スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
山田 安斗夢(やまだ あとむ、1998年〈平成10年〉2月2… 山田 安斗夢(やまだ あとむ、1998年〈平成10年〉2月21日 - )は、日本のプロバスケットボール選手。鹿児島県鹿児島市出身。ポジションはポイントガード。熊本ヴォルターズ所属。 坂元台小学校、坂元中学校、鹿児島商業高校を卒業。 鹿児島商業高校3年生の時に、全国大会である第46回全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会に出場。 2016-17シーズン、18歳で鹿児島レブナイズと契約。 2017-18シーズンはB3リーグ公式戦の62試合中60試合出場、平均出場時間28.6分と、チームの中心選手としてプレーする。 2018-19シーズンも引き続き鹿児島レブナイズと契約を継続 していたが、シーズン途中で、東京サンレーヴスに移籍した。
河東 祐大(かわひがし ゆうだい、1998年2月7日 - )… 河東 祐大(かわひがし ゆうだい、1998年2月7日 - )は、日本の男子バレーボール選手である。 鹿児島県鹿児島市出身。小学1年生の頃、姉の影響でバレーボールを始める。 鹿児島商業高等学校、日本体育大学を経て、2019年、VC長野トライデンツに内定し、2020年に入団。 2020-21シーズン、最優秀新人賞を受賞。 2021-22シーズン、2021年11月14日、ホームゲームの撤収作業中に鼻骨骨折するアクシデントに遭い、11月26日に手術を行った。シーズン中の2022年1月12日に、VC長野を退団すると発表された。プロ契約していた戸嵜嵩大など、河東を含めて計4名がチームを退団する事態であった。
池田 幸太(いけだ こうた、1997年2月8日 - )は、日… 池田 幸太(いけだ こうた、1997年2月8日 - )は、日本の男子バレーボール選手である。 鹿児島県指宿市出身。兄の影響で小学3年生からバレーボールを始める。 鹿児島商業高等学校を卒業後、福岡大学に進学。2018年にはいわさきBlueWaveの選手として第8回全国6人制リーグ総合優勝大会西部決勝リーグに出場した。 2018/19シーズン、V.LEAGUE DIVISION1 MEN(V1男子)に所属するVC長野トライデンツの内定選手となった。内定選手としてV1の試合に出場し、Vリーグデビューを果たした。 2019年、大学卒業後に、VC長野トライデンツに入団した。2021年、VC長野の副主将に就任。
大久 祐哉(おおく ゆうや、1996年9月9日 - )は、日… 大久 祐哉(おおく ゆうや、1996年9月9日 - )は、日本のプロボクサー。鹿児島県鹿児島市出身。金子ボクシングジム所属。 鹿児島商業高等学校時代にボクシング部に、2014年のインターハイに出場した(3回戦敗退)。 中央大学経済学部に進学し、2019年に卒業した。在学中はボクシング部に所属し、4年生時に第73回国民体育大会でベスト8 2019年の第71回ボクシング全日本社会人選手権大会にライト級で出場し優勝した。 2021年5月25日、金子ボクシングジム所属でB級プロテストを受験し、合格した。 2021年7月20日、後楽園ホールで森屋直人を相手にデビュー戦を行い、初回50秒TKO勝ちを収めた
迫田 郭志(さこだ ひろし、1996年5月1日 - )は、日… 迫田 郭志(さこだ ひろし、1996年5月1日 - )は、日本の男子バレーボール選手である。 鹿児島県指宿市出身。実家は農業を営んでおり、9人制バレーボールの実業団に所属していた父の影響で、小学校2年生の時にバレーボールを始める。姉、兄も学生時代はバレーボールをしており、兄とは大学時代に同じチームでプレーしていた。 鹿児島県指宿市立開聞小学校、開聞中学校を経て、鹿児島市立鹿児島商業高校に進学し、高校2年生の時に全日本バレーボール高等学校選手権大会で準優勝。高校卒業後、広島県の福山平成大学に進学し、2018年の全日本バレーボール大学男女選手権大会でキャプテンとしてチームを率い、準優勝に導く。 2018年10月、FC東京に内定。
兒玉 康成(こだま やすなり、1994年7月24日 - )は… 兒玉 康成(こだま やすなり、1994年7月24日 - )は、日本の元バレーボール選手である。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島市立吉野中学校を経て、鹿児島市立鹿児島商業高等学校に進学。同校在校中は主将としてチームを率い、2012年8月の全国高等学校総合体育大会ではベスト4入りに貢献し優秀選手賞を獲得。2013年1月に開催された第65回全日本バレーボール高等学校選手権大会でもベスト4入りに貢献し、自身も優秀選手賞を獲得した。 筑波大学体育専門学群進学後の2015年4月に全日本メンバーにエントリーされ、ユニバ代表候補で臨んだ東アジア地区バレーボール選手権大会では優勝に貢献。同年6月のワールドリーグで全日本デビューを果たした。
