芥川 麻実子(あくたがわ まみこ、1948年7月12日 - … 芥川 麻実子(あくたがわ まみこ、1948年7月12日 - )は、日本の交通評論家、タレント、メディアコーディネーター、エッセイスト。財団法人首都高速道路協会元理事。 作曲家・芥川也寸志(芥川龍之介の三男)とその最初の妻・紗織(旧姓:山田)の長女として東京都に生まれる。1957年、両親が離婚する。子供の頃は音楽の成績が良かったため、そのことを作曲家である父親に対する教師からの特別な配慮として受け取った也寸志は、「そういうことはしないでください」と学校に抗議に行ったが、その後も音楽の成績は下がらなかったという。 1971年、日本女子大学文学部卒業と同時に渡辺企画(現・渡辺プロダクション)に所属する。
高良 留美子(こうら るみこ、1932年12月16日 - 2… 高良 留美子(こうら るみこ、1932年12月16日 - 2021年12月12日)は、日本の詩人、評論家、女性史研究者。夫は作家の竹内泰宏。 高良武久、高良とみの二女として東京に生まれる。 自由学園初等部、日本女子大学附属高等学校を経て、東京藝術大学美術学部(転学)、慶應義塾大学法学部に学ぶ(中退)。 1963年、詩集『場所』でH氏賞受賞。1988年、詩集『仮面の声』により第6回現代詩人賞を受賞。 女性史研究にも力を注ぎ、1997年には、女性の文化向上に貢献した人に贈る「女性文化賞」を個人で創設した。 2000年、詩集『風の夜』で丸山豊記念現代詩賞を受賞。詩のみならず評論でも活躍、『高良留美子の思想世界』全6巻があり、岩見照代と「女性のみた近代」を編纂。
中村 智子(なかむら ともこ、1929年11月7日 - )は… 中村 智子(なかむら ともこ、1929年11月7日 - )は、日本の編集者、評論家。 東京生まれ。1952年日本女子大学英文科卒業、中央公論社に入社。「婦人公論」「思想の科学」「中央公論」編集部に属し、のち書籍編集者となり、1978年に退社。東京大学新聞研究所講師をつとめた。 思想の科学研究会会員、離婚後、評論活動を始める。小田切秀雄に師事し、宮本百合子の伝記を描いた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
小島 千加子(こじま ちかこ〈本名:小嶋喜久江〉、1928年… 小島 千加子(こじま ちかこ〈本名:小嶋喜久江〉、1928年9月19日 - 2025年9月5日)は、日本の編集者、文芸評論家、詩人。 東京府出身。日本女子大学国文科卒業。1949年、新潮社入社。『新潮』編集部にて森茉莉や三島由紀夫、檀一雄、吉行理恵、幸田文、円地文子らを担当。特に森とは、1958年から森が死去する1987年まで29年間にわたって親交を結んでいた。1970年には、三島事件当日の朝に三島由紀夫の遺作となった『豊饒の海』第4巻「天人五衰」の最終回原稿を受け取った。 出版部、副部長職兼務を経て1988年に退社し、文筆業一本となる。 2025年9月5日、老衰のため死去。96歳没。生涯独身だった。
暉峻 淑子(てるおか いつこ、1928年2月5日 - )は、… 暉峻 淑子(てるおか いつこ、1928年2月5日 - )は、日本の経済学者、評論家。埼玉大学名誉教授。夫は農業経済学者の暉峻衆三。長男は映画評論家の暉峻創三。弟は音楽プロデューサーの栗山章。 高分子化学の権威であり、九州大学名誉教授となる栗山捨三の三女として大阪府に生まれる。福岡県福岡高等女学校を経て、日本女子大学文学部卒業後、東京大学の東畑精一研究室に勤務しつつ法政大学大学院社会科学研究科経済学専攻に学び、同博士課程満期退学。1955年、東畑精一研究室で知り合った暉峻衆三と結婚。1991年「豊かさとは何か」で経済学博士の学位を取得。鶴見女子大学助教授、教授、1977年埼玉大学教授、1991年定年退官、1993年教育学部名誉教授、日本女子大学教授、1998年退職。
塩沢 美代子(しおざわ みよこ、1924年9月18日 - 2… 塩沢 美代子(しおざわ みよこ、1924年9月18日 - 2018年)は、昭和から平成時代の労働問題評論家。 東京生まれ。父は経済学者の塩沢昌貞。1944年日本女子大学校家政学部第3類(社会事業専攻)卒。1946年から1947年同学部社会福祉学科助手。戦時中の勤労動員の経験から年少労働者の指導を志し、YWCA体育専門学院及び指導者養成コースに学ぶ。1948年東京YWCA体育専門学院修了。鐘淵紡績に入社、東京工場の社内学校に勤務。 1949年全国蚕糸労働組合連合会(全蚕糸労連)書記に転職、1963年まで14年間オルグ活動に従事。この間、日本繊維産業労働組合連合会(繊維労連)への改称(1960年)、主要組合の繊維労連から全繊同盟への分裂を経験。
西川 勢津子(にしかわ せつこ、1922年9月13日 - )… 西川 勢津子(にしかわ せつこ、1922年9月13日 - )は、日本の家事評論家。筆名に、山田のぶ、東山花子、桑井いねがある。 奈良県出身。日本女子大学校卒業。 掃除、洗濯、料理、家族関係まで多岐にわたる家事評論で活躍。1961年西武百貨店池袋店の家庭用品コンサルタントとなる。 桑井いねの筆名で書いた『おばあさんの知恵袋』(文化出版局)がロングセラーとなった。
