吉田 達磨(よしだ たつま、1974年6月9日 - )は、埼… 吉田 達磨(よしだ たつま、1974年6月9日 - )は、埼玉県出身のサッカー指導者、元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。京都サンガF.C.ヘッドコーチ。 中学時代は日立製作所のジュニアユースに所属。東海大学付属浦安高校を経て、1993年に日立の後身でもある柏レイソルに入団。1997年に京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)、1999年にモンテディオ山形に移籍。山形在籍時の1999年11月21日に行われたJ2第36節(最終節)・大分トリニータ戦(大分陸)ではアディショナルタイムに大分のJ1昇格の夢を打ち砕くフリーキックを決めた。 2001年末をもって山形から戦力外通告を受ける。
中村 伸(なかむら しん、1974年5月6日 - )は、大阪… 中村 伸(なかむら しん、1974年5月6日 - )は、大阪府出身の元プロサッカー選手(MF)、サッカー指導者。 交野FC、東海大学付属仰星高等学校、同志社大学出身。 1997年、当時旧JFL所属のサガン鳥栖へ入団する。サガン鳥栖は鳥栖フューチャーズを解散後この年から新しく編成されたチームであり、中村はその中で中心選手として活躍した。1999年、旧JFLは新しくJFLとJリーグ ディビジョン2に再編、鳥栖はJ2初期メンバーとなる。引き続き中心選手として活躍、同年3月21日J2第2節対ヴァンフォーレ甲府戦では自身Jリーグ初ゴールを記録しサガン鳥栖としてのJリーグ初勝利に貢献した。 2001年、当時J2のベガルタ仙台へ移籍すると、同年度末のJリーグ ディビジョン1昇格に貢献した。
伊藤 優津樹(いとう ゆづき、1974年4月7日 - )は、… 伊藤 優津樹(いとう ゆづき、1974年4月7日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手。ポジションはMF。現在はサッカー指導者などを務める。 浜北キッカーズ~東海大学第一中学校~静岡北高校。静岡県出身の地元選手として、Jリーグが開幕した1993年に清水エスパルスに入団。2年目から公式戦の出場機会を与えられ、貴重な左利きの選手として起用される事が多かった。 1998年、新たな出場機会を求めて旧JFLの川崎フロンターレに移籍。伊藤より1歳年下で、1年早く清水から川崎に移籍していた長橋康弘とのコンビで左サイドでのレギュラー獲得が期待されたが、自身がケガで悩まされ、同ポジションでは久野智昭が活躍した事もあり、翌1999年のJリーグディビジョン2(J2)にかけてほとんど試合に出られなかった。
髙野 剛(たかの つよし、1973年10月4日 - )は、福… 髙野 剛(たかの つよし、1973年10月4日 - )は、福岡県那珂川市出身 のサッカー指導者。東海大学付属第五高等学校/セントラル・ワシントン大学卒業。 東海大学付属第五高等学校2年次の高校選手権ベスト4進出の経験を持つものの、当時はレギュラーではなくサブメンバーで3年間を過ごし、公式戦出場は数試合程度にとどまった。一つ上に足立修。 高校卒業後、語学目的でアメリカに渡りワシントン州を中心にサッカー選手、指導者として活躍。1999年にはユナイテッドサッカーリーグ(USL)・シアトル・サウンダーズFC選手としてプレー、スタッフとして働く。 2005年からサンフレッチェ広島に育成組織コーチとして入団。
服部 年宏(はっとり としひろ、1973年9月23日 - )… 服部 年宏(はっとり としひろ、1973年9月23日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。 小学生時代は清水市の選抜チーム・清水FCのメンバー。東海大学第一高校卒業後、東海大学2年修了時にジュビロ磐田に練習生として参加、そのままプロ契約し、大学を中退した。1年目から左のサイドバック・ウイングバックとしてレギュラーとして活躍。他に中盤の底やストッパーを務めることができる守備のポリバレント選手。磐田でも1999年、名波浩がヴェネツィアに移籍し、中盤構成に苦しむ中、ボランチを務める。 1996年アトランタオリンピックで、ブラジル代表の最大のキーマンとされたジュニーニョ・パウリスタのマンマーク役を務め完封した事で一躍その名を上げると、同年には日本代表にも初召集されデビューを果たす。