赤塚 将輝(あかつか しょうき、1993年8月10日 - )… 赤塚 将輝(あかつか しょうき、1993年8月10日 - )は日本の元男子バスケットボール選手。鹿児島県出身。 武小学校、武中学校、鹿児島商業高等学校、九州共立大学を卒業。 2017-18シーズン、鹿児島レブナイズと契約。 2018-19シーズンも引き続き鹿児島レブナイズと契約を継続。 2021年を以て現役引退
下野 伸一郎(しもの しんいちろう、1990年10月10日 … 下野 伸一郎(しもの しんいちろう、1990年10月10日 - )は、鹿児島県日置市出身の陸上競技選手。専門は走幅跳で、自己ベストは日本歴代7位の8m11。2013年と2017年のアジア選手権日本代表。元クラフティア(旧九電工)所属。 鹿児島商業高校時代にはインターハイ、国民体育大会、日本ユース選手権に出場を果たし、2007年の日本ユース選手権では7m06(0.0)で5位に入っている(インターハイと国民体育大会での入賞経験はなし)。高校時代の自己ベストは3年時の2008年にマークした7m23。 福岡大学に進学すると、1年時の2009年に自己ベストを7m76まで更新し、日本選手権にも初出場を果たした。
日高 裕次郎(ひだか ゆうじろう、1986年11月21日 -… 日高 裕次郎(ひだか ゆうじろう、1986年11月21日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、ビーチバレー選手。妻は元全日本女子バレー選手の木村沙織。 鹿児島県霧島市出身。中学時代アクエリアスカップで、オリンピック有望選手を獲得。鹿児島商業高等学校では1年からスタメンでプレーし、第35回春高バレーでは九州を代表するエースとして盛重龍2世の呼び声も高かった。 日本体育大学では3年生の時に2007年全日本インカレで日体大15年ぶりの優勝に貢献。4年生の時に全日本インカレ2連覇を達成した。また2008年には第6回東アジア地区バレーボール選手権大会、第20回アジア太平洋カップ福岡国際男子バレーボール大会の代表メンバーにも選出され、国際大会出場も経験した。
川﨑 成晃(かわさき なりあき、1986年3月30日 - )… 川﨑 成晃(かわさき なりあき、1986年3月30日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 鹿児島県垂水市出身。垂水中学校では軟式野球部に所属。鹿児島商高では3年夏に鹿児島大会で準優勝。高校通算20本塁打の強打で活躍する。 福岡大学では1年秋にDHで、2年秋に外野手で2度のベストナインを受賞。また2年秋は盗塁王も獲得した。3年時に大学選手権に出場。 卒業後は鮮ど市場に入社。青果部門の業務に携わりつつ、同社野球部の熊本ゴールデンラークスでプレー。 2008年の都市対抗野球では本塁打を放ち注目される。 2009年は沖縄電力の補強選手として都市対抗野球に出場。 2010年にはアジア大会日本代表に選出された。
川﨑 成晃(かわさき なりあき、1986年3月30日 - )… 川﨑 成晃(かわさき なりあき、1986年3月30日 - )は、鹿児島県垂水市出身のプロ野球選手(外野手)。
禧勢ノ山 博嗣(きせのやま ひろし、1985年9月25日 -… 禧勢ノ山 博嗣(きせのやま ひろし、1985年9月25日 - )は、鹿児島県日置郡伊集院町(現在の日置市)出身で、木瀬部屋(閉鎖処分中は北の湖部屋)所属の現役大相撲力士。本名は山下 博嗣(やました ひろし)。身長171cm、体重167kg、血液型はA型。最高位は西幕下2枚目(2015年9月場所)。
村口 良平(むらぐち りょうへい、1984年4月28日 - … 村口 良平(むらぐち りょうへい、1984年4月28日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時のポジションは、GK。
白川 伸也(しらかわ しんや、1981年8月7日 - )は、… 白川 伸也(しらかわ しんや、1981年8月7日 - )は、鹿児島県出身の元サッカー選手。ポジションはDF。
