 1984年4月24日)は、大韓民国の中央銀行家、政治家。韓国銀行総裁や、韓国産業銀行総裁、大韓民国商工部長官を務めた。 本貫は昌原具氏(朝鮮語版)。日本名具原 一郞。 釜山府出身。父は乙未事変に加担したとして逮捕状が出るなど混乱の渦中にあり、禹範善の子である禹長春や、李容九の子、宋秉畯の孫といった親日派の子女6名で、日本人の酒井姉妹の下で、父から離れて日本で育てられた。 日本人のために作られた京城中学校に通い、1922年東京商科大学(のちの一橋大学)予科修了。1925年同大学卒業、朝鮮銀行入行。同期50人のうち具が唯一の朝鮮人であり、東京支店に配属となったが、給料や昇進、配属などでは差別を受けた。
井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 19… 井口 貞夫(いぐち さだお、1899年10月18日 - 1980年5月27日)は、日本の外交官。外務事務次官や在アメリカ合衆国特命全権大使を務めた。1969年勲一等瑞宝章。1980年正三位。 和歌山県生まれ。旧制徳義中学校、旧制和歌山中学校(のち和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。 1921年に高等試験外交科試験合格し、1922年大学を中退し外務省入省。入省同期や前後期に田尻愛義、安東義良、西村熊雄らがいる。オックスフォード大学留学等を経て、1940年在アメリカ合衆国日本大使館一等書記官、1941年同大使館参事官、1942年太平洋戦争開戦に伴い交換船で帰国。 情報局情報官を経て、1943年情報局第三部長。
二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8… 二代 茂木 啓三郎(にだい もぎ けいざぶろう、1899年8月5日 - 1993年8月16日)は、日本の実業家。キッコーマン中興の祖。同社社長として、個人醸造家の集合体を近代経営化し業界トップ化した。旧名は飯田勝次。 千葉県海上郡富浦村(現旭市)で農業を営む飯田家に生まれた。飯田庄作の弟である。 成東中学(現千葉県立成東高等学校)を経て、1926年に東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、野田醤油(現キッコーマン)に入社。大学では上田貞次郎ゼミに参加。上野喜左衛門(南国殖産創業者、元参議院議員)とは大学時代からの親友。入社後まもなく、労働争議を解決し、親友上野が橋渡し役となり、先代茂木啓三郎の養子となり1935年に家督を相続した。
上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899… 上原 専禄(旧字体:上原 專祿、うえはら せんろく、1899年5月21日 - 1975年10月28日)は、日本の歴史学者。専門は中世ヨーロッパ史。東京商科大学学長(就任時は東京産業大学:現一橋大学)であり、戦後の一橋大学新制大学化にあたり指導的役割を果たした。このため一橋大学の新制大学構想は別名を「上原構想」とも呼ばれている。学長退任後は構想の核となった初代一橋大学社会学部長を務めた。 1899年、京都市西陣にあった日蓮宗檀家の商家に生まれた。小学校3年から松山市大街道商店街の薬種商であった叔父の家に住む。旧制愛媛県立松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1915年、東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学した。
深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972… 深見 義一(ふかみ ぎいち、1899年4月1日 - 1972年12月7日)は日本の経営学者、商業学者。一橋大学名誉教授。 マーケティング、小売政策、通信販売、切符制度研究等の先駆者とされる。 第1回日本商業学会賞受賞。元社団法人流通問題研究協会会長。 東京商科大学(現一橋大学)附属商学専門部卒業後、名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部)で教鞭をとったのち、東京商科大本科に入学し、1929年に同大学学部卒業。首席卒業生総代。同期に高橋泰蔵一橋大学名誉教授がいる。 大学で内池廉吉に師事し、内池の「市場論」を継ぐ。語学に堪能で、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語に通じ、大学を卒業した1929年から1935年までアメリカ合衆国、ドイツ、イタリアに留学した。
小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3… 小林 周蔵(こばやし しゅうぞう、1899年〈明治32年〉3月31日 - 1984年〈昭和59年〉10月9日)は、昭和時代の日本の実業家である。信越化学工業の第5代社長を務めた。現在の長野市出身。 1899年(明治32年)3月31日、小林太一郎の三男として生まれる。出身地は長野県上水内郡朝陽村(現・長野市)。長野中学校を卒業したのち、東京商科大学(現一橋大学)大学予科を経て1924年(大正13年)3月同大学本科を卒業した。 大学卒業後は前年に設立されたばかりの電機メーカー富士電機製造(現・富士電機)へと志願入社し、川崎工場に配属された。1931年(昭和6年)秋、富士電機製造から退社し、郷里長野県の電力会社信濃電気に入社する。
猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 19… 猪谷 善一(いたに ぜんいち、1899年2月15日 - 1980年1月16日)は、日本の経済学者。 富山県出身。1923年東京商科大学卒、同年助手、パリ留学をへて1927年助教授、1937年教授。1938年「最近日本貿易の伸展に関する実証的研究」で経済学博士。1939年退職、大阪商工会議所理事。亜細亜大学教授。1971年定年、駒澤大学教授。上田貞次郎に師事した。 妻の妙子は、幼女の頃より中勘助に愛された人として知られる(『中勘助の恋』富岡多恵子、創元社、1993)。中の学友・江木定男(江木鰐水の孫)とその妻・万世(関新平の娘で、定男の継母・悦子の妹でもあり、鏑木清方の代表作「築地明石町」のモデル)との娘で、お茶の水女学校を出て猪谷と結婚し出産もしたが、35歳で早世した。
米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - … 米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - 1958年5月3日)は、日本の法学者。専門は、商法・保険学。学位は、法学博士。1955年「約款法の理論」で日本学士院賞受賞。岡山県出身。 岡山県都窪郡茶屋町(現倉敷市茶屋町)生まれ。旧制第一岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業(青山衆司ゼミナール)。 1923年文官高等試験行政科合格、1925年商工省入省、商務局保険課勤務。1929年明治大学兼任講師(火災保険論)を経て、1930年東京商科大学(現一橋大学)助教授兼予科教授就任。ベルリン、ローマ、パリへの留学を経て、1934年第10回国際アクチュアリー会議日本代表。
神崎 縷々(かんざき るる、 明治32年(1899年)2月1… 神崎 縷々(かんざき るる、 明治32年(1899年)2月11日 - 昭和11年(1936年)2月28日)は、日本の俳人。本名は神崎 主計。 福岡県宗像郡神興村津丸(現・福津市)生まれ。旧制小倉中学校(現・福岡県立小倉高等学校)を経て、1922年東京高等商業学校(現・一橋大学)本科卒業。吉岡禅寺洞に師事した。 藤本ビルブローカー銀行、久原商事、貝島商事を経て、1932年、小倉市京町に火薬商の神崎商店を設立し、同社支配人に就任。ジー・ワインベルゲン商会小倉支店長も務めていたが、1936年に37歳で死去した。 井筒屋設立者の神崎慶次郎元小倉市長は叔父で養父。倉田主税元日立製作所社長は兄。倉田興人元三井鉱山社長は弟。
楠瀬 常猪(くすのせ つねい、1899年2月10日 - 19… 楠瀬 常猪(くすのせ つねい、1899年2月10日 - 1988年6月18日)は、日本の政治家。広島県知事(官選第39代、公選初代)。参議院議員(1期)。 1899年に広島県に生まれる。1923年東京商科大学(一橋大学の前身)卒業。商工省課長、燃料局長官、中国地方行政事務局長官などを歴任する。 1945年に39代官選広島県知事となり、戦災都市復興協議会を設置、原爆投下で廃れていた広島の街の復興に努めた。官選知事を1947年3月まで務めた後、同年4月5日に初めて執行された広島県知事選挙に出馬し、中井正一らを破り当選。初代公選初代広島県知事に就任した。同年12月には昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。
大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月1… 大倉 治一(おおくら じいち、1899年(明治32年)1月10日 - 1992年(平成4年)4月5日)は、日本の実業家。月桂冠株式会社元代表取締役会長。12代目当主。 1899年(明治32年)1月、京都府京都市伏見区で大倉恒吉の長男として生まれる。1923年(大正12年)、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業と同時に第一銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)に入行。その後、月桂冠株式会社の前身である大倉恒吉商店に入社し、大倉恒吉商店、共同酒造株式会社各常務、東京菱油商会、江田醸造研究所株式会社各監査を歴任後、1945年(昭和20年)に大倉酒造(現・月桂冠)株式会社代表取締役社長(のち会長)に就任した。
井上 孝治郎(いのうえ こうじろう、1899年 - 1996… 井上 孝治郎(いのうえ こうじろう、1899年 - 1996年)は、日本の外交官。外務省経済局長や、内閣総理大臣秘書官、駐トルコ特命全権大使、日本ユネスコ国内委員会事務総長などを務めた。 東京出身。旧制暁星中学校を経て、1922年東京商科大学(現一橋大学)予科卒業。1925年同大学学部卒業、外務省入省。外務大臣官房文書課長、外務省総務局付大使館参事官等を経て、1945年外務省戦時経済局長。同年日本の降伏に伴う改組により外務省経済局長。1946年外務省調査官。1947年終戦連絡中央事務局経済部長。1948年外務省特別資料部長。1949年内閣総理大臣秘書官。1950年九州連絡調整事務局長、九州地方連絡協議会会長。
