坪田 十郎(つぼた じゅうろう、1867年9月12日〈慶応3… 坪田 十郎(つぼた じゅうろう、1867年9月12日〈慶応3年8月15日〉 - 1925年〈大正14年〉9月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(兵庫県第一区選出、当選3回)。神戸土地、神戸鉄工各社長。族籍は兵庫県士族。 播磨国飾東郡八代村(のち兵庫県飾磨郡城北村、現・姫路市八代)生まれ。坪田重吉の長男。先代坪田十郎の養子となる。 家は豊かではなく、幼児より困苦窮乏、幾多の艱難と戦う。19歳のころ兵庫県巡査となり、高砂警察署に勤める。1892年、明治法律学校(現・明治大学)を卒業する。 兵庫県の伊藤長次郎に聘せられて同家の商業本部取締役となる。さらに神戸地所部差配人となる。神戸市山手通りの開拓に従事した他、徳島瓦斯(現四国ガス)社長、播磨造船所(現IHI)監査役など、多くの企業の経営に参画した。
安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応… 安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応2年11月15日) - 1953年(昭和28年)7月24日)は、愛媛県議会議員、歴史学者、画家、俳人である。 伊予国(現在の愛媛県)宇摩郡小富士村出身。幼名岸蔵、通称鬼子太郎。寺小屋にて本田某に学び、1872年(明治5年)に小学校(方正校)に入る。小学校卒業後、尾崎星山、合田福太郎に学ぶ。1886年(明治19年)正楽と改名。1888年(明治21年)福沢諭吉の「学問のすすめ」に感動。1889年(明治22年)10月上京し、明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、イタリア人パテルノストロ博士や岩谷孫蔵らから国際法を学ぶ。卒業後、1892年(明治25年)京都帝大教授になった岩谷に従い京都にてローマ法の翻訳に従う。
渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年… 渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年10月17日) – 昭和3年(1928年)9月3日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事、弁護士。 1866年、長門国阿武郡萩町(現在の山口県萩市)に出生。1895年、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。同年に判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、宇都宮地方裁判所・大分地方裁判所・福岡地方裁判所・大阪地方裁判所の検事を務めた。徳島地方裁判所の次席検事に昇進したが、1906年に退官し徳島市で弁護士を開業した。徳島市会議員、徳島毎日新聞社監査役、日本化学工業株式会社取締役等を歴任。 1927年の衆議院補欠選挙に憲政会より立候補して当選し、憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が成立すると、徳島支部顧問となった。
山移 定政(やまうつり さだまさ、慶応2年7月11日(186… 山移 定政(やまうつり さだまさ、慶応2年7月11日(1866年8月20日) - 大正11年(1922年)5月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会)。弁護士。 熊本藩士山移定之の子として熊本城下に生まれる。1891年(明治24年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。その後熊本に帰って、九州学院医学部の理事兼法学教師を務めた。1894年(明治27年)、日清戦争が勃発すると陸軍通訳官として従軍した。翌年、台湾総督府文官として渡台し、台南県通訳、台中県弁務署主記を務めた。1899年(明治32年)より台中地方法院所属弁護士となり、のちに同弁護士会長に選ばれた。また台湾新聞社社長、海南製粉株式会社取締役、台中製糖株式会社取締役、日本拓殖株式会社取締役を務めた。
石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866… 石田 仁太郎(いしだ じんたろう、慶応2年4月8日(1866年5月22日) - 昭和15年(1940年)12月31日)は、日本の政治家、弁護士。栃木県宇都宮市長、衆議院議員などを歴任した。 肥後国託麻郡、のちの熊本県託麻郡大江村(飽託郡大江村を経て現熊本市)出身。明治法律学校を卒業し弁護士となる。1899年(明治32年)9月から1903年(明治36年)9月まで河内郡選出の栃木県会議員を務め、1899年11月からは県会副議長を務めた。1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で栃木県郡部選挙区から立候補して当選。衆議院議員は連続3期務め当初は憲政本党に所属したが後に立憲国民党に参加している。
