野坂 康二(、明治10年(1877年)4月 - 没年不明)は… 野坂 康二(、明治10年(1877年)4月 - 没年不明)は日本の実業家。ゼオライト工業(株)社長。米子製鋼所、日本信号各取締役。鉄道省嘱託。大阪鉄道学校理事長。 元衆議院議員野坂茂三郎の弟。元鳥取県米子市長野坂寛治の叔父。 鳥取県米子市法勝寺町出身。商家の生まれである。屋号は油屋。野坂與八郎の六男。 明治35年(1902年)東京帝国大学工科機械科を卒業。大正14年(1925年)、甥寛治方より分家す。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9… 木間瀬 策三(きませ さくぞう、1876年〈明治9年〉9月9日 - 1956年〈昭和31年〉12月10日)は、明治末から昭和期の内務官僚、実業家。官選富山県知事。 千葉県出身。従五位勲五等の官吏木間瀬柔三の五男として生まれる。富山中学校で中学1年に在学。第一高等学校を卒業。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し宗教局属となる。 以後、三重県事務官、愛知県事務官、千葉県事務官・第二部長、茨城県事務官・第四部長、同県事務官・警察部長、同県事務官・内務部長、新潟県内務部長、大阪府内務部長などを歴任。 1915年(大正4年)8月12日、富山県知事に就任。
尾形 次郎(おがた じろう、1874年9月15日 - 195… 尾形 次郎(おがた じろう、1874年9月15日 - 1953年9月29日)は、日本の電気技術者、実業家。 福岡藩士尾形喜六の次男として福岡県に生まれる。1892年福岡県立尋常中学修猷館、1895年第五高等学校工科を経て、1898年東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。 1898年三井鉱山に入社、炭鉱坑内の動力を当時主流であった蒸気力から電力に切り替えるための調査と設計を行い、1901年に成し遂げる。その後も電力を応用した多くの設備開発や業務上の改善を推し進め、日本の採炭事業の電化に貢献した。 1909年欧米における電気事業の視察のため派遣され、特に炭鉱に関する電気事業を精査し、1910年帰国しその得た知識をもって数多くの事業の刷新を行った。
高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5… 高橋 武太郎(たかはし たけたろう、1874年〈明治7年〉5月1日 - 1951年〈昭和26年〉4月18日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。長野県の電力会社信濃電気で常務取締役を務めたのち独立し研削材メーカーの信濃電気製錬(旧・大正電気製錬所)を起業した。岡山県出身。 岡山県民・山形和吉の六男として1874年(明治7年)5月1日に生まれる。出身地は岡山県苫田郡津山町(現・津山市)。1878年(明治11年)2月高橋家に養子入りし家を継いだ。山口県立山口中学校を経て山口高等学校に入り、1896年(明治29年)7月に卒業。次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。
南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)… 南沢 宇忠治(みなみざわ うちゅうじ、明治7年(1874年)3月21日 - 昭和7年(1932年)4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 長野県更級郡石川村(現長野市)に旧松代藩士・南沢忠正の長男として生まれる。旧制長野県尋常中学、旧制第一高等中学を経て、明治34年(1901年)東京帝国大学工科大学電気工学科卒業。大倉組に入社したが、同38年(1905年)に日光電力に技師長として招聘され、その後は独立し 東京に八重洲商会を創立し、電気器具の販売の他、東京市電気局や東京電燈等各社の電気工事の請負を手掛けた。また藤田組と協力し、北安曇郡大町に明治水力電気を創立して重役となった。 大正6年(1917年)第13回衆議院議員総選挙に当選し、千曲川の堤防構築による治水問題に取り組んだ。
松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明… 松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日) - 1939年(昭和14年)6月14日)は、明治から昭和初期にかけて活動した官僚、実業家。台湾電力社長。族籍は愛媛県平民。動物学者の青木淳一は孫。 愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現在の愛媛県西条市河原津)出身。松木操平の長男。松木家は予州の豪族河野通有の後裔である。旧制愛媛一中、旧制三高を経て1896年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。法学士の称号を得る。 逓信省書記官、広島郵便局長、帝国鉄道庁参事、鉄道院理事、東京市参与同電気局長を歴任。1918年、山下合名会社総理事となり、山下汽船、福島炭鉱各会社代表取締役、山下鉱業、浦賀船渠会社取締役に挙げられた。
大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治… 大平 駒槌(おおだいら こまつち、1870年1月25日(明治2年12月24日)- 1957年(昭和32年)4月11日)は、日本の農商務官僚、実業家、政治家。貴族院勅選議員、枢密顧問官。 広島県で大平儀右衛門の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1896年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1897年3月、農商務省に入省し、鉱山監督官輔に任じられ福岡鉱山監督署に在勤。 以後、農商務属・鉱山局勤務、札幌鉱山監督署鉱政課長、東京鉱山監督署鉱政課長、大阪鉱山監督署長を歴任し、1906年3月に退官した。 その後、大阪藤田組に入り、鉱山部庶務課長、兼小坂鉄道 (株) 専務取締役、藤田組証券課長、兼大阪合同紡績 (株) 監査役を務め、1908年12月に退社した。
廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應… 廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應元年11月6日) - 1935年(昭和10年)9月2日)は、日本の工学者、実業家、教育者。 広島県福山市出身。廣田家は代々備後福山藩の勘定役を勤めた家系であった。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て東京帝国大学機械科卒業。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった。帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ、金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる。
斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5… 斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5月15日) - 1938年(昭和13年)12月9日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員。 1855年(安政2年)に下総国相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)の齋藤家の長男として生まれる。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)[要出典]、弟に文学博士である斉藤隆三がいる[要出典]。 1859年(安政6年)頃より守谷町愛宕の私塾で木村正之に学び、1866年(慶応2年)より親戚の中山家に移り、後に東京帝国大学教授になる漢詩人の信夫恕軒や木戸栄伯、盛岡栄三郎に学んだ[要出典]。
岩波 守文(いわなみ もりふみ)は、日本の実業家、銀行家。滋… 岩波 守文(いわなみ もりふみ)は、日本の実業家、銀行家。滋賀銀行頭取を務めた。 長野県諏訪郡中洲村(現・諏訪市)出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、東京帝国大学法学部卒業。日本銀行入行。1942年同行秋田支店長、1945年同行神戸支店長、同行調査役を経て、滋賀銀行頭取。1954年大津ロータリークラブ会長。
曾布川 征夫(そふかわ ゆきお)は、日本の実業家。大日本帝国… 曾布川 征夫(そふかわ ゆきお)は、日本の実業家。大日本帝国陸軍の司政官も務めた。 熊本県立玉名中学校(1913年卒業)、第五高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業した。東京帝大時代には剣道部に所属した。 日本郵船に入社して1927年から上海支店に勤務した。その後ニューヨーク支店長代理、シンガポール支店長、門司支店長、監査役を歴任する。監査役を退任後に、日本郵船興行の社長となった。また、太平洋戦争中には陸軍司政官も務めた。