木村 格之輔(きむら かくのすけ、嘉永4年9月23日(185… 木村 格之輔(きむら かくのすけ、嘉永4年9月23日(1851年10月17日) - 大正5年(1916年)7月18日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政党→憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 常陸国河内郡手代木村(現在の茨城県つくば市)に中島幸右衛門の二男として生まれ、木村久治の養子となった。漢学・法律学を学び、1881年(明治14年)、代言人試験に合格し、新治郡土浦町(現在の土浦市)に事務所を開いた。また破産管財人も務めた。 1892年(明治25年)からは県議を務め、1894年(明治27年)、新治郡から第4回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第10回衆議院議員総選挙まで7期連続当選を果たした。
椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4… 椎名 秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日(嘉永4年9月19日) - 1912年(明治44年)4月4日)は、日本の文筆家・漢文学者・実業家。筆名・雅号は南浦。海運業などで活躍した明治の実業家の一人。『南浦遺集』という書名はこの雅号に由来する。 子孫には、実業家で元日本鉱業株式会社の役員・椎名芳胤、音楽家・文筆家の菊村紀彦、元奥州大学(現・富士大学)教授で近代日本の図書館学等に貢献した椎名六郎らがいる。日本鉱業は新日鉱ホールディングスへと受け継がれ、日立製作所や日産自動車を生んだ第二次世界大戦前の新興財閥、日産コンツェルンの源流となった企業の一つであった。 讃岐高松(現在の香川県高松市)にある石清尾八幡宮の宮司・岡田秀高の次男として生まれる。
鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4… 鹿野 勇之進(かの ゆうのしん、1851年10月8日(嘉永4年9月14日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍中将正四位勲二等功三級男爵。貴族院議員。 信濃国松代藩士鹿野外守泰敬の子。明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。1885年(明治18年)9月、「筑波」分隊長となり、海軍兵学校教授兼生徒分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大学校副官、海軍参謀部第1課員などを経て、1890年(明治23年)10月、海軍少佐に昇進。 1891年(明治24年)4月、「松島」回航事務取扱委員、同副長、練習船「干珠」艦長、横須賀水雷隊攻撃部司令などを歴任し、日清戦争では「西京丸」艦長として出征した。
小泉 吉太郎(こいずみ きちたろう、1851年10月1日〈嘉… 小泉 吉太郎(こいずみ きちたろう、1851年10月1日〈嘉永4年9月7日〉 - 1895年〈明治28年〉6月22日)は、日本の政治家。初代秋田市長。 久保田藩士小泉七郎右衛門の長男に生まれる。戊辰戦争に参加し、由利方面の戦闘で負傷する。1872年(明治5年)、上京し有馬私学校で学ぶ。1874年(明治7年)夏に一度秋田に戻るが、秋に再び上京し、北州舎で学ぶ。1876年(明治9年)、父の死により秋田に戻り、秋田県庁に務める。1884年(明治17年)、士族授産団体秋田社を創立し、社長となる。1889年(明治22年)4月、市制施行により秋田市が発足、市会議員選挙を経て、5月13日に市長に選出され、27日に正式に就任した。
東尾 平太郎(ひがしお へいたろう、1851年10月1日(嘉… 東尾 平太郎(ひがしお へいたろう、1851年10月1日(嘉永4年9月7日)- 1919年(大正8年)10月8日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(7期)。 和泉伯太藩領志紀郡林村(大阪府志紀郡沢田村、南河内郡道明寺村、道明寺町、藤井寺道明寺町、美陵町を経て現藤井寺市)の豪農の家に生まれる。漢学を修める。1881年(明治14年)3月、大阪府会議員に当選。同常置委員、同郡部会委員を歴任する。ほか、大阪府農学校(のちの大阪獣医畜産専門学校、浪速大学を経て現大阪府立大学)長、大阪府農会会頭、パリ大博覧会評議員、高野鉄道社長などを務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では大阪府第7区から出馬し当選。
貫 元介(ぬき もとすけ、1851年9月29日 - 1890… 貫 元介(ぬき もとすけ、1851年9月29日 - 1890年3月31日)は、日本の教育者、幕末期の長州藩士。立教学校(現・立教大学)初代幹事、立教大学校教頭。立教学校1期生。旧姓、稲田、旧名、勇次郎。 1851年、周防山口藩士の家に生まれる。 明治4年、英学修行のため東京に出て、英国人グレゴリの下で学び、2年間で読法、英会話、地理書、万国史を研究する。 1874年に米国聖公会によって築地に設立された立教学校(現・立教大学)で1期生として学ぶ。第1回卒業生。チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)の下で、算術、英国史、地形学、物理学、心理学、修身学、経済学、文明史を研究する。1期生の同期には、岡本鏸太郎、岩谷松平のほか、和田秀豊、岩下清周がいた。