里山 浩作(さとやま こうさく、1981年5月31日 - )… 里山 浩作(さとやま こうさく、1981年5月31日 - )は、鹿児島県大島郡笠利町(現:奄美市)出身で尾上部屋(入門時は三保ヶ関部屋)に所属した元大相撲力士。本名同じ。現役時代の体格は身長175cm、体重123kg。血液型はA型。得意手は左四つ、下手投げ。最高位は西前頭12枚目(2007年5月場所・同年7月場所)。現在は年寄・千賀ノ浦。好物はかんきつ類。 奄美の土地を自ら開拓して「里山観葉植物園」を作った父の元に生まれた。笠利町立赤木名中学校へ入学と同時に相撲部へ入部し、その後に進学した鹿児島商業高校でも相撲部に所属して、アマチュア横綱を2度獲得している禧久昭広の指導を受ける。高校卒業後は禧久の母校でもある日本大学へ進学し相撲部に所属。
盛重 龍(もりしげ りゅう、1980年7月18日 - )は、… 盛重 龍(もりしげ りゅう、1980年7月18日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。 大姶良小学5年(大姶良スポーツ少年団)よりバレーボールを始める。 大姶良中時代にさわやか杯に出場。鹿児島商高時代には九州を代表するエースとして注目され、春高、インターハイなどで活躍。 2002年、全日本に初選出。同年にバレーボール世界選手権に出場。2003年、ワールドカップに出場した。2004年、ワールドリーグに出場。 2007年の黒鷲旗大会では敢闘賞受賞とベスト6に選出された。 2013年5月、豊田合成を退団し、翌月FC東京に移籍した。 2016年、2015/16シーズン終了をもって現役を引退した。 2025年、神奈川県厚木市で発足したクラブチームのSHIZUKA Vikings 厚木の監督に就任。
入船 敏(いりふね さとし、1975年12月14日 - )は… 入船 敏(いりふね さとし、1975年12月14日 - )は、日本の陸上競技長距離走・マラソン元選手・現指導者。鹿児島県日置市(旧・日置郡伊集院町)出身。身長:176 cm、体重:59 kg。世界陸上競技選手権(男子10000m1回・男子マラソン2回の合計3大会)・アジア競技大会(男子マラソン1回)日本代表。 鹿児島商業高等学校卒業後、1994年京セラ入社。男子陸上競技部が廃部したため、2000年に伊藤国光監督(当時)率いるカネボウへ移籍。 同陸上競技部には、2000年シドニーオリンピック男子10000m7位入賞・現マラソン日本記録保持者の高岡寿成現監督らが所属、入船自身ライバルながらも尊敬する選手として高岡の名を挙げていた。
小野 幸一(おの こういち、1972年5月13日 - )は、… 小野 幸一(おの こういち、1972年5月13日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(投手)。 鹿児島商業高では井上一樹の1年後輩。3年春は県大会で優勝し、九州大会では初戦で佐賀学園の若林隆信と投げ合って完封すると準々決勝では夏の甲子園で準優勝することになる沖縄水産にも完投勝利してベスト4。1990年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープに2位指名され入団。 在籍4年間で一軍登板はなく、1994年に現役を引退した。長身で甘いマスクを活かして引退後はモデルに転身、その後はカード会社に就職した。
井上 一樹(いのうえ かずき、1971年7月25日 - )は… 井上 一樹(いのうえ かずき、1971年7月25日 - )は、鹿児島県姶良郡溝辺町(現:霧島市)出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)、プロ野球監督。現役時代は1990年から2009年まで20年間にわたり中日ドラゴンズ一筋でプレーした。2025年からは中日の監督を務める。 陵南小学校時代にソフトボールを始める。陵南中学校時代に軟式野球部に入部。鹿児島商業高校時代は、投手兼外野手として高校2年生のとき甲子園に1回出場。甲子園出場について井上本人が「行進のときに鳥肌が立ったことが忘れられない。これのために頑張ってきたんだと思った。」と語っている。甲子園での敗退後、甲子園の砂を集めていたら、同級生
小久保 悟(こくぼ さとる、1967年12月29日 - )は… 小久保 悟(こくぼ さとる、1967年12月29日 - )は、鹿児島県鹿児島市出身の元サッカー選手、指導者。現役時代のポジションはフォワード。 鹿児島商業高校では1学年上に池ノ上俊一がいる。東海大学を卒業後、1990年に日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に加入。JSL1部第1節の、ヤマハ発動機戦でリーグ戦デビューを果たし、この試合で初アシストを記録した。1990-91シーズンにはリーグ戦通算11試合に出場したが、翌1991-92シーズンは4試合の出場に留まった。1992年、ジェフユナイテッド市原とプロ契約を結ぶも同年限りで退団。 引退後は郷里の鹿児島に戻り、1993年に創部されたばかりの鹿児島城西高校のサッカー部の監督に就任。
