スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
井上 広輝(いのうえ ひろき、2001年7月17日 - )は… 井上 広輝(いのうえ ひろき、2001年7月17日 - )は、神奈川県厚木市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。 小学生の時に「恩名ソフト」でソフトボールを始めた。厚木市立南毛利中学校入学後に「海老名南リトルシニア」で野球を始め、中学3年時には日台国際野球大会の南関東選抜に選ばれた。 日本大学第三高等学校では2年時に甲子園春夏連続出場。春の第90回記念選抜高等学校野球大会では、1回戦の由利工業高校戦では、救援投手として6回を投げて勝利投手となったが、2回戦の三重高校戦は、先発し6回3失点で敗戦投手となった。夏の第100回全国高等学校野球選手権記念大会では2試合に登板。ベスト4に進出するが、吉田輝星を擁する金足農業高校に1-2で敗れた。
廣澤 優(ひろさわ ゆう、2001年4月27日 - )は、東… 廣澤 優(ひろさわ ゆう、2001年4月27日 - )は、東京都世田谷区出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。東京ヤクルトスワローズ所属。 日本大学第三高等学校では2年夏の第100回全国高等学校野球選手権記念大会に控え投手として出場。龍谷大平安との3回戦で大会初登板初先発し、5回2失点の好投で勝利に貢献した。また、この試合で当時の自己最速を更新する148km/hを計測している。金足農業との準決勝でも先発して4回途中1失点だったが、試合は敗れた。3年夏は西東京大会準々決勝で桜美林に敗れた。同学年に井上広輝がいた。 高校卒業後はJFE東日本へ入社。4年間在籍して最速を158 km/hまで伸ばしたものの、都市対抗野球大会、日本選手権大会では一度もベンチ入りすることができなかった。
櫻井 周斗(さくらい しゅうと、1999年6月25日 - )… 櫻井 周斗(さくらい しゅうと、1999年6月25日 - )は、埼玉県所沢市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。CPBLの台鋼ホークス所属。 2人の実兄の影響で、所沢リトルライオンズで軟式野球をスタート。当初は投手一本で、チーム内に同級生が居なかったことから、小学4年時に所沢ニュータウンヤンキースへ移った。小学校6年時のNPB12球団ジュニアトーナメントで、東京ヤクルトスワローズのジュニアチームのメンバーに選ばれたが、左肘を故障したため実際には出場しなかった。 東中学校への入学と同時に、新座シニアに入団。途中で左肘を再び故障したため、野手に転向する。3年時に参加したリトルシニア関東選抜では、投手としての素質に目を付けた関東選抜監督(海老名リトルシニア監督)の方針で、投手として東京ドームの日本リトルシニア全国選抜野球大会に出場。
坂倉 将吾(さかくら しょうご、1998年5月29日 - )… 坂倉 将吾(さかくら しょうご、1998年5月29日 - )は、千葉県印旛郡酒々井町出身のプロ野球選手(捕手、内野手)。右投左打。広島東洋カープ所属。 酒々井町立酒々井小学校時代には、1年時から酒々井ビッグアローズに所属。当初は捕手だったが、5年時に投手へ転向すると、6年時に千葉県大会へ出場した。長年投手としてプレイ 酒々井町立酒々井中学校への進学後は、八千代中央シニアに所属しながら捕手へ復帰。中学3年の春には、八千代中央シニアの正捕手として、シニアリーグの全国大会で優勝を経験した。 高校への進学に際しては、県内外の30校近い野球強豪校から勧誘されたが「3年間寮で生活しながら、野球だけではなく人間力も磨きたかった」という思いから、日本大学第三高等学校への進学を決めた。
伊藤 裕季也(いとう ゆきや、1996年8月30日 - )は… 伊藤 裕季也(いとう ゆきや、1996年8月30日 - )は、三重県四日市市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 中学時代に四日市トップエースボーイズでプレーする。1年先輩に東克樹がいる。高校は日大三高に進学し、2年秋から外野手としてベンチメンバー入りしたが、秋の都大会では準決勝で髙橋優貴も登板した東海大菅生高に敗れるなど、全国大会出場はなかった。 大学は立正大学に進学すると、2年春から主に一塁手としてレギュラーを獲得する。4年時には二塁手に転向し、主将を務め小郷裕哉とともにクリーンナップを組み、同校初となる秋季リーグ優勝でMVP、ベストナインを受賞、神宮大会優勝の日本一に貢献した。
甘露寺 仁房(かんろじ まさふさ、1995年〈平成7年〉2月… 甘露寺 仁房(かんろじ まさふさ、1995年〈平成7年〉2月20日 - )は、日本のプロ野球選手(内野手)。 甘露寺重房・圭郁夫妻の息子として、東京都港区に生まれる。出身の甘露寺家は名家の家格を有した堂上家の家系かつ維新後は伯爵に叙された家であり、仁房自身も小学校の課題で調べて「すごい家に生まれたんだなあ、と」思ったという。 両親がテニスプレイヤーであったことから幼少期よりテニスラケットを握っていたが、父重房がテニスボールを投げたところから野球が好きになり、中学時代に硬式クラブチームに入った。その後、吉永健太朗を追って日本大学第三高等学校に進学するが、高校三年間は公式戦に出られなかったのだという。