品川 孝子(しながわ たかこ、1922年1月2日- 2016… 品川 孝子(しながわ たかこ、1922年1月2日- 2016年1月27日)は、日本の教育評論家。新潟県妙高高原町生まれ。日本女子大学家政学部卒。児童科で児童心理学を専攻し卒業。田中教育相談所、主婦の友相談室で教育相談を担当。品川不二郎と結婚、共著も多く、マスコミ、講演を行った。
岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 19… 岩崎 盈子(いわさき えいこ、1906年7月19日 - 1935年5月14日)は、日本の社会活動家、フェミニスト、評論家である。 日本女子大学校卒業後、大阪府庁の社会課に委託職員として勤める。日本共産党の秘密党員であった川上貫一は上司であり、その影響で岩崎も日本共産党に秘密入党して社会運動に携わりつつ、女性や児童についての評論活動を行った。1933年、昭和8年大阪共産党大検挙事件で治安維持法の容疑で逮捕、1935年5月に結核に罹患して病死した。享年29歳。病死する直前に評論集「婦人と児童の問題」を刊行した。岩崎の評論集は1995年に久山社から再版されている。友人に松本員枝がいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - … 村山 リウ(むらやま りゅう、女性、1903年4月1日 - 1994年6月17日)は、日本の評論家。 香川県仲多度郡琴平町生まれ。1923年、日本女子大学校国文科卒、1930年、岡山医科大学副手の村山高と結婚、1936年頃から地域婦人活動を行う。新地に女子青年団が結成された際、団長に選ばれる。 その後、1943年から大阪に住み女子挺身隊関連の仕事で大阪府庁に勤める。 戦争で大阪の家を焼かれ、戦後、大阪市社会教育委員など各種婦人団体の役員をつとめ、新聞の身の上相談や社会時評などで、婦人問題評論家として活動。 『源氏物語』の研究を始めてその解き語りを、関西中心に始める。現代視点からのユニークな解説、講演から「村山源氏」として知られ、1959年にはテレビでその現代語訳の朗読を行った。
大浜 英子(おおはま ひでこ、1901年11月11日 - 1… 大浜 英子(おおはま ひでこ、1901年11月11日 - 1982年3月25日)は、日本の婦人問題・家族制度問題評論家。 京都出身。1922年日本女子大学校師範家政科卒。大浜信泉と結婚。1930年婦人同志会を結成。1939年人事調停法に基づく最初の調停委員となる。 1950年婦人人権擁護同盟を結成。家族制度・婦人問題の評論家として活動、中央選挙管理委員会委員長、国民生活センター会長などを務めた。 1964年には杉並通り魔事件の犯人少年より、犯行(男児の陰部切断)を描いた絵と、(テレビ番組で)「ヨケイナ批判ヲスルナ」と書かれた脅迫状が届いた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1… 板垣 直子(いたがき なおこ、1896年11月18日 - 1977年1月21日)は、日本の文芸評論家、日本近代文学研究家。 青森県北津軽郡栄村湊(現五所川原市)に平山兼吉の次女「なを」として生まれる。1914年青森県立弘前高等女学校(現・青森県立弘前中央高等学校、太宰治の姉トシが2学年上で寄宿舎で同室)、1918年日本女子大学校英文科卒、1921年、東京帝国大学の第一回女子聴講生となる。美学、哲学を聴講。美術評論家の板垣鷹穂と結婚。夏目漱石などについて多くの著述を行い、比較文学研究では島田謹二、吉田精一らと並ぶ存在とされる。長谷川時雨主宰の「女人芸術」の編集委員として林芙美子を見出した。また、国士舘大学等で教鞭をとっている。
平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年… 平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。本名は平塚 明(ひらつか はる)。 大正から昭和にかけ、婦人参政権など、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られるが、結局、その実現は、第二次大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たなければならなかった。 しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌『青鞜』の創刊を祝い、自らが寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である(大昔は女性は自らいきいきと輝いていたが、今は自分の力で輝けない)」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった[要ページ番号]。