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小出 朋治(こいで ともはる、1888年3月9日 - 194… 小出 朋治(こいで ともはる、1888年3月9日 - 1945年9月10日)は、ホーリネス弾圧事件で堺刑務所で殉教した、ホーリネス系の日本聖教会参与、牧師である。元日本ホーリネス教会、アライアンスの牧師。 日本基督教団ホーリネスの群の重鎮であった小出忍の実父。 1888年(明治21年)に新潟県三条町に生まれる。小学校卒業後に上京する。昼間は商店員として働き、夜間は正則英語学校に通学する。1904年(明治37年)頃に中央福音伝道館で受洗する。 柏木聖書学院に学び、東洋宣教会(後の、日本ホーリネス教会)の牧師になる。 1907年(明治40年)に長岡市の福音伝道館に赴任する。赴任直後、11月24日より、新潟県を巡回した中田重治に同伴し、小出だけ新潟県にとどまり伝道をする。
中野 正三(なかの しょうぞう、1888年1月6日 - 19… 中野 正三(なかの しょうぞう、1888年1月6日 - 1977年12月22日)は、日本の柔道家(十段)。内股の名人として有名である。 新潟県五泉町(現:五泉市)で出生。17歳で上京し講道館に入門。また東京正規英語学校(現:正則学園高等学校)を経て日本大学殖民科で学ぶ。 自然体から左右の内股・跳腰等は後の柔道発展に大きな影響を与えた。 伝説と呼ばれるほどの中野の内股は柔道形にある後ろに崩して投げる技とは違い、腰で跳ね上げるタイプの内股であった。相手が左極端でも右極端でも、押していても引いていても投げられたという。 「新しく内股をやり始めたと言っても、その基礎は跳腰でやっていたから、そんなに苦労はなかった」、「内股は、胸と腰さえ取れば、それほど足を突っ込まなくてもかかる。
宋 必満(ソン・ピルマン、朝鮮語: 송필만/宋必滿、1887… 宋 必満(ソン・ピルマン、朝鮮語: 송필만/宋必滿、1887年12月3日または1890年 - 1978年7月23日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員、第5代国会参議院議員。初代韓国大統領の李承晩の側近であった。 本貫は礪山宋氏。別名は鳴皐。 京畿道利川郡長湖院生まれ、忠清北道鎮川郡出身。1908年ごろに新学問を学ぶために渡日し、正則英語学校中等科、中央大学法学部卒。帰国後の1919年に延禧専門学校の法律教授となり、4年間在職した。その後は法律研究のために渡米しようとしたが、東京で関東大震災での朝鮮人虐殺を目撃し苦境に陥った。その時、アメリカ人の宣教師の力を借りてハワイに密航し、そこで李承晩と知り合ってそのまま滞在し、1924年6月までに大韓人同志会の総務として機関誌『太平洋雑誌』を発刊し、関東大震災での朝鮮人虐殺の真相を宣伝した。
林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日… 林 弥輔(はやし やすけ、1887年(明治20年)4月17日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。 千葉県海上郡椎柴村字塚本(現・銚子市塚本町)に生まれる。1907年(明治40年)6月、正則英語学校を卒業後に渡台し、嘉義庁庶務課勤務を振り出しに、台南州文書課秘書係長、台南州文書課長、台北州文書課長を経て、1936年(昭和11年)10月、地方理事官に進み、台北州新荘郡守に就任した。ついで1939年(昭和14年)1月、台南州北港郡守に転じた。 この間、1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年)に掛けて樺太庁に出向し、長官官房秘書課および文書課にて勤務した。
加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)… 加藤 隆太郎(かとう りゅうたろう、1887年(明治20年)3月26日 – 1973年(昭和48年)12月31日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。板橋区から練馬区の独立に貢献した。 東京府北豊島郡上土支田村(石神井村大字上土支田、大泉村大字上土支田、板橋区東大泉町、練馬区東大泉町を経て現東京都練馬区東大泉)で、農業・加藤信太郎、だい の第2子、長男として生まれる。1901年(明治34年)3月、大泉村立泉小学校(現練馬区立大泉小学校)高等科3学年を修了し東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)に進んだが、病のため1902年(明治35年)11月に中退した。家業の肥料商を手伝い、1906年(明治39年)4月から私立正則予備学校、同英語学校(現正則学園高等学校)で学んだ。
奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治… 奥山 八郎(おくやま はちろう、旧名・奥八、1887年(明治20年)3月10日-1967年(昭和42年)10月1日)は、日本の弁護士。日本弁護士連合会(日弁連)会長、第二東京弁護士会(二弁)会長を歴任。在野法曹界の元老格だった。徳之島町名誉町民、奄美市名誉市民(旧・名瀬市名誉市民)。 鹿児島県にある徳之島の亀津(現・大島郡徳之島町)生まれ。亀津尋常高等小学校卒業(現・徳之島町立亀津小学校)。沖縄県にわたって学資をかせぎ、遭難のすえ宮崎県に漂着して鹿児島県本土経由で上京。東京で弁護士事務所の書生をしながら正則英語学校の夜学に通い、後にドイツ語教授の住み込み書生に転じて京華中学校 (旧制)卒業。1906年(明治39年)の旧制高等学校試験に合格。
小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18… 小笠原 三九郎(おがさわら さんくろう、1885年(明治18年)4月5日 - 1967年(昭和42年)12月13日)は、昭和期の日本の政治家、実業家。商工大臣(第26代)、農林大臣(第15代)、通商産業大臣(第7代)、大蔵大臣(第57代)、衆議院議員(6期)。西尾市名誉市民。 経済人としては華南銀行専務、日本貿易振興会、財団法人東京連合防火協会、南方農林協会各会長、極洋捕鯨(現・極洋)社長・取締役・相談役・監査役、太平洋海運社長・会長・相談役などを務めた。 愛知県幡豆郡、のちの室場村(現西尾市)に、父小笠原長左衛門と母せいの間に誕生。三男三女の末子であった。室場尋常小学校、西尾高等小学校に入学。
牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 196… 牛山 充(うしやま みつる、1884年6月12日 - 1963年11月9日)は、日本の音楽学者、舞踊・浮世絵評論家、翻訳家。旧姓は百瀬。 長野県諏訪郡四賀村(諏訪市四賀)生まれ。高島小学校卒業後、1913年東京音楽学校甲種師範科卒。高野辰之、田村寛貞に師事し、在学中、学友会誌「音楽」の主筆・編集長を務めた。1912年には学友会主宰の「土曜演奏会」を始めた。また東京外国語学校や正則英語学校に通い、英語を習得し、海外音楽理論の翻訳に着手した。東京音楽学校講師を経て、教授。1922年から「東京朝日新聞」の音楽・舞踊欄を担当した。 1934年8月から「月刊楽譜」主筆を務めた。1938年4月に行われた第6回日本音楽コンクールではバイオリン部門の審査員を務める。
宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年… 宮地 嘉六(みやち(みやじ) かろく、1884年(明治17年)6月11日 - 1958年(昭和33年)4月10日)は佐賀県出身の小説家。戦前は無産派文学の旗手として知られた。 佐賀市生まれ。貧困のため小学校を中退して仕立て屋の丁稚となるが、1896年に佐世保へ移り、12歳で海軍造船廠(佐世保海軍工廠)の見習工となる。このとき尾崎紅葉や徳冨蘆花を読んで文学に目覚めた。その後16歳から31歳までは兵役を挟み旋盤工から旋盤師として約10年間を呉海軍工廠で、その他神戸、長崎、東京の工場を転々とした。労働争議が続いた呉海軍工廠時代にはストライキの首謀者として広島監獄に拘禁もされた。代表作『煤煙の匂ひ』(『中外』1918年7月)、『或る職工の手記』(『改造』1919年9月)などはこの時代の経験を母胎としたもの。
上林 敬吉(かんばやし けいきち、1884年5月12日 - … 上林 敬吉(かんばやし けいきち、1884年5月12日 - 1960年3月9日)は、日本の建築家。米国聖公会の宣教建築家(Mission Architect)のもとで教会の建設に携わるとともに、設計事務所を立ち上げて独自の設計も行ったほか、聖路加国際病院の施設増改築や管理を行った。 1884年(明治17年)5月12日、京都市上京区で生まれる。京都の高等小学校を中退した7年後の1903年(明治36年)に茨城県土木課に務める。敬吉は、京都での少年時代に既にジェームズ・ガーディナーと出会ってその影響を受け、その後関東へ転じたものと考えられる。 1904年(明治37年)、横浜で下田菊太郎が営む下田建築合資会社に移り、2年間勤務する。
