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谷川 政人(たにかわ まさと、1969年(昭和44年)11月… 谷川 政人(たにかわ まさと、1969年(昭和44年)11月21日 - )は、日本の政治家。青森県弘前市長(1期)。元青森県議会議員(3期)、元弘前市議会議員(3期)。 東奥義塾高等学校を経て、1992年に道都大学(現:星槎道都大学)社会福祉学部社会福祉学科を卒業。民間企業への勤務を経て、1998年に衆議院議員であった木村太郎の秘書に就任。 2003年の弘前市議会議員選挙に出馬し当選(3期)。2015年には青森県議会議員選挙に出馬し初当選。3期目の途中、弘前市長選挙出馬のため2026年2月23日付けで辞職。 2026年4月12日に行われた市長選挙は、3選目を目指す現職の櫻田宏らとの決戦となったが、宮下宗一郎青森県知事の支援を受け初当選を果たした。
関 和典(せき かずのり、1967年2月24日 - )は、日… 関 和典(せき かずのり、1967年2月24日 - )は、日本の政治家、元青森県西目屋村長(4期)。 1967年、西目屋村にて出生。東奥義塾高等学校、青山学院大学文学部史学科卒業。1989年STT開発入社。その後、越智通雄衆議院議員秘書・木村守男衆議院議員公設第2秘書、木村太郎衆議院議員秘書を経験し、西目屋村社会福祉協議会事務局長、1999年西目屋村議会議員および副議長を務める。 2006年に38歳で村長選挙へ立候補し当選。2010年・2014年・2018年にそれぞれ無投票で当選。 1967年、世界遺産・白神山地で有名な西目屋村にて出生。東奥義塾高等学校卒業後青山学院大学進学。同大学卒業後、1989年STT開発入社。
田沢 吉郎(たざわ きちろう、1918年1月1日 - 200… 田沢 吉郎(たざわ きちろう、1918年1月1日 - 2001年12月12日)は、日本の政治家。位階は正三位。 自由民主党所属の衆議院議員。青森県南津軽郡田舎館村出身。姓のうち「沢」の戸籍上の表記は「澤」。 津島文治元青森県知事の娘婿で、1947年、29歳で青森県議会議員に初当選。1960年、「津軽のケネディ」を名乗って衆議院議員選挙に立候補し、初当選。以来12回連続当選(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・谷垣専一・久保田円次・伊藤宗一郎・田川誠一・藤井勝志など)。 自民党内では宏池会(池田勇人→前尾繁三郎→大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に属し、衆議院議院運営委員長、国土庁長官、自民党国会対策委員長、農林水産大臣、防衛庁長官などを歴任。
葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年〈明治13年〉… 葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年〈明治13年〉 - 1945年〈昭和20年〉12月)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県南津軽郡田舎館村長、弘前市長。 青森県南津軽郡豊蒔村(現在の田舎館村豊蒔)出身。東奥義塾から第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進む。1905年(明治38年)文学部講師嘱託となり、市村瓚次郎の助手として満州へ渡る。帰朝後は、東奥義塾教師、千葉県成田中学校長など全国各地の校長を歴任し、1926年(大正15年)大館中学校から弘前中学校の第14代校長となる。 1931年(昭和6年)同校生徒の「嶽温泉籠城ストライキ」の責任を取り、翌春校長を辞職。1940年(昭和15年)田舎館村長となり、1942年(昭和17年)7月には弘前市長に就任した。
菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10… 菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10月1日 - 1945年(昭和20年)2月25日)は、大正から昭和前期の日本の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。中国通(支那通)として知られた。天文学者・一戸直蔵の義弟。 青森県中津軽郡弘前城下(現弘前市)で、旧弘前藩士の政治家・菊池九郎、久満子の長男として生まれる。東奥義塾、第二高等学校を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業した。 青年時代から中国問題に関心を持ち、中国で貿易商を営み、日支商事会社長、山口商事取締役、東海漁業取締役などを務めた。その後、新聞記者、弁護士となる。また、合資会社ボルネオ物産商会代表者に就任した。
平山 為之助(ひらやま ためのすけ、1874年(明治7年)1… 平山 為之助(ひらやま ためのすけ、1874年(明治7年)1月29日 - 1960年(昭和35年)3月18日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会)、豪農、篤農家、実業家。五所川原銀行頭取。津軽鉄道社長。松木屋呉服店社長。陸奥銀行、佐々木銀行、青森貯蓄銀行、松木屋呉服店、津軽酒造各取締役。鳴海銀行監査役。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市)生れ。平山雄太郎の長男。東奥義塾及び慶應義塾に学んだ。農業を営んだ。村会議員、青森県会議員同参事会員、衆議院議員に挙げられた。陸奥鉄道社長、国有化後に津軽鉄道の初代社長。 青森県北津軽郡栄村(現・五所川原市大字湊)にある平山為之助の住居は、1769年(明和6年)建立の古民家で、「旧平山家住宅」として国の重要文化財に指定され保存されている。
