川崎 竹一(かわさき たけいち、1904年〈明治37年〉3月… 川崎 竹一(かわさき たけいち、1904年〈明治37年〉3月23日 - 1982年〈昭和57年〉4月28日)は、日本のフランス文学者、翻訳家、編集者。文藝春秋社「文學界」第3代編集長。九州帝国大学仏文学科卒。 『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞の様な権威のある文学賞を我が国にも設立するべきだと書いた文章を菊池寛が読んだことが芥川龍之介賞や直木三十五賞の設立の動機となっている。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。 同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。
原田 源三郎(はらだ げんざぶろう、1904年2月16日 -… 原田 源三郎(はらだ げんざぶろう、1904年2月16日 - 1995年11月2日)は、日本の工学者、実業家。日本磁力選鉱の創業者。 現在の福岡県北九州市出身。明治専門学校(現九州工業大学)工学部電気工学科卒業後、九州帝国大学(現九州大学)で冶金を専攻。 大学卒業後は特殊合金、大倉鉱業、満洲本渓湖特殊鋼等で鉄鉱石に関する研究活動に従事、原料鉱石等の処理技術を習得。さらに、昭和19年(1944年)原料処理に欠かせない「原田式交流磁選機」を開発。これらの業績により、戦後、八幡製鐵所の高炉ガス灰処理研究を製鐵所から依頼され、ガス灰処理技術での事業化の確信を得て、昭和24年(1949年)日本磁力選鉱を設立。
八田 秋(はった おさむ、1904年 - 1986年)は、日… 八田 秋(はった おさむ、1904年 - 1986年)は、日本の外科学者。九州大学名誉教授。専門は温泉治療学。
清成 迪(きよなり すすむ、1903年(明治36年)11月2… 清成 迪(きよなり すすむ、1903年(明治36年)11月2日 - 1988年(昭和63年)2月7日)は、日本の技術者。日立製作所取締役副社長を経て、動力炉・核燃料開発事業団理事長や、原子力委員会委員長代理を務めた。「もんじゅ」や「ふげん」の名付け親でもある。 熊本県熊本市出身。1928年九州帝国大学工学部卒業。1940年日立製作所取締役副社長。1967年動力炉開発臨時推進本部委員。動力炉・核燃料開発事業団副理事長在任中の1970年、大洗工学センターの発足式で、高速増殖炉もんじゅ、新型転換炉ふげんの命名を行った。1972年動力炉・核燃料開発事業団理事長。1978年原子力委員会委員。同年原子力委員会委員長代理。
森下 弘(もりした ひろむ、1903年10月25日 - 19… 森下 弘(もりした ひろむ、1903年10月25日 - 1990年1月17日)は、日本の実業家。日本新薬社長、会長を務めた。奈良県出身。 1929年に九州帝国大学法文学部を卒業し、1933年に日本新薬に入社した。1946年から社長に就任し、1987年から会長に就任した。 1970年から1983年までに京都商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、1987年までに関西経済連合会副会長も務めた。 1990年1月17日うっ血性心不全のために死去。86歳没。死後に京都府から特別功労表彰を受けた。
柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18… 柏 正男(かしわ まさお、1903年(明治36年)10月18日 - 1973年(昭和48年)6月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 青森県で生まれる。1936年、九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 日本社会党に所属して、1958年5月、第28回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。 全国選挙管理委員会委員、中央選挙管理会委員、東京家庭裁判所調停委員、アジア民族親善協会常任理事、日本ベトナム友好協会常任理事、日本中国国交回復国民会議理事、自由人権協会監事などを務めた。 1973年6月4日死去、69歳。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、正五位に叙される。
深川 タマヱ(ふかがわ たまえ、1903年7月26日 -19… 深川 タマヱ(ふかがわ たまえ、1903年7月26日 -1992年12月9日 )は、日本の政治家、参議院議員(2期)。 佐賀県出身。1933年九州帝国大学法文学部経済学科卒業。戦後、新日本婦人党総裁となり、1947年の第1回参議院選挙に東京地方区から(無所属)初当選。2期務めた。のち、民主党に移り、婦人部副部長や参議院民主党副会長などを務め、改進党では都連副会長や婦人部長となり、日本民主党を経て自由民主党に入った。国会では参議院建設委員長や懲罰委員長を務めた。1956年の第4回参議院議員選挙で落選した。 1974年秋の叙勲で勲三等宝冠章受章。 1992年12月9日死去、89歳。死没日をもって従四位に叙される。