小牧 雄一(こまき ゆういち、1967年5月2日 - )は、… 小牧 雄一(こまき ゆういち、1967年5月2日 - )は、鹿児島県日置市出身の元プロ野球選手(捕手・外野手、右投右打)・コーチ。1994年から2000年までの登録名は「小牧 優一」。 小学4年の時にボーイズリーグで野球を始め、中学2年の春に全国大会へ出場した。 鹿児島商業高では1学年上の川畑伸一郎とバッテリーを組んで2年夏に県大会ベスト4、2年秋は県大会準優勝。3年夏は県大会決勝で本塁打を放つも敗退、社会人野球の三菱自動車水島に進む。社会人野球時代から捕手登録ながら複数ポジションをこなし、1990年の都市対抗野球には外野手で出場した。 1990年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから5位指名を受け入団。
池ノ上 俊一(いけのうえ しゅんいち、1967年2月16日 … 池ノ上 俊一(いけのうえ しゅんいち、1967年2月16日 - )は、鹿児島県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代はMF(攻撃的MF)としてプレー。1989年に松下電器産業サッカー部に入部。横山兼三監督時代の1988年から1989年には日本代表に選出されて国際BおよびCマッチ13試合に出場したが、Aマッチ出場はない。Jリーグ開幕後は横浜フリューゲルス、ジャパンフットボールリーグの鳥栖フューチャーズに在籍した。 引退後は小学生から高校生までの育成年代の指導にあたる。鹿児島城西高校を経て、アミーゴス鹿児島U-18監督を務めた。 2016年1月にV・ファーレン長崎のクラブアドバイザーに就任。
川畑 伸一郎(かわばた しんいちろう、1966年12月5日 … 川畑 伸一郎(かわばた しんいちろう、1966年12月5日 - )は日本の野球選手(外野手)。 鹿児島市立和田中学校、鹿児島商業高等学校卒業。鹿児島商業高校では投手として小牧雄一とバッテリーを組んで3年夏の県大会は準決勝で入来智も登板した鹿児島実に敗退。卒業後は住友金属に進む。5年目の1989年は日本選手権で指名打者として大会優秀選手に選ばれ、チームの優勝に貢献した。1991年は都市対抗で2本塁打を放って外野手として大会優秀選手に選ばれ、日本選手権も優勝して社会人ベストナインも受賞している。 1992年は日本生命の補強選手として都市対抗に出場。またバルセロナオリンピック野球日本代表に選ばれ、予選の対プエルトリコ、キューバ、イタリア戦の3試合で五番ないし六番・指名打者として先発出場。
原 秀治(はら ひではる、1965年3月22日 - )は、日… 原 秀治(はら ひではる、1965年3月22日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、バレーボール指導者。1988年ソウルオリンピックバレーボール全日本男子代表。 鹿児島県国分市(現霧島市)出身。鹿児島商業高校卒業。 1983年に猫田勝敏にスカウトされ、専売広島バレー部(現広島サンダーズ)に入部。ちなみに猫田が最後にスカウトした選手である。1994年から始まったVリーグにもJTサンダーズ(当時)の一員として引き続き参加、エースとして活躍した。 全日本では1986年世界選手権に出場。1987年アジア選手権優勝。1988年ソウルオリンピック代表。翌1989年ワールドカップ出場、同年のアジア選手権準優勝に貢献した。
牧内 辰也(まきうち たつや、1964年1月30日 - )は… 牧内 辰也(まきうち たつや、1964年1月30日 - )は、鹿児島県出身の元サッカー選手、指導者(JFA 公認S級コーチ)。 鹿児島商時代に全国高等学校サッカー選手権大会に出場、大会優秀選手に選ばれている。当時はMF。福岡大学を卒業後、1986年に全日空横浜サッカークラブ(のちに全日空サッカークラブに改名、横浜フリューゲルスの前身)へ入団、DFとしてモネール、反町康治、前田治、冨嶋均らとプレーした。1992年、現役を引退した。 1995年、アーセン・ベンゲル率いる名古屋グランパスエイトに入団、主にサテライトのスタッフとして活躍する。1996年に日本サッカー協会公認B級ライセンスを取得した。 2000年、アビスパ福岡育成部門責任者に就任。