関 太一(せき たいち、1899年 - 1951年10月23… 関 太一(せき たいち、1899年 - 1951年10月23日)は、日本の商学者。東京経済大学の前身である大倉経済専門学校校長として、新制大学への昇格に尽力し、東京経済大学初代学長となった。 盛岡中学、東京高等商業学校卒業後、1922年に大倉高等商業学校の教員となった。戦後、大倉経済専門学校が校地を赤坂葵町から国分寺町へ移転する前後の混乱の中で、1946年に学生たちから辞職要求を突きつけられた古館市太郎校長が退任する事態が生じると、関は教授会の推薦を受けて校長事務取扱いとなり、翌1947年8月に正式に大倉経済専門学校校長となった。関校長は、新制大学への昇格を推進し、1949年に東京経済大学初代学長となったが、事務職員の公金着服事件の責任を問われ、1951年9月に退任した。
金子 嘉徳(かねこ よしのり、1898年11月27日 - 1… 金子 嘉徳(かねこ よしのり、1898年11月27日 - 1991年2月10日)は、日本の実業家。元東海銀行(現三菱UFJ銀行)頭取。元中京テレビ放送会長。初代中部経済同友会代表幹事。 山口県佐波郡徳地町出身。1924年に東京商科大学(現一橋大学)卒業、日本銀行入行。1943年日本銀行松本支店長。1945年東海銀行副頭取に就任。 1955年に中部経済同友会が設立されると、佐伯卯四郎とともに初代代表幹事に就任。 1959年から東海銀行頭取。1961年半田市庁舎建設資金を寄付し紺綬褒章を受章するとともに、私財を寄付した功績が顕著だとして併せて木杯一組台付を受けた。 1965年トヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)監査役。
榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月1… 榊原 巌(さかきばら がん、1898年〈明治31年〉11月17日 - 1994年〈平成6年〉11月30日)は、日本の経済学者、キリスト教(アナバプティズム)研究家、政治家、実業家。青山学院大学名誉教授。筆名は、吾妻 東一、福田 逸史。 妻は衆議院議員の榊原千代。息子はヒッポファミリークラブ創設者の榊原陽。 愛知県碧南市生まれ。1921年(大正10年)3月、官立神戸高等商業学校を中途退学する。同年4月に東京商科大学(現・一橋大学)本科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業する。同年4月に横浜社会問題研究所の研究員に就任する。 1926年(大正15年)6月から福島高等商業学校(現・福島大学)講師、1927年(昭和2年)7月から同校教授に就任する。
稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 19… 稲畑 太郎(いなばた たろう、1898年11月9日 - 1988年4月3日)は、昭和時代の日本の実業家。 京都出身。稲畑勝太郎の長男。 1921年(大正10年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業した。1937年(昭和12年)稲畑商店(のちの稲畑産業)取締役社長となる。 1944年(昭和19年)から1946年(昭和21年)まで住友化学工業監査役を務めた。1948年(昭和23年)関西経済同友会代表幹事。1953年(昭和28年)再び住友化学工業監査役に就任。1958年(昭和33年)久保田鉄工監査役に就任。 1959年(昭和34年)再び関西経済同友会代表幹事に就任。1960年(昭和35年)日本国際貿易促進協会関西本部副理事長。
酒井 忠英(さかい ただひで、1898年(明治31年)9月2… 酒井 忠英(さかい ただひで、1898年(明治31年)9月28日 - 1942年(昭和17年)1月21日)は、大正から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧名・正夫。 子爵・酒井忠亮の二男として生まれる。 1923年(大正12年)東京商科大学を卒業。1924年(大正13年)横浜正金銀行に入行。その後、内外食品取締役、同監査役などを務めた。 父の死去に伴い、1928年(昭和3年)10月15日、子爵を襲爵した。 1940年(昭和15年)4月27日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、死去するまで1期在任した。