三木 栄(みき さかえ、1903年7月25日 - 1992年… 三木 栄(みき さかえ、1903年7月25日 - 1992年12月20日)は、日本の医史学者。専門は朝鮮医学史。もと京城帝国大学助教授。 大阪府堺市生まれ。九州帝国大学卒業。1932年、博士。堺市教育委員賞、日本医師会最高優功賞、日本医史学会功労賞、韓国科学史学会感謝牌賞などを受賞。
竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – … 竹内 鐡二(たけうち てつじ、1903年6月24日 – ?)は、日本の教育者。金蘭千里高等学校校長。 鳥取県生まれ。1925年九州帝国大学農学部農芸化学科卒業。 旧制福井県小浜中学校、京都府第一中学校教諭、京都府福知山女子高等学校・京都府立鴨沂高等学校・大阪府立貝塚高等学校・大阪府立三国丘高等学校校長を経て大阪府立北野高等学校校長に就任。 1964年3月31日、府立高等学校を退職。私立金蘭千里高等学校長となる。
三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月… 三木 行治(みき ゆきはる、1903年 <明治36年> 5月1日 - 1964年 <昭和39年> 9月21日)は、日本の医師、政治家。岡山県知事。位階は正三位。勲二等瑞宝章。水島臨海工業地帯の誘致など岡山県の発展に貢献したことが認められ、日本人で初めてマグサイサイ賞を受賞した。 マグサイサイ賞の受賞金は郷土の発展に役立てたいとの考えから副賞1万米ドル全額が県に寄付され、この受賞金と県民からの寄附金を中心に岡山県三木記念事業基金が1965年に設置された。 また岡山県下にアイバンクを設置して自ら第1号の登録者となったことから、二人の女性に三木の角膜が移植された。 亡くなった時、私財は着ていた服と眼鏡だけだったといわれる。
葛西 泰二郎(かさい たいじろう、1903年4月17日 - … 葛西 泰二郎(かさい たいじろう、1903年4月17日 - 1974年2月9日)は、日本の機械工学者。工学博士。九州大学名誉教授。ラグビー日本代表監督。 福岡市大名町(現・福岡市中央区大名)に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館、1924年第五高等学校理科甲類を経て、1927年九州帝国大学工学部を卒業する。 1930年九州帝国大学助教授、1936年工学博士、1941年同教授と進み、流体機械、ポンプ、水車などを研究、送風機、圧縮機に主力を注いだが、太平洋戦争とともにその才能を買われ軍に奉仕させられることになる。1942年広海軍工廠における研究業務を委嘱され、1944年3月第2陸軍航空技術研究所に配属。
黒岩 保(くろいわ たもつ、1903年3月24日 - 197… 黒岩 保(くろいわ たもつ、1903年3月24日 - 1978年5月10日)は、日本の工学者。北海道大学名誉教授。北海道工業大学元学長。福岡県出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、工学・技術に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:技術と産業)。
新開 長英(しんかい ながふさ、1903年3月24日 - 1… 新開 長英(しんかい ながふさ、1903年3月24日 - 1985年8月5日)は、日本の哲学者。 福岡県田川市出身。1928年九州帝国大学法文学部哲学科卒、旧制広島高等学校教授、福岡高等学校教授、1932年九大助教授、1942年神宮皇學館教授に転じる。戦後は北九州大学教授、九州産業大学教授を務めた。
三ッ井 卯三男(みつい うさお、1903年(明治36年)3月… 三ッ井 卯三男(みつい うさお、1903年(明治36年)3月8日 - 1977年(昭和52年)8月14日)は、日本の政治家。第16代鹿児島市長。位階は正四位。 長野県飯山市出身。東京高等商業学校(現・一橋大学)選科修了、九州帝国大学法文学部卒業。卒業後は長野、山形、福岡の各県の中学教師となる。1938年福岡県庁に入り、社会教育、振興、厚生の各課長を経て、1943年海軍司政官になる。帰国後の1947年福岡県秘書課長から鹿児島県庁に転じ、教育、総務の各部長、副知事を歴任する。 1959年の鹿児島市長選に保守系から立候補したが、元串木野市長で革新系の平瀬實武に敗れて落選した。4年後の1963年の市長選に現職の平瀬に挑戦する形で再び立候補し、前回と同じ保革対決となり、選挙の結果、現職の平瀬を破り当選した。