吉永 健太朗(よしなが けんたろう、1993年10月13日 … 吉永 健太朗(よしなが けんたろう、1993年10月13日 - )は、東京都日野市出身の元社会人野球選手(投手)、ベースボール5選手。右投右打。 日野市立南平小学校時に南平アトムズで野球を始める。日野市立七生中学校時には調布シニアに所属。 3年時には全国大会で春夏ベスト8の成績を残す。 2009年、日大三高に進学。1年秋よりベンチ入りし、2年生となった第82回選抜高等学校野球大会では控え投手として登板。秋からはエースとなり、第41回明治神宮野球大会ではチームを優勝に導いた。 3年時の第83回選抜高等学校野球大会ではベスト4、第93回全国高等学校野球選手権大会では優勝と結果を残した。選手権後、2011年8月28日から開催の第9回AAAアジア野球選手権大会に日本代表の一員に選ばれ、最優秀防御率賞を獲得し、オールスターチーム(ベストナイン)に選出された。
宮之原 健(みやのはら たける、1993年7月16日 - )… 宮之原 健(みやのはら たける、1993年7月16日 - )は、鹿児島県鹿屋市出身の元プロ野球選手(外野手、両投左打)、ベースボール5選手。元ベースボール5日本代表。 小学2年生の時に東京都へ移り住み、世田谷区立山崎小学校に編入した。小学3年生から世田谷区の「ツインファイターズ」で野球を始める。世田谷区立山崎中学校に進学した。 日本大学第三高等学校では2年秋の明治神宮野球大会からベンチ入りし、副主将も務めたが、右肘の怪我に悩まされ、3年時には全国高等学校野球選手権大会に背番号16で出場し、チームは優勝したものの自身は準決勝で9回に守備に就いたのみだった。高校の同期には阪神タイガースの髙山俊、東北楽天ゴールデンイーグルスの横尾俊建らがいる。
横尾 俊建(よこお としたけ、1993年5月27日 - )は… 横尾 俊建(よこお としたけ、1993年5月27日 - )は、東京都多摩市出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)、プロ野球コーチ。 南鶴牧小学校3年から武蔵府中リトルで野球を始める。チームメイトには1学年先輩に南貴樹、同期に茂木栄五郎と菅野剛士、2学年後輩に石川亮、2002年から2004年の間は1学年下にクーパー・ヒュンメルがいた。横浜市立あざみ野中学校時代は中本牧シニア、相模ホワイトボーイズで捕手を務めた。 日大三高校入学後、1年の秋からレギュラーとして活躍。第82回選抜高等学校野球大会では1学年先輩の山﨑福也を擁し、4番打者として横山雄哉や有原航平などの投手から安打を量産した。興南高校との決勝では島袋洋奨から2安打を打ったが、自身のエラーが決勝点となってしまい敗れた。
髙山 俊(たかやま しゅん、1993年4月18日 - )は、… 髙山 俊(たかやま しゅん、1993年4月18日 - )は、千葉県船橋市出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。オイシックス新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ所属。東京六大学野球通算最多安打(131安打)のリーグ記録保持者。 長野県で出生した後に、船橋市出身で大手証券会社に勤務する実父の転勤に伴って、和歌山県・東京都など複数の都県に居住。小学1年生の時に、実父が船橋市内に自宅を新築したため、和歌山県から同市へ転入した。 船橋市立飯山満小学校1年生の時に、実父とのキャッチボールを地元の少年野球チーム「ホワイトビーストロング」のコーチが見たことをきっかけに、同チームにスカウト。「ホワイトビーストロング」で本格的に野球を始めると、6年生の時に、遊撃手・投手・捕手をこなしながら全国学童大会に出場した。
髙山 俊(たかやま しゅん、1993年4月18日 - )は、… 髙山 俊(たかやま しゅん、1993年4月18日 - )は、阪神タイガースに所属する千葉県船橋市出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。
山﨑 福也(やまさき さちや、1992年9月9日 - )は、… 山﨑 福也(やまさき さちや、1992年9月9日 - )は、埼玉県所沢市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。北海道日本ハムファイターズ所属。 実父は元プロ野球選手の山崎章弘。 所沢市立北小学校の2年生の時に「新所沢ライノーズ」で、投手として野球をスタート。向陽中学校時代には、「所沢中央シニア」で投手や一塁手を経験した。なお、中学3年の時の冬に脳腫瘍が判明したが、手術を経て克服している(詳細後述)。 日大三高への進学後には、1年の秋に一塁手としてベンチ入りを果たすと、2年の春からレギュラーに定着。第91回全国選手権大会では、「5番・一塁手」として2試合にスタメンで出場したが、通算打率は.143(7打数1安打)にとどまった。
山﨑 福也(やまさき さちや、1992年9月9日 - )は、… 山﨑 福也(やまさき さちや、1992年9月9日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(投手)。父は巨人、日本ハムでプレーした山崎章弘。