横田 真之(よこた まさし、1962年11月26日 - )は… 横田 真之(よこた まさし、1962年11月26日 - )は、高知県南国市出身の元プロ野球選手(外野手)。 現役からの引退後は、鹿児島商業高校硬式野球部のコーチを経て、2019年12月から2023年3月まで監督を務めた。 長男の横田慎太郎も元プロ野球選手(外野手)。 本来は右利きだが、王貞治のファンだった実父の影響で、幼少期に王と同じく左打ちに転向した。南国市立香長中学校への進学後は、校内の軟式野球部に所属。3年時には「3番・三塁手」として高知県大会の決勝まで進んだが、中西清起を擁する宿毛市立小筑紫中学校に敗れた。その一方で、南国市の相撲大会で優勝している。 高知県内で創立されたばかりの明徳高等学校(現:明徳義塾高等学校)から入学を熱心に誘われていたため、中学校からの卒業を機に同校へ進学するとともに、硬式野球部へ所属。
金指 誠(かなさし まこと 1958年10月7日 - )は、… 金指 誠(かなさし まこと 1958年10月7日 - )は、毎日放送(MBS)元アナウンサー。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島市立鹿児島商業高等学校、駒澤大学卒業後、1982年に毎日放送のアナウンサーとして入社。主にラジオ番組中心にスポーツ番組の実況を担当。2000年にMBSスタジオ in USJのデスク業務に異動。2007年10月よりラジオ局制作部ディレクター。2010年1月31日放送の自社制作テレビ番組『となりのマエストロ』(TBS系列全国ネット)のコーナー「タカMAX」にて、1990年当時MBSラジオの京都競馬場での雪で全く見えない競馬実況で金指自身のアナウンスがVTRで流れた。 2018年の時点で毎日放送の定年である60歳に到達しているが、以降の動向は不明。
堂園 喜義(どうぞの きよし、1956年6月10日- )は、… 堂園 喜義(どうぞの きよし、1956年6月10日- )は、鹿児島県志布志市(現役当時は、同県曽於郡志布志町)出身の元プロ野球選手。ポジションは投手で、アンダースロー投法であった。 鹿児島商業高等学校では1972年、1年生ながらエースとして夏の甲子園に出場。1回戦でこの大会に優勝した津久見高に9回逆転サヨナラ負けを喫する。1973年の夏は鹿児島県予選で決勝に進出するが、鹿児島実業に敗退。最上級生として臨んだ1974年は春の選抜に出場。これまた初戦で、この大会に優勝した報徳学園に敗れた。同年夏は、県予選決勝で定岡正二を擁する鹿児島実業に0-2で敗北。2度の甲子園出場で勝利を味わう事が叶わないまま、高校3年間を終える。
奥薗 満(おくぞの みつる、1951年7月26日 - )は、… 奥薗 満(おくぞの みつる、1951年7月26日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(捕手)。 鹿児島商業高では、2年生の時、同期のエース徳重次男(日立製作所)とバッテリーを組み、1968年夏の甲子園に出場。1回戦で千葉商に敗退。翌1969年も夏の甲子園に連続出場。1回戦は宇都宮学園に完封勝ちするが、2回戦でこの大会に優勝した松山商に敗退した。 1969年にドラフト外でアトムズに入団。当時のヤクルト捕手陣には大矢明彦、八重樫幸雄らがおり、1980年までの11年間、ブルペン捕手としてチームを支え続けたが、一軍公式戦に出場することなく引退。 引退後も1983年まではブルペン捕手として裏方に徹し、33歳にてスカウト転身。
西郷 輝彦(さいごう てるひこ、1947年〈昭和22年〉2月… 西郷 輝彦(さいごう てるひこ、1947年〈昭和22年〉2月5日 - 2022年〈令和4年〉2月20日)は、日本の歌手、俳優。鹿児島県鹿児島郡谷山町(現:鹿児島市)出身。血液型はA型。 歌手としては、橋幸夫・舟木一夫と共に昭和歌謡の「御三家」の1人として人気を博した。芸名は維新の三傑の一人西郷隆盛にちなむ。 母親の実家は日向国飫肥藩の家老職の家柄で幼少の頃から芸事に傾倒し、小学生時代は剣舞や絵画を習ったり、近所の子供を集めては自身で作った紙芝居を披露したり、地元の慈眼寺公園でチャンバラごっこに明け暮れる少年だった。中学に入ると主としてスポーツに力を入れ、野球、テニス、バレーなど、あらゆるスポーツをそつなくこなす少年であった。
秋葉 敬三(あきば けいぞう、1946年11月11日 - )… 秋葉 敬三(あきば けいぞう、1946年11月11日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(投手)。 鹿児島商業高校では1年生の時、1962年夏の甲子園に控え投手として出場。準々決勝に進出するが、林俊彦、木俣達彦のバッテリーを擁する中京商に敗退。この試合でエース浜崎正人をリリーフし甲子園初登板を果たす。チームメートに中原勝利、下須崎詔一がいた。 高校卒業後は、社会人野球のリッカーミシンに入団。その後、鹿児島鉄道管理局に移籍し1965年からエースとなる。1966年の都市対抗では1回戦で先発したが1失点で2回途中降板。1967年の全国鉄大会で、高崎鉄道管理局を相手に完全試合を達成し脚光を浴びた。同年の都市対抗には日本鉱業佐賀関の補強選手として出場。
