室 希太郎(むろ きたろう、1968年 -)は日本の映像プロ… 室 希太郎(むろ きたろう、1968年 -)は日本の映像プロデューサー・映画監督。
日本大学:153人
室 希太郎(むろ きたろう、1968年 -)は日本の映像プロ… 室 希太郎(むろ きたろう、1968年 -)は日本の映像プロデューサー・映画監督。
須永 秀明(すなが ひであき、1967年8月25日 - )は… 須永 秀明(すなが ひであき、1967年8月25日 - )は、日本の映画監督であり、ミュージック・ビデオのディレクター。日本大学理工学部数学科卒業後、テレビ朝日系列のニュース制作会社FLEXに入社し、報道編集に従事。その後スペースシャワーTVを経て1997年よりフリーランス転身。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
公野 勉(くの つとむ、1967年8月1日 - )は、日本の… 公野 勉(くの つとむ、1967年8月1日 - )は、日本の事業家・映画プロデューサー・映画監督である。日本大学講師と文京学院大学教授。元東京大学大学院情報学環特任准教授。日本映画監督協会所属。 山口県生まれ。SFX映像とキャラクタービジネスの老舗円谷プロダクションにおいて、ウルトラマン等のマーチャンダイジング映像を中心に、特撮テレビコンテンツの製作・事業運営に従事し、版権利用を事業の特徴とする実業家。映画プロデューサー。 映画プロデューサーとして、配給会社ギャガ・コミュニケーションズの製作・配給部門に在籍時代、製作作品の全国配給・単館配給のロードショー事業を行い、流通と製造の両面を管掌した。 当時、同系資本であった日活へギャガより転籍した後、配給・製作部門の取締役に就任。
羽住 英一郎(はすみ えいいちろう、1967年3月29日 -… 羽住 英一郎(はすみ えいいちろう、1967年3月29日 - )は、ROBOT映画部所属の演出家、映画監督。千葉県出身。 小学生の時は冒険小説に惹かれ小説家を志していたが、中学生のときに見た『第三の男』に影響され、映画監督を目指すようになる。 日本大学藝術学部映画学科卒業。5年D組を経てROBOTに入社。 『踊る大捜査線』シリーズのチーフ助監督を連続ドラマから劇場版第1作まで務め、劇場版第2作ではセカンドユニット監督を担当した。 2004年、『海猿』で映画監督デビュー。海猿はこれ以降、連続ドラマ含め『BRAVE HEARTS 海猿』(2012年)まで作られる人気シリーズとなった。 複数の作品のロケを北九州市で行った縁で、2010年、北九州市文化大使に任命された。
谷口 正晃(たにぐち まさあき、1966年7月6日 - )は… 谷口 正晃(たにぐち まさあき、1966年7月6日 - )は、日本の映画監督。
宮本 敬文(みやもと けいぶん、1966年3月11日 - 2… 宮本 敬文(みやもと けいぶん、1966年3月11日 - 2016年8月3日)は、日本の写真家・映画監督・小説家。 埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、1988年渡米。New York School of Visual Arts大学院修了後、N.Yにて活動を開始。2002年帰国。広告、雑誌、CF等で活躍していた。 2012年11月劇場映画初監督作品「The Moment -写真家の欲望-」発表。中田英寿と親交が深い。 2016年8月3日、脳出血にて死去。50歳没。 ローリングストーン、Harper`s BAZAAR、CUT、rockin’on、H、SWITCH、Esquire、GQ、BRUTUS、ELLE、MEN’S NON-NO、GLOW、Numero、anan、SOTOKOTO、Interview、他。
森谷 雄(もりや たけし、1966年2月24日 - )は、日… 森谷 雄(もりや たけし、1966年2月24日 - )は、日本のテレビ・映画プロデューサー、映画監督。愛知県豊橋市出身。日本大学藝術学部映画学科卒業。株式会社アットムービー代表取締役。 大学卒業後テレビ制作会社に入社しADとして『教師びんびん物語』などのドラマ制作にたずさわる。フジテレビジョンに移った後、1993年に27歳でドラマプロデューサーとしてデビューを果たしフジテレビの多数の作品を手がける。その後、共同テレビジョンに移籍。2005年3月、共同テレビジョン退社後、アットムービー・ジャパンを設立し、劇場映画のプロデュースも行う。現在は、株式会社アットムービー、代表取締役・プロデューサー。プロデュースした映画『コドモ警察』で主演の鈴木福がThe Fantastic Fest 2013 GUTBUSTER COMEDY FEATURES部門 主演男優賞(映画『コドモ警察』)を史上最年少で受賞した。