田中 茂美(たなか しげみ、1903年〈明治36年〉3月7日… 田中 茂美(たなか しげみ、1903年〈明治36年〉3月7日 - 1997年〈平成9年〉7月3日)は、昭和から平成時代前期の土木工学者。鉄道官僚。実業家。 白石兵次郎の三男として福岡県遠賀郡に生まれ、のち田中正夫の養子となる。1926年(大正15年)九大土木科卒。鉄道省に奉職し、長野保線事務所長、札鉄局工事課長、新橋保線部長、1943年(昭和18年)門鉄施設部長、1945年(昭和20年)鉄道総局施設局計画課長、1948年(昭和23年)施設局長、1949年(昭和24年)国鉄理事施設局長をへて理事・初代技師長となり、1952年(昭和27年)退職。同年極東鋼弦コンクリート振興、1955年(昭和30年)興和化成、1958年(昭和33年)興和コンクリート各社の社長を務めた。
西村 龍介(にしむら りゅうすけ、1903年3月6日 - 1… 西村 龍介(にしむら りゅうすけ、1903年3月6日 - 1989年5月13日)は、日本の経営者。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)社長を務めた。 山口県出身。1926年に九州帝国大学工学部を卒業。商工省での勤務を経て、1932年に小西六写真工業に転じ、1948年に取締役に就任し、1954年に常務を経て、1968年4月に社長に就任。1973年11月から1979年12月までに会長を務めた。東京工芸大学理事長も務めた。 1966年9月に紫綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1989年5月13日、心不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 197… 松尾 靜麿(まつお しずま、1903年2月17日 - 1972年12月31日)は、元運輸省航空庁長官および元日本航空社長・会長。佐賀県杵島郡若木村(後の武雄市)出身。連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組んだことから戦後日本航空業界の父と言われる。
大島 多蔵(多藏、おおしま たぞう、1903年〈明治36年〉… 大島 多蔵(多藏、おおしま たぞう、1903年〈明治36年〉1月22日 - 1978年〈昭和53年〉5月20日)は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(2期)。 佐賀県杵島郡、のちの江北村(現江北町)で、大島喜一の二男として生まれる。1929年(昭和4年)九州帝国大学法文学部法律科を卒業した。 佐賀県立鹿島中学校教諭、宮崎県立都城中学校教諭、熊本県中學済々黌教諭、佐賀県立佐賀商船学校教諭、同武雄中学校教諭、同唐津中学校教諭、長崎県立諫早中学校教諭、同対馬中学校教諭などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で佐賀県全県区に無所属で出馬して当選し、1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で佐賀県全県区に国民協同党公認で出馬して再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
山近 剛太郎(やまちか ごうたろう、1902年〈明治35年〉… 山近 剛太郎(やまちか ごうたろう、1902年〈明治35年〉9月28日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の炭鉱技術者、洋画家。自身が経験した炭鉱の採掘作業や鉱山事故を題材に、油彩や水彩で描いた記録画で知られる。 福岡県鞍手郡宮田町(現・宮若市)に産まれる。若いころから絵画に興味があり、中学校時代には画塾にも通っていた。九州帝国大学採鉱科卒業。 1926年(昭和元年)、貝島太助が社長を務める貝島炭鉱に入社し、炭鉱の採掘現場で技術指導や監督にあたった。後には貝島炭鉱の役員として1972年(昭和47年)まで炭坑に入り、特に炭鉱の防災体制の確立に貢献した。この間にも、坑内の風景をスケッチし、1947年(昭和22年)-1949年(昭和24年)頃には、福岡で画塾を主宰していた洋画家である、手島貢(創元会会員)の下で絵を学んでいた。
稲田 正次(いなだ まさつぐ、1902年(明治35年)8月2… 稲田 正次(いなだ まさつぐ、1902年(明治35年)8月26日 - 1984年(昭和59年)8月14日)は、日本の憲法学者。法学博士。東京教育大学名誉教授。 島根県能義郡赤屋村(現安来市伯太町)出身。1922年東京高等師範学校文科に入学し、1926年に卒業。熊本県第一師範学校教諭を務めたのち、1928年に九州帝国大学法文学部に入学。1931年に学士試験に合格し法学士となる。静岡県立富士高等女学校教諭を務めたのち、1934年5月に東京文理科大学助手兼東京高等師範学校助教授となる。1936年東京高等師範学校教授、1942年東京文理科大学助教授。 1945年、終戦直後の12月憲法改正私案を政府に提出し、公表した。
