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松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - … 松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - 1989年3月19日)は、日本の陸軍軍人、競馬騎手、調教師。 大日本帝国陸軍において一貫して騎兵畑を進み、1936年にはベルリンオリンピックに総合馬術競技日本代表として出場した。太平洋戦争後に軍籍を離れ、1956年より騎手、翌1957年より調教師として日本中央競馬会に所属した。1985年引退。 1900年、秋田県雄勝郡三輪村(現羽後町)に、農業を営む菅原良吉、ヨシの間に五男として生まれる。小学校卒業後に母方の叔父に当たる陸軍中将・松井庫之助の養子となり、東京に移った。旧制早稲田中学入学後、3年次から陸軍幼年学校に転じ、軍人への道を進み始める。
鎌田 銓一(かまだ せんいち、1896年(明治29年)8月2… 鎌田 銓一(かまだ せんいち、1896年(明治29年)8月23日 - 1975年(昭和50年)11月3日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 東京府出身。兵庫県神戸で判事・鎌田孝二の長男として生まれる。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し工兵第3大隊付となる。1920年(大正9年)11月、陸軍砲工学校高等科(26期)を優等で卒業。1921年(大正10年)4月、帝国大学理工学部陸軍派遣学生として京都帝国大学工学部土木工学科に入学し、1924年(大正13年)3月に卒業した。
重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月… 重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月15日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍山口県。東京府で重見熊雄陸軍中将の二男として生まれる。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し歩兵第49連隊付となる。同年12月、歩兵少尉に任官した。 1922年(大正11年)2月、陸士予科生徒隊付となり、歩兵第49連隊中隊長、第1戦車隊副官、第1戦車隊付を経て、1932年(昭和7年)2月、独立戦車第2中隊長に発令され第一次上海事変に出動した。
犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1… 犬塚 惟重(いぬづか これしげ、1890年7月11日 - 1965年2月19日)は、日本の海軍軍人、ユダヤ研究家。最終階級は海軍大佐。筆名は宇都宮 希洋(うつのみや きよう)。 陸軍の安江仙弘と共に日本軍のユダヤ人問題専門家であった。 蒲池氏庶流犬塚氏出身。本籍佐賀県。佐賀藩士、翻訳家・犬塚浩道の長男として東京で生まれる。 新明きよ子(1910年(明治43年)生まれ)は、毎日新聞婦人記者、帝都日日新聞記者を経て、1939年(昭和14年)春、政府が正式に河豚計画を承認すると同時に、讀賣新聞上海特派員となり、上海で犬塚と初対面し、間もなく、犬塚の妻となった。 早稲田中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年12月、海軍少尉に任官。
和田 操(わだ みさお、1889年〈明治22年〉12月6日 … 和田 操(わだ みさお、1889年〈明治22年〉12月6日 - 1981年〈昭和56年〉11月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 和田音五郎陸軍大佐の長男として東京で生れる。早稲田中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)卒業。席次四番で恩賜品を拝受。1912年12月、海軍少尉に任官。第5期航空術研究委員、「若宮」乗組、横須賀航空隊付、艦隊航空隊付など搭乗員として経験を積んでいたが、事故で重傷を負い技術系士官として歩むこととなった。1918年1月から海軍大学校選科学生として東京帝国大学工学部に進む(専攻は航空機)。 その後、横須賀工廠検査官、欧米出張、広工廠航空機部員、欧米出張、海軍航空本部技術部員、欧米出張、航空本部技術部長などを歴任し、1937年12月、海軍少将に進級。
冨永 信政(とみなが のぶまさ、1888年(明治21年)3月… 冨永 信政(とみなが のぶまさ、1888年(明治21年)3月23日 - 1943年(昭和18年)11月9日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍大将。 東京都出身。冨永政利陸軍中佐の息子として生まれる。早稲田中学、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業。 日中戦争勃発後には、第21師団の第21歩兵団長として徐州に駐屯し治安維持に当たる傍ら蘇北作戦などにも参戦。次いで1940年(昭和15年)12月から第27師団長として天津に駐屯。 1942年(昭和17年)12月に第19軍司令官に補されインドネシアのアンボンに赴任するが現地で発病、1943年(昭和18年)11月9日に亡くなる。死去に際しては祭資が、葬送に際しては勅使が派遣されて幣帛が下賜された。
岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月1… 岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年〈明治17年〉5月15日 - 1966年〈昭和41年〉9月2日)は、日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任。 父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛の娘と再婚する。陸軍三羽烏の一人。 1884年(明治17年)5月15日、岡村寧永の子として生まれる。早稲田中学校、東京陸軍地方幼年学校を経て1903年(明治36年)、陸軍中央幼年学校を卒業する。 1904年(明治37年)10月に陸軍士官学校を16期生として卒業し11月に歩兵少尉に任官、歩兵第1連隊補充隊付を命ぜられる。