飯盛 挺造 (いいもり ていぞう、ドクトル・フィロソフィー、… 飯盛 挺造 (いいもり ていぞう、ドクトル・フィロソフィー、1851年9月19日(嘉永4年8月24日) - 1916年(大正5年)3月6日) は明治時代初期の日本の物理学者。1884年(明治17年)33歳のときドイツのフライブルク大学に留学し、エミール・ワールブルク教授の指導のもとで反射光を利用する真空式微量天秤を考案し、ガラスその他の物質に吸着される水分の量を測定する研究をおこなった。その研究論文によりドクトル・フィロソフィーの称号を与えられた。また、その功績により「微量天秤の先駆者」と呼ばれている。帰朝後は物理学の教育に尽力をした。日本の放射化学の先達・飯盛里安の養父であり岳父でもある。日東十客の一人である。
松浦 斌(まつうら さかる、嘉永4年8月22日(1851年9… 松浦 斌(まつうら さかる、嘉永4年8月22日(1851年9月17日) - 明治23年(1890年)1月17日)は、隠岐知夫郡西ノ島 (現隠岐郡西ノ島町) 出身の神職で焼火神社の神主。しばしば「隠岐航路開拓の先駆者」とされた。 斌は嘉永4年8月22日(1851年9月17日)、隠岐国知夫郡西ノ島の焼火神社の家に生まれた。16歳の時にで焼火権現の別当を継ぎ、1868年(明治元年)の神仏分離令によって還俗して神職となった。 また斌は山上に塾を開いて教育にも携わっており、1872年(明治5年)に学制が発布されると私宅の提供を申し出たり、美田村の各小学校に金10円の寄付を申し出るなどしている。1872年(明治5年)までは波止支校で教壇にも立っていた。
小田 知周(おだ ともちか、1851年9月6日(嘉永4年8月… 小田 知周(おだ ともちか、1851年9月6日(嘉永4年8月11日)- 1919年(大正8年)7月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・十河。 讃岐国香川郡宮脇村(香川県香川郡宮脇村を経て現高松市)で十河憲武の子として生まれ、9歳で伯父・小田辰右衛門の養嗣子となる。高松藩校弘道館で学ぶ。 高松市会議員、同参事会員、愛媛県会議員、香川県会議員、高松商業会議所会頭、高松市長を歴任する。また、高松商業銀行取締役、高松電気軌道、香川新報各(株)社長となる。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙において高松市選挙区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年(大正4年)第12回総選挙には立候補しなかった。
加藤 友太郎(かとう ともたろう、嘉永4年(1851年)9月… 加藤 友太郎(かとう ともたろう、嘉永4年(1851年)9月 - 大正5年(1916年)2月27日)は、明治期の陶芸家。愛知県瀬戸市生まれ。号は陶寿。 瀬戸の陶工加藤与八の次男として生まれる。1874年(明治7年)上京し、東京の陶工の川本富太郎の紹介で、2代目井上良斎の工場に入る。お雇い外国人のゴットフリード・ワグネル博士の元で窯業技術(石膏型)を学び、同博士を師事した。1877年(明治10年)、江戸川製陶所に勤務し、1882年(明治15年)には独立して牛込区新小川町に友玉園を開き、師の教えを踏襲したワグネル式窯を設けた。加藤の作品は美術的と化学的を兼ね、1899年(明治32年)には陶寿紅と呼ばれる下絵付けの赤色の釉薬を開発した。
小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1851年8月8日(… 小林 庄一郎(こばやし しょういちろう、1851年8月8日(嘉永4年7月12日) - 1929年(昭和4年)8月27日)は、日本の実業家、政治家、衆議院議員(1期)。 下野国都賀郡日光(栃木県下都賀郡日光町を経て現日光市)出身。漢学を学ぶ。主に外国人を相手とする美術貿易商を営み、日光町会議員、栃木県会議員となる。豊富な財力と人脈を有していた。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において栃木県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。 1905年頃から訪日外国人旅行者を対象とする「大名ホテル」の建設を進め、1919年頃に建物が完成したが、ホテルの開業には至らなかった。
伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月2… 伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤、1851年7月27日(嘉永4年6月29日) - 1917年(大正6年)5月3日)は、日本の教育者、文部官僚。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者である。号は楽石。 信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。幼名は八弥。父は20俵2人扶持の低禄の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった(事実上1年4人で分け与えなけければならないこととなっている)。 1861年(文久1年)から藩校進徳館で学び、1867年(慶応3年)に江戸へ出府。ジョン万次郎に英語を学ぶ。万次郎が欧米に出張すると、1869年(明治2年)に築地に転居したアメリカ合衆国長老教会の宣教師カラゾルスから英語を学ぶ。