本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 19… 本田 弘敏(ほんだ ひろとし、1898年9月22日 - 1981年10月18日)は、日本の実業家。東京ガスの社長や会長、日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長等を務めた。勲二等旭日重光章受章。 1921年東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業し、東京ガス入社。取締役供給部長、副社長等を経て、1953年社長就任。戦後の首都圏の都市ガス整備を行った 日本ガス協会会長、東京商工会議所副会頭や日本社会人野球協会会長、日本バドミントン協会会長、社団法人如水会理事長等も務め、1968年に勲二等旭日重光章受章。 1981年10月18日、肝不全のため東京女子医科大学病院で死去、享年83。
中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - … 中山 伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日 - 1980年4月9日)は、日本の経済学者。経済学博士(東京商科大学・1939年)。一橋大学初代学長、一橋大学名誉教授。日本における近代経済学の導入に貢献した。1963年から1980年まで日本学士院会員。1968年文化功労者。第4期日本学術会議副会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。勲一等瑞宝章受章。 父である中山朝之助は福島の平(現・いわき市)で生まれ、その後三重の宇治山田(現・伊勢市)で山田朝報という新聞社を創業し、主筆を務めた。旧制宇治山田中学(現・三重県立宇治山田高等学校)、神戸高等商業学校(現・神戸大学)を経て、1923年に東京商科大学(現・一橋大学)本科を卒業し、同年4月、東京商科大学大学助手に就任。
長谷川 茂雄(はせがわ しげお、1898年(明治31年)6月… 長谷川 茂雄(はせがわ しげお、1898年(明治31年)6月6日 - 1988年(昭和63年)7月22日[要出典])は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、ジャカルタ市長。 東京市本郷区春木町(現・文京区本郷三丁目)に生まれる。1921年(大正10年)3月、東京高等商業学校を卒業し、同年11月、台湾総督府財務局金融課に奉職する。 1929年(昭和4年)10月、高等試験行政科に合格し、1931年(昭和6年)7月に地方理事官に進み、高雄州知事官房税務課長に発令される。1933年(昭和8年)9月、台中州知事官房税務課長に転じ、1934年(昭和9年)9月、台湾総督府税関事務官・財務局勤務、1935年(昭和10年)9月に東勢郡守を経て、1936年(昭和11年)10月に彰化郡守に就任する。
町田 實秀(まちだ さねひで、1898年5月7日 - 197… 町田 實秀(まちだ さねひで、1898年5月7日 - 1971年1月16日)は、日本の法学者。専門は西洋法制史。一橋大学名誉教授。
岡島 美行(おかじま よしゆき、1898年4月25日 - 1… 岡島 美行(おかじま よしゆき、1898年4月25日 - 1967年9月19日)は、日本の経営者。奈良県出身。 1921年に東京商科大学専攻科を卒業し、同年に日本綿花に入社。1945年6月に取締役に就任し、1947年に専務を経て、1951年11月には社長に昇格した。1960年11月から1965年5月までに会長を務めた。 1959年に藍綬褒章を受章し、1965年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1967年9月19日肝硬変のために死去。69歳没。
植竹 春彦(うえたけ はるひこ、1898年〈明治31年〉2月… 植竹 春彦(うえたけ はるひこ、1898年〈明治31年〉2月27日 - 1988年〈昭和63年〉5月20日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員。帝国造林社長。位階は正三位。 東京都出身。藤井鼎・貞子の七男に生まれ、植竹三右衛門の養子となる。1924年、東京商科大学(現・一橋大学)卒業。 日本大学講師、東邦電力勤務を経て1935年に東野鉄道(現・東野交通)支配人となり、以来専務社長を歴任して1948年に会長となる。1947年以来5回参議院議員に当選。民主党自由党各総務、党政調会副会長、副幹事長、党紀委員長を歴任。 1951年、参議院運輸委員長として運輸事情調査のため渡米。1959年6月、第2次岸内閣改造内閣の郵政大臣に任命され、同年9月万国電気通信会議政府首席全権として渡欧。
青木 均一(あおき きんいち、1898年〈明治31年〉2月1… 青木 均一(あおき きんいち、1898年〈明治31年〉2月14日 - 1976年〈昭和51年〉8月27日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の実業家、財界人。品川白煉瓦社長、東京電力社長・会長として会社経営に当たり、公職では日本経営者団体連盟(日経連)理事、国家公安委員会委員長などを務めた。著書も残している。 父母は東京で世帯をもっていたが、母だけが父の実家に帰ってお産したため静岡県静岡市で生まれた。青木儀助の長男。仔細あって母は父と別れた。父は日本統治時代の朝鮮に行ってしまい、祖母と一番末の叔母との三人暮らしだった。小石川の富坂の近くで育つ。父と別れたのは四ツのときで、おぼろげに印象が残っているだけである。