孫 永寿(ソン・ヨンス、朝鮮語: 손영수/孫永壽、1902年… 孫 永寿(ソン・ヨンス、朝鮮語: 손영수/孫永壽、1902年8月12日または1905年 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家、実業家。初代河東郡郡守、第4代馬山市長、第4・5代釜山市長、第4代韓国国会議員を歴任した。 慶尚南道釜山出身、本籍地は密陽。東莱高等普通学校、京城法学専門学校、九州帝国大学(現・九州大学)法学部卒。1945年10月24日から1946年2月1日までは初代河東郡守、1947年11月5日から1949年6月20日までは第4代馬山市長、1952年5月8日から1954年7月9日までは第4・5代釜山市長を歴任した。特に4代目市長の在任中の1953年11月27日に発生した釜山大火災により同年12月11日に辞任したものの、その後はまた市長に選ばれ、12月17日より5代目市長となった。
西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990… 西尾 愛治(にしお あいじ、1902年8月1日 - 1990年4月3日)は、日本の政治家。鳥取県知事。 鳥取市出身。九州帝国大学法文学部卒。鳥取県経済部開拓第一課長を経て、1947年の第1回鳥取知事選に立候補して初当選。当時は課長から知事への「三段跳び知事」と話題になった。同年11月、鳥取県に昭和天皇の戦後巡幸があり、随行役を務めた。 1952年の鳥取大火の復興に力を尽くした。2期目の1953年に南米への大量移住を唱え、議会を反対を押し切って5ヶ月にわたる南米視察の外遊をめぐってリコール運動に発展し、任期途中で辞職。出直し知事選で3期目を目指したものの落選し、1963年の鳥取市長選にも出馬したがこちらも落選に終わっている。
槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7… 槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7月4日 - 1964年(昭和39年)10月)は、日本の政治家。鳴門市長。九州帝国大学法文学部卒業。 1928年(昭和3年)、九州帝国大学法文学部法科を卒業後、南満州鉄道へ入社。 1932年(昭和7年)、満州国国務院総務庁法制局統計処資料課長に起用され、その後、同国官吏として新京特別市財務処長、ハルピン郵政管理局長、国務院総務庁参事兼厚生参事官などを歴任。 戦後は愛媛県松山市共催の愛媛県産業大博覧会事務局長として腕を振るい、1951年(昭和26年)4月26日に徳島県の鳴門市長に就任。 市長退任後は松山市に住み、日刊工業新聞松山市局長を勤めたが、1964年(昭和39年)10月、同地で死去。
堀 豁(ほり とおる、1902年2月20日 - 1996年1… 堀 豁(ほり とおる、1902年2月20日 - 1996年1月10日)は、日本の経営者。新潟県長岡市出身。 1925年に九州帝国大学工学部電気科を卒業し、同年に北越水力電気に入社。1942年に東北配電(のちの東北電力)に転じ、1946年9月に常務に就任し、1949年11月に副社長を経て、1960年5月に社長に就任し、1962年12月までに務めた。 1961年に藍綬褒章を受章し、1972年に勲二等瑞宝章を受章。 1996年1月10日老衰のために死去。93歳没。
土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974… 土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974年4月21日) は、日本の機械工学者。名古屋大学名誉教授。元沼津工業高等専門学校校長。 鳥取県出身。1927年九州帝国大学工学部機械工学科卒業、旅順工科大学講師。1928年旅順工科大学助教授。1937年九州帝国大学工学博士。1938年旅順工科大学教授。1944年名古屋帝国大学教授。1964年沼津工業高等専門学校校長。1965年名古屋大学名誉教授。1973年勲二等瑞宝章受章。旋盤の研究などを行った。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 19… 鈴木 良徳(すずき よしのり、1902年1月25日 - 1991年9月14日)は、日本の陸上競技指導者。JOC名誉委員、日本陸連元理事長。栃木県出身。 郁文館中学校、旧制松本高等学校文科乙類を経て、九州帝国大学農学部農業化学科卒業、1926年同大学法文学部中退。1932年、日本陸連の役員となり、1960年ローマ五輪の陸上競技総監督などを務め、同年日本陸連理事長。1969年日本体育協会アマチュア委員長に就任し、「アマチュア規定」制定に尽力したほか、1964年東京五輪組織委競技交通警備特別委員、ユニバーシアード組織委総務委員、第8回・第14回国際オリンピックアカデミー調査員、札幌冬季五輪式典委員、体協理事、COJO・JOC合同委員長などを歴任。
吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日… 吉岡 修一郎(よしおか しゅういちろう、1902年1月18日 - 1998年)は、日本の科学評論家。 石川県生まれ。東北帝国大学理学部卒、1934年九州帝国大学法文学部卒。戦後久留米大学教授、1959年「人の性格に関する脳波学的研究」で久留米大学より医学博士の学位を取得。定年退官後、九州産業大学教授。 数学、医学、哲学などで多くの一般向け著作をなした。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
三宅 博(みやけ ひろし、1901年9月5日 - 1993年… 三宅 博(みやけ ひろし、1901年9月5日 - 1993年12月18日)は、日本の医学者。九州大学名誉教授。専門は消化器外科学。胆石症の権威。 九州帝国大学医学部第一外科初代教授を務めた三宅速の長男として徳島県に生まれる。福岡県立中学修猷館、旧制佐賀高等学校を経て、1927年九州帝国大学医学部を卒業。 大学卒業後、九大医学部の赤岩八郎教授の第一外科に入局。助手を経て、1933年1月講師となり、1934年3月助教授に就任。その後、1934年10月から1936年8月にかけて在外研究員としてドイツに留学し、キール大学のアンシュッツ(Wilhelm Anschütz)教授に師事する。 1938年7月長崎医科大学第一外科教授、1941年12月岡山医科大学第一外科教授を務めた後、1947年7月、父が初代教授を務めた九州大学医学部第一外科の第4代教授に就任。
小寺 駿吉(こでら しゅんきち、1901年〈明治34年〉6月… 小寺 駿吉(こでら しゅんきち、1901年〈明治34年〉6月23日 - 1975年〈昭和50年〉2月4日)は、日本の造園家・農学者。造園学分野で東京大学、千葉大学等で教鞭をとり、学究の途を一貫して歩む。位階は正四位。勲三等瑞宝章。 北海道小樽市に岐阜県士族の父、小寺芳次郎、母ただの五男として生まれる。二男は小寺健吉(画家)、三男は小寺廉吉(桃山学院大学教授等)、四男は小寺融吉(日本舞踊研究家)、七男は俳優の中村伸郎。 九州帝国大学に進学、永見健一に師事。1927年、農学部林学科卒業後、東京帝国大学大学院に進学、本多静六に師事し更に田村剛の指導をうける。この間1929年から東京大学農学部講師もつとめ造園学を担当。
野村 実(のむら みのる、1901年2月16日 - 1996… 野村 実(のむら みのる、1901年2月16日 - 1996年2月19日)は、日本の医師、シュヴァイツァー研究家。 東京生まれ。1925年九州帝国大学医学部卒。1934年東京で結核病院を開業。1951年白十字会村山サナトリウム院長。1954年アフリカにシュヴァイツァーを訪ね、翌年のノーベル賞受賞に随行した。1959年東京コロニー理事長。キリスト教海外医療協力会会長。1970年日本シュヴァイツァー友の会会長。1983年にキリスト教功労者を受賞。
三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988… 三池 信(みいけ まこと、1901年1月12日 – 1988年2月20日)は、昭和期の政治家。郵政大臣。 佐賀県神埼郡三田川村(現・吉野ヶ里町)に、三池鉄一の長男として生まれる。佐賀高等学校理科甲類を経て、1926年九州帝国大学工学部電気科を卒業、京浜電力株式会社に入社する。奈川渡発電所(信州)所長を経て、理化学研究所特殊製鉄株式会社に移り常務取締役となる。終戦は同社羅興(現・北朝鮮咸鏡南道)工場長として朝鮮半島で迎えた。 1949年、第24回衆議院議員総選挙に吉田茂率いる民主自由党から佐賀県全県区で立候補し当選する(当選同期に池田勇人・岡崎勝男・前尾繁三郎・橋本龍伍・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二など)。
渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(190… 渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(1900年末?) - 2002年1月19日)は、日本の推理作家。本名は渡辺 圭介。渡辺伊太郎・渡辺ツネの次男で、画家の渡辺東は娘、推理作家の渡辺温は実弟である。秋田県秋田市生まれ。 セメント技師の父の赴任のため、生後まもなく北海道谷好村(現在の北斗市)に、次いで1905年東京・深川に、1912年茨城県高鈴村(現在の日立市)に転居。茨城県水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1920年青山学院高等部英語師範科入学。1925年同校を卒業し、群馬県立渋川中学校(現在の群馬県立渋川高等学校)で英語教員となるが、翌1926年辞職し九州帝国大学(現在の九州大学)法文学部史学科に入学。