葉山 陽一郎(はやま よういちろう、1965年11月27日 … 葉山 陽一郎(はやま よういちろう、1965年11月27日 - 2018年5月31日)は、日本の映画監督・脚本家である。 神奈川県藤沢市出身。日本大学芸術学部映画学科卒。 ホラー色の強い作品が多いが、湘南を舞台にした映画や、テレビの「ちびまる子ちゃん」(1999~2007年。脚本のみ19作)「あたしンち」(2006年放送の3作。脚本のみ)などのコメディ作品も手がける変幻自在の映像作家である。 自主制作作品がぴあフィルムフェスティバル入選、その後「世にも奇妙な物語」「本当にあった怖い話」「奇跡体験!アンビリバボー」などの脚本、Vシネマの監督を務める。
高橋 栄樹(たかはし えいき、1965年1月20日 - )は… 高橋 栄樹(たかはし えいき、1965年1月20日 - )は、日本の映画監督、ミュージック・ビデオ ディレクター。東北学院榴ヶ岡高等学校、日本大学芸術学部映画学科映像コース卒業。岩手県盛岡市出身。 大学生時代、ウィリアム・S・バロウズに関するビデオアート作品『Alone at Last』を制作し第2回ビデオテレビジョンフェスティバルでグランプリを受賞。ビル・ヴィオラらとともに作品上映され、以降ミュージック・ビデオ(MV)ディレクターとしての活動を開始する。1990年凸版印刷映像部に入社。そこでも数多くのMVを手がける。 中でもTHE YELLOW MONKEYの楽曲を多数手掛け、「SPARK」以降の楽曲(「パール」、「プライマル。
君塚匠(1964年11月29日 - )は、日本の映画監督、脚… 君塚匠(1964年11月29日 - )は、日本の映画監督、脚本家、演出家、文筆家。東京都出身。日本大学藝術学部映画学科監督コース卒業。20代で華々し いデビューを飾った後、ADHD (注意欠如・多動症)による挫折と葛藤を経て、還暦を目前に再起を果たした経歴 を持つ。日本映画界の黄金期を支えた 巨匠たちから直接薫陶を受けた最後の世代の一人。 幼少期より映画監督を志し、日本大学藝術学部(日藝)映画学科監督コースを受験。当時、監督コースは志願者が殺到する超難関であり、倍率は70倍に達していた。([1] 君塚匠『もう一度、表舞台に立つためにーADHDの映画監督 苦悩と再生の軌跡ー』中央法規出版、2025年6月30日、61頁。
横澤 丈二(よこざわ じょうじ、1964年11月5日 - )… 横澤 丈二(よこざわ じょうじ、1964年11月5日 - )は、東京都出身の演出家・脚本家・映画監督・俳優・歌手。株式会社ヨコザワ・プロダクション代表取締役。劇団四重奏主宰。日本芸能マネージメント事業者協会会員・日本音楽著作権協会会員。大嶽部屋東京大竜会理事。 日本大学第三中学校・日本大学第三高等学校卒業。高校1年よりクラリネットを北爪利世に師事。日本大学芸術学部を経て、1986年に無名塾に入塾。数々のテレビ・映画・舞台に出演。 1990年、株式会社ヨコザワ・プロダクション設立、ヨコザワ・アクターズ・スタジオ(俳優・声優養成所)を開設。1992年に現在の劇団四重奏を旗揚げ。 映画『エクソシスト』を舞台化するにあたり、原作者である、ウィリアム・ピーター・ブラッティと対談を実現している。
李 闘士男(り としお、1964年5月13日 - )は、テレ… 李 闘士男(り としお、1964年5月13日 - )は、テレビディレクター・ドラマ演出家・映画監督である。大阪府大阪市西成区出身。有限会社リーライダーすの代表取締役社長。 闘士男は本名。ボクシング好きの父親がリングネームになるように命名しており、ボクシング愛好家である。元在日韓国人3世で、現在は日本国籍を取得している。 大学4年時にディレクターデビューし、大学卒業後は主にバラエティ番組の制作をしていた。その後、2004年に『お父さんのバックドロップ』で映画監督としてデビューしている。
白羽 弥仁(しらは みつひと、1964年3月11日 - )は… 白羽 弥仁(しらは みつひと、1964年3月11日 - )は日本の映画監督。兵庫県芦屋市出身、神戸市在住。 滝川高等学校卒業。日本大学藝術学部演劇学科演出コース卒業。TVのCM制作も手がける。2018年3月まで甲南女子大学文学部メディア表現学科講師を務めた。2019年より国際ファッション専門職大学非常勤講師。2020年4月より讀賣テレビ放送放送番組審議会委員。 2022年4月より大手前大学建築&芸術学部非常勤講師。