金沢 種次郎(金澤、かなざわ たねじろう、1866年4月16… 金沢 種次郎(金澤、かなざわ たねじろう、1866年4月16日(慶応2年3月2日)- 1925年(大正14年)10月18日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員。旧姓・伊沢。 阿波国板野郡中喜来浦(徳島県板野郡松茂村字中喜来を経て現松茂町中喜来)で、伊沢壮太郎の三男として生まれる。小学校卒業後、徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)に進んだ。私塾で漢学も修めた。1886年(明治19年)大阪に出て先代・金沢仁兵衛と出会い、その勧めで同家の肥料商に従事。1887年(明治20年)徴兵され衛生部員として広島衛戍病院、野砲兵第5連隊(広島)で勤務し、1889年(明治22年)帰休兵となり除隊した。その後上京して、1892年(明治25年)7月、東京専門学校(現早稲田大学)で英法及経済財政学を修めて卒業し、さらに同年8月、明治法律学校(現明治大学)の三カ年全課程試験に合格し仏蘭西派法律及政治科を卒業した。
福田 善三郎(ふくだ ぜんざぶろう、1866年1月1日(慶応… 福田 善三郎(ふくだ ぜんざぶろう、1866年1月1日(慶応元年11月16日) - 1924年(大正13年)10月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岩手県出身。1890年、明治法律学校卒。農業と養蚕業を営む。紫波郡長岡村(現・紫波町)会議員、岩手県会議員となる。また、長岡村農会長、岩手県農会議員、大成信用組合長を務めた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において岩手県郡部から憲政本党公認で立候補したが次点で落選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙では立憲国民党公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙では立憲同志会公認で立候補したが落選した。
山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月… 山田 斂(やまだ おさむ、1865年10月8日(慶応元年8月19日)- 1941年(昭和16年)12月20日)は、日本の地主、農政家、政治家。貴族院多額納税者議員。 越前国坂井郡一本田村(福井県坂井郡丸岡町を経て現坂井市)で、豪農・山田穣の長男として生まれた。1888年(明治21年)明治法律学校(現明治大学)卒業。父の死去に伴い1892年(明治25年)家督を相続した。 1892年、高椋村会議員に選出され、坂井郡会議員も務めた。1897年(明治30年)に福井県会議員に就任したが1期で引退した。1918年(大正7年)9月29日、貴族院多額納税者議員に就任し、農政懇談会幹事として議員立法の農会法(大正11年4月12日法律第40号)の成立に尽力した。
中原 清(なかはら きよし、慶応元年4月23日(1865年5… 中原 清(なかはら きよし、慶応元年4月23日(1865年5月17日) - 大正11年(1922年)1月3日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 日向国那珂郡檍村(現在の宮崎県宮崎市)出身。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)に入学して法学を学び、1890年(明治23年)に卒業した後は弁護士業務に従事した。1901年(明治34年)には宮崎県弁護士会長に選出された。 1899年(明治32年)、宮崎県会議員に当選し、さらに1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に当選した。
岡元 直熊(おかもと なおぐま、1865年3月7日(慶応元年… 岡元 直熊(おかもと なおぐま、1865年3月7日(慶応元年2月10日)- 1912年(大正元年)9月9日)は、明治期の弁護士、政治家。衆議院議員。 薩摩国薩摩郡入来郷浦之名村(鹿児島県薩摩郡入来郷浦之名、入来村、入来町を経て現薩摩川内市入来町浦之名)で、岡元九左衛門、かね の長男として生まれた。入来郷校で学び、教師不足のため14歳で生徒兼助教を務めた。1881年(明治14年)鹿児島県師範学校に入学し、卒業して入来小学校で教員を務めた。その後、上京して明治法律学校(現明治大学)で学び、1887年(明治20年)に卒業して、代言人試験に合格し、1890年(明治23年)鹿児島市で代言人(弁護士)を開業した。
岩岡 伊代治(いわおか いよじ、元治元年11月28日(186… 岩岡 伊代治(いわおか いよじ、元治元年11月28日(1864年12月26日) - 大正10年(1921年)11月28日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。画家岩岡とも枝の父。 信濃国安曇郡、のちの長野県南安曇郡倭村(梓川村を経て現松本市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、東京市日本橋区で弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治… 永山 盛興(ながやま もりおき、1864年10月18日(元治元年9月18日) - 1924年(大正13年)12月4日)は、明治から大正期の官僚、政治家、華族。男爵、貴族院議員。 薩摩藩士・永山盛輝(のち男爵)の長男として出生。1891年(明治24年)明治法律学校(明治大学)を卒業。 1874年(明治7年)文部省に勤務し文部9等属を経て、逓信省鉄道書記に就任。父の死去に伴い1902年(明治35年)2月7日に男爵を襲爵。1918年(大正7年)7月10日に貴族院議員に就任し、1924年に死去するまで在任。61歳。