平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう、嘉永4年6月23日(18… 平岡 浩太郎(ひらおか こうたろう、嘉永4年6月23日(1851年7月21日) - 明治39年(1906年)10月24日) は、日本の政治団体玄洋社初代社長、自由民権運動家。
加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4… 加藤 正英(かとう しょうえい、1851年7月17日(嘉永4年6月19日) - 1915年(大正4年)4月15日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 工藤重助の二男として鶴岡に生まれ、幼くして田川郡松尾村(山形県東田川郡広瀬村、羽黒町を経て現鶴岡市羽黒町松尾)の加藤三七の養子となる。後田村の岡部宥盈につき和漢学を、父に算学や珠算を学ぶ。諸国を遊学したのち、1879年(明治12年)後田村外8箇村戸長を経て、1889年(明治22年)山形県会議員に当選する。県議会では議長を歴任した。この間、村会議員、東田川郡会議員を歴任した。1893年(明治26年)から1897年(明治30年)まで広瀬村長を務め、私立庄内中学校商議員会会頭を務め、乾田馬耕の普及に尽くした。
内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4… 内山 正治(うちやま しょうじ、1851年6月30日(嘉永4年6月2日)- 1911年(明治44年)1月8日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 越中国婦負郡石坂村(富山県婦負郡石坂村、桜谷村を経て現富山市)で、十村役を務めた内山吉治の息子として生まれた。1864年(元治元年)富山藩の高島流兵式練修を命じられ、さらに仏式兵法を修めた。農業を営む。 1876年(明治9年)石川県越中第11大区戸長に就任。石坂村外11カ村戸長、田刈屋外23カ村戸長を歴任。その他、学務委員、村会議員、町村組合会議員、所得税調査委員、用水組合会議員なども務めた。 1888年(明治21年)富山県会議員に選出され、1892年(明治25年)まで在任。
杉田 定一(すぎた ていいち、1851年6月30日〈嘉永4年… 杉田 定一(すぎた ていいち、1851年6月30日〈嘉永4年6月2日〉- 1929年〈昭和4年〉3月23日)は、日本の政治家。衆議院議長などを務めた。号は鶉山(じゅんざん)。越前国坂井郡波寄村(現在の福井県福井市波寄町)出身。 豪農の杉田仙十郎(1820-1893)・隆(りう、-1855)夫妻の長男として生まれる。1868年(明治元年)ごろ大阪に出て外国語や理化学を学び、その後東京の三崎嘯輔の塾でドイツ語・理化学を学んだ。1873年(明治6年)にいったん波寄村にもどり、再び各地を放浪したのち、1875年(明治8年)、東京で『采風新聞』を創刊するが、筆禍事件により収監を経験した(1876年3月禁獄6か月)。
松永 正敏(まつなが まさとし、嘉永4年6月1日(1851年… 松永 正敏(まつなが まさとし、嘉永4年6月1日(1851年6月29日) - 明治45年(1912年)2月18日)は、日本の陸軍軍人。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。幼名・山平。 熊本藩士、郡吏・松永和吉の二男として山鹿郡中富村に生まれる。明治4年(1871年)、伏見青年学舎を経て伏見教導隊に入る。二等伍長、二等軍曹、権曹長、曹長と昇進し、明治6年(1873年)5月、陸軍少尉に任官し歩兵第19大隊付となる。明治7年(1874年)5月から10月まで台湾出兵に従軍。歩兵第14連隊付、近衛歩兵第2連隊付などを経て、陸軍戸山学校で学んだ。明治10年(1877年)3月から10月まで西南戦争に出征した。 近衛局参謀、東部監軍部参謀、歩兵第4連隊大隊長、広島鎮台参謀、監軍部参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長、対馬警備隊司令官、広島大本営付等を歴任し、日清戦争には歩兵第2連隊長として出征し、田庄台や営口での戦闘に参加した。
磯部 四郎(いそべ しろう、1851年6月25日(嘉永4年5… 磯部 四郎(いそべ しろう、1851年6月25日(嘉永4年5月26日) - 1923年(大正12年)9月1日)は、日本の法学者。大審院検事・判事。弁護士。法典調査会委員。衆議院議員。貴族院勅選議員。 娘婿は政治家の磯部尚、孫は歌舞伎役者の二代目坂東市太郎。 花札賭博が大好きで、大審院検事のとき、大審院長や同僚を誘い、柳橋で芸者をあげて遊興三昧のあげく、辞職に追い込まれた。それでも花札は終生止められず、明治天皇にまで教え、いたく興味をもたれたという。 1892年(明治25年)の弄花事件は、前年の大津事件の報復とも、大審院内部の判事対検事の抗争とも言われるが、磯部の免官は、この事件で訴追側の検察内部に疑惑の中心人物がいては不都合だったためとも考えられる。
羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22… 羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22日 - 大正10年(1921年)12月5日)は、幕末期の武士(庄内藩士)、郷土史研究家。慶應義塾大学図書館に勤務して考古学、民俗学、人類学を研究・編纂し「奥羽人類学会」を創設した。号は千瓢庵猿面、別名は久明または良策。 飽海郡(現・酒田市松山地区)に、庄内藩の医師・羽柴服笥(養倫)の子として生まれる。阿部灌策や海保弁之助に漢学を学び、慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争に二番大隊軍監兼参謀として出征。敗戦後、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文『東北人謬見考評論』を発表する。松山藩の家老であった松森胤保とも親交があった。旧松山藩校・里仁館の教師などを経て、成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤める。