浜崎 正人(はまさき まさと、1944年10月9日 - 20… 浜崎 正人(はまさき まさと、1944年10月9日 - 2003年5月1日)は鹿児島県出身の元プロ野球選手。 鹿児島商業では2年生でエースとなる。1961年の夏の甲子園県予選決勝に進出するが、東条文博のいた鹿児島実に敗れた。1年上のチームメートに遊撃手の篠原良昭がいる。翌1962年の夏の甲子園に出場。天理高、広陵高を連続完封し準々決勝に進出するが、中京商の林俊宏、三輪田勝利らの継投に抑えられ敗退した。同年の岡山国体でも準決勝に進むが、石川洵(立大-鐘紡)、村上公康のバッテリーを擁する西条高に惜敗。高校同期に三塁手の中原全敏、中堅手の下須崎詔一がいる。 1963年に阪急ブレーブスに入団、シュート主体の投球で貴重な左腕投手として期待される。
下須崎 詔一(しもすざき しょういち、1944年9月8日 -… 下須崎 詔一(しもすざき しょういち、1944年9月8日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業高校では1962年、3年生の時に中堅手として第44回高校野球選手権に出場を決めるが、練習中に足を骨折し欠場を余儀なくされる。チームは同期の左腕エース浜崎正人の好投もあり準々決勝に進出するが、木俣達彦、林俊宏のいた中京商業高校に11-2で敗れた。他の高校同期に三塁手の中原勝利、2年下のチームメートに控え投手の秋葉敬三がいる。 1963年に西鉄ライオンズへ入団。1965年にはジュニアオールスターにも出場している。左打者の多い西鉄で貴重な右の代打として活躍、1968年には主に中堅手、左翼手として43試合に先発出場を果たしている。
篠原 良昭(しのはら よしあき、1943年6月30日 - )… 篠原 良昭(しのはら よしあき、1943年6月30日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手。ポジションは二塁手、遊撃手。 鹿児島商業では2年生の時、1960年の春の選抜に三番打者、遊撃手として出場している。1回戦でエース渡辺泰輔を擁する慶應高に大敗。同年夏の甲子園県予選では準決勝で出水商に敗れる。翌年夏も2年生エース浜崎正人の好投で県予選決勝に進出するが、東条文博のいた鹿児島実に敗退、夏の選手権には出られなかった。 1962年に大毎オリオンズへ入団。俊足好守の内野手と期待され、1964年には一軍に定着する。控え選手の時期が長かったが、1966年に主に遊撃手として82試合に先発出場、石黒和弘とレギュラーを争う。
松澤 隆司(まつざわ たかし、1940年10月19日 - 2… 松澤 隆司(まつざわ たかし、1940年10月19日 - 2017年8月11日)は、鹿児島県鹿児島市出身のサッカー指導者。鹿児島実業高等学校サッカー部総監督。鹿児島県サッカー協会副理事長、九州サッカー協会常任理事、全日本ユース選手権大会実施委員。 市立甲南中学校時代にサッカーを始める。鹿児島市立鹿児島商業高等学校2年次の1958年に高校選手権に出場したが、2回戦で静岡県立藤枝東高等学校に敗れた。卒業後は一般企業に就職するが、知人の勧めもあり無線通信士を目指す様になった。上級資格試験まであと一歩の時に、鹿児島実業高校の教員に採用。当初は国家試験までの半年間の約束であったが、サッカー部の顧問も同時に引き受け、九州大会予選で優勝したことから本格的にサッカー指導者の道へ進む事になった。
塩津 義雄(しおつ よしお、1939年11月25日 - )は… 塩津 義雄(しおつ よしお、1939年11月25日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 鹿児島商業では強打の内野手として知られ、1957年夏の甲子園東九州大会準決勝に進むが、高鍋高に完封負けを喫する。 1958年に大毎オリオンズへ入団。同年は最終戦で三塁手として初先発出場を果たす。翌1959年は内野のユーティリティプレイヤーとして13試合に先発。10月17日の後楽園球場での西鉄ライオンズとの最終戦で田中喜八郎からプロ入り初本塁打を記録。1960年は外野手も兼ね、準レギュラーとしてリーグ優勝に貢献。大洋ホエールズとの日本シリーズでは、最終第4戦で右翼手、八番打者として起用されるが1三振1四球に終わった。