吉田 裕太(よしだ ゆうた、1991年7月21日 - )は、… 吉田 裕太(よしだ ゆうた、1991年7月21日 - )は、千葉県流山市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。 野球を始めたのは小学3年生から。小学2年までは地元のサッカークラブに所属していたが、同学年の子どもたちより体格に恵まれていたという理由でやらされていたゴールキーパーというポジションに不満を持ち、3年生に進級したタイミングで地元にあるボーイズリーグの強豪「流山クラブ」へ入ることに。流山クラブでは全国制覇を経験。千葉県に在住していたことから、初めてのプロ野球観戦は千葉マリンスタジアムでの千葉ロッテマリーンズ対西武ライオンズ戦だった。その後、東深井中学時代は柏リトルシニアでプレー。当時一番の思い出は「練習」だという。
関谷 亮太(せきや りょうた、1991年5月10日 - )は… 関谷 亮太(せきや りょうた、1991年5月10日 - )は、神奈川県川崎市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 実父は明治大学硬式野球部のOB。自身は、小学生時代に川崎市麻生区の白真少年野球部、中学生時代に麻生ジャイアンツへ所属していた。 日本大学第三高等学校への進学後は、吉田裕太との同級生バッテリーで、2年時からエースとして活躍。3年夏の第91回全国高等学校野球選手権大会に西東京代表で出場すると、徳島北高校との1回戦で被安打4の完封勝利を挙げた。2回戦で東北高校に敗れたが、9回完投で3失点(自責点2)に抑えた。1学年後輩に山﨑福也、2学年後輩に髙山俊・横尾俊建がいた。 実父と同じく明治大学へ進学すると、東京六大学野球のリーグ戦で3年の春季から主力投手として活躍。
荒木 郁也(あらき ふみや、1988年4月25日 - )は、… 荒木 郁也(あらき ふみや、1988年4月25日 - )は、東京都江東区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。右投左打。 中学時代は東京都江東区ポニーリーグの江東ライオンズに所属し、全国3位。日本大学第三高等学校では2年夏に内野手兼外野手として第87回全国高等学校野球選手権大会に出場。3年夏は西東京大会決勝にて斎藤佑樹率いる早稲田実業学校高等部に延長戦の末敗れ、甲子園出場はならなかった。 卒業後は東京六大学野球連盟所属の明治大学経営学部に進学。2年春よりレギュラーに定着。11盗塁を記録し遊撃手としてベストナインに選出された。3年秋には二塁手としてベストナインに選出。リーグ戦通算71試合出場、255打数72安打、打率.282、2本塁打、31打点、36盗塁。
内田 和也(うちだ かずや、1984年1月31日 - )は、… 内田 和也(うちだ かずや、1984年1月31日 - )は、神奈川県横浜市金沢区出身の元プロ野球選手(外野手)、高校野球指導者。右投右打。 日大三高時代には1年の夏からベンチ入り。3番を打ち、近藤一樹、都築克幸、千葉英貴、齋藤達則らとともに春・夏と甲子園に連続出場。 第73回選抜高等学校野球大会では、2回戦の兵庫県立姫路工業高等学校戦で、真田裕貴からセンターバックスクリーンに飛び込む本塁打を放つなど活躍。2年ぶり9度目の出場となった第83回全国高等学校野球選手権大会では、3回戦の日本航空高校戦で、八木智哉から本塁打を放つなど大会を通して活躍し、チームを全国制覇へと導く。 高校通算19本塁打、走攻守三拍子揃った野手であるとマスコミに評され、ドラフト時の話題性は高かった。
齋藤 達則(さいとう たつのり、1984年1月29日 - )… 齋藤 達則(さいとう たつのり、1984年1月29日 - )は、日本の元社会人野球選手(内野手)である。現役時代はJR東日本硬式野球部所属し、背番号3であった。 千葉県出身。日大三高では3年の春・夏に連続して甲子園出場。春の甲子園ではホームランを記録し、夏の甲子園では全国制覇を遂げている。高校時代の同期に内田和也、千葉英貴、近藤一樹、都築克幸らがいる。2002年に明治大学へ進学。2004年春季リーグ(3年次)には優勝を経験した。2005年春季リーグ(4年次)には首位打者を獲得し、ベストナインにも選ばれた。2006年にJR東日本へ入社。堀井哲也監督の方針から従来の一塁手に加えて二塁手でも出場機会を得てレギュラーを獲得した。
千葉 英貴(ちば ひでき、1983年10月25日 - )は、… 千葉 英貴(ちば ひでき、1983年10月25日 - )は、東京都八王子市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 小学生の頃は「八王子イーグルス」、中学生の頃は「八王子リトルシニア」でプレー。 日大三高3年時は、第73回選抜高等学校野球大会では3回戦敗退だったが、第83回全国高等学校野球選手権大会で優勝を果たす。2001年度のドラフトで横浜ベイスターズから6巡目指名を受け入団。 ドラフト当時、日大三高からは千葉の他に、内田和也がヤクルトスワローズ、近藤一樹が大阪近鉄バファローズ、都築克幸が中日ドラゴンズから指名を受け、1つの高校から4名がプロ入りしたという事が大きなトピックスであった。これは同じ高校の選手が同じ年のドラフトで指名を受けた人数で史上最多タイ記録である。