加藤 正恵(正惠、かとう まさえ、1851年6月21日(嘉永… 加藤 正恵(正惠、かとう まさえ、1851年6月21日(嘉永4年5月22日)- 1931年(昭和6年)2月25日)は、明治から昭和初期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。 伊予国新居郡黒島村(愛媛県新居郡多喜浜村を経て現新居浜市)で、地主・加藤清吉の長男として生まれる。 1882年(明治15年)以降、多喜浜村黒島村戸長、多喜浜村郵便局長、多喜浜村会議員などを務めた。 1904年(明治37年)、貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。なお加藤の議員選出に際して、前2回の選挙において互選者の多い新居郡から選ばれていたため、他郡の互選者から不満の声が上がり、小西荘三郎らから要求されて額面4千6百円余の公債証書を互選者団体の愛媛親睦会に寄付することによって当選した。
遠山 品右衛門(とおやま しなえもん、1851年6月17日(… 遠山 品右衛門(とおやま しなえもん、1851年6月17日(嘉永4年5月18日) - 1920年(大正9年)8月28日)は、黒部で猟師をしていた人物。山人(やまうど)。明治期日本アルプスの登山者の案内をしたことで有名。 信濃国安曇郡野口村(現・長野県大町市)生まれ。戸籍上の名前(本名)は遠山里吉。父の名は新三郎、母はりせ。1869年(明治2年)10月、北安曇郡常盤村(現・長野県大町市常盤)の荒井弥吾吉の次女・きさと結婚。 明治維新で加賀藩による奥山廻りが終わり御締山の禁が解かれた頃、20歳頃から山に入り、黒部川畔、黒部川本流と針ノ木谷の合流点に小屋(平の小屋)を建て、ときおり里に下りる猟生活に入る。
内藤 ユキ(ないとう ゆき、嘉永4年5月15日(1851年6… 内藤 ユキ(ないとう ゆき、嘉永4年5月15日(1851年6月14日) - 昭和19年(1944年)11月9日)は、幕末から昭和初期にかけての女性。旧姓は日向(ひなた)。会津藩士・日向左衛門の次女で、旧薩摩藩士・内藤兼備(かねとも)の妻。 会津藩の上士で御旗奉行(後に町奉行)を務めていた父・日向左衛門、母・ちかの次女として会津若松城下に生まれた。 ちかは会津藩士・飯沼粂之進の娘。ちかの姉(ユキの伯母にあたる人物)は藩家老・西郷頼母の妻・千恵子。 元白虎隊士・飯沼貞吉はユキの母方の陸軍軍人・柴五郎は父方のいとこに当たる。 3歳で生母を失い、後に有賀豊之助の妹・秀が左衛門の後妻となる。日向家の近所には、藩砲術師範であった山本権八や、藩大目付であった高木小十郎の家があったことから、彼らの娘である山本八重・高木時尾とは幼馴染であった。
天野 若円(あまの じゃくえん、嘉永4年5月10日(1851… 天野 若円(あまの じゃくえん、嘉永4年5月10日(1851年6月9日) - 明治42年(1909年)12月4日)は、明治前期の浄土真宗本願寺派の僧侶・政治家。諡号は即生院。 父の天野若空(文政2年3月13日(1819年4月7日)-明治31年(1898年)3月9日)は浄土真宗の学僧として名高く、美濃国厚見郡岩戸村(北長森村を経て現在の岐阜県岐阜市)にあった善龍寺の住職を務め、没後の明治34年(1901年)には勧学の地位を贈られている。 若円は若空の長男として生まれ、明治13年(1880年)浄土真宗本派大教校普通全科卒業後善龍寺を継ぎ、更に高田教務所管事や本山(西本願寺)の教学課長などを歴任した。
岩男 三郎(いわお さぶろう、1851年6月8日(嘉永4年5… 岩男 三郎(いわお さぶろう、1851年6月8日(嘉永4年5月9日) - 1909年(明治42年)7月15日)は、幕末期の肥後熊本藩士、維新後は官吏、各県知事などを歴任した。 熊本城下坪井で、熊本藩士・岩男伝之允の三男として生まれる。藩校時習館で学ぶ。横井小楠の高弟で、幕末期には野々口為志、鵜殿豊之進、横井左平太、横井忠平らと交わり、勝海舟の神戸海軍操練所で航海術を学び、長崎に遊学、熊本藩の洋学所管術となる。 維新後は福澤諭吉に師事して慶應義塾に入学、卒業後の明治3年(1870年)、民部省監督権正となり東北に派遣される。山形県大参事となったが罷免される。明治5年(1872年)、熊本藩主細川護久の弟・長岡護美の従者としてアメリカに留学。
金子 静枝(かねこ しずえ、男性、1851年5月31日(嘉永… 金子 静枝(かねこ しずえ、男性、1851年5月31日(嘉永4年5月1日) - 1909年(明治42年)2月18日)は、明治時代の新聞・雑誌記者で、主に日出新聞(現:京都新聞)の新聞記者、小説家として活躍した。また、美術品鑑定家でもあった。明治20年代からこの名前を名乗る。本名は錦二(きんじ)。 竹居明男『『日出新聞』記者金子静枝と明治の京都』による。 (同書に木下知威「金子静枝に向かって」が収録されている)