高橋 庄之助(たかはし しょうのすけ、1864年7月3日(元… 高橋 庄之助(たかはし しょうのすけ、1864年7月3日(元治元年5月30日)- 1930年(昭和5年))は、明治から昭和初期の弁護士、政治家。衆議院議員。 上野国甘楽郡野上村(群馬県北甘楽郡額部村野上を経て現富岡市野上)で、高橋曽米吉の末子として生まれた。高橋玄硯、新井又右衛門から漢学を学び、1887年(明治20年)に上京して明治法律学校に入学し、1889年(明治22年)同校を卒業。 同年、代言人試験に合格して代言人(弁護士)となる。東京市下谷区西町(現東京都台東区東上野)に住み、弁護士会常議員会長となり、下谷区会議員、東京市会議員なども務めた。1897年(明治30年)専売特許製瓦 (株) を設立して社長に就任し、その他、日本漁獵監査役、海産貿易監査役などに在任。
萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日… 萩 亮(はぎ りょう、元治元年4月27日(1864年6月1日) - 大正12年(1923年)12月19日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党)、内務官僚、検事。 薩摩国薩摩郡樋脇村(現在の薩摩川内市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、1895年(明治28年)に司法官試補となり、1897年(明治30年)より鹿児島、久留米、佐賀、宮崎、熊本などの裁判所で検事として勤務した。1907年(明治40年)に内務省に転じ、山形県事務官・警察部長、青森県内務部長、和歌山県内務部長を歴任し、1914年(大正3年)に休職となった。 その後、1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
高橋 秀臣(たかはし ひでおみ、1864年5月31日(元治元… 高橋 秀臣(たかはし ひでおみ、1864年5月31日(元治元年4月26日) - 1935年(昭和10年)11月14日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 西条藩士高橋村三郎の長男として、伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)に生まれた。明治法律学校(現在の明治大学)で法学・政治学を学んだ。卒業後、伊予市之川鉱山会社取締役を経て、「進歩党党報」記者、「憲政党党報」記者、北陸タイムス社社長兼主筆を歴任した。 神田区会議員、東京市会議員、同参事会員を務めた後、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。墓所は多磨霊園(18-1-35)。
田中 藤次郎(たなか とうじろう、元治元年2月12日(186… 田中 藤次郎(たなか とうじろう、元治元年2月12日(1864年3月19日) - 明治43年(1910年)5月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 陸奥国津軽郡樽沢村(現在の青森市)出身。青森県師範学校を卒業し、小学校の訓導を務めた。その後、訓導を辞して上京し、1886年(明治19年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学。1888年(明治21年)に卒業し、代言人の資格を得て、青森に弁護士事務所を開いた。 1895年(明治28年)、青森県会議員に当選。さらに県参事会員や青森市会議員も歴任した。1901年(明治34年)には青森商業会議所特別会員に選出された。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
田部 香蔵(たなべ こうぞう、1864年3月17日(元治元年… 田部 香蔵(たなべ こうぞう、1864年3月17日(元治元年2月10日) - 1923年(大正12年)10月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 広島県出身。田部百合、ナヲの長男として生まれた。1882年、明治法律学校卒。広島県商工諮問会委員、町村組合会議員、所得税調査委員、比婆郡徴兵参事員、比婆郡会議員、同議長、比婆郡農会代表者、広島県農工銀行監査役、同頭取となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において広島県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙で落選した。1923年に死去した。
矢野 力治(やの りきじ、1864年3月9日(元治元年2月2… 矢野 力治(やの りきじ、1864年3月9日(元治元年2月2日)- 1936年(昭和11年)9月10日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 日向国臼杵郡坪谷村(宮崎県東臼杵郡東郷村、東郷町を経て現日向市)で生まれた。1890年(明治23年)明治法律学校法律科及び政治科卒。代言人から弁護士となり、山林業従事する。東臼杵郡会議員、宮崎県会議員、同産業調査委員、同協賛会評議員となる。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において宮崎県全県区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1929年(昭和4年)6月14日、業務上横領被告事件において大審院で上告が棄却され、長崎控訴院での懲役8月の判決が確定し、衆議院議員を1期目途中で退職した。