小島 卓(こじま たかし、1973年8月4日 - )は、滋賀… 小島 卓(こじま たかし、1973年8月4日 - )は、滋賀県出身の元サッカー選手、スカウト、焼肉店オーナー。日本サッカー協会登録仲介人。株式会社Mundo Rico代表取締役社長。 現役時代は守備的ミッドフィールダーやセンターバックのポジションをこなした。 東海大学第一高校(現:東海大学付属静岡翔洋高校)を経て、近畿大学に入学。布部陽功は近畿大学の同級生に当たる。近畿大学を中退後はブラジルのヒョーゴFCなどを経て、1995年6月より柏レイソル、1999年よりヴィッセル神戸でプレー。 現役引退後はスカウトに転じて、2001年から2004年まで柏、2005年から2015年まで名古屋グランパスエイトでスカウトを務めた。
岩下 潤(いわした じゅん、1973年4月8日 - )は、静… 岩下 潤(いわした じゅん、1973年4月8日 - )は、静岡県生まれのサッカー指導者、元サッカー選手。2020年から清水エスパルスユース監督。現役時代のポジションはFW。 東海大学第一高校(現・東海大学付属静岡翔洋高校)卒業後、Jリーグ開幕を控えた清水エスパルスに入団。1994年には24試合に出場し4ゴールを挙げるが(6月1日、1stステージ第18節ジェフ市原戦のゴールはJリーグ30ベストアウォーズのボレー/オーバーヘッド部門にノミネートされた。)、1995年シーズンをもって清水を退団、1996年からヴィッセル神戸に所属、その後、日本フットボールリーグ (JFL) のジヤトコ・TTでプレー。本人はその後も現役を続けるつもりだったが、清水から育成スタッフの話を聞いて現役を引退、2002年に清水のアカデミースタッフに就任する。
海本 慶治(かいもと けいじ、1972年11月26日 - )… 海本 慶治(かいもと けいじ、1972年11月26日 - )は、大阪府吹田市出身の元サッカー日本代表、Jリーグ・サッカー選手。ポジションはディフェンダー(センターバック)。 弟は元プロサッカー選手の海本幸治郎。弟とは名古屋グランパスエイトとアルビレックス新潟で、同時に在籍した事がある。 小学6年生のときにサッカーを始める。中学時代まではフォワードだったが、東海大学付属仰星高校からディフェンダーとしてもプレーするようになる。高校3年時に高校サッカー選手権に出場。1987年にジュニアユース日本代表に選出された。 東海大学を経て、1995年にテストに合格してヴィッセル神戸に加入。1997年からコンスタントに試合出場を重ね、レギュラーに定着した。
鳥居塚 伸人(とりいづか のぶひと、1972年8月7日 - … 鳥居塚 伸人(とりいづか のぶひと、1972年8月7日 - )は、群馬県前橋市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。 群馬県立前橋商業高校時代に1学年先輩の服部浩紀らとともに高校選手権でベスト4を経験し、その後東海大学に入学。中心選手として大車輪の活躍を見せ、大学卒業後はコスモ石油に加入。 1997年、コンサドーレ札幌に入団。念願のJリーガーとなったが、第3節柏レイソル戦での幻のVゴール(一度は認められたが相手の抗議で覆されている)を除けば持ち味を出し切れず1998年限りで戦力外通告を受け退団。 1999年からは地元・群馬県の社会人チームの図南SC(現:tonan前橋)に移籍し、チームの精神的支柱としてチームを引っ張り、当時群馬県社会人サッカーリーグ1部に所属していたチームの関東リーグ昇格に大きく貢献した。