石井 虎之助(いしい とらのすけ、1851年5月27日(嘉永… 石井 虎之助(いしい とらのすけ、1851年5月27日(嘉永4年4月27日) - 1933年(昭和8年)1月23日)は、日本の政治家・貴族院多額納税者議員、実業家。武相貯蓄銀行頭取。江之島電氣鐵道監査役。族籍は神奈川県平民。 相模国大住郡石田村(中郡成瀬村、伊勢原町を経て現伊勢原市石田)に生まれる。石井作右衛門の長男。農業を営む。1878年(明治11年)、家督を相続。 1881年(明治14年)7月、補欠選挙で神奈川県会議員に当選し、その後、1888年(明治21年)1月まで4期在任した。1884年(明治17年)7月、戸長、1890年(明治23年)10月、2代成瀬村長を歴任。成瀬村長を1894年(明治27年)10月まで務め、同年から1897年(明治30年)まで成瀬村会議員に在任した。
江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年… 江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年4月20日) - 1915年(大正4年)4月24日)は佐賀藩出身の明治、大正時代の士族、弁護士、政治家、実業家。佐賀新聞の創刊者・初代社長、衆議院議員。本姓は野口。幼名は又四郎。 1851年(嘉永4年)、肥前国佐賀郡大堂村(東川副村、諸富町を経て現佐賀市諸富町)に佐賀藩士、野口惣三の三男として生まれ、のち江副家の養子となった。藩校弘道館に学び17歳で江戸藩邸詰に任ぜられた。 明治維新後に慶應義塾に入り、横浜のヘボン塾に遊学した。慶應義塾在学中の1872年(明治5年)に新聞社を設立するがこれは失敗し、ほどなく廃刊となった。その後1874年(明治7年)、24歳の時に迎えた佐賀の乱では江藤新平率いる征韓党に属している。
沼田 静治(ぬまた せいじ、1851年5月14日〈嘉永4年4… 沼田 静治(ぬまた せいじ、1851年5月14日〈嘉永4年4月14日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、兵庫県の大地主。志方銀行頭取。国包銀行取締役。広尾金融社長。族籍は兵庫県平民。 兵庫県人・沼田惣左衛門の長男。1870年、家督を相続する。住所は兵庫県印南郡東志方村(現・加古川市志方町)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
12代 山田 荘左衛門(やまだ しょうざえもん / そうざえ… 12代 山田 荘左衛門(やまだ しょうざえもん / そうざえもん、嘉永4年4月6日〈1851年5月6日〉 - 1917年〈大正6年〉10月1日)は、明治時代の政治家、明治・大正時代の実業家である。長野県下高井郡平野村(現・中野市)の地主で、長野県会議員・貴族院多額納税者議員・衆議院議員を歴任するとともに銀行・会社経営にも関わった。晩年は山田 荘哉(やまだ しょうさい)を名乗った。 山田荘左衛門は、嘉永4年4月6日(新暦:1851年5月6日)、山田董平の長男として生まれた。初名は熊太郎。1881年(明治14年)に先代荘左衛門の養子となり、1885年(明治18年)12月に家を継いで荘左衛門を襲名した。
村上 専精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851… 村上 専精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851年5月1日) - 昭和4年(1929年)10月31日)は、日本の明治・大正期に活躍した日本の教育者・仏教史学者。東洋高等女学校創立者、東京帝国大学印度哲学科初代教授・同名誉教授、大谷大学学長。 明治・大正期の教育界において主として高等教育の充実に尽力。特に、仏教思想・仏教史を近代的学問体系からの批判に耐え得る形で研究するとともに、その成果を自ら整備に関与した公私の諸教育機関において公開した。 1851年(嘉永4年)、丹波国の真宗大谷派教覚寺に生まれた。本姓は広崎。幼時より父について浄土三部経を習い、漢学の才にすぐれるが、生家の寺が貧しかったため近郊の行雲寺(岡村波洲)に預けられた。
佐藤 通代(さとう みちしろ、1851年5月(嘉永4年4月)… 佐藤 通代(さとう みちしろ、1851年5月(嘉永4年4月)- 1914年(大正3年)11月22日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員。旧姓・河野。 日向国諸県郡志布志郷帖村(現・志布志市志布志町帖)で河野家に生まれた。 西南戦争に中隊長として従軍。戦後に刑を受けた。佐藤家に入籍し、農業を営む。内之倉村戸長、蓬原村戸長を務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(鹿児島県第6区)で当選し、その後、第6回総選挙でも再選され、最後は立憲政友会に所属し衆議院議員に連続2期在任した。 その後、郷里の子弟の教育、産業振興に尽力した。1914年11月、郷里で病のため死去した。
桑村 猪平(くわむら いへい、1851年5月(嘉永4年4月)… 桑村 猪平(くわむら いへい、1851年5月(嘉永4年4月)- 1925年(大正14年)7月6日)は、日本の政治家。元徳島市長。徳島県徳島市佐古出身。 1851年(嘉永4年)、阿波国・佐古台所町(現在の徳島市佐古)に生まれた。 1876年(明治9年)、第一大区(後の名東郡)二等副戸長に就任。1878年(明治11年)に佐古村戸長兼学区取締に就任。1889年(明治22年)、徳島市収入役に就任。1890年(明治23年)、同市助役となる。1902年(明治35年)に徳島市長に就任し1906年(明治39年)まで務めた。 1925年(大正14年)7月6日、没する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