光石 富士朗(みついし ふじろう、1963年12月9日 - … 光石 富士朗(みついし ふじろう、1963年12月9日 - )は、日本の映画監督、脚本家、演出家。東京都出身。 日本大学第三高等学校、日本大学文理学部社会学科卒業。大学を卒業後、廣木隆一、神代辰巳らの助監督を務め、プロの現場で活動を始める。2002年の映画『おぎゃあ。』では、予期せぬ妊娠をした少女が母親になるまでの過程を爽やかに描き出し「遊び心があり、革新的でエネルギーに満ち、現実とファンタジーの融合に成功した稀有な作品」と絶賛され、ハワイ国際映画祭でネットパック特別賞(最優秀アジア映画賞)を受賞。その他の主な監督作品に『富江 replay』、『M-1グランプリへの道 まっすぐいこおぜ!』などがある。
塚本 連平(つかもと れんぺい、1963年2月24日 - )… 塚本 連平(つかもと れんぺい、1963年2月24日 - )は、日本のテレビドラマ演出家・映画監督。フリーランス。主な代表作品は『時効警察』『ドラゴン桜』『着信アリ2』『ぼくたちと駐在さんの700日戦争』『今日も嫌がらせ弁当』。岐阜県瑞浪市土岐町(現在の土岐市)出身。日本大学芸術学部映画学科監督コース出身。血液型はRh-A型。 主に映画、テレビドラマの監督。脚本家としても『時効警察』等のドラマに参加している。映画『かずら』では福田雄一と共同脚本。企画プロデューサーとしてもドラマ、映画、更に情報バラェテイも開発に携わる。 演出デビュー作(兼プロデューサー)の『寝ないで超Z級映画』では、町山智浩、柳下毅一郎と共に2時間三夜に渡って世界のZ級映画を紹介。
川崎 郷太(かわさき きょうた、1961年11月6日 - )… 川崎 郷太(かわさき きょうた、1961年11月6日 - )は、日本の特撮監督、映画監督、脚本家。平成ウルトラマンの演出で知られる。東京都出身。 1984年、日本大学藝術学部卒業(卒業制作の題名は「恐竜泥棒」)。同年、木下プロダクションに入社し、テレビドラマの現場に付く。1988年、休職して渡米。ディズニー映画『ミクロキッズ』SFX班にインターンとして参加。帰国後に復職し、展示映像の映像やオリジナルビデオを監督する。1990年よりフリーランス。 2006年以後の作品はないが、八木毅など旧知の監督が川崎と会談している。 円谷プロダクション製作のウルトラシリーズにおいて、史上初めて脚本・監督・特技監督の三役を一つのエピソードで公式に兼ねた。
手塚 眞(てづか まこと、本名:真(新字体)、1961年8月… 手塚 眞(てづか まこと、本名:真(新字体)、1961年8月11日 - )は、日本の映像クリエーター、映画監督。 有限会社ネオンテトラ代表取締役、株式会社手塚プロダクション取締役。一般財団法人手塚治虫文化財団代表理事。宝塚市大使。手塚治虫記念館名誉館長兼総合プロデューサー。イメージフォーラム映像研究所講師。ジャパン・イメージ・カウンシル理事。知的財産管理技能検定委員。 父は漫画家の手塚治虫、妹はプランニングプロデューサー・手塚プロダクション取締役の手塚るみ子、妻は漫画家の岡野玲子。また、祖父に写真家の手塚粲、曽祖父に司法官の手塚太郎、高祖父に医師の手塚良仙がいる。 手塚治虫の長男(第1子)として生まれる。
三谷 幸喜(みたに こうき、1961年〈昭和36年〉7月8日… 三谷 幸喜(みたに こうき、1961年〈昭和36年〉7月8日 - )は、日本の劇作家、脚本家、演出家、映画監督、俳優。 劇団「東京サンシャインボーイズ」主宰。シス・カンパニー所属。身長174 cm。 東京都世田谷区出身。父が好きだった大相撲力士・大鵬幸喜(当時は大関、後に横綱に昇進)にちなんで「幸喜」(こうき)と命名。両親は九州出身で、父は福岡市の中洲でクラブを数店舗経営していた実業家であった。家は裕福であったが、父は三谷が10歳の時に亡くなった。 小学生の頃、「ビバ!チャップリン」シリーズからチャールズ・チャップリンのファンになり、スイスにあった自宅前までチャップリンに会いに行ったことがある。
辻丸 耕平(つじまる こうへい、1961年6月13日 - )… 辻丸 耕平(つじまる こうへい、1961年6月13日 - )は、日本のAV男優、AV監督。愛称は「落ち武者さん」。1988年、AV男優デビュー。 日本大学芸術学部卒業。AV女優を嬲ることにかけては当代一流のS男優。言葉による陰湿な攻め、レイプなどの迫力には独特の持ち味があり、AV業界で重宝されていた。腰使いが鋭く高速ピストンで女優を追い詰める。過去には白石ひとみや朝岡実嶺など、時代を代表する女優たちも辻丸に責め抜かれた経験を持つ。素顔は物静かで丁寧な人柄で、役柄とは別に笑顔が可愛い。またAV男優のみならず、AV監督もしている。ニックネームは落ち武者。 AV出演強要問題について、「無理やりAV女優にすることは減った」という持論を展開している。