森島 寛晃(もりしま ひろあき、1972年4月30日 - )… 森島 寛晃(もりしま ひろあき、1972年4月30日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ)、フォワード(セカンドトップ)。元日本代表で、1998年・2002年のFIFAワールドカップメンバー。現在はセレッソ大阪運営会社「株式会社セレッソ大阪」代表取締役会長を務める。 Jリーグの開幕連続得点記録保持者(7試合連続)、オールスターゲーム最多得点記録保持者(通算6ゴール)。セレッソ大阪在籍時に最も得点を取った選手。セレッソ大阪の初代8番。 広島県の大河FCから、静岡県の東海大学第一高校(現:東海大学付属静岡翔洋高校)へ進学し、1991年に、当時JSL2部のヤンマーディーゼルサッカー部に入団。
鈴井 智彦(すずい ともひこ、1972年1月6日 - )は、… 鈴井 智彦(すずい ともひこ、1972年1月6日 - )は、愛知県刈谷市出身のサッカー指導者。JFA 公認A級コーチ。 サッカー名門校の東海大学で選手としてプレー。現役時代はフォワードやサイドバックなどのポジションを経験し、大学では田坂和昭と同期だった。大学卒業後はサッカー専門誌のサッカーダイジェストに編集部員として採用され、金子達仁や戸塚啓の指導を受けた。1996年にサッカーダイジェストを辞め、フォトグラファーを目指してスペイン・バルセロナに渡る。当時はカメラに関しては素人で独学で勉強した。ただしお世話になった人にも迷惑をかけ、逃げるようにバルセロナを去る。2008年まで現地に滞在しフォトグラファーのほかスポーツライターとしても活動、Numberやプレイボーイに寄稿した。
田坂 和昭(たさか かずあき、1971年8月3日 - )は、… 田坂 和昭(たさか かずあき、1971年8月3日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手で、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションは主にミッドフィールダー(MF)。元日本代表。 1994年、ベルマーレ平塚がJリーグに昇格した年に入団。初年度からディフェンシブハーフ(ボランチ)のポジションを前年不動のレギュラーであった松山広淳から奪い、開幕戦から出場。平塚競技場のこけら落としとなった第2節では渡辺卓と激突し、顔面を骨折してその後1ヶ月を棒に振ったものの、復帰後は中心選手として活躍した。1stステージは岩本輝雄、名良橋晃の超攻撃的両サイドバックのフォローに追われたが、NICOSシリーズは優勝争いを演じ、田坂自身はJリーグ新人王を獲得した。
川元 正英(かわもと まさひで、1971年6月21日 - )… 川元 正英(かわもと まさひで、1971年6月21日 - )は、神奈川県出身の元サッカー選手。 厚木南高校から東海大学に進学してサッカー部に所属。卒業後は富士通に入社し、アマチュア選手としてジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に所属する自社の富士通サッカー部でプレーし、レギュラーを獲得した。その後自らの負傷や他の選手とのレギュラー争いにより出場試合数が増減し、1997年には「川崎フロンターレ」としてプロ化してJリーグを目指すこととなった。旧JFLとしての最後のシーズンとなった1998年には再びレギュラーに返り咲いた。後に「博多の森の悲劇」と語られる同年11月19日のJ1参入決定予備戦でも延長戦を含めてフル出場したがチームはアビスパ福岡に3ゴールを許して敗れた。
菊池 忍(きくち しのぶ、1970年7月7日 - )は、岩手… 菊池 忍(きくち しのぶ、1970年7月7日 - )は、岩手県水沢市(現奥州市)出身のサッカー指導者。
濁澤 一仁(にごりさわ かずひと、1970年5月15日 - … 濁澤 一仁(にごりさわ かずひと、1970年5月15日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはフォワード。 東海大学第一高校を経て、日本サッカーリーグ1部・ヤンマーディーゼル(現・セレッソ大阪)に入団。ジャパンフットボールリーグを経て1995年にJリーグ昇格したが、7月にジャパンフットボールリーグ・鳥栖フューチャーズに期限付き移籍した。