佐藤 秀蔵(さとう ひでぞう/しゅうぞう、1851年4月29… 佐藤 秀蔵(さとう ひでぞう/しゅうぞう、1851年4月29日(嘉永4年3月28日)- 1934年(昭和9年)3月27日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は亀次郎。 陸奥国磐井郡摺沢村(岩手県東磐井郡摺沢村、摺沢町、大東町を経て現一関市)で、先代・佐藤秀蔵の長男として生まれる。1889年(明治22年)秀蔵を襲名した。1898年(明治31年)摺沢村会議員に当選。ついで東磐井郡会議員、所得税調査委員、八十八銀行取締役、横屋社長、陸中国東山製糸組合長などを歴任した。1909年(明治42年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月3日から1911年(明治44年)9月28日まで在任した。
村上 桂策(むらかみ けいさく、1851年4月25日(嘉永4… 村上 桂策(むらかみ けいさく、1851年4月25日(嘉永4年3月24日)- 1925年(大正14年)4月18日)は、明治から大正期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。 伊予国新居郡郷村(愛媛県新居郡神郷村を経て現新居浜市)で、豪農・村上良三郎の長男として生まれる。漢学を修め、早くから政治に関心を持った。1875年(明治8年)7月に家督を相続した。 村会議員を務め、1881年(明治14年)5月、愛媛県会議員補欠選挙で当選し、1884年(明治17年)以降6期連続で務め、1890年(明治23年)8月まで在任した。この間、大同団結運動に加わり、工藤干城らと大同派東予倶楽部を結成して鈴木重遠らと連携した。
柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月… 柏田 盛文(かしわだ もりぶみ / もりふみ、1851年4月23日(嘉永4年3月22日) - 1910年(明治43年)6月20日)は明治時代の日本の政治家、教育者。号は天颷。 鹿児島県会(鹿児島県議会の前身)議長、第四高等中学校(金沢大学の前身の一つ)校長、衆議院議員、文部次官、千葉・茨城・新潟の各県知事を歴任した。 薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現在の薩摩川内市平佐町)出身の武士であり、部屋には東郷平八郎から送られた日本刀が飾ってあった。 鹿児島時代は漢学を修め武芸に秀でていた。薩長土の御親兵を務め上京。小松原英太郎、美澤進、鎌田栄吉、神津国助らと同志で、1874年(明治7年)慶應義塾で同窓の薩摩藩士・奥田直之助と学び、在学中から曙新聞に政策論を発表し、そうした関係で国会期成同盟会員となる。
内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年… 内田 正敏(うちだ まさとし、1851年4月16日(嘉永4年3月15日)- 1922年(大正11年)5月11日)は、明治・大正期の日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。爵位は男爵。貴族院男爵議員。 1851年(嘉永4年)高知城下築屋敷(現在の高知市)で内田茂助の子に生まれた。若くして東京遊学。1868年(明治元年)[西暦年要検証]北村重頼の砲隊に属し東征軍に従う。1871年(明治4年)8月、海軍兵学寮入学。1876年(明治9年)9月、海軍少尉補任官。「雷電丸」「金剛」乗組を経て、1878年(明治11年)7月、海軍少尉に任官。1881年(明治14年)11月、海軍兵学校(3期)を卒業した。
首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年… 首藤 陸三(すどう りくぞう、嘉永4年3月15日(1851年4月16日) - 大正13年(1924年)5月31日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲同志会)。 陸奥国登米郡登米町(現在の宮城県登米市)出身。1868年(明治元年)、東京に出て、尺振八の共立学舎で英学を学んだ。1872年(明治5年)、新潟県の英語教授となり、翌年から小倉県育徳学校教授に就任した。1875年(明治8年)、大蔵省翻訳課に出仕し、1877年(明治10年)には東京府書籍館に転じた。翌年より宮城県属になり、学務課長心得と仙台師範学校校長を兼ねた。1880年(明治13年)に官を辞した後は、宮城県会議員に当選し、副議長に選出された。
遠山 正和(とうやま まさかず、1851年4月16日(嘉永4… 遠山 正和(とうやま まさかず、1851年4月16日(嘉永4年3月15日)- 1907年(明治40年)11月8日)は、明治期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員、香川県会議長、丸亀市会議長。 讃岐国那珂郡、のちの香川県丸亀市で、里正の家に生まれる。経史を修めた。 1873年(明治6年)香川県六大区一小区副小区長兼学務取締に就任。自由民権運動に加わった。1879年(明治12年)愛媛県会議員に選出された。1882年(明治15年)代言人(弁護士)となる。同年、自由党大会で警官と衝突して投獄された。1888年(明治21年)香川県が再置され、その後、香川県会議員に選出され、同常置委員も務めた。1894年(明治27年)4月、香川県会議長に就任し1895年(明治28年)10月まで在任した。