松下 三郎(まつした さぶろう、1935年〈昭和10年〉9月… 松下 三郎(まつした さぶろう、1935年〈昭和10年〉9月1日 - 2020年〈令和2年〉4月19日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。 鹿児島県日置郡吹上町 (現在の鹿児島県日置市吹上町)で生まれる。吹上町立伊作小学校を経て、吹上町立伊作中学校在学中に先輩の誘いで柔道と出会い、稽古に参加するようになった。 鹿児島商業高等学校進学後は野球部に入部したものの、ボール拾いやランニング、古いボールの繕いといったことの連続で練習の機会が無かった。そんな折、母校である伊作中学校に立ち寄った際に剣道の先生から柔道をやるよう勧められたこと、柔道部の顧問から勧誘されたことを理由に柔道部に転部し、県大会やインターハイに出場した。
太田 敏行(おおた としゆき、1930年6月22日 - )は… 太田 敏行(おおた としゆき、1930年6月22日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手)。 鹿島高校へ入学した当初は相撲部に所属しており、国体にも出場経験がある選手だった。そんな折に、同校野球部の創設を支援した元衆議院議員・愛野時一郎が「甲子園に出場し、暗い世相を吹き飛ばせ」と指示したことにより、同校在学生でスポーツが堪能な生徒を強制的に野球部に入部させるが、その中に太田がいた。この影響は大きく、同校は1948年夏の甲子園への出場を決めている。甲子園では2回戦で愛知・享栄商業に大敗を喫した。同級生には野田正樹(阪急)がいる。 その後社会人野球の杵島炭鉱を経て、1954年に中日ドラゴンズへ入団。
前川 忠男(まえがわ ただお、1929年1月28日 - )は… 前川 忠男(まえがわ ただお、1929年1月28日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手)。 鹿児島商業から西日本鉄道、八幡製鐵所を経て1954年に南海ホークスへ入団。南海では控えだったが翌年に移籍したトンボユニオンズではショートのレギュラーを獲得し2番打者として定着した。しかし、1956年にチームが解散し、翌年は東映フライヤーズでプレー。8番ショートでレギュラーとして活躍。1958年オフに引退した。
増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、… 増田 敏(ますだ とし、1923年10月7日 - 戦死)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。 鹿児島商在学中は、1941年夏の甲子園の鹿児島大会で活躍し、決勝で延長13回の激闘の末鹿児島実に5-4でサヨナラ勝ち、県大会優勝を果たした(その後、本来なら開催されるはずの南九州大会や本大会が戦局の悪化により中止となった)。 1942年に南海軍へ入団。主力選手が次々と応召されていく中、内野のどこでも守れるユーティリティプレイヤーとしてチームを支えた。打撃は非力だが、守備には定評があった。打順は主に7~9番の下位を打っていた。 1943年シーズン中に応召され、戦死した(没年月日、死没場所は不明)。
白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 198… 白川 一(しらかわ はじめ、1922年5月25日 - 1982年3月15日)は、鹿児島県出身のプロ野球選手(外野手)。 鹿児島商業学校から社会人野球の星野組を経て、1950年に創設された毎日オリオンズへ入団。 1953年に現役を引退。1955年から1957年までコーチを務めた。
吉松 義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - … 吉松 義彦(よしまつ よしひこ、1920年11月16日 - 1988年7月5日)は、日本の柔道家(講道館9段)。元・鹿児島県柔道協会理事長。 世界選手権大会準優勝や全日本選手権大会で史上初となる3回優勝等の成績を残し、松本安市や醍醐敏郎、石川隆彦らと共に終戦直後の日本柔道界を代表する選手の1人であった。 鹿児島県鹿児島市生まれ、出身。1934年に旧制鹿児島商業学校(現・市立鹿児島商業高校)に入学し、林岩三(のち講道館9段)から同校柔道部および修道館道場にて指導を受けた。林は白帯時代から吉松の才を見抜き、著書『柔道に生きる』の中で「吉松の柔道は、守勢の時は青竹のようにしなやかで、相手が力のバランスを崩すとすぐにビシっと弾き返す、攻撃と守備の区切りがない理想の動き」と絶賛している。
西元 文平(にしもと ぶんぺい、1917年8月28日 - 2… 西元 文平(にしもと ぶんぺい、1917年8月28日 - 2008年2月29日)は、日本の経営者。日立建機社長、会長、相談役、名誉相談役を歴任。 鹿児島県鹿児島市下竜尾町出身。兵庫県神戸市で生まれ、小学2年生の時に故郷鹿児島へ移る。鹿児島市立大龍小学校、鹿児島商業学校(現鹿児島商業高等学校)を経て、1935年に長崎高等商業学校(現長崎大学経済学部)へ進学し、1938年に卒業。 1938年、日立製作所に入社し、日立工場勤務。経理部長を経て、1969年に日立建機取締役となる。1970年11月に日立建機常務に就任し、1979年6月に専務を経て、1981年6月に社長に就任。1987年6月に会長に就任し、1991年6月に相談役を経て、1997年6月から名誉相談役を務めた。