都築 克幸(つづき かつゆき、1983年8月18日 - )は… 都築 克幸(つづき かつゆき、1983年8月18日 - )は、東京都品川区出身の元プロ野球選手(外野手)。 日大三高では1番打者として2001年夏に行われた第83回全国高等学校野球選手権大会で大会通算16安打(甲子園史上2位)打率.571を記録し、強力打線の核弾頭として優勝に貢献。西東京大会でも17打数12安打で打率.706。周囲からは安打製造機と呼ばれていた。2001年夏の大会だけで45打数28安打で打率.622。甲子園終了後のAAAアジア野球選手権代表にも選ばれ高校日本代表の副主将となる。1番打者として活躍し準優勝をする。 2001年度ドラフト会議では、3番を打った内田和也(ヤクルトスワローズから4位指名)、エース近藤一樹(大阪近鉄バファローズから7位指名)、控え投手の千葉英貴(横浜ベイスターズから6位指名)らとともに中日ドラゴンズから6位指名を受けて入団。
近藤 一樹(こんどう かずき、1983年7月8日 - )は、… 近藤 一樹(こんどう かずき、1983年7月8日 - )は、神奈川県相模原市出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ、アマチュア野球指導者。右投右打。野球解説者。 小学3年の時、大野台アニマルズに入団。中学時代はボーイズリーグ「相模原ホワイトイーグルス」に所属。2年夏と3年春に全国大会出場。日大三高では3年生の時にエースとして内田和也、千葉英貴、都築克幸、齋藤達則らと共に第73回選抜高等学校野球大会、第83回全国高等学校野球選手権大会に春夏連続出場。第83回全国選手権では同校の初優勝に貢献した。 2001年度ドラフト会議にて大阪近鉄バファローズから7巡目指名を受けて入団。背番号は「65」。なお、前述の内田、千葉、都築も同年のドラフトで指名された。
桑 認(くわ みとむ、1970年5月29日 - )は、東京都… 桑 認(くわ みとむ、1970年5月29日 - )は、東京都清瀬市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 日大三高では3年夏の西東京大会準優勝、1988年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから5位指名を受け入団。前年の野林大樹に続いた。背番号は49。 プロ2年目の1990年の6月にウエスタンリーグ月間MVPを獲得するなど、リスト使いに長けた非凡な打撃センスの持ち主であったが、右肩痛に泣き一軍試合出場を果たせないまま、1993年オフに現役を引退。 引退後は、埼玉県のエース物流株式会社に就職し、2008年11月より代表取締役を務めている。
野林 大樹(のばやし ひろき、1969年9月9日 - )は、… 野林 大樹(のばやし ひろき、1969年9月9日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。 登録名を野林 広起(広島時代)・野林 大氣(第二期近鉄・ヤクルト時代)としていた時期もある。(※いずれも読み方は本名と同じ) 目黒西リトルリーグを経て、中学からの内部進学で日大三高へ進学。2年夏は西東京大会準決勝で川尻哲郎が先発した兄弟校の日大二高を延長13回の末に破るが決勝では東亜学園の川島堅に完投されて準優勝。1987年夏の西東京大会では準決勝に進むが再度、東亜学園の川島に完封を喫する。甲子園出場こそかなわなかったが、打撃力のある大型内野手として「当時の東京都高校球界ではひとかど知れ渡った存在(広島時代の同僚でもあった1学年下の江藤智の談話より)」と注目される。
宮下 昌己(みやした まさみ、1965年1月4日 - )は、… 宮下 昌己(みやした まさみ、1965年1月4日 - )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(投手)、少年野球指導者。右投右打。 調布市立神代中学校では荒木大輔と同級生。日大三高に進み、エースとして1982年夏の甲子園西東京予選決勝に進出するが、日大二高の田辺晃(プリンスホテル)に完封負け、甲子園出場を逸する。 1982年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから6位指名を受け入団。 1986年には40試合に登板、3勝をあげる。同年は先発としても8試合に起用されるが結果を残せず、翌1987年には中継ぎに専念し50試合に登板、自己最多の5勝を記録した。 その後は登板数が減少、1989年オフに、広橋公寿、小川宗直との交換トレードで、大宮龍男と共に西武ライオンズに移籍した。
福王 昭仁(ふくおう あきひと、1964年1月10日 - )… 福王 昭仁(ふくおう あきひと、1964年1月10日 - )は、東京都町田市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。 日大三高では「三高野球部史上最高の遊撃手」と評価され、2年次の1980年からレギュラーの座を勝ちとる。同年の春季関東大会では準決勝に進むが、愛甲猛らのいた横浜高に敗退。夏の甲子園西東京大会は準々決勝で國學院久我山高に惜敗。同年の秋季東京大会は準々決勝に進むが、早稲田実の荒木大輔に完封を喫し、甲子園には出場できなかった。もの静かで温厚な性格、責任感は人一倍強く3年次の1981年には主将を任される。高校卒業後は1982年に明治大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは在学中に2度の優勝を経験。