畠山 雄三(はたけやま ゆうぞう、1851年4月13日(嘉永… 畠山 雄三(はたけやま ゆうぞう、1851年4月13日(嘉永4年3月12日)- 1932年(昭和7年)1月24日)は、明治から昭和初期の農業指導者、政治家。衆議院議員、秋田県会議長。旧姓・長岐。 出羽国秋田郡七日市村(秋田県北秋田郡七日市村、鷹巣町を経て現北秋田市七日市)で、素封家・長岐家の三男として生まれた。1869年(明治2年)山本郡仁鮒村(響村、二ツ井町を経て現能代市)の地主・畠山藤左衛門の婿養子となる。1873年1月(明治5年12月)養父の死去に伴い家督を相続した。 1870年(明治3年)久保田藩御山守となる。仁鮒村副戸長、同戸長、第三大区書記役、秋田県勧業諮問会議員などを歴任。また自由民権運動に加わる。
倉田 雲平(くらた うんぺい、嘉永4年4月〈1851年5月〉… 倉田 雲平(くらた うんぺい、嘉永4年4月〈1851年5月〉 - 大正6年〈1917年〉6月)は、日本の実業家、足袋職人。主として明治時代から大正時代にかけて活動した人物であり、ムーンスターの創業者である。足袋王、九州の足袋王あるいは久留米の足袋王と異名される。大正3年(1914年)に緑綬褒章を受章している。 倉田家の祖先は武士であり、江戸時代に久留米藩に出仕して御先手物頭を務めたこともあったとされる。やがて町人に転向してからは、両替商や呉服商、米穀商を営む豪商となったが、水難事故や火災などに相次いで遭遇したために、家の経済力は徐々に衰退していき、雲平が生まれる頃には煎餅屋を経営していた。 雲平は、嘉永4年4月(1851年5月)、筑後国御井郡(現在の福岡県久留米市)の米屋町に五男一女の末子として出生した。
服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4… 服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4年2月11日) - 1929年(昭和4年)1月25日)は明治時代の日本の文部・内務官僚。族籍は山口県士族。 東京英語学校、東京大学法・理・文各学部綜理(1880年(明治13年)6月4日)、東京大学予備門(いずれも東京大学教養学部の前身)校長・予備門長、大阪専門学校(京都大学の前身の1つ)綜理、日本地震学会初代会長、東京大学法学部初代学部長、共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)校長、文部省普通学務局長、岩手・広島・長崎・兵庫の各県知事、貴族院議員を歴任した。 長州藩士槍術指南役渡辺兵蔵の三男として周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市)で誕生する。
伊夫伎 資弼(いぶき としすけ、1851年3月12日〈嘉永4… 伊夫伎 資弼(いぶき としすけ、1851年3月12日〈嘉永4年2月10日〉 - 1911年〈明治44年〉2月14日)は、明治時代の政治家、篤農家。衆議院議員(2期)。旧名は出雲。 近江国坂田郡伊吹村(滋賀県坂田郡伊吹町を経て、現米原市)で、伊吹神社社家・伊夫伎専右衛門の長男として生まれる。1871年(明治4年)10月に今の名前に改名する。国学を学んだのち神官となる。また、所得税調査委員、破産管財人、郡農会副会頭、県農会副会頭、県農工銀行取締役を務めた。 1889年(明治22年)6月に伊吹村会議員、同村長となった。1890年(明治23年)3月には、滋賀県会議員に阪田郡選挙区から立候補して当選した。
真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4… 真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4年2月5日)- 1918年12月14日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・熊槌。 長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩中士・真鍋安信の長男として生まれる。明倫館で学び、1866年、干城隊に入隊。1870年、大坂兵部省屯所に入営し、1871年、陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て、1872年、陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省第1局第3課などを経て、1877年4月から10月まで西南戦争に出征した。 陸軍省第1局第3課長心得、総務局武学課長、同局第3課長心得、同課長、歩兵第3連隊長、第1軍事課長、第4師団参謀長、第1軍事課長、総務局人事課長などを歴任し、1897年7月、陸軍少将に進級。
原田 良太郎(はらだ りょうたろう、1851年3月5日〈嘉永… 原田 良太郎(はらだ りょうたろう、1851年3月5日〈嘉永4年2月3日〉- 1903年〈明治36年〉3月24日)は、幕末の徳山藩士、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階は正四位、勲等は勲二等、軍功は功四級。幼名・正良、1878年6月、良太郎に改名。 周防国都濃郡、後の山口県都濃郡久保村(現下松市)で原田亀之丞の二男として生まれた。明治元年(1868年)徳山藩兵として鳥羽・伏見の戦いに従軍した。長州藩諸隊脱走兵反乱に出動した。 大阪兵学校で学び、1872年(明治5年)陸軍省に出仕。1874年(明治7年)陸軍騎兵少尉に任官した。西南戦争に出征。1887年(明治20年)3月、輜重兵少佐に昇進し輜重兵第1大隊長に就任。