山縣 清(やまがた きよし、1901年1月5日 - 1973… 山縣 清(やまがた きよし、1901年1月5日 - 1973年2月24日) は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。元宇部工業高等専門学校校長。元日本伝熱研究会会長。 1901年、山口県厚狭生まれ。1926年九州帝国大学工学部機械工学科を卒業し、卒業後は同大学の助手となる。1927年、九州帝国大学講師に昇進。1929年、九州帝国大学助教授に昇進。1939年、九州帝国大学に「真直ナ円管内ニ於ケル流体ノ非等温層流ノ理論ニ対スル寄与」を提出して工学博士号を取得。1940年、九州帝国大学工学部教授に昇進。1947年より九州大学工学部長。1964年に九州大学を定年退官し、名誉教授となった。 その後は郷里に戻り、1965年より宇部工業高等専門学校校長(第3代目校長)。
小田 信士(おだ しんじ、1901年〈明治34年〉 - 19… 小田 信士(おだ しんじ、1901年〈明治34年〉 - 1997年〈平成9年〉8月11日)は、日本の教育者。 1901年、山形県生まれ、山形県立 酒田商業学校から、1922年に新設の福島高等商業学校(現在の福島大学)に進学、第一期生として1925年に卒業、さら九州帝国大学経済学部に進み、1930年に卒業。 青山学院専門部および明治学院の教授を経て、1946年、弘前学院(大学・短大・高校)院長、1960年に宮城学院長となり、宮城学院女子大学長を兼務する。併せて、前任校弘前学院名誉院長となる。敬虔なクリスチャンであり、生涯、教育者としてミッションスクールで教鞭をとるかたわら、研究者としては、キリスト教経済思想史の著作を上梓する。
趙 伯顕(チョ・ベッキョン、朝鮮語: 조백현/趙伯顯、190… 趙 伯顕(チョ・ベッキョン、朝鮮語: 조백현/趙伯顯、1900年12月15日 - 1994年7月13日)は、大韓民国の土壌学者、農芸化学者。 本貫は平壌趙氏。号は華農(ファノン)。 1900年12月15日、日本統治時代の朝鮮でソウルにて大韓帝国陸軍の参事であった趙性根の息子として生まれた。また、義兄には史学者の李丙燾がいる。 近代の農学および生化学研究の先駆けとなる科学者で、伝統食品の研究を実際の国民の食生活と連携させ、農学および食品産業分野を発展させた。 豆、キムチ、伝統醤類などに関する研究を通して韓国の伝統食品に科学的かつ体系的にアプローチし種菌の開発や繁殖などの研究に貢献した。 すなわち、キムチの栄養価値、味噌玉麹カビの分類、コチュジャン成分分析などの伝統食品を農学へと発展させた。
太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月… 太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月7日 - 1985年12月5日)は、日本の産婦人科医、政治家。元衆議院議員(当選1回)。九州帝国大学医学部卒業。京都帝国大学大学院産婦人科専攻(大正15年)修了。産児制限と安楽死を説き、子宮内避妊器具の草分けのひとつである「太田リング」を考案した。優生保護法の制定に尽力。日本安楽死協会(のち日本尊厳死協会と改称)を設立。 京都府与謝郡生まれ。代々産科医で、典禮の名が受け継がれており、武夫は八代目典禮を1942年に襲名した。京都府立第四中学校(現京都府立宮津高等学校)を卒業した後に、第三高等学校を卒業する。九州帝国大学医学部を卒業後に医師になる。
韓 巌回(ハン・アムェ、朝鮮語: 한암회/韓巖回、1900年… 韓 巌回(ハン・アムェ、朝鮮語: 한암회/韓巖回、1900年7月17日 - 1975年5月25日)は、日本統治時代の朝鮮のジャーナリスト、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。本貫は清州韓氏。 韓 厳回(ハン・オムェ、한엄회/韓嚴回)の表記もある。1960年代以降の報道では韓 邯錫または韓 甘錫(ハン・ガムソク、한감석)と紹介されていた。 ソウル市鐘路出身。養正高等普通学校、九州帝国大学農学部卒。日本統治時代は満州国および中華民国で活動しており、南満州農村天一農場農村振興会連合会理事、日大学院院長、上海中華日報社河南省支社長を務めた。1942年、蒋介石の統治区域で新聞の輸送をした際に日本兵に逮捕され、北京の日本軍の監獄で4か月間服役した。
井坂 圭一良(いさか けいいちろう、1900年〈明治33年〉… 井坂 圭一良(いさか けいいちろう、1900年〈明治33年〉5月31日 - 1945年〈昭和20年〉)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。平安南道知事。 井坂圭松の子として北海道に生まれる。九州帝国大学を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学経済学部を卒業する。この間、1924年(大正13年)に高等試験に合格した。朝鮮総督府に奉職し、殖産局属、慶尚南道属を経て、1928年(昭和3年)総督府事務官内務局勤務に転じた。ついで全羅北道、平安南道各警察部長、総督官房文書課長兼国勢調査課長、殖産局商工課長兼企画部第三課長、商工第一課長兼物資調整第二課長、総督官房審議室勤務兼東京事務所長などを経て、1944年(昭和19年)9月、平安南道知事に就任した。