野中 寿人(のなか かずと、1961年6月6日 - )は、東… 野中 寿人(のなか かずと、1961年6月6日 - )は、東京都大田区出身の野球指導者。2度にわたって野球インドネシア代表監督を務め、さらに野球スリランカ代表監督も務めた。 高校時代は日本大学第三高等学校のキャッチャーとして、1979年の第61回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場。プロ野球からの勧誘を断って大学に進んだが、意中の進学先だった明治大学ではなく日本大学であったことや大学での指導方法に不満を持ち、1年生で休部。3年生時に復帰するものの、プロ野球選手への道は断念した。当時の強豪社会人チームプリンスホテル硬式野球部への入部が決まっていたが結局入社せず。[要出典]1984年に日本大学を卒業し、1987年にフィリピンに渡って実業家となるも、現地でのトラブルから帰国を余儀なくされる。
小倉 全由(おぐら まさよし、1957年4月10日 - )は… 小倉 全由(おぐら まさよし、1957年4月10日 - )は、千葉県長生郡一宮町出身の高校野球指導者。旧姓は斉藤。 元プロ野球選手・監督の森繁和ははとこにあたる。またタレントの小倉優子は親戚。 一宮町立一宮中学校時代はエースで4番。同級生にタレントのあご勇がいた。 日大野球部に在籍していた6歳上の兄の勧めで東京都にある日大三高に進学。高校では内野手だったがレギュラーにはなれなかった。日本大学では野球部には入らなかったが、高校野球の指導者を志し、母校である日大三高のコーチを務めていた。 大学卒業後の1981年に関東一高野球部監督に就任。1985年夏の甲子園に甲子園初出場しベスト8に進出した。1987年・春の甲子園では下手投げの平子浩之投手(東洋大-日本通運)と三輪隆捕手のバッテリーを擁し準優勝に導く。
豊田 誠佑(とよだ せいすけ、1956年4月23日 - )は… 豊田 誠佑(とよだ せいすけ、1956年4月23日 - )は、東京都練馬区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、プロ野球コーチ。右投右打。1988年から1997年までの登録名は豊田 成佑(読み方同じ)。 日大三高では、右翼手として1974年春の選抜に出場。向陽高を破り2回戦に進むが、銚子商高の土屋正勝に抑えられ敗退。この大会の本塁打記録は1本と珍しい大会であったが、その1本は豊田が土屋から打ったランニングホームランであった。 高校卒業後は、明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは3度の優勝を経験。 1977年春季リーグで首位打者を獲得。 1978年春季リーグでは鹿取義隆、高橋三千丈の両エースを擁し、中心打者として優勝に貢献。
福島 孝二(ふくしま こうじ、1956年1月4日 - )は、… 福島 孝二(ふくしま こうじ、1956年1月4日 - )は、埼玉県秩父市出身の元プロ野球選手(投手)。 秩父第二中学校卒業後、日大三高から社会人野球・チャイルド休部後は調理師見習いとして働き、1978年オフにドラフト外で近鉄バファローズに入団。 一軍公式戦に出場のないまま、1983年限りで現役を引退。1984年は、近鉄で打撃投手を務める。 1985年からは西武ライオンズでに在籍し、1992年まで打撃投手、その後スコアラーを務める。 2000年から、ヤクルトスワローズにスコアラーとして在籍。 2006年から、東北楽天ゴールデンイーグルスのスコアラー。 2008年から、埼玉西武ライオンズの二軍ディレクターに就任。
待井 昇(まちい のぼる、1954年9月21日 - )は、東… 待井 昇(まちい のぼる、1954年9月21日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手、投手。 日大三高では1971年、2年生の時、春の選抜に中堅手兼控え投手として出場。1年上のエース渡部良克(日大-名古屋日産)の好投もあり、決勝で奥田直也投手を擁する大鉄高を降し初優勝を飾る。この大会で登板の機会はなかった。同年夏の甲子園都予選では準決勝で渡部のリリーフに立つが、日大一高の保坂英二に完封負け。他の1年上のチームメートに捕手、四番打者の岩沢建一がいた。 翌年の選抜には投手として、同期の小曽根修治(電電関東)との二本柱で勝ち進む。決勝では日大櫻丘の仲根正広と投げ合うが、完封を喫し準優勝に終わった。
吉沢 俊幸(よしざわ としゆき、本名:吉澤 俊幸、1954年… 吉沢 俊幸(よしざわ としゆき、本名:吉澤 俊幸、1954年7月23日 - )は、埼玉県草加市出身の元プロ野球選手。 日大三高では2年生の時、遊撃手として1971年の春の選抜に出場。1年上のエース渡部良克(日大-名古屋日産)を擁し順調に勝ち進む。決勝では渡部と大鉄高の奥田直也の投げ合いとなるが、2-0で完封勝利、初優勝を飾った。同年夏の東京大会では準決勝で日大一高の保坂英二に完封負け。他の1年上のチームメートに捕手の岩沢建一がいた。 翌1972年の選抜にも連続出場。同期の待井昇、小曽根修治(電電関東)両投手の好投もあり決勝に進むが、日大櫻丘高のエース仲根正広に完封を喫し準優勝にとどまる。夏の東京大会は6回戦で戸山高に完封負けを喫した。
岩沢 建一(いわさわ けんいち、1953年 - )は、東京都… 岩沢 建一(いわさわ けんいち、1953年 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手。ポジションは捕手、内野手、外野手。 日本大学第三高等学校では同期のエース渡部良克(日大-名古屋日産)とバッテリーを組み、四番打者として2年生時に1970年春の選抜に出場。2回戦に進むが、淡口憲治、羽田耕一、中西清治らのいた三田学園に敗退。同年夏の甲子園都予選は準決勝で日大一高の保坂英二に抑えられ惜敗。翌1971年春の選抜にも連続出場。準々決勝で深谷商、準決勝では坂出商に完封勝ち。決勝でもエース奥田直也を擁する大鉄高を完封で降し初優勝を飾る。同年夏は都予選準決勝でまたも日大一高の保坂に完封負けを喫する。1年下のチームメイトに吉沢俊幸、待井昇がいた。