望月 長夫(もちづき おさお、文久4年1月10日(1864年… 望月 長夫(もちづき おさお、文久4年1月10日(1864年2月17日) - 1920年(大正9年)2月10日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 近江国甲賀郡水口村(現在の滋賀県甲賀市)出身。1878年(明治11年)に大津師範学校に入学したが、家の事情で中途退学を余儀なくされた。1887年(明治20年)、東京に出て明治法律学校(現在の明治大学)に入学した。1889年(明治22年)に卒業した後、1892年(明治25年)に弁護士の資格を得た。1894年(明治27年)、大津弁護士会副会長に選出され、翌年には会長に就任した。 また1894年には、滋賀県会議員に選出された。1898年(明治31年)、第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年… 利光 鶴松(としみつ つるまつ、1864年2月6日(文久3年12月29日) - 1945年(昭和20年)7月4日)は、日本の政治家、弁護士、実業家。衆議院議員(当選2回、東京府第五区選出)。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)創業者。星亨の側近。 豊後国(現大分県)生まれ。1879年、家督を相続。岡山に出て漢学塾に於いて陽明学を修め、上京し、明治法律学校に入学(1900年に推薦校友となる)。代言人試験に合格し、代言人(弁護士)となる。その後、東京市会議員、衆議院議員を務めたのち実業界に転身。小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)を創業した。 1864年2月6日(文久3年12月29日)、豊後国大分郡稙田村字粟野(現・大分県大分市大字稙田)にて利光市松、シン子夫妻のもとに生まれる。
宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863… 宮下 一清(みやした いっせい、文久3年10月4日〈1863年11月14日〉 - 1945年〈昭和20年〉2月18日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本の弁護士、政治家である。政界では長野県会議員・長野市会議員や衆議院議員(当選1回)を歴任し、他に実業界で長野新聞初代社長を務めた。 文久3年10月4日(新暦:1863年11月14日)、信濃国更級郡今里村(現在の長野県長野市)に生まれる。村の小学校を卒業したのち高井鴻山の高矣義塾で漢学を修める。1881年(明治14年)には長野県師範学校に入学するも年内に退学し、翌年より明治法律学校(明治大学の前身)法律学科に入学、1884年(明治17年)に卒業した。
国井 庫(くにい くら、文久3年7月16日(1863年8月2… 国井 庫(くにい くら、文久3年7月16日(1863年8月29日) - 大正8年(1919年)5月27日)は、衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 上山藩、出羽国村山郡上山町(現上山市)出身。1874年(明治7年)に上山町小学校を卒業し、1878年(明治11年)まで私塾で漢学を学んだ。1879年(明治12年)から1884年(明治17年)まで小学校の教員を務めた。1885年(明治18年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、卒業後に代言人の資格を得た。1894年(明治27年)より1902年(明治35年)まで山形新聞社の社長を務めた。 1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。
米田 実(米田 實、よねだ みのる、1863年8月28日(文… 米田 実(米田 實、よねだ みのる、1863年8月28日(文久3年7月15日) - 1926年(大正15年)9月16日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(奈良県奈良市選出、当選2回)。族籍は奈良県平民。 大和国奈良(現在の奈良県奈良市)出身。生家は代々農業を営む。米田新八の長男。米田奈良吉の兄。 漢学を修めた後、教職に従事していたが、奈良市内衛生委員・町役場委員などの公吏の職に就いた。1887年(明治20年)に明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、在学中に代言人試験に合格した。東京で弁護士事務所を開き、東京組合弁護士会評議員に選出された。後に公証人に転じた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
石川 甚作(いしかわ じんさく、文久3年5月20日(1863… 石川 甚作(いしかわ じんさく、文久3年5月20日(1863年7月5日) - 大正8年(1919年)1月28日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 下野国都賀郡、のちの栃木県下都賀郡赤津村(都賀村、都賀町を経て現在の栃木市)出身。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。弁護士となり、東京市会議員に選出された。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。 その他、日本点灯株式会社取締役、東京湾汽船株式会社監査役、日本電線株式会社監査役、明正印刷株式会社監査役、渡辺倉庫株式会社監査役、東京消毒洗濯株式会社監査役、二十七銀行監査役、旭日生命保険株式会社監査役、駿豆電気鉄道株式会社監査役などを務めた。