塚本 晋也(つかもと しんや、1960年1月1日 - )は、… 塚本 晋也(つかもと しんや、1960年1月1日 - )は、日本の映画監督、俳優。 東京都渋谷区出身。渋谷区立渋谷小学校、渋谷区立原宿中学校、日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学芸術学部卒業。有限会社海獣シアター代表取締役。コマーシャルのナレーターとしては大沢事務所所属。既婚。 映画監督としては、自ら製作・監督・脚本・撮影・美術・編集・出演を兼ねる自主制作スタイルを貫いている。 下北沢で生まれ原宿で育つ。幼少の頃から観ていた「ウルトラQ」(その他)に衝撃を受け、中学時代から自主映画を作り始める。当時は怪獣映画に夢中で、円谷一の著書『特撮のタネ本』をバイブルにしていた。中学2年生(当時14歳)の時に水木しげるのマンガ『原始さん』を原案にして、父が持っていた8ミリカメラで映画製作をする。
今関 あきよし(いまぜき あきよし 、本名:今関 明好(読み… 今関 あきよし(いまぜき あきよし 、本名:今関 明好(読み同じ)、1959年11月19日 - )は、日本の映画監督、演出家。東京都出身。日本大学豊山高等学校卒業、日本大学経済学部中退。 学生時代の1975年頃から自主制作により8ミリ映画の製作を開始し、1979年に三留まゆみ主演の自主映画『ORANGING'79』がオフシアター・フィルムフェスティバル'79(のちのぴあフィルムフェスティバル)で大林宣彦の推薦により入選。1982年には文芸坐を中心とする自主映画プロジェクトマインド・ウェーブ・シネマに参加し、『フルーツ・バスケット』『MILK○MILK』を発表する。 1983年に富田靖子主演の劇場映画『アイコ十六歳』で商業映画デビュー。
田代 廣孝(たしろ ひろたか、1959年 - )は、日本の映… 田代 廣孝(たしろ ひろたか、1959年 - )は、日本の映画監督、テレビディレクター。 宮城県仙台市出身。仙台市立五橋中学校、東北学院榴ケ岡高等学校、日本大学芸術学部卒業。イギリス留学を経て新藤兼人監督の助監督となる。一方、テレビのバラエティ、ドキュメンタリー、衛星放送、ビデオ作品等の演出も手掛ける。 漫画家荒木飛呂彦、フリーライター永沢光雄とは、東北学院榴ケ岡高等学校の同期生である。 二作とも国際的な鋭い視点から社会を切り取り、また繊細かつリアルな人間描写や独特なフレーミングと濃厚な色彩感覚が作品を特徴付けている。非メジャーで寡作ながら、海外にも通用する数少ない監督と評価する映画マニアも少なくない。
水田 伸生(みずた のぶお、1958年8月20日 - )は、… 水田 伸生(みずた のぶお、1958年8月20日 - )は、テレビドラマ演出家、映画監督。元日本テレビ放送網執行役員情報・制作局専門局長、元日テレアックスオン執行役員。 広島県広島市南区出身。広島市立舟入高等学校(28期生)時代はバレーボール部で全国大会にも出場した。原田真二は高校の同級生。日本大学芸術学部演劇学科卒業後、1981年に日本テレビに入社した。入社後はテレビドラマの制作に携わる。『池中玄太80キロ』等の助監督を経て、明石家さんまと組んだ『恋も2度目なら』(1995年)、『恋のバカンス』(1997年)、『甘い生活。』(1999年)のチーフ演出等で注目を集め、『奇跡のロマンス』(1996年)、『お熱いのがお好き?』(1998年)等、主にホームコメディを得意とした。
四ノ宮 浩(しのみや ひろし、1958年5月16日 - )は… 四ノ宮 浩(しのみや ひろし、1958年5月16日 - )は、日本の映画監督。宮城県仙台市出身。 宮城県仙台第二高等学校卒、日本大学経済学部中退。大学在学中は天井桟敷に入団。1986年に監督してデビューする。
君塚 良一(きみづか りょういち、1958年4月21日 - … 君塚 良一(きみづか りょういち、1958年4月21日 - )は、日本の脚本家、映画監督、放送作家。 東京都港区出身。日本大学芸術学部卒業。 妻は、女性アイドルグループ・トライアングルのメンバーで元タレントの藤本あき(加藤明恵)。 学生時代は映画監督を志していたが東宝撮影所でのアルバイト経験で映画界の不況を目の当たりにして、次第に映画界への興味を失う。倉本聰、山田太一、向田邦子などのシナリオライターが脚光を浴びているのを見て、テレビドラマの世界に関心を抱くようになった。大学の教授の紹介で、卒業後は萩本欽一に弟子入りし、萩本お抱えの放送作家集団である「パジャマ党」に加入。『欽ちゃんの週刊欽曜日』『欽ちゃんのどこまでやるの!?』『ライオンのごきげんよう』など、バラエティ番組に構成作家として携わる。