小枝 守(こえだ まもる、1951年7月29日 - 2019… 小枝 守(こえだ まもる、1951年7月29日 - 2019年1月21日)は、日本の高校野球指導者。東京都生まれ。日本大学第三高等学校、拓殖大学紅陵高等学校野球部監督を歴任し、日本高等学校野球連盟技術・振興委員を務めた。
畑野 実(はたの みのる、1949年9月23日 - )は、東… 畑野 実(はたの みのる、1949年9月23日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 日大三高では、高校同期の古賀正明、柴田民男両投手を擁し、2年生の時から三塁手として活躍。1966年の春季東京大会準決勝に進むが、日大一高の保谷俊夫、桜井憲の継投に抑えられ敗退。同年夏の甲子園東京都予選では決勝進出を果たし、修徳高と対決。古賀が先発するが、辻正孝に本塁打を喫するなど乱戦の末に7-9で惜敗。翌1967年夏も都予選準決勝で依田優一が四番打者であった堀越高に敗れ、甲子園出場はならなかった。 卒業後は柴田とともに日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは三塁手、三番打者として中沢邦男らと打線の主軸となり、1971年秋季リーグの優勝に貢献。
古賀 正明(こが まさあき、1949年4月11日 - )は、… 古賀 正明(こが まさあき、1949年4月11日 - )は、福岡県久留米市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 福岡県久留米市で生まれ10歳の時に東京へ移住する。日大三高では、2年生の時、エースとして1966年の夏の都大会の決勝に進出するが、修徳高の辻正孝に本塁打を喫し敗退。翌1967年夏は都大会準決勝で、後に大学同期となる依田優一を打の主軸とする堀越高に敗れ、甲子園出場はならなかった。高校同期に三塁手の畑野実、控え投手の柴田民男がいる。 卒業後は法政大学に進学。法大には同期の横山晴久、一年下の池田信夫ら好投手がおり、公式戦の登板は2イニングのみに終わった。1972年に丸善石油に入社。1973年の都市対抗に出場し、エース久玉清人をリリーフして好投、チームは準々決勝に進出する。
柴田 民男(しばた たみお、1949年4月5日 - )は、東… 柴田 民男(しばた たみお、1949年4月5日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 日大三高では、同期の古賀正明とともに投手陣の中心として活躍。1965年秋季東京大会では1回戦で先発を任されるが、堀越高に大敗。1966年の夏の東京都大会決勝に進出するが修徳高に敗退、古賀が完投して自らの登板はなかった。1966年秋季東京大会では日体荏原高との準々決勝で先発するが古賀らに繋ぎ、延長15回の末に敗退。1967年夏は都大会準決勝で古賀が先発して3番手で登板したがまたも堀越高に7回コールド負け、甲子園出場はならなかった。古賀以外の高校同期に大学でも同僚の畑野実三塁手がいる。 高校卒業後は、畑野とともに日本大学へ進学。
磯部 史雄(いそべ ふみお、1948年 - )は、東京都出身… 磯部 史雄(いそべ ふみお、1948年 - )は、東京都出身のアマチュア野球選手(外野手)。 日大三高では2年生時の1965年に、1年上の佐藤道郎、石塚雅二のバッテリーを擁し、左翼手として夏の甲子園都予選決勝に進むが、日大二高の神山修投手に完封され0-2で惜敗。翌1966年も、1年下のエース古賀正明を擁し、右翼手、三番打者として活躍。春季東京大会準決勝に進むが、日大一高の保谷俊夫、桜井憲の継投に抑えられ敗退。同年夏の甲子園東京都予選では決勝進出を果たし、修徳高と対戦するが、辻正孝に本塁打を喫するなど乱戦の末に7-9で惜敗。他のチームメイトに投手の柴田民男、三塁手の畑野実がいた。 法政大学へ進学。
石塚 雅二(いしづか まさじ、1947年7月15日 - )は… 石塚 雅二(いしづか まさじ、1947年7月15日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(捕手)。 日大三高では、1年生の時にエース若宮秀雄とバッテリーを組み1963年の秋季東京大会に優勝、翌1964年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で浪商に敗退している。同年夏の甲子園都予選は6回戦で修徳高に敗退。1年上のチームメートに若宮の他、遊撃手の大橋穣がいた。1965年の夏の甲子園都予選では同期のエース佐藤道郎を擁し決勝に進むが、日大二高の神山修に完封され0-2で惜敗、甲子園出場を逸する。 日本大学へ進学するが中退し、社会人野球の三菱重工川崎へ入社する。 その後、1969年に中南米で新規に発足した国際的プロ野球リーグである「グローバルリーグ」の東京ドラゴンズに、森徹、矢ノ浦国満らと共に参加するが、同リーグは財政問題で破綻し、解散を余儀なくされた。