青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日… 青木 作雄(あおき さくお、1898年〈明治31年〉2月3日 - 1985年〈昭和60年〉8月6日)は、日本の政治家(衆議院議員、山口県会議員、下関市会議員)、家主、山口県多額納税者、会社役員。山陽ビルディング取締役。 山口県下関市出身。青木平七の長男。1920年、東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。広島高等工業学校に学んだ。 古河合名調査課、百十銀行貸付係等歴勤。1923年、家督を相続した。1927年、家業を継いだ。貸家業を営んだ。陸軍三等主計に任ぜられた。 下関市会議員、同参事会員、山口県会議員、同参事会員等となる。1937年、衆議院議員に選ばれ、1期務めた。興亜議員同盟、東方会に所属した。
福井 淳(ふくい きよし、1898年2月1日 - 1955年… 福井 淳(ふくい きよし、1898年2月1日 - 1955年5月3日)は、日本の外交官。元南西方面海軍民政府司政長官。 神奈川県生まれ。1923年旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒。 1921年高等文官試験外交科試験合格、1922年高等試験行政科試験合格、1923年外務省入省、在上海領事官補。1925年在アメリカ合衆国外交官補。1928年在カナダ外交官補兼在オタワ領事官補。1929年在カナダ公使館三等書記官兼在オタワ副領事。1932年外務省条約局第一課外務事務官。1936年同課長代理。同年在上海領事。1937年在中華民国日本大使館二等書記官兼南京総領事代理。同年南京事件のため引揚。1938年在中華民国日本大使館二等書記官。
村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、1898年1月10日 … 村松 恒一郎(むらまつ こういちろう、1898年1月10日 - 1984年5月11日)は、日本の西洋史学者。一橋大学名誉教授。南山大学名誉教授。 東京府八王子生まれ。1919年に東京高等商業学校を、1921年に同校専攻部経済科を卒業。三浦新七門下。同年4月東京商科大学助手。1925年に東京商科大学予科教授兼助教授。 1926年からオーストリアに留学し、アルフォンス・ドプシュ(英語版)や、ベルリンでフリードリヒ・マイネッケに師事した。また、留学中和辻哲郎や大西克礼と交友を持った。1928年からイタリア、アメリカ合衆国に留学。 1936年東京商科大学教授。1946年東京商科大学附属図書館長。1949年一橋大学教授兼東京商科大学教授。
熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 198… 熊澤 貞夫(くまざわ さだお、1898年1月3日 - 1986年1月8日)は、日本の経営者。神奈川県出身。 1920年に東京高等商業学校本科を卒業し、同年に王子製紙に入社。 1946年11月に取締役に就任し、1950年1月に常務、1952年11月に専務、1958年2月に副社長を経て、1967年4月に社長に就任した。1968年11月から相談役を務めた。 1986年1月8日心不全のために死去。88歳没。
手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年… 手塚 文蔵(文藏、てづか ぶんぞう、1897年 <明治30年> 12月29日 - 1988年 <昭和63年> 11月16日)は、日本の経営者、銀行家。佐賀銀行頭取を務めた。位階は従五位。 佐賀県西松浦郡有田町出身。1920年に東京高等商業学校を卒業。1954年4月に佐賀興業銀行頭取に就任し、1955年7月から1960年5月までに佐賀銀行頭取を務めた。 1969年に勲四等瑞宝章を受章。 1988年11月16日急性心不全のために死去。90歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
百瀬 結(ももせ ひとし、1897年11月1日 - 1982… 百瀬 結(ももせ ひとし、1897年11月1日 - 1982年12月24日)は日本の実業家。元日本ビクター社長・会長。ビクター中興の祖。
水谷 一雄(みずたに かずお、1897年10月12日 - 1… 水谷 一雄(みずたに かずお、1897年10月12日 - 1981年9月12日)は、日本の経済学者。学位は、経済学博士(神戸経済大学・1955年)(学位論文「数学的思惟と経済理論」)。神戸大学名誉教授。従四位勲二等瑞宝章。 1897年、愛知県渥美郡高豊村字七根に生まれる。1923年、神戸高等商業学校卒業、1926年、東京商科大学卒業。 1926年神戸高等商業学校講師、1929年神戸高等商業学校附属商業専門部教授、1932年神戸商業大学助教授、1939年同大学教授、1944年神戸経済大学教授に就任。 1946年、授勲三等瑞宝章、叙従四位。 1953年、神戸大学経済学部教授(1950年とする記述もある)に就任、1955年、学位論文「数学的思惟と経済理論」で神戸経済大学から経済学博士の学位を取得。