落合 正幸(おちあい まさゆき、1957年 - )は、日本の… 落合 正幸(おちあい まさゆき、1957年 - )は、日本のテレビドラマの演出家、脚本家、映画監督。共同テレビジョン所属を経てフリー。 東京都出身。日本大学藝術学部卒。星護とともに独特の演出方法で知られた。代表作のテレビドラマ『世にも奇妙な物語』では、35作(番組歴代最多演出数)を監督した。 2003年、共同テレビを退社し、映画監督活動を開始。『感染』はアメリカでも上映された。 共同テレビ退社以降同社とは全く関わりがなかったが、2012年に9年ぶりに『世にも奇妙な物語』の一話「ヘイトウイルス」でタッグを組みドラマのメガホンをとった。 2度結婚しており、元妻は共同テレビの親会社であるフジテレビでアナウンサーを務めた寺田理恵子と女性作家である梅田みか。
吉岡 敏朗(よしおか としろう、1956年10月25日 - … 吉岡 敏朗(よしおか としろう、1956年10月25日 - )は、日本の映画監督。 島根県松江市出身。 日本大学芸術学部映画学科で映画の監督法を学び卒業後、テレビ、ドキュメンタリー、PRビデオなど、様々なジャンルの映画・映像を制作し、作成本数は300を超える。福岡正信との出会いを契機に自然農法の援農も行うなど映画作法の原点には自然の哲理が息づく。受賞歴は、カルロヴィバリ映画祭(CILECT) 優秀賞、日本産業映画コンクール 奨励賞、リッチモンド国際映画祭 佳作、カナダ国際映画祭 優秀賞 など多数。 1956年10月25日 - 島根県松江市で生まれる。松江の宍道湖岸で育つ。湖岸に打ち寄せる瑪瑙(メノウ)を集めたり、湖に沈む夕陽を見つめる自然豊かな日常から色彩感覚を自ずと養う。
長崎 俊一(ながさき しゅんいち、1956年6月18日 - … 長崎 俊一(ながさき しゅんいち、1956年6月18日 - )は、日本の映画監督。妻は女優の水島かおり。 神奈川県横浜市出身。栄光学園の高校生だった頃から、8ミリ映画の製作に取り組み、文化祭で上映するなどしていた。小説家の保坂和志とは同級生であり、映画制作仲間でもあった。 日本大学藝術学部映画学科に在学中の1978年、『ユキがロックを棄てた夏』を監督する。同作は、現在のぴあフィルムフェスティバルの前身である第2回ぴあ展「自主制作映画展」で入賞した。 1980年、秋からATG作品『九月の冗談クラブバンド』の撮影に入るが、事故で負傷し撮影を中断する。1982年、劇場用映画の初監督作品『九月の冗談クラブバンド』が公開される。
喜多 一郎(きた いちろう、1956年6月9日 - )は、日… 喜多 一郎(きた いちろう、1956年6月9日 - )は、日本の映画監督、テレビプロデューサー、音楽プロデューサー、作家、脚本家、大学客員教授。株式会社オフィスキタCEO。 1956年6月9日東京都出身。日本大学芸術学部映画学科卒業。株式会社オフィスキタ代表取締役社長。テレビ、音楽業界を経て1997年に自社を設立。2002年より映画監督。 「人間再生」を一貫したテーマにオリジナル脚本で12本の映画を監督する。大ヒットした2005年公開の映画『Life on the longboard』(大杉漣、小栗旬 他)では日本中の海を、中年サーファーで一杯にした社会現象を生み出す。2013年公開映画『ヨコハマ物語』(北乃きい、奥田瑛二、市毛良枝 他)は神奈川県推薦映画第一号に指定され大ヒットを記録する。
花堂 純次(はなどう じゅんじ、1955年12月4日 - )… 花堂 純次(はなどう じゅんじ、1955年12月4日 - )は、日本の映画監督。宮崎県宮崎市出身。 宮崎県立宮崎南高等学校を経て、1978年、日本大学藝術学部映画学科卒業。 大学在学中から助監督として活動。各テレビ局のAD,APを経てテレビドラマ『愛の嵐』でデビュー。{泉放送制作、ユニオン映画在籍] 以降ギャラクシー賞https://www.houkon.jp/galaxy-award/第38回(2000年度)/受賞、第18回ATP賞グランプリ受賞https://www.atp.or.jp/awards/atpaward/award_018.php作の「永遠の仔」を始めとした数多くのテレビドラマの演出を手がけ、2001年、『羊のうた』にて劇場映画デビューを果たす。
金澤 克次(かなざわ かつじ、1955年5月3日 - )は、… 金澤 克次(かなざわ かつじ、1955年5月3日 - )は、日本の映画監督である。香川県出身。 1979年、日本大学商学部卒業後にっかつに入社。助監督を経て1988年、日活ロマンポルノの最終作品映画『ラブゲームは終わらない』で監督デビューする。デビュー後はにっかつの社員監督としてTVドラマも多数手がける。 1994年、にっかつを退社。フリーランスの監督として活動しながらジャパンスターズアカデミーの講師も務めている。 テレビ東京・BSジャパン