佐藤 道郎(さとう みちお、1947年5月5日 - )は、東… 佐藤 道郎(さとう みちお、1947年5月5日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 愛称はミチ、ミチさん。 パ・リーグ初の最多セーブ投手を獲得している。 日大三高ではエースとして同期の石塚雅二とバッテリーを組み、3年次の1965年には夏の甲子園都予選決勝に進むが、後に大学で同期となる日大二高の神山修投手に完封され0-2で惜敗、甲子園出場を逸する(2年時にチームはセンバツに出場したが自身の出番は無かった)。高校の1年上には遊撃手の大橋穣、1年下に左翼手の磯部史雄がいた。 高校卒業後の1966年、石塚と共に日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは低迷が続き、3年次の1968年にチームが二部に降格するが、4年次の1969年に一部復帰を果たす。
小松 時男(こまつ ときお、1946年9月26日 - )は、… 小松 時男(こまつ ときお、1946年9月26日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 日大三高では大橋穣と同期で3年春の選抜に出場、控え投手でもあった。日本大学へ進学。東都大学野球リーグ一部通算42試合出場、134打数38安打、打率.284、0本塁打、12打点。 1969年に河合楽器へ入社。同年の都市対抗では左翼手として山下慶徳と併用され、準決勝に進出するが電電関東に敗れる。翌1970年の都市対抗では右翼手、六番打者として出場。1回戦で鐘淵化学に敗退。 退社後の1970年ドラフト会議で西鉄ライオンズから7位指名を受け入団。1971年には8月から一軍に定着し5試合に先発出場するが、その後はあまり出場機会に恵まれず1973年限りで引退した。
大橋 穣(おおはし ゆたか、1946年5月29日 - 202… 大橋 穣(おおはし ゆたか、1946年5月29日 - 2025年7月18日)は、東京都新宿区出身(富山県氷見市生まれ)のプロ野球選手(遊撃手)・コーチ・監督。 愛称は「ペロ」(現役時代、打つ時、捕球の時、舌を出す癖があることから)。台湾における表記は大橋 穰(正体字)。 パ・リーグ初の遊撃手部門のダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を受賞している。 中学時代に野球を始めると同時に遊撃手となり、以後ずっと遊撃でプレーする。日大三高では、1年次の1962年に控え内野手として夏の甲子園に出場するが、準々決勝で村上公康のいた西条高に敗れる。2年次の1963年には同期のエース若宮秀雄を擁し秋季東京大会に優勝し、3年次の1964年に行われる春の選抜出場を決める。
若宮 秀雄(わかみや ひでお、1946年 - )は、東京都出… 若宮 秀雄(わかみや ひでお、1946年 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手。ポジションは投手。 日大三高では、エースとして1年下の石塚雅二とバッテリーを組み1963年の秋季東京大会に優勝、翌1964年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で浪商に敗退。同年夏の甲子園都予選は6回戦で修徳高に敗退。高校同期に遊撃手の大橋穣、外野手の小松時男がいた。 小松とともに日本大学に進学。東都大学野球リーグでは1966年春季リーグで優勝を経験。しかしその後はチームが低迷、1967年秋季リーグでは二部に陥落する。大学の1年上に森内一忠、1年下に佐藤道郎と好投手がおり、あまり活躍の場はなかった。
倍賞 明(ばいしょう あきら、1944年5月11日 - 20… 倍賞 明(ばいしょう あきら、1944年5月11日 - 2019年1月22日)は、東京都出身の元アマチュア野球選手。ポジションは一塁手。5人兄弟姉妹の長男で長姉は倍賞節子。女優の倍賞千恵子は姉、倍賞美津子は妹。弟は倍賞鉄夫。 日本大学第三高等学校では1962年、井上治男(早大-日本石油)、豊永邦男の両エースを擁し、春夏の甲子園に一塁手、三番打者として連続出場。春の選抜では準決勝に進み、中京商の林俊彦の好投に苦しめられるが1-0で9回裏サヨナラ勝ち。決勝では作新学院との接戦になるが、八木沢荘六を打ち崩せず0-1で敗退、準優勝にとどまる。同年夏の選手権は準々決勝に進むが、村上公康のいた西条高に敗れる。
千原 陽三郎(ちはら ようざぶろう、1942年3月30日 -… 千原 陽三郎(ちはら ようざぶろう、1942年3月30日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手、一塁手、外野手)。 日大三高では投手として1958年秋季東京大会決勝に進出。日大二高のエース井上善夫と投げ合い、0-1で完封負けを喫するが、1959年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で松商学園に0-6で完封負け。同年夏は都予選準決勝で、またも日大二高の井上と投げ合うが4-5で惜敗、甲子園には届かなかった。 卒業後は日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは在学中3度優勝。2年上に宮田征典がおり、一塁手と投手を兼ねて起用される。1961年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で関大を降し優勝を飾る。