高橋 渡(たかはし わたる、1900年〈明治33年〉5月11… 高橋 渡(たかはし わたる、1900年〈明治33年〉5月11日 - 1944年〈昭和19年〉7月8日)は、日本戦前期の写真家。弁護士でもあった。 1900年 (明治33年) 5月11日、福岡県生まれ。1924年に慶応義塾大学経済学部理財科を卒業したが、その後九州帝国大学に入学、同大学法文学部法律科を1932年 (昭和7年) に卒業した。 1935年 (昭和10年) 頃に「福岡写友会」に入り、本格的に写真撮影を始めた。いくつかの写真クラブを経て[要出典]、1939年 (昭和14年) に「ソシエテ・イルフ」を結成、中心メンバーとして活躍した。「イルフ(IRF)」は「フルイ(古い)」の逆並びで、「新しい」を意図していた。
津上 研蔵(つがみ けんぞう、1900年3月17日 - 没年… 津上 研蔵(つがみ けんぞう、1900年3月17日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者、実業家。 津上嶮路の四男として、福岡県糸島郡北崎村(現・福岡市)に生まれる。津上製作所(現・ツガミ)創業者津上退助は実兄。1920年福岡県中学修猷館、1922年3月第五高等学校理科乙類を経て、1925年3月九州帝国大学工学部機械工学科を卒業。 卒業後、三菱鋼業に入社。1928年津上製作所に転じ、1929年技師長となる。1940年名古屋帝国大学工学部教授、および愛知県工学試験所部長を兼ね、1945年津上製作所取締役に選ばれ、1947年常務に進む。1964年5月津上文化機器販売社長に就任。 機械学会(現・日本機械学会)評議員、長岡市商工会議所理事、日本小型工作機械工業会(現・日本精密機械工業会)会長なども務めている。
遠城寺 宗徳(えんじょうじ むねのり、1900年1月14日 … 遠城寺 宗徳(えんじょうじ むねのり、1900年1月14日 - 1978年8月9日)は日本の医学者。小児科学専攻。九州大学医学部長、第11代九州大学総長、久留米大学学長等を務め、勲一等瑞宝章を受章した。長男は病理学者の遠城寺宗知。ゆとり教育導入に尽力した文部官僚の寺脇研は孫。 大分県生まれ。九州帝国大学医学部卒業。医師、医学博士。 1923年に伊東祐彦の九州帝国大学医学部小児科教室に入局。平壌医学専門学校教授を経て、1941年にウィーン大学留学。1942年から九州帝国大学医学部小児科教室教授。九州大学病院院長、九州大学医学部長兼初代心臓血管研究施設長を経て、1961年から第11代九州大学学長、1968年から久留米大学学長。
三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)… 三宅 徳三郎(みやけ とくさぶろう、1899年(明治32年)12月3日 - 1982年(昭和57年)4月10日)は、日本の外科医、政治家。医学博士。 高松市長(在任1期)。 香川県三豊郡荘内村(現 三豊市詫間町)出身。地主の三男として生まれる。 旧制香川県立三豊中学校、旧制第四高等学校を経て、九州帝国大学医学部卒業。 三豊中学時代から第四高等学校、九州帝国大学と野球選手で通し、投手や一塁手で活躍、その間柔道、剣道、テニス、乗馬、弓術も行った。 1926年(大正15年)3月、九州帝国大学医学部卒業後、外科医局に4年間在局、三宅速教授、赤岩八郎教授の指導を受ける。1930年(昭和5年)5月、岩手医学専門学校教授ならびに青森県立病院外科部長に就任。
棚橋 影草(たなはし えいそう、1899年12月1日 - 1… 棚橋 影草(たなはし えいそう、1899年12月1日 - 1970年9月9日)は、日本の俳人、医学者。福岡県福岡市出身。本名は棚橋陽吉。 1918年福岡県立中学修猷館を経て、九州帝国大学医学部を卒業し、同大医学部教授に就任。貝の血液研究でも知られる。 昭和の初めから、吉岡禅寺洞に師事し、俳誌「天の川」幹部同人となり、新興俳句の隆盛期に評論などで活躍した。一時横山白虹の後を継ぎ「天の川」を編集している。1938年以後目を病み、句作から離れた。
榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月… 榊原 亨(さかきばら とおる、1899年〈明治32年〉11月3日 - 1992年〈平成4年〉1月27日)は、大正末から昭和期の医学者、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)、医学博士。心臓外科の創始者。 福井県福井市宝永上町生まれ。幕臣榊原職直の後裔である。開業医の長男として生まれる。第四高等学校を経て、1925年(大正14年)九州帝国大学医学部を卒業した。 金沢医科大学(現金沢大学)に赴任し副手、助手を歴任。泉伍朗教授の元で脾臓手術を行い認められる。1928年(昭和3年)泉教授と共に岡山医科大学(現岡山大学医学部)に赴任し講師に就任し、1929年(昭和4年)助教授となる。収縮性心包炎の手術に成功して名を知られた。