宮崎 正弘(みやざき まさひろ、1955年〈昭和30年〉4月… 宮崎 正弘(みやざき まさひろ、1955年〈昭和30年〉4月13日 - )は、日本の映像作家、映画監督、日本大学芸術学部教授。 東京都出身。日本大学芸術学部映画学科を卒業後、フリーの企画・脚本・演出家、スーパーバイザーとして映画、ビデオ、イベント、博覧会、マルチメディア等の映像作品関係の制作に従事。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
手塚 昌明(、1955年〈昭和30年〉1月24日 - )は、… 手塚 昌明(、1955年〈昭和30年〉1月24日 - )は、日本の映画監督。 栃木県出身。1977年(昭和52年)に日本大学藝術学部映画学科監督コース卒業後、1980年(昭和55年)公開の映画『古都』以降、フリーとして西河克己や市川崑の助監督を経て、1994年(平成6年)に東宝映画入社。『モスラ2 海底の大決戦』(1997年)『モスラ3 キングギドラ来襲』(1998年)にて、チーフ助監督を務める。 2000年(平成12年)、『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』にて監督デビュー。2002年(平成14年)、東宝映画を退任。その後は『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年)、『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003年)で監督を務めた。
矢崎 仁司(やざき ひとし、1954年11月20日 - )は… 矢崎 仁司(やざき ひとし、1954年11月20日 - )は、日本の映画監督、脚本家。 1956年11月20日、山梨県南巨摩郡鰍沢町に生まれる。山梨県立巨摩高等学校を卒業。日本大学芸術学部映画学科に在学中の1980年、『風たちの午後』で映画監督デビューを果たす。1992年、『三月のライオン』でベルギー王室主催ルイス・ブニュエルの「黄金時代」賞を受賞する。2010年、中谷美紀と大森南朋を主演に迎えた『スイートリトルライズ』が公開される。
関根 和美(せきね かずよし、1954年8月2日 - 201… 関根 和美(せきね かずよし、1954年8月2日 - 2019年10月10日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。東京都出身。日本大学藝術学部文芸学科卒業。 大学卒業後、フリーの助監督として小川欽也、山本晋也らに師事した後独立し、脚本家として『下半身美人 狂いそう』(1980年、久我剛監督)などを執筆。飯泉大の推薦を受け国映制作『OL襲って奪う』(1984年)で映画監督デビュー。以降、主に独立系(インディーズ)の成人映画をコンスタントに制作し、監督している。関根プロダクション社長。成人映画だけではなくVシネマ、テレビ番組、VP作品も手がけており、一般作品としては『不思議めがね』(2002年、三村渉監督)において監督補としてメガホンを取っている。
高杉 弾(たかすぎ だん、1954年4月23日 - )は、日… 高杉 弾(たかすぎ だん、1954年4月23日 - )は、日本の編集者、文筆家、実業家、AV監督。自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長。日本大学芸術学部文芸学科中退。本名は佐内 順一郎(さない じゅんいちろう)。 「作文家」を自称する文筆家で、1970年代後半から1990年代以降のアンダーグラウンド/サブカルチャー・シーンに与えた影響は大きい。現在は定職を持たず「メディアマン」というコンセプトのもとに国際的な隠居生活を送りながら、編集者、企画家、観光家、ステレオ写真家、臨済禅研究家、蓮の花愛好家として多方面で活動。 1954年4月23日、東京都品川区生まれ。その後、神奈川県に転居し1958年から1963年まで川崎市等々力の水郷地帯で蓮の実を食べて育つ。
船原 長生(ふなはら ちょうせい、1953年12月10日 -… 船原 長生(ふなはら ちょうせい、1953年12月10日 - )は、アメリカ在住の音楽家、映画監督、映画プロデューサー。 兵庫県で生まれ、日本大学芸術学部映画学科卒業後、NYU(ニューヨーク大学)大学院映画学科に学ぶ。大学院在学中に、パンク・ロック・バンドのカルト的な存在となったプラズマティックスのベーシストとしてニューヨークでミュージシャン・デビュー。その後、映画制作に移行し、1992年、村上龍原作の映画『トパーズ (Tokyo Decadence)』のプロデューサー、サンダンス映画祭でグランプリを受賞した『イン・ザ・スープ』(アレクサンダー・ロックウェル監督)のエグゼクティブ・プロデューサーなどを務めた。