並木 輝男(なみき てるお、1938年11月15日 - 19… 並木 輝男(なみき てるお、1938年11月15日 - 1988年9月1日)は、東京都世田谷区出身のプロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ、解説者。 日大三高在学時は投手として活躍し、エース兼四番打者として、2年次の1955年には夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが坂出商に大敗を喫し、3年次の1956年には春の選抜にも出場。この大会でも準々決勝に進出するが、渡海昇二らのいた芦屋高に完封負けを喫す。同年夏は都予選準決勝で成蹊高に敗退した。高校同期に中堅手の宮沢重雄がいる。 高校卒業後は早稲田大学に進学を予定していたが、家庭の事情により1957年に大阪タイガースへ入団。元々は中日ドラゴンズへ入団する予定であったが、担当していた佐川直行スカウトがドラゴンズを解雇され、タイガースに移籍したため並木もタイガースに入団することとなった。
宮沢 重雄(みやざわ しげお、1938年7月7日 - )は、… 宮沢 重雄(みやざわ しげお、1938年7月7日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。左投左打。 日大三高では、2年生の時エース並木輝男を擁し、外野手として1955年に夏の甲子園に出場。準々決勝に進むが坂出商に大敗。翌1956年には春の選抜にも出場。準々決勝に進出するが渡海昇二らのいた芦屋高に完封負けを喫する。同年夏は都予選準決勝で成蹊高に敗退した。 1957年に大洋ホエールズに入団、1年目から一軍で起用される。しかしあまり活躍の場はなく1958年限りで引退した。
若杉 輝明(わかすぎ てるあき、1934年6月10日 - )… 若杉 輝明(わかすぎ てるあき、1934年6月10日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 日大三高ではエースとして活躍。1951年夏の甲子園都予選で準決勝に進むが、荏原高に敗退。同年の秋季東京大会で優勝し、高校地区代表大会に関東代表として出場。準決勝では土佐高の池上武雄(慶大-四国銀行)と投げ合い完封勝ち。決勝でも橋本力を打の主軸とする函館西高を降し優勝。3年生時の1952年には春夏の甲子園に出場。春の選抜は2回戦(初戦)で太田正男、河津憲一がいた長崎商に敗退。夏の選手権は準々決勝に進み、またも長崎商と対戦。太田との投手戦になるが、延長11回の末に0-1で敗れた。同年秋の東北3県国体にも出場。
田口 周(たぐち いたる、 1932年12月18日 - 20… 田口 周(たぐち いたる、 1932年12月18日 - 2006年7月19日)は、日本のスポーツライター、高校野球指導者、プロ野球監督・球団経営者。東京都出身。 日本大学第三高等学校、日本大学卒業。共に野球部に所属し、一塁手、投手として活躍。右投右打。 1956年、日刊スポーツ野球記者となる。 1960年、母校の日本大学第三高等学校野球部監督に就任。1962年の選抜高等学校野球大会では準優勝に導く。 その後、日刊スポーツ野球記者に復帰後、1968年2月、高校野球での実績を買われ、プロ経験はないもののサンケイアトムズ(現・東京ヤクルトスワローズ)二軍監督に就任。1971年・1972年と2年連続でイースタン・リーグ優勝を果たした。
関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - 2… 関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - 2020年4月9日)は、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(現:東京都渋谷区)出身(北豊島郡巣鴨町〈現:豊島区巣鴨〉生まれ)のプロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督、解説者。 現役時代は近鉄、巨人で活躍。打者で1000本安打・投手で50勝を記録、またオールスターゲームでは初めての投手・野手の両方でのファン投票選出を記録した。2003年、野球殿堂入り。 藤田省三が監督を務める旧制日大三中へ進学したものの、入学初年度は小柄であったため、練習に参加させてもらえなかった。2年生に進級後ようやく参加できたが、それでも外野の球拾いであった。やがて、兼務していた法政大に掛り切りとなった藤田が去り、後任監督から二塁手として抜擢されたのが転機となり、試合に出場できるようになった。
根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 19… 根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 1999年4月30日)は、茨城県那珂郡東海村出身(水戸市生まれ)のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督・実業家、解説者。 引退後は近鉄バファローズコーチ、広島東洋カープコーチ・監督、クラウンライター→西武ライオンズ監督、福岡ダイエーホークス監督の他、西武ライオンズ球団管理部長、福岡ダイエーホークス代表取締役専務・代表取締役社長と、球団フロントの要職を歴任した。 ニックネームは「球界の寝業師」、ドラフト会議やトレードで辣腕を振るい、その仕事ぶりは「根本マジック」(#根本マジック参照)、「黄金時代の陰に根本あり」とも称された。肩書きこそ違ったが、事実上のGMとしてその敏腕ぶりを発揮。