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野々内 隆(ののうち たかし、1933年5月 - )は、日本… 野々内 隆(ののうち たかし、1933年5月 - )は、日本の通産官僚。通商産業省基礎産業局長や、資源エネルギー庁長官を経て、中小企業診断協会会長や経済産業調査会理事長などを歴任した。 京都府立洛北高等学校を経て、1956年京都大学経済学部卒業、通商産業省入省。同期に尾身幸次(第6代財務大臣)、杉山弘(通商産業事務次官、電源開発社長)、川崎弘(経済企画審議官、東京電力副社長)、守屋一彦(日本化学繊維協会理事長)など。 1972年通商産業大臣官房審議官。1973年通商産業大臣官房参事官。1974年通商産業省通商政策局西欧アフリカ中東課長。1977年通商産業省産業政策局商政課長。1978年通商産業省通商政策局経済協力部経済協力課長。
柴田 護(しばた まもる、1918年1月27日 - 1995… 柴田 護(しばた まもる、1918年1月27日 - 1995年10月13日)は日本の内務・自治官僚。香川県出身。 京都一中、第三高等学校を経て、1941年3月に東京帝国大学法学部卒業。高等試験行政科に合格し、同年4月に内務省入省(地方局配属)。1942年1月に茨城県経済統制課長に就任。1946年7月に内務省官房調査部、1948年1月に内事局官房自治課、同年4月に地方財政委員会企画課で勤務。1949年に地方自治庁総務課長、1950年5月に地方自治庁府県税課長、1953年10月に自治庁財政課長、1958年6月に北海道総務部長、1960年1月に自治庁官房長(同年7月から自治省官房長)、1962年5月に自治省税務局長、1963年10月に自治省財務局長を歴任。
八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月1… 八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月14日- 1993年(平成5年)6月5日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選三重県知事。 京都府出身。京都府立京都第一中学校、第三高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、千葉県属となる。 以後、長野県経済部長、神奈川県警察部長、神奈川県内務部長などを歴任。戦時中は海軍司政官に転出した。 1947年3月、前任の佐伯敏男が知事選に出馬のため辞任したことに伴い三重県知事に発令された。知事選挙などを執行して同年4月に退任。 その後、経済安定本部高松地方安定局長、帝国産業株式会社(現テザック)社長、同会長を歴任。
古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 198… 古海 忠之(ふるみ ただゆき、1900年5月5日 - 1983年8月23日)は、日本の大蔵官僚、満洲国官僚、実業家。東京府出身。義兄に小金義照。長男は古海建一(国際善隣協会理事長、元東京銀行常務、元ユアサ商事会長)。勲二等瑞宝章(1971年)。 京都一中、三高を経て、東京帝国大学法学部政治学科に進む。学生時代を通じて野球部に在籍し、主にキャッチャーをしていた(帝大時代にはラグビーも兼部)。中学時代には第3回全国中等学校優勝野球大会に出場した。 1924年大学卒業し、大蔵省入省。入省同期に、青木実(満洲国経済部次長、戦後はシベリア抑留を経て合同証券会長、水戸常陽銀行社長)、難波経一(のち満州国専売公署副署長、軍需省燃料局長官・同整備局長官などを経て、戦後山陽パルプ社長・会長)など。
吉江 勝保(よしえ かつやす、1900年(明治33年)4月8… 吉江 勝保(よしえ かつやす、1900年(明治33年)4月8日 - 1970年(昭和45年)9月17日)は、日本の内務官僚、政治家。山梨県知事(官選第42代、公選初代)。参議院議員(3期)、衆議院議員(1期)。号は知山。 京都府愛宕郡八瀬村(現京都市左京区)に吉江四郎の長男として生まれる。京都府立第一中学校(現京都府立洛北高等学校)のとき、教師から「スッポン」の漢字を知っているかと聞かれ、教室で自分だけが手を挙げて黒板に「すっぽん」と平仮名で書いてみなを唖然とさせ、それ以来、あだ名が「すっぽん」になった。 第三高等学校文科時代は柔道部で主将だった。1927年(昭和2年)に東京帝国大学法学部英法科を卒業。
周東 英雄(すとう ひでお、1898年1月27日 - 198… 周東 英雄(すとう ひでお、1898年1月27日 - 1981年8月8日)は、日本の政治家・官僚。農林大臣や自治大臣などを歴任した。正三位勲一等旭日大綬章。 山口県大津郡三隅村(現・長門市)生まれ。少年時代より京都で過ごし、京都一中(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校を経て、1921年、東京帝国大学法学部独法科を卒業。農商務省に入省する。後に農林大臣を務めた井野碩哉の懐刀として、農林省米穀局長、農務局長、総務局長の要職を務める。その後企画院第四部長、商工省物価局長官を経て、1942年、帝国油糧統制会社初代社長となる。 戦後の1946年、第1次吉田内閣にて内閣副書記官長に就任し、書記官長林譲治のお株を奪う八面六臂の活躍ぶりを見せ、吉田茂に引き立てられた。
夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年… 夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年不明)は、中華民国の官僚・実業家。別号は旭初。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の要人。呉甌・李元暉と共に、王揖唐側近の部下と目された。 日本に留学し、京都府立第一中学、第一高等学校を卒業した。その後、ドイツにも留学し、ベルリン大学で学んでいる。帰国後の1929年(民国18年)10月21日、北平特別市政府秘書処秘書に任命された。後に黄郛配下となり、行政院駐平政務委員会で科長をつとめる。1935年(民国24年)12月に冀察政務委員会が成立すると、ここでも科長となった。 1937年(民国26年)12月に中華民国臨時政府が成立すると、夏粛初はこれに参加している。
岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(… 岡田 信(おかだ まこと(通称:おかだ しん)、1885年(明治18年)3月10日 - 1946年(昭和21年)8月15日)は、日本の大正・昭和期における大蔵省官僚・銀行家。大蔵省官僚としては主に特殊銀行・植民地金融を担当した。滋賀県出身。 1885年(明治18年)3月10日、滋賀県野洲郡守山村吉身(現・滋賀県守山市吉身)で誕生。 父は滋賀県議会議長や衆議院議員を務めた岡田逸治郎、母は逸治郎の三番目の妻・義子。八男七女の六男として誕生したが、長男・四男が夭折により対外的には四男と称す。 京都府立一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)より第四高等学校(1905年(明治38年)7月5日卒業)を経て、1909年(明治42年)7月10日東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。
生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年… 生野 団六(團六、しょうの だんろく、1878年(明治11年)2月1日 - 1973年(昭和48年)3月1日)は、日本の鉄道官僚・技師、土木技術者、鉄道実業家。台湾総督府交通局総長、京浜電気鉄道社長。 大分県大分郡、のちの稙田村(大分村、大分町を経て現大分市)で生野米蔵の長男として生まれる。大分尋常高等小学校、京都府立中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第四高等学校を経て、1902年(明治35年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業した。 逓信省に入省し鉄道作業局に配属された。1909年(明治42年)欧米に留学し1911年(明治44年)に帰国。鉄道院運輸局に配属され、1912年(明治45年)3月のジャパン・ツーリスト・ビューロー(現日本交通公社)創立に際して幹事に就任。
冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月1… 冨島 元治(とみしま もとはる、1874年(明治7年)2月16日 - 1945年(昭和20年)11月16日)は、日本の判事・台湾総督府官僚。高雄州知事。 京都府に冨島元起の長男として生まれる。京都府立第一中学校、第二高等学校を経て、1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。京都地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、宇都宮地方裁判所部長判事を歴任。 台湾総督府総務長官・賀来佐賀太郎の招きにより台北に赴任し、覆審法院判官となった。その後行政官となり、南投庁長、台北庁長を歴任した。さらに台湾総督府警視総長(1919年5月21日 - 1919年6月28日)、同警務局長(1919年6月28日 - 1920年9月1日)を務めた。
神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1… 神谷 卓男(かみや たくお、明治4年12月9日〈1872年1月18日〉 - 1929年〈昭和4年〉10月22日)は、明治末期から昭和初期にかけての官僚・政治家である。名古屋市助役や衆議院議員、東邦電力常務取締役を務めた。京都府出身。 神谷卓男は、明治4年12月9日(新暦:1872年1月18日)、京都府与謝郡宮津町波路(現在の宮津市)に生まれた。父・広生は旧宮津藩士で明治維新後は地方自治に尽力した人物である。宮津小学校・天橋義塾・京都中学校を経て同志社に入り、1892年(明治25年)に同志社を卒業。1894年(明治27年)からはアメリカ合衆国へと留学し、スタンフォード大学およびコロンビア大学で学んだのち1900年(明治33年)に帰国した。
李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2… 李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2年8月22日)- 1933年(昭和8年)7月23日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、錦鶏間祗候、下関市長。 長州藩御典医・李家隆彦の長男として京都で生まれる。京都府中学校、神田共立学校、大学予備門、第一高等中学校を経て、1890年7月、帝国大学法科大学政治科を卒業。1891年4月、内閣試補となり、同年7月、内務省に転じ内務試補となった。 以後、大分県・富山県の各参事官、岡山県・神奈川県の各書記官などを歴任。 1902年12月、富山県知事に就任。以後、石川県知事、静岡県知事、長崎県知事を歴任。1917年3月、長崎県知事を辞任し退官。同年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。