森田 芳光(もりた よしみつ、1950年1月25日 - 20… 森田 芳光(もりた よしみつ、1950年1月25日 - 2011年12月20日)は、日本の映画監督、脚本家である。
柏原 寛司(、1949年〈昭和24年〉9月6日 - )は、日… 柏原 寛司(、1949年〈昭和24年〉9月6日 - )は、日本の脚本家、映画監督。東京都中央区日本橋出身。一般社団法人シナリオ作家協会会長、日本シナリオ作家協会副理事長を歴任。 実家は江戸時代末期から代々、東京・人形町に住む一家で、柏原で4代目に当たる。中学生時代は映画少年で、特に西部劇を好み、『アラモ』は36回も観たという。この他にも少年時代は落語も愛好した。高校生以降は友人の勧めで『用心棒』を観て以来、日本映画も好むようになり、高倉健、勝新太郎主演などの作品をよく観るようになる。一方で高校時代は野球部で、野球にも打ち込んでいた。 1969年、日本シナリオ作家協会主催のシナリオ研究所(現在のシナリオ講座の前身)第22期を修了。
若松 節朗(わかまつ せつろう、1949年(昭和24年)5月… 若松 節朗(わかまつ せつろう、1949年(昭和24年)5月5日 - )は、日本のテレビドラマ演出家・映画監督。 秋田県河辺郡河辺町(現・秋田市)生まれ。秋田市立秋田商業高等学校、日本大学藝術学部放送学科卒業後、TBS系のテレパックに入社。ADを経て『思春期の妻たち』(1984年、フジテレビ)などのテレビドラマを演出。 1986年にフジテレビ系の共同テレビジョンに移籍。局制作が少なかったフジの中でテレパック時代のノウハウを活かし、『あまえないでヨ!』『ラジオびんびん物語』『しゃぼん玉』などのヒットドラマを数々手がけた。 90年代は『振り返れば奴がいる』『お金がない!』『正義は勝つ』など織田裕二の主演ドラマを多数演出し、その縁で2000年、織田主演のアクション大作『ホワイトアウト』で映画監督デビューを果たす。
猪崎 宣昭(いざき のぶあき、1948年8月5日 - )は、… 猪崎 宣昭(いざき のぶあき、1948年8月5日 - )は、日本の映画監督。愛媛県出身。 日本大学藝術学部卒業。三船プロダクションに入社し斎藤光正に師事する。テレビドラマにおいてあらゆるジャンルの膨大な数の作品を手がけている。 監督(太字はメイン監督) この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
市川 徹(いちかわ とおる、1948年7月28日 - 202… 市川 徹(いちかわ とおる、1948年7月28日 - 2023年8月30日)は、日本の映画監督、プロデューサーである。 浅野高等学校卒業後、日本大学に進学。1972年に卒業し、テレビ神奈川(tvk)に入社する。tvkでは、音楽・バラエティ番組などの制作や営業を担当する。87年に独立し、サム・エンタープライズの芸能部長になると共に音楽・映像の制作会社を設立し、KATSUMI、米倉利紀などを抱える。1993年、第一作となる『ファンキー・モンキー・ティーチャー3 康平の微笑』で映画監督デビューする。その後、十余年の間、監督として数多くの青春、コメディ映画やヤクザ映画のVシネマ作品を手がける。2006年から2007年の富山県や神奈川県を舞台にした伝記映画『九転十起』三部作の監督を機に、日本各地のご当地映画を撮り続けている。
横山 博人(よこやま ひろと、1948年3月16日 - )は… 横山 博人(よこやま ひろと、1948年3月16日 - )は日本の映画監督。福岡県飯塚市大字中出身。 父母ともに開業医。福岡県立嘉穂高校を1966年卒業後上京。大島渚を訪ねて映画界入りを狙ったが果たせず。1971年日本大学藝術学部入学。東映東京撮影所に通いつめ、伊藤俊也監督の口利きで契約助監督になる。大学は1973年に中退。伊藤俊也や石井輝男、深作欣二、中島貞夫、鈴木則文ら東映の監督たち10名につく。 1977年4月工藝舎(1982年、横山プロダクションに改名)を設立。1979年監督デビュー作『純』が第32回カンヌ国際映画祭、批評家週間でオープニング上映。1980年、『純』が国内初公開。自主制作映画としては異例の大ヒット。
辻理(つじ まこと、1948年1月1日 - 没年不明)は、日… 辻理(つじ まこと、1948年1月1日 - 没年不明)は、日本の元映画監督、元テレビドラマ演出家、元ゲームクリエイター。長崎県長崎市出身。 1970年、日本大学藝術学部映画学科卒業。卒業後、東映テレビプロダクションに入社する。同期に藤井邦夫がいた。助監督を経て1980年、『特捜最前線』の一編(第178話「男たちのセプテンバーソング!」)で監督デビューを果たす。同番組での演出担当回数は天野利彦に次ぐ第2位。 1981年、東映を退社してフリーランスになる。1986年『時空戦士スピルバン』で初のパイロット監督を担当。以降東映の作品と同時に、主にアクション物を中心に石原プロ、国際放映など他社作品の現場でも活動した。