橋本 雄二(はしもと ゆうじ、1970年5月13日 - )は… 橋本 雄二(はしもと ゆうじ、1970年5月13日 - )は、茨城県日立市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 東海大学時代はユニバーシアード代表にも選出され、1993年から6年間、プロサッカー選手としてガンバ大阪、サガン鳥栖でプレー。引退後は指導者の道に進み、2004年にバンディオンセ加古川(旧名:セントラル神戸)の監督に就任し、2005年と2006年に関西リーグ1部連覇へと導いた。 2007年に佐川印刷SCの監督に就任。2008年に加古川の強化部長、2009年から監督に就任したが、加古川の経営難の責任を取る形で監督を退任した。 2017年よりレイジェンド滋賀FCの監督兼U-15テクニカルアドバイザーに就任した。
山木 勝博(やまき かつひろ、1970年4月16日 - )は… 山木 勝博(やまき かつひろ、1970年4月16日 - )は熊本県出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。 長崎県立国見高等学校では1学年上に二宮浩や吉田裕幸、同期に永井秀樹、1学年下に原田武男らがいる。2年時の高校総体では準優勝。冬の高校選手権(第66回)では、決勝の東海大学第一高校戦において決勝点となるボレーシュートを決め、同校の初優勝に貢献した。大会後には優秀選手に選ばれ、日本高校選抜の欧州遠征に参加した。3年時の高校選手権(第67回)ではベスト8に終わったが前年に続き優秀選手に選ばれた。 高校卒業後に駒澤大学へ進学したが、その後中退し、1992年に日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団に加入。
澤登 正朗(さわのぼり まさあき、1970年1月12日 - … 澤登 正朗(さわのぼり まさあき、1970年1月12日 - )は、静岡県富士宮市出身の元サッカー選手(MF)、元日本代表、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)・解説者。 Jリーグの初代新人王で、1999年にはベストイレブン、日本年間最優秀選手賞を受賞。1990年代の日本を代表する司令塔の一人で、フリーキックの名手。1992年のJリーグ加盟10チームの中で唯一実業団を母体としない市民球団として結成された清水FCエスパルス(現・清水エスパルス)の契約第3号選手(第1号大卒新人選手)で、プロデビューから引退までクラブ一筋のバンディエラ。 1990年代後半、クラブ消滅危機に瀕したエスパルスにあって、主将としてクラブ史上初のタイトル(Jリーグカップ)獲得をはじめ、J1ステージ優勝(年間勝ち点1位)や国際タイトル(ACWC99-00)獲得に貢献。
後藤 太郎(ごとう たろう、1969年12月24日 - )は… 後藤 太郎(ごとう たろう、1969年12月24日 - )は、日本の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード(FW)、ミッドフィールダー(MF)。
加藤 望(かとう のぞむ、1969年10月7日 - )は、宮… 加藤 望(かとう のぞむ、1969年10月7日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、フォワード。元柏レイソル監督。 東海大学時代まではFWでプレー。礒貝洋光や澤登正朗、山口素弘らと共に黄金期を築いた。 大学卒業後の1992年、柏レイソルの前身である日立製作所本社サッカー部に入団した。入団当初の2年間は出場機会に恵まれなかったが、「試合に出ている人と同じことをしていてはダメだ。練習をするしかない」という危機感から打ち込んで1994年には主力選手となり、同年の柏のJリーグ昇格に貢献した。翌1995年には日本代表候補にも選出された。