入江 武一郎(いりえ ぶいちろう、文久3年2月27日(186… 入江 武一郎(いりえ ぶいちろう、文久3年2月27日(1863年4月14日) - 昭和8年(1933年)7月20日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党)。弁護士。 備前国赤坂郡立川村(岡山県赤磐郡東高月村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)に右遠槌次郎(作家右遠俊郎の曽祖父)の二男として生まれ、入江米吉の養子となった。1888年(明治21年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、代言人免許を取得した。岡山法律学校を開き、また1897年(明治30年)には岡山弁護士会長に選ばれた。さらに岡山県会議員、同参事会員、同副議長に選出された。 1903年(明治36年)、第8回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
佐藤 琢治(さとう たくじ、文久3年1月13日(1863年3… 佐藤 琢治(さとう たくじ、文久3年1月13日(1863年3月2日) - 1902年(明治35年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。号・養花生、浩毅。 陸奥国登米郡登米(現在の宮城県登米市)で、仙台藩陪臣・佐藤弥右衛門の二男として生まれる。明治法律学校(現在の明治大学)で学ぶ。自由党に入党したため、保安条例で追放された。『新愛知』、『仙台自由新聞』、『民報』、『自由党党報』で記者を務めた。1892年(明治25年)、宮城県会議員に選出。 1898年(明治31年)、第6回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
久保田 与四郎(くぼた よしろう、文久3年1月11日(186… 久保田 与四郎(くぼた よしろう、文久3年1月11日(1863年2月28日) - 大正8年(1919年)4月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 文久3年(1863年)、信濃国小県郡長瀬村(現長野県上田市)で出生。旧姓は高柳。 16歳にして長野師範学校を出て小学校教員となる。明治14年(1881年)1月辞して、翌年慶應義塾に入るが、2年にして帰郷。後に再度上京して明治法律学校に入学。代言人(弁護士)免許を得て、明治19年(1886年)卒業。 明治20年(1887年)1月、東京にて弁護士を開業。後にロンドンに留学して、法学、政治学を学ぶ。 英船ノルマントン号事件の名誉回復訴訟における原告代理人などを務めた。
山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年… 山本 忠秀(やまもと ただひで、1863年1月6日(文久2年11月17日)– 1936年(昭和11年)10月9日)は、明治から昭和初期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。板垣伯銅像記念碑建設同志会理事。 土佐国香美郡岩村郷金地村(高知県香美郡金地村、岩村を経て現・南国市金地)で、豪農、譲受郷士の賢一郎の長男として生まれた。漢学を修め、明治法律学校(現明治大学)法律科で学んだが中退した。 帰郷して政治運動に身を投じ、自由民権運動を推進した。1890年(明治23年)1月、第1回衆議院議員総選挙に対応するため岩村倶楽部を結成し部長に就任。1893年(明治26年)3月、楠目玄の失格に伴う高知県会議員補欠選挙で当選し、同年8月の半数改選でも再選された。
加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1… 加藤 重三郎(かとう じゅうさぶろう、文久2年5月29日〈1862年6月26日〉 - 1933年〈昭和8年〉6月19日)は、明治後期から大正にかけての日本の弁護士・政治家である。 司法官を経て名古屋市で弁護士を開業したのち名古屋市会議員に選ばれ、市会議長や第6代名古屋市長(1906年-1911年)を歴任。その後衆議院議員にも当選した(当選1回)。 現在の名古屋市出身。文久2年5月29日(新暦:1862年6月26日)、高木鉄蔵の次男として生まれる。1880年(明治13年)に加藤成章の養子となり、1883年(明治16年)8月に加藤家を相続した。高木家・加藤家ともに尾張藩士の家である。明治維新後は一時巡査として働くが、上京して明治大学の前身である明治法律学校に学んだ。
武部 其文(たけべ きぶん、1862年3月27日(文久2年2… 武部 其文(たけべ きぶん、1862年3月27日(文久2年2月27日) - 1929年(昭和4年)4月12日)は、富山県出身の政治家、弁護士。 文久2年(1862年)2月に、旧加賀藩十村役で1883年(明治16年)に富山県会初代議長を務めた武部尚志(文政12年(1829年) - 明治44年(1911年))の二男として出生。その弟で富山県会議員であった武部堅の養子となった。 富山の岡田呉陽を経て、二松学舎(現・二松學舍大学)、明治法律学校(現・明治大学)に学び、1885年(明治18年)8月に金沢において代言免許を取得し、富山で代言活動を行った。 内務省による選挙干渉によって死者まで出したことで知られる1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙(富山第四区)では、北陸自由党から出馬し、立憲改進党の島田孝之を破って当選したが、その後1893年(明治26年)6月に当選無効訴訟が確定して失職。