長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2… 長内 則昭(おさない のりあき、1869年4月23日(明治2年3月12日) - 1937年(昭和12年)5月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 長内泰民の子として陸奥弘前藩領西津軽郡穂積村(青森県西津軽郡稲垣村を経て現つがる市)に生まれる。東奥義塾を経て弘前公立病院附属医学校に入る。1885年(明治18年)同校閉校に伴い東京慈恵医学専門学校に入学するが、政治家を志し中退し新聞記者となる。その後、北海道に渡り材木商を始めるが挫折し、帰郷する。また、日清戦争に従軍した。 1899年(明治32年)稲垣村助役、1903年(明治36年)郡議から青森県会議員に転じ、1906年(明治39年)第3代稲垣村長に就任する。
白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - … 白鳥 鴻彰(しらとり こうしょう、1864年4月30日 - 1915年4月11日)は、日本の政治家 、教育者。 白鳥家は、代々庄屋を務め、弘前藩主津軽家から苗字帯刀を許された家柄であった。2代藩主津軽信枚の生母・栄源院(津軽為信の側室。白鳥長久の娘とも。堀越城代・白取伊右衛門の妹。弘前藩家老職・白取瀬兵衛信次は甥にあたる)の生家の分家で、白鳥長久の末裔 という。白鳥氏は津軽家に仕えた後、「白鳥」を「白取」と改め、明治維新後に再び「白鳥」と改めた。 白鳥鴻彰は元治元年3月25日に津軽郡荒川村(現:青森市荒川)に、 白鳥慶一・いそ夫妻の長男として生まれる。幼名は初太郎または八太郎。 父・慶一は明治11年(1878年)に府県会規則が公布され、明治12年(1879年)3月県会の開催が決まると第1回の青森県会議員選挙に立候補、当選。
石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(18… 石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(1863年9月13日) – 昭和13年(1938年)9月12日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 弘前に生まれ、東奥義塾を卒業した。1889年(明治22年)、弘前市会議員となり、1891年(明治24年)には中津軽郡会議員となった。1896年(明治29年)、青森県会議員に選出され、1903年(明治36年)には議長に就任した。1907年(明治40年)、県会議長に再選され、弘前市会議長も兼ねた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1期務めた。1913年(大正2年)、再び市会議員となり、さらに1918年(大正7年)・1922年(大正11年)・1934年(昭和9年)の3度、弘前市長に選出された。
伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9… 伊東 重(いとう しげる、1857年10月26日(安政4年9月9日) - 1926年(大正15年)8月5日)は、日本の明治より大正期にかけての医師・政治家・思想家。現在の青森県出身で、青森県医師会会長や弘前市長、衆議院議員を歴任した。今東光の母方の伯父にあたる。 1857年(安政4年)旧暦9月9日の重陽節句の日に、現在の弘前市元長町において、津軽藩典医伊東家久・もと夫妻の次男として生まれる。幼名は滝次郎と称した。 1865年(慶応元年)、原子塾に入塾。後に黒滝学校に転じ、1868年(明治元年)藩校稽古館に入学。1871年(明治4年)藩命により英学修行を命じられ、英学塾(翌年東奥義塾と改名)に入塾。
芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - … 芹川 得一(せりかわ とくいち、1857年(安政4年) - 1923年(大正12年)2月)は日本の政治家。青森県青森市長。 陸奥国津軽郡弘前で津軽藩士芹川高正の家に生まれる。東奥義塾に入り、キリスト教に入信する。卒業後は同塾の教師となった。1889年、弘前市発足後の弘前市会議員選挙に出馬して当選する。2年後の1891年の府県制施行後の青森県会議員選挙に出馬して当選し、連続5期務める。この間、県参事員も務めた。 1904年1月に青森市長に就任。在任中に青森港の外国貿易特別輸出港の指定に尽力、それが実現した。また、1908年に青森を発着とする青函連絡船が就航した。さらに上水道整備に着手した。 市長は1908年まで務め、退任後は第五十九銀行頭取に就任した。
笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年… 笹森 儀助(ささもり ぎすけ、弘化2年1月25日(1845年3月3日) - 大正4年(1915年)9月29日)は日本の探検家、政治家、実業家。当時の日本において辺境の地であり、その実態がほとんど分かっていなかった南西諸島や千島列島を調査した他、奄美大島の島司や第2代青森市長も務めている。 また、南西諸島調査の詳細な記録である著書『南嶋探験』は、柳田國男など後の民俗学者に大きな影響を与えた。 1845年(弘化2年)、陸奥国弘前在府町(現・青森県弘前市在府町)に、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれる。藩校稽古館(現・東奥義塾高等学校)で学んだ後、弘前藩・青森県に勤め、中津軽郡長も務めるなどしたが、1881年(明治14年)に辞職。