礒貝 洋光(いそがい ひろみつ、1969年(昭和44年)4月… 礒貝 洋光(いそがい ひろみつ、1969年(昭和44年)4月19日 - )は、熊本県下益城郡小川町(現宇城市)出身の元サッカー選手。元日本代表。 小学校時代に全日本少年サッカー大会に出場すると天才サッカー少年として脚光を浴びた。中学時代はU-17日本代表のエースストライカー。 1985年に帝京高校に入学すると1年生から10番を背負った。1986年にはU-20日本代表としてFIFAワールドユースアジア予選に出場した。 1988年に東海大学に入学すると澤登正朗と共に1年時からレギュラーとして全日本大学サッカー選手権大会を始め多くのタイトルを獲得した。また、1991年に日本代表に選出され、4月のスパルタク・モスクワ戦と5月のバスコ・ダ・ガマ戦でプレーしている(在学中はAマッチ出場は無し)。
山口 素弘(やまぐち もとひろ、1969年1月29日 - )… 山口 素弘(やまぐち もとひろ、1969年1月29日 - )は、群馬県高崎市出身の元プロサッカー選手(元日本代表キャプテン)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。現役時代のポジションはMF、主にボランチ。 1984年、前橋育英高等学校入学。1985年、鳥取国体に群馬県代表として出場。1987年1月、全国高校サッカー選手権大会に出場。 1987年4月、東海大学に入学。1988年、全日本大学サッカー選手権大会で優勝(東海大学はこの年が同大会へ初出場であり、この年を含めて6年連続で決勝に進出した)。関東選抜(対関西選抜戦)に選出され、同試合にてMVPに選出される。また、1学年下で礒貝洋光、澤登正朗が加入し、ポジションを守備的ミッドフィルダーに移す。
岡中 勇人(おかなか はやと、1968年9月26日 - )は… 岡中 勇人(おかなか はやと、1968年9月26日 - )は広島県出身 の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。前日本文理大学サッカー部監督。
巻田 清一(まきた せいいち、1968年7月11日 - )は… 巻田 清一(まきた せいいち、1968年7月11日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 帝京高等学校ではサッカー部に所属し、第63回全国高等学校サッカー選手権大会では1年生で早くも試合に出場している。決勝戦は長崎県立島原商業高等学校と対戦し、1対1で引き分け、両校優勝となった。国立競技場を経験したことについて「自分を大きく成長させてくれた場所である」と語っている。同期に岩本三郎、井出俊哉1学年下に飯島寿久、礒貝洋光、島根聡一、本田泰人、森山泰行、2学年下に遠藤雅大(昌浩)、池田伸康、保坂信之、浅沼達也がいる。 東海大学を経て、1991年に日本サッカーリーグ2部に所属していたNTT関東サッカー部へ加入し 2シーズンを過ごす。
塩川 哲也(しおかわ てつや、1968年4月10日 - )は… 塩川 哲也(しおかわ てつや、1968年4月10日 - )は、日本の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 清水東高校では1学年上に武田修宏、同期に長澤徹らがいる。3年時には高校総体に出場したが、高校選手権は静岡県予選決勝で東海大学第一高校に敗れた。 高校卒業後に順天堂大学へ進学し蹴球部に入部。同期に大嶽直人、1学年下に森山泰行らがいる。4年時の1990年には主将を務めると中盤を牽引し、関東大学選手権、総理大臣杯、関東大学リーグの三冠獲得に貢献した。 1991年に日本サッカーリーグ1部の松下電器産業サッカー部に加入。1990-91シーズンのJSL1部第11節で追加登録され、同年3月24日に行われた本田技研戦でデビュー。
小久保 悟(こくぼ さとる、1967年12月29日 - )は… 小久保 悟(こくぼ さとる、1967年12月29日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元サッカー選手、指導者。現役時代のポジションはフォワード。 鹿児島商業高校では1学年上に池ノ上俊一がいる。東海大学を卒業後、1990年に日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に加入。JSL1部第1節の、ヤマハ発動機戦でリーグ戦デビューを果たし、この試合で初アシストを記録した。1990-91シーズンにはリーグ戦通算11試合に出場したが、翌1991-92シーズンは4試合の出場に留まった。1992年、ジェフユナイテッド市原とプロ契約を結ぶも同年限りで退団。 引退後は郷里の鹿児島に戻り、1993年に創部されたばかりの鹿児島城西高校のサッカー部の監督に就任。