則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2… 則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日〈文久2年2月21日〉 – 1931年〈昭和6年〉8月6日)は、日本の政治家、弁護士。勲等は勲三等。位階は従五位。 熊本市生まれ。明治法律学校(現・明治大学)中退。 長崎県で弁護士を開業し、1899年(明治32年)長崎市会議員となった。1901年(明治34年)3月11日から1908年(明治41年)1月14日までと、1909年(明治42年)1月21日から1910年(明治43年)4月8日までの2度に亘り、市会議長を務める。 また、国政にも進出し、1912年(明治45年)に衆議院議員となり、以後、立憲民政党などから計7回当選する。 1917年(大正6年)に長崎日日新聞社長に就任した。
織田 了(おだ りょう、1861年10月12日(文久元年9月… 織田 了(おだ りょう、1861年10月12日(文久元年9月9日) - 1939年(昭和14年)3月24日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。 尾張国中島郡日下部村(愛知県中島郡日下部村、大里村、稲沢町を経て現稲沢市)出身。織田文信の長男として生まれた。 1879年(明治12年)、中島郡役所雇となり、1885年(明治18年)に準判任官に昇進し、1888年(明治21年)には郡書記に任じられた。しかし翌年辞職して、明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、卒業後の1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補、検事、判事を歴任したが、1902年(明治35年)に農商務省に移り、林務官、林務課長、主計課長、特許局審査官、特許局事務官を歴任した。
水品 平右衛門(みずしな へいうえもん、文久元年9月3日〈1… 水品 平右衛門(みずしな へいうえもん、文久元年9月3日〈1861年10月6日〉 - 1918年〈大正7年〉8月11日)は、明治・大正時代における日本の実業家、政治家である。信濃毎日新聞記者から政界に入って長野市会議員や衆議院議員(当選2回)を歴任し、実業界では長野市所在企業の役員や日本建築用製紙社長を務めた。 水品平右衛門は、文久元年9月3日(新暦:1861年10月6日)、水品平内の長男として生まれた。水品家は善光寺門前町の岩石町(現・長野市岩石町)に居を構える旧家で、綿商を家業とする。「平右衛門」のは当主が代々襲名した名である。 水品は加藤天山の門で学んだのち長野県師範学校に入り、さらに東京の尺振八塾で英学、明治法律学校で法学を専攻した。
江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年… 江間 俊一(えま しゅんいち、文久元年5月10日(1861年6月17日) - 昭和8年(1933年)5月31日)は、日本の弁護士、政治家。 1861年6月(文久元年五月)、遠江国磐田郡の東海道見附宿(現静岡県磐田市)の豪家山本幸七の子として生まれる。後に江間忠五郎の娘つねの入婿となる。1889年(明治22年)明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、弁護士となり、東京弁護士会常議員、議長を歴任した。 1903年(明治36年)に明治大学雄弁会が発足した際に名誉会員となる。この雄弁会は一度活動休止状態となるが1908年(明治41年)に復活し、このとき会長に就任した。 政治家としては東京府会議員、東京市会議員・議長などを務め、1902年(明治35年)には第7回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬して当選し、その後も第10回衆議院議員総選挙(無所属)、第12回衆議院議員総選挙(立憲同志会)に当選した。
中澤 楠弥太(なかざわ くすやた、1861年2月27日(万延… 中澤 楠弥太(なかざわ くすやた、1861年2月27日(万延2年1月18日) - 1906年(明治39年)11月7日)は、高知県出身の政治家、実業家。 1861年(万延2年)、土佐国長岡郡大津村字田辺島(現高知県高知市大津)で、郷士・中澤愿一、以登の長男として生まれた。明治法律学校(現・明治大学)卒業。 自由民権運動に従事し、板垣退助らの知遇を得る。1891年、県会議員に当選。更に同参事会員などを務めた他、実業界に於いては、土佐紙業組合頭取などを務めた他、1902年には高知銀行(現・四国銀行)頭取に就任。1905年、衆議院議員に当選(高知県郡部選出、立憲政友会)。 その他、高知商工会議所会頭、土陽新聞(高知新聞)専務、土佐農工銀行頭取なども務めた他、国道高知ー徳島線の開通、平山発電所の建設、土佐電気鉄道の敷設、電話局の開局などに大きな貢献を果たし、若くして高知県政財界のリーダーとして重きをなしたが、1906年、上京中に急性化膿中耳炎のため46歳で急逝した。
小島 相陽(こじま そうよう、万延元年12月26日(1861… 小島 相陽(こじま そうよう、万延元年12月26日(1861年2月5日) - 昭和11年(1936年)4月21日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 信濃国水内郡安茂里村(現在の長野県長野市)出身。明治法律学校(現在の明治大学)に学ぶ。 明治12年7月埼玉県の代言人免許を受けて代言人となる。 明治26年、弁護士法制定にともない弁護士登録。 1893年(明治26年)4月28日、松本、上田、長野の三代言人組合が合同し、長野弁護士会設立後、初代近藤牧太のあとを受けて1896年(明治29年)長野弁護士会会長に就任し、1935年(昭和10年)まで39年間にわたり会長を務めた。また上水内郡会議員、長野県会議員に選出された。