石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不… 石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不明)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業では第15回全国中等学校優勝野球大会に出場。この大会では本塁打も記録している。卒業後は明治大学、門司鉄道局へ進み、1937年に名古屋軍へ入団。1938年春季リーグでリーグ3位となる打率.324を記録。俊足の選手であり、1940年の夏季シーズン途中に応召されるが、その時点で32盗塁を記録しており、そのまま追い抜かれることはなく盗塁王を獲得した。 1946年に復帰し、同年引退した。
澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - … 澤田 敬之助(さわだ けいのすけ、1904年8月20日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。新漢字表記沢田 敬之助。本名内山 守(うちやま まもる)。初期芸名小澤 茗一郎(おざわ みょういちろう、新漢字表記小沢 茗一郎)、澤田 敬之介(沢田 敬之介)、澤田 慶之助(沢田 慶之助)といった表記に揺れがある。日本映画データベースにおける「沢村敬之助」は誤りである。 1904年(明治37年)8月20日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。 旧制・鹿児島商業学校(現在の鹿児島市立鹿児島商業高等学校)を卒業後、東京に移り、満19歳となる1923年(大正12年)8月、山田隆也、岡田嘉子らによる新劇の劇団である舞台協会に参加、舞台俳優としてデビューする。
桑鶴 実(くわつる みのる、1895年〈明治28年〉9月29… 桑鶴 実(くわつる みのる、1895年〈明治28年〉9月29日 - 1962年〈昭和37年〉6月27日)は、日本の政治家。鹿児島県谷山市(現・鹿児島市の一部)初代市長(市制施行時の町長)。 鹿児島県谿山郡谷山村(のち鹿児島郡谷山村→谷山町→谷山市、現・鹿児島市)和田(のち和田町、現・和田)森山出身。鹿児島商業学校(現・鹿児島商業高等学校)を経て、日本大学を卒業する。東京府の職業補導所の助手となり、その後、渡米し、コロンビア大学で社会科学を学んだ。39歳で帰国し、理化学研究所に勤務し、理研朝鮮鎮南浦(現・南浦特別市)工場の総務部長となり、同地で終戦を迎えた。引き揚げ後は、米軍政部の経済技術員となり、理研の搾油機械の販売を行っていた。
徳重 種彦(とくしげ たねひこ、1892年(明治25年)2月… 徳重 種彦(とくしげ たねひこ、1892年(明治25年)2月4日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 鹿児島県鹿児島市常磐町に生まれる。1912年(明治45年)鹿児島市立商業学校を卒業し、1916年(大正5年)渡台する。 内務局地理課勤務を皮切りに、高雄州属、交通局書記を経て、1939年(昭和14年)地方理事官に進み、高雄州東港郡守に就任。ついで1942年(昭和17年)新竹州新竹郡守に転じた。
樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年… 樺島 勝一(かばしま かついち、本名:椛島 勝一、1888年7月21日 - 1965年5月31日)は、日本の挿絵画家、漫画家。 長崎県諫早市出身。代表作に『正チャンの冒険』『敵中横断三百里』『亜細亜の曙』『吼える密林』など。精緻な画風から「ペン画の神様」と呼ばれた。 長崎県北高来郡諫早村(現:諫早市)に生まれる。4歳で鹿児島市へ転居し、鹿児島商業学校へ進学するも、生来の吃音のため商人には向かないと考え中退。上京して画業に入るが、貧しいため美術学校に通う事はかなわなかった。しかし、洋書の『ジオグラフィック・マガジン』のペン画を見て、独学で細密描写の技法を確立し、博文館の雑誌などで挿絵を描くようになる。
大奄美 元規 は、鹿児島県大島郡龍郷町出身で、追手風部屋に所… 大奄美 元規 は、鹿児島県大島郡龍郷町出身で、追手風部屋に所属した元大相撲力士。本名は坂元 元規。平成4年度生まれの関取を指す、いわゆる「花のヨン組」の1人。