横内 昭展(よこうち あきのぶ、1967年11月30日 - … 横内 昭展(よこうち あきのぶ、1967年11月30日 - )は、福岡県出身の元サッカー選手、指導者(JFA 公認S級コーチ)。東海大学付属第五高等学校卒業。
岩井 厚裕(いわい あつひろ、1967年1月31日 - )は… 岩井 厚裕(いわい あつひろ、1967年1月31日 - )は埼玉県出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはDF。 帝京高校で一年生の頃からレギュラーとして試合に出続け全国高校サッカー選手権をキャプテンとして自身が決勝ゴールを決め優勝した。東海大学で1年生の頃から試合に出続け4年連続全国優勝などの輝かしい経歴を経て、1989年に日本サッカーリーグ1部の全日空サッカークラブ(1992年に横浜フリューゲルスへと改組)へ入団。一学年先輩の元日本代表FW前田治とは高校・大学・全日空/横浜Fと同じ道程を辿ることになった。日本リーグ時代からJリーグ創生期の全日空および横浜Fでレギュラーのセンターバックとして活躍。
植村 修一(うえむら しゅういち、1966年12月3日 - … 植村 修一(うえむら しゅういち、1966年12月3日 - )は、日本長崎県出身の元サッカー選手。ポジションはゴールキーパー。 トヨタ自動車、京都紫光/京都パープルサンガなどでプレー、京都パープルサンガがJリーグに昇格した1996年に引退した。
吉田 安孝(よしだ やすたか、1966年11月22日 - )… 吉田 安孝(よしだ やすたか、1966年11月22日 - )は、広島県出身の元サッカー選手、現・サッカー解説者。 現役時代は、タイトなマークのディフェンダー として活躍、広島国泰寺高校時代の同期に野村雅之。 1988年東海大学卒業後、マツダSCの今西和男監督に誘われていたが、すでに入社を決めていた日本サッカーリーグ2部の田辺製薬サッカー部へ入団。田辺製薬がJリーグ参加を見送ることになり、再び今西に誘われ、1991年マツダSCに移籍。Jリーグ発足でサンフレッチェ広島になった1994年のサントリーシリーズのステージ優勝を経験した。1995年からコスモ石油四日市FCでプレーするも1996年のチームの解散で現役を引退。
江本 城幸(えもと じょうこう、1966年4月9日 - )は… 江本 城幸(えもと じょうこう、1966年4月9日 - )は、富山県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。 富山県富山市の出身で、小学6年時に岩瀬少年団の一員として全日本少年サッカー大会に出場し優秀選手に選出された。 中学から高校にかけて郷里の富山を離れて静岡県にサッカー留学。東海大学第一高校では2学年上に行徳浩二、同期に郷司弘和、1学年下に杉本雅央や山田泰寛らがいる。1年時には日本ジュニアユース代表に選ばれ、シンガポールで開催されたライオンシティカップ(16歳以下の国際大会)に出場した。高校選手権は1年時と3年時の静岡県予選で決勝進出を果たすも、1年時は清水東高校に、3年時は藤枝東高校に敗れたため出場はならなかった。
前田 治(まえだ おさむ、1965年9月5日 - )は、日本… 前田 治(まえだ おさむ、1965年9月5日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW(センターフォワード)。福岡県福岡市出身。 現役時代はスピード豊かな突破とボールの落下点に絶妙に合わせるポジショニングの良さが特徴のストライカーであった。高校サッカーの強豪帝京高校へ進学すると1983年度の高校選手権決勝の清水東高校戦では決勝点となるボレーシュートを決め同校を4度目の選手権制覇に導く原動力となった。 卒業後の1984年に東海大学に進学。東海大は当時、関東大学リーグ2部に在籍していたが、2年間で1部に昇格させ、昇格初年度の1986年に関東大学リーグ1部優勝に導く原動力となった。