松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(186… 松野 祐次郎(まつの ゆうじろう、万延元年12月5日(1861年1月15日) - 大正3年(1914年)11月22日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 美濃国不破郡青野村(現在の岐阜県大垣市)に栗田武兵衛の長男として生まれ、松野清之助の養子となった。1878年(明治11年)、岐阜県立師範学校を卒業。明治法律学校(現在の明治大学)に学び、弁護士試験に合格。弁護士の業務に従事する傍ら、岐阜県会議員、同副議長、同議長に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。
高杉 金作(たかすぎ きんさく、1860年(萬延元年)10月… 高杉 金作(たかすぎ きんさく、1860年(萬延元年)10月 - 1931年(昭和6年)4月22日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国津軽郡高杉村(青森県中津軽郡高杉村を経て現弘前市)出身。明治法律学校(明治大学)卒業。青森県会議員、弘前商工会議所会頭などを務め、1915年には第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬し、当選した。第五十九国立銀行(現青森銀行)の第5代頭取や、青森貯蓄銀行(現みちのく銀行)取締役なども務めた。勲四等。
山谷 虎三(やまや とらぞう、万延元年7月14日(1860年… 山谷 虎三(やまや とらぞう、万延元年7月14日(1860年9月1日) - 昭和2年(1927年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。弁護士。 美作国真島郡勝山(現在の真庭市)出身。1882年(明治15年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。代言人、弁護士として活動した。勝山町会議員、中国鉄道株式会社支配人、阿哲銀行頭取などを務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1916年(大正5年)の補欠選挙でも再選を果たした。
阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政… 阿部 政太郎(あべ まさたろう、1859年12月24日(安政6年12月1日) - 1934年(昭和9年)10月4日)は、青森市長、衆議院議員(立憲政友会)。号は波城。 陸奥国南津軽郡浪岡村(現在の青森県青森市)出身。1878年(明治11年)、青森県師範学校予科を卒業し、小学校教員となった。ついで青森県医学校監事補、青森県御用掛を務めた。その後、官を辞して上京し、明治法律学校(現在の明治大学)で学んだ。 帰郷後、南津軽郡会議員に選出され、さらに青森県会議員に選出された。1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。その後、1917年(大正6年)と1925年(大正14年)の2度青森市長に選出された。
寺田 栄(てらだ さかえ、1859年12月12日(安政6年1… 寺田 栄(てらだ さかえ、1859年12月12日(安政6年11月19日) - 1926年(大正15年)1月13日)は、日本の官僚・裁判官・政治家。玄洋社幹部。族籍は東京府平民。貴族院議員。長女の鳩山薫(鳩山薫子)は鳩山一郎(総理大臣)の妻で共立女子学園長。鳩山威一郎の祖父、鳩山由紀夫(総理大臣)、鳩山邦夫の曽祖父。鳩山紀一郎、鳩山太郎、鳩山二郎の高祖父。 1859年(安政6年)、福岡県人・寺田案山子の長男として生まれる。1877年(明治10年)に福岡で発生した士族反乱、反政府暴動である「福岡の変」に参加し、国事犯に問われたため一族と別れ、分家して一家を創立した。 1882年(明治15年)、明治法律学校を卒業。
高橋 安爾(たかはし あんじ、1859年〈安政6年〉10月 … 高橋 安爾(たかはし あんじ、1859年〈安政6年〉10月 - 1923年〈大正12年〉7月3日)は、日本の政治家、弁護士。 宮城県桃生郡出身。明治法律学校(明治大学)卒業。代言人試験に合格し、法律事務に従事。以後、埼玉県議会議員などを経て、埼玉県より立憲政友会所属で国政に出馬。第4回衆議院議員総選挙で当選し、第9回衆議院議員総選挙でも再選を果たす。衆議院懲罰委員長などを務めた。 勲四等を追贈されている。
井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1859年7月12日〔安… 井上 篤太郎(いのうえ とくたろう、1859年7月12日〔安政6年6月13日〕 - 1948年〔昭和23年〕11月28日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。現在の京王電鉄の前身・京王電気軌道の事実上の創業者である。 明治法律学校(現在の明治大学の前身)を経て、愛甲郡役所の書記を務めた後、村会議員、神奈川県会議員を務めた。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙(神奈川郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員を1期務めた。 その後、富士瓦斯紡績(現・富士紡ホールディングス)に入社し、社長の和田豊治の知遇を得る。その縁で、玉川電気鉄道(現・東急電鉄世田谷線など)や王子電気軌道(現・都電荒川線)の取締役に招聘され、それぞれの経営の安定化に貢献。
荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈185… 荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈1858年9月19日〉 - 1920年〈大正9年〉7月22日)は、明治から大正前期の公証人、政治家。衆議院議員。足尾鉱毒問題における田中正造の同労者。 上野国邑楽郡石打村(群馬県邑楽郡石打村、高島村大字石打、中島村、邑楽村を経て現邑楽町石打)で、名主・荒井源十郎、みね の長男として生れた。英僊三から読書、習字を学び、1874年(明治7年)に上京して飯田章湖の塾に入門して漢学を修めた。 帰郷して、1880年(明治13年)蜂巣長五郎を招聘し幽谷義塾を開き、主として英学、漢学、数学を郷土の子弟に教えた。1881年(明治14年)再度上京して明治法律学校(現明治大学)で法律学、経済学を学んだ。
丸山 名政(まるやま なまさ、1857年11月11日(安政4… 丸山 名政(まるやま なまさ、1857年11月11日(安政4年9月25日) - 1922年(大正11年)11月21日)は、日本の政治家(衆議院議員)、実業家。族籍は東京府士族。 信州須坂藩士・丸山本政の長男。1874年(明治7年)に上京。講法学舎を経て、明治法律学校(現・明治大学)に入学。内務省地理局勤務を経て、自由民権運動に入り、嚶鳴社員として立憲改進党結成に参画。東京横浜毎日新聞記者、下野新聞主筆などを務めた後、1885年(明治18年)に代言人となる。 国会開設後は、第2回、第8回衆議院議員総選挙に当選。その他、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員も務め、1899年(明治32年)に明治法律学校校友となる。
立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政… 立川 雲平(たつかわ うんぺい、1857年10月14日〈安政4年8月27日〉 - 1936年〈昭和11年〉1月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)。『破戒』(島崎藤村)に登場する市村代議士のモデルといわれる。 1857年(安政4年)、淡路国三原郡立川瀬村(後賀集村、現兵庫県南あわじ市賀集立川瀬)で、立川伝平の長男として生まれる。伝平は百姓出身だが足軽の株を買って洲本に移った。雲平は洲本の藩校を経て、1871年、徳島師範学校入学。1876年、京都へ遊学。岸田俊子、小室信介など民権派の人々と交遊関係を深める。1881年、明治法律学校入学。1882年、代言人試験合格。翌年、郷里で弁護士事務所を開業。
斎藤 孝治(さいとう こうじ、1856年3月10日(安政3年… 斎藤 孝治(さいとう こうじ、1856年3月10日(安政3年2月4日) - 1917年(大正6年)8月22日)は、日本の弁護士、公証人、東京府会議員。 古河藩士・斎藤三平の子として江戸駒込の藩邸で生まれた。1872年に上京して儒者亀田鶯谷の塾で学んだ。1875年警視庁巡査となり、西南戦争に従軍。戦後、北畠道龍・矢代操らの講法学舎に入ったが、1881年、明治法律学校(明治大学の前身)の開校にあたって幹事として庶務にあたり、また一学生として法学を修め、同校最初の卒業生の一人となった。 1882年に代言人試験に合格し、秩父事件や野口男三郎事件などで弁護活動に従事。日本弁護士協会の創設に参画し、1898年には副会長となった。
小磯 忠之輔(こいそ ちゅうのすけ、1856年(安政3年10… 小磯 忠之輔(こいそ ちゅうのすけ、1856年(安政3年10月) - 1904年(明治37年)12月31日)は、日本の衆議院議員(弥生倶楽部)。弁護士。 新庄藩出身。1878年(明治11年)、栃木県師範学校を卒業し、小学校訓導を務めた。1884年(明治17年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、代言人の業務に従事した。その他、両羽銀行顧問や三浦銀行顧問を務めた。 1893年(明治26年)12月22日、衆議院議員補欠選挙で当選。直後の12月30日、第5回帝国議会において衆議院が解散されたため、小磯の在任期間は9日間となった。衆議院事務局広報課によれば衆議院議員で最も短い在任期間である。
美濃部 貞亮(みのべ ていりょう、1853年(嘉永6年5月)… 美濃部 貞亮(みのべ ていりょう、1853年(嘉永6年5月) - 1904年(明治37年)8月19日)は、日本の弁護士、政治家。 尾張国出身。山田松斎の門下にて学んだ後、明治法律学校(現明治大学)で磯部四郎から学び、1882年に仁杉英(のちの衆議院議員)らと共に、「治罪法詳解」を著した。名古屋にて弁護士を開業した後、1888年愛知県会議員となり、愛知県会副議長に就任。1890年の第1回衆議院議員総選挙で愛知県第11区から出馬し、当選した。 曾孫がイオングループ創業者の岡田卓也。玄孫にはイオングループ経営者の岡田元也と政治家の岡田克也(外務大臣、元民主党党首)などがいる。
榊 喜洋芽(さかき きよめ、1852年8月26日(嘉永5年7… 榊 喜洋芽(さかき きよめ、1852年8月26日(嘉永5年7月12日) - 1912年(明治45年)6月21日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(3期)。 陸奥黒石藩領津軽郡黒石村(青森県南津軽郡中郷村、黒石町を経て現黒石市)出身。黒石藩士榊波衛の長男。のち弘前市下白銀町に移り住む。 1872年(明治5年)東奥義塾の設立に関与し教師を経て寮監となったが父の勧めで上京し明治法律学校に入学し法律を学んだ。卒業後、代言人となり青森と弘前に事務所を開いた。一方で政治活動にも奔走し、1882年(明治15年)から青森県会議員を3期、1889年(明治22年)から弘前市会議員を務め、県議、市議ともに議長を務めた。