長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7… 長谷川 清(はせがわ きよし、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1970年〈昭和45年〉9月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は正三位勲一等功一級海軍大将。第18代台湾総督。福井県足羽郡社村(現:福井市)出身。 医師・長谷川次仲の次男。海軍を志したのは福井中学校4年在学中のこと で、退学し正則英語学校に転校。この年海軍兵学校第31期に入校した。席次は入校時196名中7番、卒業時は173名中6番。福井中学以来の同級生に津田静枝海軍中将と東林岩次郎海軍少将がいる。両者とも長谷川が中国方面で活躍する前に既に第一線から引退していたが、津田は海軍士官としては珍しく中国在勤が長く、少将時代以降は第2遣外艦隊や駐満海軍部など駐留部隊の司令官を歴任した。
橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1… 橋本 福松(はしもと ふくまつ、1883年3月24日 - 1944年2月5日)は日本の地理学者、実業家。旧姓は平沢。 長野県上伊那郡西春近村(現伊那市)生まれ。旧松本藩士の橋本房太の養子となる。上京して正則英語学校卒業、在学中は坪井正五郎の指導を受けて地理学・人類学を学ぶ。1902年諏訪郡玉川小学校の教員となり、校長の島木赤彦に師事する。のち諏訪高等女学校等で教鞭をとりながら、諏訪湖の研究に打ち込み、1906年に湖底の「曽根遺跡」を発見、1910年には「諏訪地図」を完成させる。 1918年再び上京して岩波書店に入社したが、病気に罹患して帰郷し伊那小学校に勤務の傍ら、「上伊那郡誌」の編纂に携わる。
曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1… 曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1日 - 1950年10月18日)は、朝鮮の独立運動家、教育者、政治家である。雅号は古堂(コダン、고당)。日本へ留学し明治大学法学部を卒業している。 平安南道江西郡に生まれ、1905年に平壌のミッション系スクールである崇実学校に入学し、在学中にキリスト教に入信した。 1908年に崇実学校を卒業した後は、日本へ留学し、1910年まで正則英語学校において英語を学び、1911年には明治大学法学部へ進学した。その際、インドのマハトマ・ガンディーが主唱した「非暴力・不服従」に関する論文に共感、これが後の独立運動における思想の礎となり、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる所以となった。
加藤 利吉(かとう りきち、1882年〈明治15年〉12月3… 加藤 利吉(かとう りきち、1882年〈明治15年〉12月3日 - 1962年〈昭和37年〉3月24日)は、日本の教育者。仙台育英学園創立者。 福島県北会津郡、のちの若松町(現会津若松市)で、米屋を営む加藤利喜次郎、こま の二男として生まれた。家業の手伝いをしながら漢文などの学びを続けた。 その後、親が準備してくれた炭百俵を持って上京し、炭を売却して学費・生活費を工面した。まず、神田区猿楽町(現千代田区神田猿楽町)の東京学院に入学し国漢学を学び、1901年(明治34年)3月に卒業。さらに神田正則英語学校(現正則学園高等学校)に入学。炭の売却金も底をつき始め米屋で奉公しながら通学し、1904年(明治37年)3月に卒業した。
中村 京太郎(なかむら きょうたろう、1880年3月25日 … 中村 京太郎(なかむら きょうたろう、1880年3月25日 - 1964年12月24日)は、日本の週刊点字新聞『点字毎日』の初代編集長、日本初の普通科盲人教員。 1880年に静岡県浜名郡和地村(現・浜松市中央区)で生まれた。生来の弱視で、小学校に入ることもできなかった。13歳になって、東京盲唖学校の存在を知る。反対する両親を説得して、1894年に14歳で同校に入学する。卒業と同時に東京盲唖学校の普通科教員になったが、これは、視覚障害者が同校の普通科教員になったケースとしては第1号であった。台湾慈恵院盲部の主任教諭などを務めて、1922年に『点字毎日』の編集主任になり、同紙の刊行に尽くすとともに、視覚障害者のための数々の事業をも始めた。
織田 純一郎(おだ じゅんいちろう、1月18日 - )は日本… 織田 純一郎(おだ じゅんいちろう、1月18日 - )は日本の歌手、作曲家、作詞家、音楽プロデューサーである。東京都武蔵野市出身。 中学生時代に洋楽ポップスやロックに目覚め、ニッポン放送のオーデション番組の出演をきっかけに歌手として芸能界入りする。 正則学園高等学校卒業と同時に単身アメリカへ渡る。 留学中、ロバータ・フラックのリハーサルバンドにベーシストとして参加する。 帰国後、再渡米し、モータウンレコードの世界的なボーカルグループフォー・トップスの作詞家でもあり、音楽プロデューサーのブライアン・パッタンの紹介オーガナイズにより、アカデミー賞受賞バンド・モーテルズのメンバーとバンドを結成し、RCAレコードのプロデュサーのサポートの元、西海岸を中心にライブやレコーディングなどの音楽活動を行う。