石末 龍治(いしずえ りゅうじ、1964年7月22日 - )… 石末 龍治(いしずえ りゅうじ、1964年7月22日 - )は、兵庫県伊丹市出身の元サッカー選手、サッカー指導者(GKコーチ)。 伊丹北高校時代の3年のときに、兵庫県選抜入りし、兵庫県の初優勝に貢献、和田昌裕、永島昭浩と共に「兵庫・高校三羽がらす」と呼ばれた。その後、東海大学を経て、1987年に全日空横浜サッカークラブに入団。1992年はレギュラー、1993年のJリーグ発足後は、森敦彦の控えに回ることになったが、森の不調や出場停止による試合出場時には好セーブを連発した。そのため、他チームの選手やサポーターからは「控え最強のGK」とも言われた。1993年の天皇杯決勝では出場停止の森に代わり先発、安定感のあるプレーで優勝に貢献した。
上川 徹(かみかわ とおる、1963年6月8日 - )は、鹿… 上川 徹(かみかわ とおる、1963年6月8日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元サッカー選手、元サッカー審判員(元国際審判員)。元日本サッカー協会 (JFA) 審判委員長。 息子はサッカー選手の上川琢。 鹿児島高専3年修了後中退、東海大学を経てフジタ工業でプレーした。1992年引退後、日本初のプロサッカーリーグ(Jリーグ)のために設置された選手経験者向け審判養成講座の一期生として審判員のキャリアをスタートする。1994年、1級審判員を取得し、1996年にJリーグの主審デビュー。1998年から国際主審登録され、国際Aマッチでも笛を吹いた。2002年からはJFAのスペシャルレフェリー(現:プロフェッショナルレフェリー)(審判活動によって主たる収入を得る審判員)として活動していた。
小椋 伸二(おぐら しんじ、1962年1月19日 - )は、… 小椋 伸二(おぐら しんじ、1962年1月19日 - )は、大分県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。 大分工業高校3年時の1979年に高校総体で準優勝。 東海大学を経て、1984年に日本サッカーリーグ (JSL) 2部のトヨタ自動車工業サッカー部に加入。JSL1部では1987-88シーズン、1990-91シーズン、1991-92シーズンと3シーズンにわたってプレーし、通算58試合に出場し4得点6アシストを記録した。また、1985年の天皇杯では初戦の国士舘大学戦で2得点をあげるなど4試合に出場しベスト4進出に貢献。1991年のコニカカップでは優勝、1992年のゼロックス・チャンピオンズ・カップでは準優勝を経験したが、両大会とも交代出場という形で決勝戦のピッチに立っている。
中田 仁司(なかた ひとし、1962年1月17日 - )は、… 中田 仁司(なかた ひとし、1962年1月17日 - )は、大阪府出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代はフジタ工業/フジタSC(現・湘南ベルマーレ)、大塚製薬(現・徳島ヴォルティス)でプレー。 引退後は指導者として数クラブを渡り歩き、2004年から名古屋グランパスエイトのコーチに就任。ネルシーニョ監督の更迭に伴い2005年9月に監督代行、10月からは監督に就任してシーズン終了まで指揮を執った。 2015年から横浜FCの強化育成テクニカルダイレクターに就任。ミロシュ・ルス監督の体調不良に伴う辞任に伴い、同年9月15日に監督に就任して シーズン終了まで指揮を執った。2016年シーズンにルス監督復帰後は元に戻っていたが、同年6月にルス監督が体調不良により監督を辞任したことに伴い、再び監督に就任した。