有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年… 有馬 新一(ありま しんいち、1851年2月26日〈嘉永4年1月26日〉- 1909年〈明治42年〉12月6日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。幼名は新之丞。 薩摩藩士、簗瀬新八の二男として生まれ、有馬純晴の養嗣子となる。戊辰戦争に従軍し、1869年(明治2年)、賞典禄6石を受ける。 1874年(明治7年)11月、海軍兵学校(海軍兵学寮、2期)を首席で卒業し、少尉補任官。1884年(明治17年)12月、「筑波艦」砲術長となり、以後、「天龍艦」副長、「摂津艦」副長、「扶桑艦」副長、「天城」艦長、「武蔵」艦長、「天龍」艦長心得兼海兵教官、海軍参謀部第2課長、佐世保鎮守府海兵団長を歴任。
岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4… 岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日(嘉永4年1月8日) - 1908年(明治41年)3月25日)は、日本の実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。 岩崎弥次郎・美和夫妻の三男として土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれた。 1867年(慶応3年)、満16歳のときに土佐藩校の致道館に入学。この時、岩崎家は郷士の地位を失って地下浪人に没落しており、武士の教育を受けられる身分ではなかったが、兄の弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していたため、入学することができた。 1869年(明治2年)には大阪に出て、重野安繹の私塾成達書院に入門し、この時に英語を学んだ。
岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年… 岡崎 生三(おかざき せいぞう、1851年2月3日〈嘉永4年1月3日〉- 1910年〈明治43年〉7月27日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 土佐藩士・岡崎俊蔵の長男として土佐国幡多郡中村(現:四万十市)に生まれる。戊辰戦争出征後の1871年(明治4年)、御親兵として上京し陸軍軍曹、権曹長と昇進し、1872年(明治5年)、陸軍中尉に進む。東京鎮台付などを歴任し、1877年(明治10年)3月から10月まで西南戦争に出征。歩兵第1連隊大隊長、歩兵第6連隊大隊長、大阪鎮台参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長などを経て、1889年(明治22年)11月、東宮武官に就任する。 後備歩兵第1連隊長、留守第4師団参謀長などを経て、1895年(明治28年)11月、威海衛占領軍参謀長に就任し1898年(明治31年)5月まで駐留した。
牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年… 牛場 卓蔵(うしば たくぞう、1851年1月29日(嘉永3年12月28日) - 1922年(大正11年)3月5日)は、明治期から大正期のジャーナリスト、官僚、実業家、政治家。慶應義塾出身、衆議院議員、山陽鉄道取締役会長などを務めた。 伊勢国安濃郡渋見村(後の安東村、現三重県津市)の井草家に生まれる。伊勢国一志郡(後の七栗村、現三重県津市)の牛場圭次郎の養子となる。慶應義塾に学び、島田三郎らと共に陸奥宗光の家に寄食する。 『郵便報知新聞』記者、兵庫県庁の勧業課長を経て、内務省に出仕。1881年(明治14年)、明治十四年の政変で罷免され下野。1882年(明治15年)、新聞『時事新報』の創刊に参画し記事を執筆。
寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年… 寺田 祐之(てらだ すけゆき、1851年1月27日(嘉永3年12月26日) - 1917年(大正6年)3月14日)は、日本の内務官僚。鳥取・岡山・宮城・広島の各県知事を歴任した。特に広島県知事在任中、県物産陳列館(現在の原爆ドーム)の設立に関わったことで知られる。 信濃国水内郡飯山に後の旧飯山藩士(長野県士族)寺田覚の長男として生まれ、慶応3年、寺田勘兵衛の養子となり家督を相続。1871年、飯山県文学助教兼学監となり、司法省十二等出仕警視属四等警視に転じた。その後、警察は内務省に移り、兵庫・山梨・香川・広島の各県警部長、新潟県内務部長などを経て1901年(明治34年)4月2日、鳥取県知事に就任。
遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年… 遠藤 敬止(えんどう けいし、1851年1月24日(嘉永3年12月23日) - 明治37年(1904年)6月15日)は、幕末期の武士(会津藩士)、明治期の大蔵官僚、七十七銀行第二代・四代頭取、仙台商工会議所初代会頭。 嘉永4年(1851年)、会津藩士・遠藤清直の長男として江戸に生まれる。幕府の開成所に学んだ後、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いの際には会津軍として歴戦し、鶴ヶ城の籠城戦に加わりのち敗れて江戸にて謹慎生活を送る。独学で英学を修め、慶應義塾に入って経済学を学ぶ。大蔵省に銀行事務講習所が創設されると、講師として出仕。渋沢栄一に見出されて第一国立銀行勤務後、第七十七国立銀行頭取となり、仙台商業会議所会頭ほか、会津銀行設立や学校の創立など多くの事業を支援。