深町 章(ふかまち あきら、1943年4月16日 - )は、… 深町 章(ふかまち あきら、1943年4月16日 - )は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名は稲生 稔(いのう みのる)。助監督時代の筆名は伊能 実(いのう みのる)、監督デビュー後の筆名は稲尾 実(いなお みのる)、東活では荻西 太郎(おぎにし たろう)の名で作品を発表した。 1943年(昭和18年)4月16日、茨城県水戸市に生まれる。 1959年(昭和34年)4月、茨城県立水戸第一高等学校に進学、1962年(昭和37年)3月に同校を卒業、翌1963年(昭和38年)4月に日本大学藝術学部映画学科に進学した。同期にのちに映画監督・撮影技師になる久我剛(1944年 - )こと斎藤雅則がいた。
蓑輪 雅夫(みのわ まさお、1943年2月16日 - 没年不… 蓑輪 雅夫(みのわ まさお、1943年2月16日 - 没年不明)は、日本の映画監督。 鹿児島県出身。日本大学藝術学部卒業。 当初はフリーの助監督としてキャリアを重ね、1973年に『流星人間ゾーン』で監督デビューを果たす。しかし、その後は監督として登板する機会にはほぼ恵まれず、東映に移ってからも『刑事くん』、『Gメン'75』、『特捜最前線』などの一般ドラマや、『スパイダーマン』、『科学戦隊ダイナマン』などのキャラクターものなど、長きにわたって東映テレビプロ制作の作品で助監督を務める状況が続くこととなる。 1987年、チーフ助監督を務めていた『大都会25時』で監督を再度担当したのを皮切りに、同年より始まった『仮面ライダーBLACK』で助監督&監督を兼任。
宮越 澄(みやこし きよし、1943年1月28日 - )は、… 宮越 澄(みやこし きよし、1943年1月28日 - )は、日本のテレビドラマ専任の映画監督である。富山県出身。NPO法人時代劇振興協会理事長。 日本大学藝術学部在籍中に殺陣同志会に所属。役者として幾つかの映画・ドラマ等に出演。21歳の頃、土居通芳に師事し演出に携わりはじめる。1973年、三船プロダクションの作品で監督デビュー。以後フリーの監督として多くのテレビドラマの演出を手掛けた。
奥村 正彦(おくむら まさひこ、1942年1月20日 - 2… 奥村 正彦(おくむら まさひこ、1942年1月20日 - 2021年7月31日)は、日本の演出家、映画監督。日本映画監督協会会員。 福井県勝山市出身。実家は美容院。福井県立勝山高等学校卒、1965年、日本大学芸術学部映画学科卒業後、東京映画に入社。豊田四郎、佐伯幸三、小林正樹、増村保造らに師事。助監督を経て、1982年、花王 愛の劇場『トラック母ちゃん』で監督デビューする。 その後、東京映画を退社し、フリーランスの監督として現在まで多数のTVドラマを手がける。1999年には、初の劇場映画作品『虹の岬』を発表した。
小笠原 猛(おがさわら たけし、1941年8月18日 - 2… 小笠原 猛(おがさわら たけし、1941年8月18日 - 2011年12月26日)は、主に特撮テレビドラマ作品を手掛けた日本の映画監督・演出家。東京都港区出身。 父親は東映のプロデューサーの小笠原久豊。その関係からか映画監督を志し、日本大学藝術学部入学。しかし、1961年に中退し、NET(現・テレビ朝日)に契約社員として入社。その後1962年に東映テレビ・プロダクションに移籍。以後『ザ・ボディガード』、『特別機動捜査隊』、『特捜最前線』、『鉄道公安官』などの一般ドラマや『快傑ズバット』、『忍者キャプター』などのキャラクターものの東映テレビプロ制作の作品で助監督を務める。特に村山三男、田中秀夫、奥中惇夫らに師事していた。
神山 征二郎(こうやま せいじろう、1941年〈昭和16年〉… 神山 征二郎(こうやま せいじろう、1941年〈昭和16年〉7月16日 - )は、日本の映画監督、脚本家。岐阜県岐阜市中西郷出身。2022年5月より東京都内から長野県上田市に移住(2024年9月時点)。 農家に生まれる。岐阜県立岐阜北高等学校に在学中は画家を志していた。日本大学芸術学部映画学科に在学中は演劇に傾倒していたが、1964年(昭和39年)、4年生の時に重症の右湿性肋膜炎を患い大学を中退し帰郷する。病気の回復後に再び上京し、映画芸術誌編集部のアルバイトを経て、1965年(昭和40年)、新藤兼人監督が主宰する近代映画協会に参加する。なお、大学時代の同窓生にアニメーション監督の富野由悠季がいる。