今川 正浩(いまがわ まさひろ、1960年10月28日 - … 今川 正浩(いまがわ まさひろ、1960年10月28日 - )は、広島県福山市出身の元サッカー選手(FW)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。現東海大学競技スポーツ学科専任准教授、サッカー部総監督(2024年–)。 福山市立樹徳小学校–福山市立城北中学校–福山葦陽高等学校–東海大学卒。大学卒業後、1983年にマツダに入社。同期に小林伸二、信藤克義ら。現役時代はマツダSCでプレー。1987年、信藤と共にマツダのプロ契約第1号となる。同年には、高橋真一郎、猿沢茂、ディド・ハーフナーらと共に天皇杯決勝進出に貢献した。 現役引退後、母校の東海大学体育学部特任教員などを経て、1999年に東海大学体育会サッカー部監督に就任。
岡島 俊樹(おかじま としき、1955年3月18日 - )は… 岡島 俊樹(おかじま としき、1955年3月18日 - )は、富山県出身の元サッカー選手。ポジションはFW。 富山工業高校卒業後、当時日本サッカーリーグ(JSL)2部の読売クラブに入団し、与那城ジョージ、小見幸隆、松木安太郎らと共にプレー。背番号「11」を付け、1975年から3年連続でJSL2部の得点王に輝いた。当時はオランダ人監督フランツ・ファン・バルコムの勧めで、また教員になるため東海大学体育学部へ入学し、選手生活と大学生活を両立していた。 1978年にチームが1部昇格後も、1978年・1979年と得点ランク3位に入るなど読売のエースとして活躍。また、1978年には日本代表にも選出され、国際Cマッチに1試合出場した(1978年3月26日、朝日国際サッカー大会、日本代表対アムール・ブラゴベシェンスク(ソ連)戦)。
奈良 知彦(なら ともひこ、1954年11月8日 - )は、… 奈良 知彦(なら ともひこ、1954年11月8日 - )は、群馬県出身のサッカー指導者。 前橋市立第五中学校 - 習志野市立習志野高等学校 - 東海大学。習志野高では第50回全国高等学校サッカー選手権大会で優勝。大学卒業後の1977年、群馬県立前橋商業高等学校に着任し、サッカー部監督に就任。全国高校サッカー選手権大会10回出場。第67、68回全国高等学校サッカー選手権大会では服部浩紀、鳥居塚伸人らを擁して2年連続ベスト4。サッカー不毛の地であった群馬県をサッカーどころへと押し上げた。前橋商監督時代は山田耕介監督率いる前橋育英高と並んで群馬の双璧を築く。 前橋商業で27年間、サッカー部を指導したのち群馬県立藤岡工業高等学校教頭、前橋市立前橋高等学校教頭、校長を歴任。
永井 良和(ながい よしかず、1952年4月16日 - )は… 永井 良和(ながい よしかず、1952年4月16日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)出身。息子の永井俊太も元サッカー選手。 浦和南高校時代から快速フォワードとしてその名を知られ、当時の漫画・アニメーション『赤き血のイレブン』の主人公・玉井真吾のモデルとなった。 卒業後に日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部へ入部。選手として1977年度のJSL、天皇杯の二冠や、1985-86年度JSL優勝などに貢献した。また1976年に日本年間最優秀選手賞を受賞した。 1987-88シーズンを最後に現役を退いてから、古河サッカー部コーチと日本ユース(U-18)のコーチ、監督を併任。
鈴木 良平(すずき りょうへい 1949年6月12日 - )… 鈴木 良平(すずき りょうへい 1949年6月12日 - )はサッカー指導者、解説者。ドイツサッカー協会(DFB)の公認S級ライセンスを取得している。 東海大学卒業後、1973年に西ドイツ(当時)のボルシア・メンヒェングラートバッハへ留学し、名将ヘネス・ヴァイスヴァイラー監督の下でコーチ修業。また同時にケルン体育大学にも通い、S級ライセンスを取得した。 1975年10月に帰国して三菱養和に所属し、サッカー日本ユース代表監督などを務めたのち、1984-85年シーズンには西ドイツ・ドイツ・ブンデスリーガ1部のアルミニア・ビーレフェルトのヘッドコーチ兼ユース監督を35歳という若さで務めたが、チーム事情の関係もあり、年間順位16位となって翌年の2部リーグ落ちさせてしまった。