今井 直重(いまい なおしげ/なおえ、1899年6月10日 … 今井 直重(いまい なおしげ/なおえ、1899年6月10日 - 1994年1月14日)は、日本の法学者、政治学者、哲学者。奈良教育大学名誉教授。学位は法学博士(京都大学)、文学博士(京都大学)。 奈良県出身。九州帝国大学文学部哲学科卒。京都帝国大学大学院文学研究科博士課程修了。 1964年「主権の憲法学的研究」で、法学博士(京都大学)の学位を取得。1968年「プラトンの国家論の研究」で、京都大学文学博士(京都大学)の学位を取得。 奈良学芸大学教授、奈良教育大学教授。1962年定年退官、名誉教授、大阪経済法科大学教授。1984年退職。
山内 俊吉(やまうち としよし、1899年5月1日 - 20… 山内 俊吉(やまうち としよし、1899年5月1日 - 2001年10月17日) は、日本の材料科学者。東京工業大学名誉教授。東京工業大学出身者として初となる同大学長や、科学技術庁無機材質研究所所長、窯業協会会長、日本セラミックス協会名誉会長などを務めた。藍綬褒章受章。 鹿児島県国分市生まれ。1924年東京高等工業学校(現東京工業大学)附属工業教員養成所卒業。福岡県立中学校教諭を経て、1930年九州帝国大学工学部採鉱学科卒業。同年東京工業大学講師。1939年東京工業大学工学博士。1941年東京工業大学教授。 1945年から1948年まで窯業協会会長。1947年東京工業大学窯業研究所長。1948年大学設置委員会臨時委員。
山本 利三郎(やまもと りさぶろう、1899年4月25日 -… 山本 利三郎(やまもと りさぶろう、1899年4月25日 - 1982年5月30日)は、日本の鉄道技術者。 東京急行電鉄(大東急)から分離した後の小田急電鉄に取締役運輸担当として就任し、同社3000形電車(SE車)の開発に尽力した。また、その後の小田急電鉄の車両における思想に影響を残した。 大阪府大阪市南区(現在の天王寺区)上汐に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1924年3月に九州帝国大学工学部電気工学科を卒業し、鉄道省に入省。 鉄道省では電気局に配属となり、1931年までに品川電車庫、田町機関庫、東京機関庫、蒲田電車庫、国府津機関庫などの現業機関を経験する。田町機関庫では導入されたばかりのイギリス製電気機関車に故障が多く苦労したという。
的場 幸雄(まとば さちお、1899年3月23日 - 198… 的場 幸雄(まとば さちお、1899年3月23日 - 1987年9月28日)は、日本の金属工学者。東北大学名誉教授。元富士製鐵代表取締役副社長。元日本金属学会会長。元日本鉄鋼協会副会長。 1924年九州帝国大学工学部冶金学科卒業、東北帝国大学工学部金属工学科講師。1927年東北帝国大学工学部金属工学科助教授。1935年九州帝国大学工学博士。1936年東北帝国大学工学部金属工学科教授。1955年日本金属学会会長。1959年東北大学工学部長。1962年東北大学名誉教授、富士製鐵代表取締役副社長、富士製鐵中央研究所所長。1971年日本工学会会長。日本鉄鋼協会副会長、日本学術会議会員なども務めた。墓所は染井霊園。
和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986… 和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986年11月28日)は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。第2代久留米工業短期大学学長。初代久留米工業高等専門学校校長。日本学士院賞受賞。和栗雄太郎九州大学名誉教授は長男。 岡山県出身。1923年九州帝国大学工学部機械学科卒業。1936年九州帝国大学工学博士。九州帝国大学工学部講師、九州帝国帝国大学工学部助教授を経て、1938年九州帝国大学校工学部教授。1953年「歯車に関する研究」により成瀬政男東北大学教授、中田孝東京工業大学教授とともに日本学士院賞を受賞。1964年久留米工業高等専門学校校長、日本機械学会名誉員。1969年勲二等瑞宝章受章。
高口 政俊(こうぐち まさとし、1898年7月19日 - 1… 高口 政俊(こうぐち まさとし、1898年7月19日 - 1967年2月11日)は、日本の経営者。三井金属鉱業元社長。福岡県出身。 1923年に九州帝国大学冶金科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。 1949年に取締役に就任し、1950年に常務を経て、、1955年8月に三井金属鉱業副社長に就任し、1958年5月は社長に昇格し、1964年5月までに務めた。 1967年2月11日脳出血のために死去。68歳没。